大学のサークルの帰り、私は買い物をしてから帰る事にした。
「おぉ、今日って七夕じゃん」
スーパーの七夕セールの表示を見て私は思わず呟いた。なんだか得した気分だ。
「よし、今日は奮発してハンバーグにしよう。安いし」
私はカゴの中にハンバーグの材料を入れた。
レジを出たところに笹が飾ってあった。近くには短冊の束があり、短冊が入っているカゴに「お一人一枚、願い事をどうぞ」と書いてある紙が貼ってあった。
私は何気なく一枚とると『彦星をください』と書いた。
「こんなので彼氏が出来たら苦労しないわよね。あーあ、絶世の美男が彼氏にならないかなぁ。一週間でもいいんだけど」
少し苦笑した。
スーパーを出たところから五分ほど歩いたところにあるアパート。まだ真新しい階段を上ったすぐのところにある部屋が私の家だ。
私はいつものようにポケットから鍵を取り出し、軋む扉を開いた。
玄関に入るといつも一番最初にリビングのソファーが目に入る。いつもと変わらぬ狭苦しい家。
ただ、違ったのはソファーに男性が座っていたことだ。二十代くらいの、大人しそうな、凛とした雰囲気を漂わせる好青年だった。
「おかえり」
彼はそう言うと私に向かってにっこりと微笑んだ。私は状況が分からなくて言葉に詰まるのを感じた。
私は一人暮らしだった。誰かと同居していると言う事もなければ、人が留守の間に家に入るような親しい男友達もいない。つまりは完全な不法侵入だ。
しかしそんなことより、私が恐ろしかったのは彼が見たこともないほど美しかったことだ。
「あ、た、ただいま」
私は無理やりはにかんで言った。恐らく声は震えていて、顔は引きつっていただろう。
それからしばらく沈黙した後、私はようやく言葉を発することが出来た。
「……えっと」
誰、と聞こうとしたところで彼が口をはさむ。
「何、買って来たの」
「え、えぇと、晩御飯の材料と、トイレットペーパー。き、切れてたから」
私が言うと彼は笑顔を見せた。
「そうなんだ。今日の晩御飯は何にするつもりなの?」
「えぇと、ハンバーグを少々……」
我ながら何を口にしているのかさっぱり分からない。
ハンバーグと聞いた彼は眼を輝かせた。
「俺、ハンバーグは得意なんだ」
そう言って立ち上がると、私の所に来て笑顔で言う。
「一緒に作ろう」
……あぁ、これが恋に落ちる瞬間なのね。この瞬間今まで私の心の中で築かれてきた私と言う都市が今、私が発した目から光線によって壊滅したのだ。もう彼が誰だって良い。たとえ彼が百人を惨殺してきた人間だったとしても、私は彼を愛するだろう。
その日から私と男性の二人暮らしが始まった。
彼との生活はまさに夢のようだった。一緒に買い物に行き、家事を一緒にこなし、ご飯を一緒に作って食べた。
それまで一人で生活することになれていた私は、人の温もりがこれほど心地良いものだと言う事を知った。大学での人付き合いにはない、満たされた感情だった。
彼と私はお互いの身の上の話を一切しなかった。五日間ほど一緒に過ごしたが、私は彼の名前すら聞けずにいた。それでも私は良かった。彼がいてくれれば良かった。
ある日曜日。いつものように私と彼で晩御飯を作っていると、誰かが我が家の呼び鈴を鳴らした。玄関の扉を開けると、友達のあけみが来ていた。
「あれ、どうしたの、突然」
私は驚いて言った。
「どうしたのって、いつもみたいに一緒に飲もうかなって思って来ただけだけど、ダメだった?」
あけみは私の家の近所に住んでいた。大学のサークルで仲良くなった私たちは時々こうして家で小ぢんまりとした飲み会を開いている。あけみは缶チューハイなどが入ったコンビニの袋を手に持っていた。
「別に用とかないんでしょ? じゃあとにかく飲もうよ。暑くってさぁ」
「え、あぁ、ちょっと……」
待ってと言おうとした私の言葉は聞こえなかったのか、あけみは私の脇を通り抜けるとリビングに向かっていった。
「あぁ……」
私は思わず溜息を吐いた。終わったのね。平和で穏やかな二人暮らしが。私と彼の噂はあけみの口からサークルの人々に話され、やがて彼を見に来る友達が出てきて……。彼は絶世の美系だからきっと女達が群がってくるわ。そこまで考えていると不意にあけみが言った。
「あれ、晩御飯作ってたんだ。カレー? おいしそう」
「えっ」
私があわててリビングまで行くとあけみがコトコトと煮えるカレー鍋を覗き込みながらのんきな顔をしていた。彼はといえばあけみの真横できょとんとした顔をしている。誰? そう言いたげだ。だが問題はそこではない。
あけみは全く彼に気がついていないような素振りで、事実全く気づいていない状態で、平然としているのだ。
「なんで……」私は思わず呟いた。
「えっ?」
「あ、いや」私は少し呼吸を整えて続けた。
「あのさ、あけみ、この部屋に男の人がいるって言ったらどうする?」
あけみはうん? と言う顔をした後周囲をきょろきょろと見渡し、誰もいないことを確認すると顔をしかめて言った。
「変な事言わないでよ。何? 何かいるの」
「別に」
私は彼を見た。相変わらずの美しい顔で私を見つめている。
そうか、君は私の願いが形になったんだ。
「彦星かぁ」
私が言うとあけみは笑った。
「どうしたの、今日なんか変じゃん。七夕はもうずっと前に終わってるしさ」
私は微笑んだ。
「別に何でもないよ。さ、飲もう。あ、カレー食べる? 今日多めに作っちゃったんだ」
「あ、食べる食べる」
あけみはうれしそうに言った。
「じゃあそこの戸棚からお皿取って」
「あいよ」
あけみが私に背を向けた瞬間、彼は私に口パクでバイバイ、と言った。あけみが私に渡したお皿にご飯とカレーを盛り付けて再び視線を戻すと、そこに彼の姿はなかった。