◆娼婦+世界の終わりは君と二人で+粉末/魔法/池戸葉若
――吾輩は人である。名前はもうない。
うろ覚えだが、小さい頃にお祖父さんが読んでいた本を盗み見たとき、たしかこんなフレーズが冒頭にあったような気がする。どこか異国の本を翻訳したものらしかったが、その国をお祖父さんは決して教えてくれなかった。ここ以外の国のことは極力知ってはいけない、と言われた。外部知識は毒。脳が腐ってしまうのだそうだ。
ごみごみとした通りから小路に入ると、あたりは腐臭と闇の世界へと変わった。生ごみと人の区別がつかない。建物と建物のあいだに蜘蛛の巣のようにロープがかけられていて、布きれが逆さ吊りになってる。なにもかもが饐えている――けれど、これがこの国の当たり前だ。東の最果てには龍のかたちをした黄金の島があるらしいのだが、童話集に収録されている話なので信じていない。
――吾輩は人である。名前はもうない。
僕はもう一度そのフレーズを口ずさみ、うすく笑った。それは、これから会いにいく僕の恋人にぴったりなような気がした。
小路の中のとある店に入った。下卑た男が黄色い歯を見せて近づいてくる。僕は料金を払い、男に先導されて廊下を進む。いくつかある部屋、そのひとつの前で男はドアを開錠した。僕は、ごくろうさま、と言って中に入った。
そこに僕の恋人がいた。
浅黒い肌の、まだあどけなさの残る少女。いや、成長がとまってしまったというべきだろうか。彼女は矮躯(わいく)をベッドにあずけていた。やってきたのが僕だとわかると、泣きそうな顔で微笑み返してくれた。
彼女との出会いはどうだったか、あまり覚えていない。酔ったついでの道楽だったと思う。あいにく酒と女には困らない地位にいる僕は、一回ぐらいは底辺の中の底辺を経験してやろうとこの売春宿に入ったはずだ。そのときの相手が彼女で、酔いなんか一瞬で醒めて僕は心を奪われてしまった。それ以来、毎週通っている。
「ああ、今日もきれいだ。僕のいとしい人」
そう言って彼女の一糸纏わぬからだを抱くと、アウアウアウアと弱々しく返された。聞き取りづらいが、やめてくださいそんなこと、と言いたいらしい。彼女をはじめ、ここの女たちは全員があごを砕かれていた。自分で舌を噛み切らせないため、口を使う客に粗相のないようにするため、だという。これでは言葉も交わせないじゃないか、と前に言ったことがあったが、店主に変な目で見られた。普通の客は、ただここに肉欲を吐き出しにきているだけ。肉の穴に言葉は必要ないとのことだった。
僕は服を脱ぎ、そっと彼女のからだを汚れたベッドに押し倒した。他の客が乱暴にしすぎるため、スプリングは今にも壊れそうだ。ぎしぎしと揺れる中、僕はやさしく彼女の首筋にキスをしていった。制限された時間の中で、いつも僕はこうやって純粋に彼女を愛することに大半を費やしている。僕が持ち寄ってきているのは、劣情ではなく愛なのだ。
なら――そこまで大事にするのなら彼女を買い取ってやればいいじゃないか、と意見する人がいるかもしれない。けれど、それは違うのだ。彼女にきらびやかな衣装を着せてやったところで、きっと僕はすぐに白けてしまうだろう。連日のように代わる代わる客の男たちに犯されて、生命の維持に必要な分だけのスープしか飲めず、薄暗いこの懲罰房みたいな部屋で穢されつづけている彼女が、なによりも美しく見える。この視神経の芯まで汚泥に浸かりきったような瞳が、美しい。
だから、美しいものに触れたいと思うのは、罪だろうか。
「ああ、ああ。もうだめだ。愛しているよ――」
彼女の中に、彼女のためだけに溜めた思いを深く注ぎ込んだ。脈打つ熱はどんどん誘い出されるほうに迸っていって、あふれ出す。微細な痙攣が響き合うのを感じながら、僕は腰を引いた。まだ恋しい。今度は彼女の太股を持ち上げて、再び腰を沈み込ませた。彼女の唇をふさぐと、粘膜の感触がすべてを覆い、からだの境界線がなくなっていくような気がした。
事を終えて、僕は彼女に虹色の小壜を見せた。
彼女は安心したように顔をほころばせて、僕に近寄ってくる。僕は持参してきた水をコップに注いだ。一振り二振り虹色の小壜を振って、同じく虹色の粉末を水に溶かす。
これは魔法の粉だった。
以前に、今みたいに愛し合ったあとに彼女は僕にこう言った。相変わらずアウアウアウと、不器用に口を閉じたり開いたりして、涙を流しながら。
――わたしはもうここにいたくない。自由になりたい。それが無理なら、死にたい。
愛しているのだから、あしらうわけがない。僕は彼女の願いを叶えてやろうと思った。そのために、彼女には会うたびにこの余った時間で、粉末の水溶液を飲ませることにした。願いが叶う粉だと彼女には説明すると、彼女はまるで疑うふうでもなく、うれしそうに飲み干した。たまにえづくことがあったけど、彼女は頑張った。
そして。
今日、彼女がこれを飲めば魔法は完成する予定だった。
僕は彼女をじっと見つめる。彼女は潤んだ目で頷き返してきた。彼女はゆっくりと壊れたあごを震わせて言った。ありがとう、と伝えたいように思えた。
彼女は一気に水を飲んだ。
すると小さなからだはがくりと傾いだ。コップが床に落ちて割れる。ついでびくびくと筋肉が笑い出して、呼吸を荒げていく。僕はその様子をずっと見ていた。
彼女の背骨が盛り上がっていき、背中がむくむくと厚くなっていく。やせ細った手足は次第に丸太ほどの大きさになっていき、地面を蹴り上げるためのかたちに変形していく。全身の細胞が凶暴なまでに活性化している。進化の過程を遡るようにからだ中に毛が生えそろっていく。噛みしめた歯が鋭さを増していって、虚ろだった瞳はたしかな意思をもって野性の輝きを宿していた。
彼女は――大きな虎になっていた。
彼女の人間としての世界はこの二人きりの部屋で終わりを迎え、なにものにも縛られない猛獣へと、本能だけが存在する自然の世界へとシフトしていた。
「おめでとう。さよなら。僕のいとしい人」
僕がそっと彼女の毛並みをさすると、彼女は地響きみたいな咆哮を上げてドアのむこうへと飛び出していった。望んでいた自由を謳歌するために。
すぐにいたるところから悲鳴が聞こえてくる。僕はそれを背景音楽にしながら、一冊の本を取り出した。お祖父さんの異国趣味は僕にもちゃんと受け継がれている。『山月記』というタイトルの外国書籍の翻訳本をぱらぱらとめくった。
脳が腐っていくのが気持ちよかった。