お題③:「ボルトフライング」「雲」「彼女の心のえんがわは、誰もむしゃぶりつけはしない」
小鳥がさえずる早朝から雲ひとつない快晴のニューハンプシャーの空を見上げながら、今日はなにか調子がよさそうだとぼくは思った。ウォルマートで買った新品のティンバーランドのブーツのシューレースをすばやくしめて、一階に下りる。朝食をまとめて胃に押し込み、ジャンスポーツのバックパックを背に、ぼくはガレージからゲイリー・フィッシャーのMTBにまたがって通りに飛び出す。風を切る感覚がたまらなく気持ちいい。
ぼくが通う高校は自宅から六マイルほど市街地に走ったところにあった。徒歩で登校してくる仲間たちを颯爽と追い抜きながら挨拶すると、みんな陽気に返してきてくれる。ぼくはそれなりにここでは人気者だった。成績も高水準を保っており、教師の覚えもいい。だけど堅物ぶっているわけじゃなくて、夜にはクルマに仲間たちを乗せてドライブをするし、ホームパーティを開いてバカ騒ぎをしたりする、適度に遊びを知っている人間だ。つまらない人生は歩みたくないしね。なにごともバランスが肝心なんだろう。
駐輪場に流れるように滑り込むと、友人のテッドが少し遅れてやってきた。
「ヘイ! ピーター! ごきげんだな」
「そう見えるかい?」
「ああ。そのツバメの巣みたいな頭も元気でなによりだ」
「きみのポマードべったりの頭から漂う強烈なにおいも健在だね」
「ってことは今日も俺たちは絶好調ってか?」
HAHAHAHA! と日課のやりとり(ジョーク)をこなしながら、ぼくたちは校舎へとむかった。廊下でバスケットに興じている連中から華麗にインターセプトをして周りの笑いを誘ってからロッカーの前にくる。そのまま授業の準備をしていると、ふいに横から甘い香りが近づいてきた。儚げだけどちゃんと自己主張している、この香水をつけている生徒といえば、ぼくが知る中ではひとりしかいない。
振りむくとメイガンが妖艶に笑っていた。「おはよ、ピーター。人気者も大変ね。いつもみんなを楽しませなきゃいけない」
「しかたないさ。そういう性格だからね」ぼくは突然のできごとに若干あわてつつも言った。「メイガン、きみはどう? 楽しんでくれてるかな」
「当たり前じゃない。ピーターって面白くて賢くて、すてき」
「きみのほうこそ……その、すてきだよ」
「ふふっ。それって本気かしら?」
そう小悪魔的に微笑むと、じゃね、とメイガンはいってしまった。そのエキゾチックな後ろ姿を、ぼくのみならず、その場にいたほとんどすべての男子が目で追っていた。
メイガンは学校のアイドルだ。大人びた顔立ち。髪はウェーブのかかったブロンド。からだつきもセクシーで、特に、夏場には視覚的凶器と化す豊満なバストには男連中の目は釘づけだ。しかしだからといって、それを鼻にかけているわけでもなく、むしろ素直で友だち思いなところがあるから、そこが人気の秘密なのかもしれない。
そんなメイガンには当然、これまで幾人もの男がアプローチしてきたが、誰も彼女と腕を組む権利は与えられなかった。彼女はまるで雲のような存在だった。地上の凡人がいくら手を伸ばしたところで、ふわりふわりとはるか上空を移動する彼女を捕まえられるわけがない。それこそスーパーマンみたいに飛んでいけるような男じゃないと無理だ。
「彼女の心のえんがわは、誰もむしゃぶりつけはしない」と日本からやってきたトモヤが言っていたことがあって、日本語の機微は正直まったくわからなかったけれど、なんとなく共感できるものはあった――つまり、彼女の裸の心に触れられる者はいないのだった。
たったひとり、その可能性を残す男……このぼくを除いて。
いやいや、こういうこと自分で言うの恥ずかしいんだけどね。
ぼくは人気者。メイガンはアイドル。お似合いだと口々に言われてきた。元々ぼくも彼女の魅力にとりつかれたひとりだったので、まんざらでもないというか、追い風だと思っている。
そして今日、その追い風を最大限に利用する。仲間たちの目の前で愛を打ち明けるつもりだった。メイガンも当然ぼくと同じことを言われているだろし、同じ気持ちのはず(今朝の会話でなかば確信めいたものをつかんだ)。万難を排する必要もない、神はぼくの味方なのだ。
全カリキュラムを終えたあと、ぼくはメイガンを中庭に呼び出した。そこにはすでに仲間たちが集まっており、輪をつくるように祝福の準備を整えている。
数分後にメイガンはやってきた。「用ってなに? ピーター」
さすがに緊張したけれど、はっきりとぼくは言った。
「メイガン、ぼくたちってお似合いだと思うんだけど、どうかな」
愛してる。付き合ってほしいんだ――その一言で勝負で決したも同然だった。あとは彼女がYESと返事をするだけで、中庭にクラッカーが次々と舞う予定だった。
しかし。
「……ごめんなさい、ピーター」メイガンは申し訳なさそうに言ってから、生娘みたいに頬を赤らめつつ、ぼくの背後を指さしてつづけた。「私が好きなのは、彼なの」
振り返る。
その方向には、テッドがほうけた顔で立っていた。
そういえば、ふたりは幼馴染みだって聞いたことがあるけど……と思っているあいだにも、すたすたとメイガンはテッドのところに歩いていって、
「テッド、ずっと好き」
いきなりキスをした。しかも濃厚なディープキスだった。
YEAH! と予想外の展開にテンションが上がった仲間たちは、勢いよくクラッカーを鳴らし、まるで映画フェイムのワンシーンのように歌って踊って騒ぎはじめる。
「…………」
ぼくは数十秒間棒立ちになったあと、全速力でMTBを漕いで家に帰り、小一時間ほどかけて愛犬マックスの散歩をして、優雅にお茶を嗜んでから――キレた。
「FU×K! F×CK! なんてこったい、最悪だ!」
ぼくはガレージからペットボトルロケットを引きずり出した。それは先端に花火を搭載し、なおかつ大陸間弾道ミサイル並みの射程を持つモンスターだった。メイガンの前で打ち上げて、夜空に咲き誇る愛の大輪を眺めながらロマンチックな言葉を囁きあうために作製したのだが、今や悲哀と屈辱にまみれた悪魔の弾頭にしか見えない。
「さよならだ! 牛ビッチ!」
メイガンの写真をそれにくくりつけ、ぼくは大西洋にむかって発射した。
◇
ロシアのサンクトペテルブルグ郊外の平野にぽつんと存在する軍事研究所(とはいっても見た目は個人宅だが)では、ふたりの博士が歓喜の声を上げていた。
「やったぞカシツキー! ついに完成だ!」
「そうともジョシツキー! 私たちの大手柄だ!」
「しかしここは空気がジメジメしてるな」
「バカ言え。乾燥してお肌がピンチだ」
「まあ、そんなことより」ジョシツキーは邪悪な笑みを浮かべていった。「このたび開発した怪電波マシンがあれば、世界の支配構造は変わるぞ」
「脳に影響を及ぼして『はやまった行動をさせる』なんて、私たちは天才じゃなかろうか」
「これをオバマや胡錦濤に浴びせれば……」
「フハハハハハハハハハハ!」
ふたりの哄笑が室内を満たす――と、次の瞬間、窓の外で轟音が響き渡った。つづいて凄まじい爆音とともに赤や緑のカラフルな光が飛び散る。研究所は揺れ、ふたりは転げた。
「な、なんだ! 連中に気づかれたか!?」
「いや……なんか花火みたいだったぞ」
「奇襲じゃなかったのか。だが、どうしてこんなところに花火が」
「わからん」カシツキーは首を振ったあと、怪電波マシンに支障が出ていないか確認しようとして、声を上げた。「ああ! なんてことだ! 電波が発信されてるぞ!」
それは先刻の衝撃で、彼が思わず手でからだを支えた際に発信ボタンを押してしまったからだった。とはいえ今は理由などどうでもよくて、どこかに発信された事実が問題だ。
「なに? 標準は? データが出てるはずだぞ」
「えーっと……東アジアのほうらしいな」
ふたりはしばらく黙りこくったあと、声をそろえて言った。「最悪なことになった」
◇
韓国テグの競技場は、世界陸上開催期間中最大の熱気に包まれている。それもそのはずで、男子百メートルの決勝がじきに行われるからだった。横一列にならんだファイナリストたちの中で特に目を引くのは、世界記録保持者、ウサイン・ボルト。今日は彼が主役になるであろうことは誰もがわかっていた。
競技場がにわかに静まり返り、ボルトはスタートの構えをとる。呼吸やコンセントレーションは十分に整えている。あとは最高のタイミングで筋力を爆発させるだけだ。
と――そのとき。
彼の頭の中になにか奇妙な感覚が降ってきた。飛び込んできたといったほうがいいかもしれない。そして、そのなにかを受けたと思ったころには勝手に足が動いていた。
空砲が鳴り、ため息とどよめきが四方八方からもれてくる。
完全にフライングだった。
そして、それを中継で見ていたジャマイカの、エジプトの、ドイツの、フランスの、ギリシャの、サウジアラビアの、インドの、シンガポールの、中国の、日本の、メキシコの、ブラジルの、アルゼンチンの――彼の活躍を期待していた世界中の人々がつぶやいた。
「最悪だ」