あたしがみちのりちゃんを守ってあげる――。
たしか、あいつはそう言ってワンピースを潮風にはためかせた。僕は、おそるおそる突起に指をかけて岩場を登っていった。女のあいつがさきに登頂を成功させていたから、日本男児としてのプライドが萌芽しかけていたんだと思う。バカだった。そしてふと下に目をやったのが失敗で、僕は地上のあいつとの距離にすくんでしまった。実際はなんてことはない高さだったろうけど、あのときの僕はあいつよりも小さかったし、押さえつけていた恐怖に撃鉄が入ったのだろう。じっとりと手のひらに汗があふれた。
だが僕はやめなかった。超絶バカだった。なけなしのプライドをかき集めて、登る力へと変えようとした――しかし、汗のせいで岩の突起に指がうまく引っかからなかった。僕のからだは浮遊を一瞬だけ体感し、すぐに重力の餌食となった。声を上げるだとか受身をとるだとか、なにも考えられなかった。地面が視界にせまってきて、直後に僕の視界は暗転した。いやな音だけが耳に響いた。
「――――」
夢は記憶の整理だと言うが、なにもよりによってあんな悪夢の部類に入る思い出に着手しなくてもいいと思う。朝日の中で、手のひらが薄く汗ばんでいた。あのころよりもずっと大きくなった手だけれど、つかむものを失くしたあの感触は変わらずに残っている。
「くそ、佳純が変なこと言い出すからだ」
僕はしばらく天井の銀河を眺めて気を落ち着かせてから、本格的に起床した。
おめでたくないスタートになってしまったが、今日は祝日だった。無人の一階に下りると、ラップに包まれたベーコンエッグが食卓に置いてある。テレビをつければ、やはり民放のリポーターがカミナリクラゲうんぬんを喚き散らしていたが、昨日の今日でその話題について考えるのは苦痛でしかなかったので、僕はNHKの平坦な声を聞き流しながらブランチを頬張った。
午後三時ごろに母さんが帰ってきた。汚れた食器を放置していても怒らなかったので、なにかいいことでもあったのかと訊ねてみると、母さんは「やーん」といった感じの息子的には羞恥心しかくすぐられないリアクションをして言った。
「さっきテレビ局の取材受けちゃったのよお――あ、クラゲのやつね」
「へえ」
またその話か。
「やっぱりテレビ映りがいい人に声かけるのかしら」
「田舎臭そうなおばさんのほうが雰囲気出ると思ったんじゃないの」ためしに通常なら怒髪天を衝くレベルのセリフを言ってみたが、しかし母さんは機嫌よさそうに鼻歌まで歌いはじめた。まずい、米米CLUBの浪漫飛行だ。これが流れると、経験上、自分が満足するまで話をやめない。佳純、テレビ、そして母さんと――これ以上クラゲの話にまとわりつかれるのはゴメンだったので、僕は先手を打って足早に外に逃げようとした。
「あ、待ってよ道程」母さんに呼びとめられる。「少し話があるんだけど」
延々としゃべるくせによく言う。僕は無視した。「ちょっと出てくる」
とはいっても、逃げたところで目的地がポンと生まれるわけもなく、僕は適当に散歩することにした。なるべく海のほうを見ないようにしながら、過疎の渦中にある町並みを歩いていく。
小一時間ほどすると喉が渇いてきたので、僕はラムネでも買おうかと町で唯一の酒屋につま先をむけた。ヨボヨボの地蔵みたいなばあちゃんがひとりでやっている店だ。
「こんちわ」
「はいはい。おや、タカくんじゃないの」奥からばあちゃんが出てくる。
「道程だよ」僕は百二十円を勘定台に置いて、勝手にラムネを開けた。「いつになったら孝樹と見分けてくれるんだよ」
「珍しいね。今日はスミちゃんと一緒じゃないんだね」
「いつの話だよそれ」
僕はラムネを仰いでから言った。たしかに、昔の僕は佳純といつもふたりセットで行動していたけれど、今の僕にはあのころを追想する気は一切ない。ていうか、こんなところでも佳純が出てくるなんて――佳純関連の話は拒否したい気持ちでいっぱいだ。
辟易する。
「スミちゃんはノリくんのお嫁さんになると、ずっとわたしゃ思っとったよ」僕にかまわずばあちゃんは遠い目をして言う。いや、目なんてないようなものだけど。「ノリくんは気をつけなかんよ。スミちゃんはちょっとあぶなっかしいところがあるからねえ。ノリくんはあの子といなかんのよ」
「……なに言ってんだか」
意味がわからない。ついにお迎えが近くなったのかな――と。
「いやー、映った映った! これでスカウトとかきたらどうしよー」
ぞろぞろと里穂、孝樹、比呂子のいつもの三人組がいつものようにアホらしい会話をしながら入ってきた。それから僕の姿を視認すると、おや? というふうな顔を見せた。
「あれ? ドウテイじゃん」里穂が言う。
「いちゃ悪いのかよ」
僕が自棄酒を真似してラムネを飲み干すと、それを見た三人もラムネをとっていく。里穂は喉の刺激を味わうような顔をしてから、僕のほうをむいて言ってきた。
「うんまあそうだけど。佳純も一緒じゃないんだなーって思ってさ」
「どういうことだ?」
「いや、私たちテレビの取材があるってんで港にいってきたんだ」比呂子が答える。「佳純も誘ったんだけど断られたんだよね。それで、てっきりドウテイと用事があるからかと思ってたんだけど、君ひとりだし?」
「…………」
なんだか、急に胸騒ぎがした。
面白いもの大好き人間の佳純は、なにかしらのイベントに誘われれば絶対と言っていいほど参加する――だから、断るだなんてことは前代未聞の出来事であり、「明日は雹が降る」レベルの珍事なのだけれど、その理由の可能性として考えてみるならば、よほどやらねばならないことがあるか、ひとりで秘密裏に行いたいことあるか――って、まさか。
「おい、孝樹」僕は声が震えるのを感じた。「さっきまで港にいたんだよな」
「? ああ」
「マスコミが騒いでた理由は?」起きぬけに見たリポーターの顔を思い出す。
孝樹は言った。「例のクラゲがさらに大量発生したんだと」
――海はもう入水禁止らしい。
その言葉を聞いた次の瞬間には、僕は駆け出していた。
「あっ、ムセンインショクっ」里穂が素っ頓狂な声を出す。僕はおまえらみたいな、お代よりさきにラムネを開けるようなやつじゃないんだよ。僕は無視して、道に躍り出た。
佳純――おまえまさか、海に入ってなんかいないよな?
左右を見る。里穂たちが取材から帰ってきた方向の右とは逆の、左へと僕は進路をとった。入水禁止の海に潜ろうとするのなら、きっと人に見つからない場所をあいつは選ぶだろうと踏んだのだ。散歩をしていたときからある程度気づいていたことだったが、町民はほとんどが取材エリアのほうへ吸い寄せられていて、人気はないも同然だった。
走っていた海沿いの道の、背の高い堤防が途切れた。
僕は、そこから開けた海を見て言葉を失った。
「なんだよ、これ」
青いはずの海には、沖合いまで淡い光の膜が張られていた。
こんな――大量発生なんてものじゃない。つい先日までは、光の円が散在していただけなのに。ちょうど、空と海が逆転して、頭上から広がるはずの日の光が海底から湧き出しているかのように、海底に宇宙があるかのように、そんなふうに見えた。
さらに僕は目を瞠った。
海へと伸びる、テトラポットに囲まれた堤防のさきに妙なものを見つけたのだ。僕は堤防に上ってそれに近づいていった。近づくほどに焦燥感が募った。
それは、一着のワンピースと一足のビーチサンダルだった。間違いない。ふたつとも佳純のものだ。たぶん、彼女はワンピースをここで脱いで(水着はその下に着てきて)、履いてきたサンダルを残し、海に飛び込んだのだろう。
なんのためらいもなしに。なんの恐れも抱かずに。
おそるおそる堤防から海を見下ろしときだった――急に、今朝の夢と同じように地面から岩場を見上げたときの映像がフラッシュバックしてきて、僕のからだは竦んでしまった。
どうしてこんなことしなきゃいけないんだ、という思いが膨らむ。見てみろよ、このクラゲの量だぞ? 一回でも触れたら溺れるんだぞ? さながら海の中は地雷原だ。そんなところに入ってなにができるっていうんだよ――でも。
でも、と僕は自分に呟き返していた。
「あいつは僕のこと助けてくれたんだよな……っ」
岩場での事件。
あのとき、僕はたしかに落ちた。肉が潰れる決定的な音を聞いた。けれど、僕は擦り傷ぐらいの軽傷で済んでいた。音の主は、佳純だったのだ。彼女はとっさに僕を受け止めて救ったが、その代償として右腕を骨折した。ついでにささくれ立った岩に肉をえぐられ、赤い血が彼女の肌を染めた。それでも佳純は、よかったと青褪めた顔をほころばせた。
結局、彼女の腕はちゃんと直ったけれど、岩に裂かれた皮膚だけは完全に治らなかった。手首から肘にかけて引きつったような痕が残った。彼女にじゃれつかれるのがいやになったのも、本当はこれが原因かもしれない。距離が近くなると、なんでもない拍子に彼女の腕の傷跡が視界に現れる。そのたびに、僕の胸に罪悪感という針が刺さる。それがいやだったのだ――超絶ウルトラバカだった。
「……なに突っ立ってんだよ、道程」
僕はTシャツを脱いだ。半パンも下ろしてトランクス一丁になる。海を見た。不気味な光に満ち溢れていて、正直びびるしかない。だけど、あいつに借りを残したままでは終われない、そうだろう? 背筋を伸ばして、しっかりするんだ。
ほかのマンガやアニメの幼馴染み主人公は、もっとストレートでかっこいいぜ――!?
僕は光の原に飛び込んだ。
海の中は予想以上の混雑ぶりだった。マリオカートでコース一面にバナナの皮が置いてある感じ。精密かつギリギリのハンドル(からだ)さばきが求められる。最小限の動作でクラゲのあいだをすり抜け、迫ってくる光の玉を身を捻ることでかわす。
佳純の姿は見当たらない。いやな想像が浮かびかけるのを阻止して、さらに深く潜る前に酸素の補給にむかおうとした――しかし。
チカリ、となにかがクラゲの光を反射するのが見えた。
僕はそちらにむかった。またチカリと光が弾かれる。なにかを知らせているみたいに。すると、青い闇の中にまるみを帯びた輪郭がぼんやりと浮かび、その側を流れていったクラゲの光にちょっとだけ正体が照らし出された。
――佳純だっ!
やはりクラゲに接触してしまったらしい。意識を失いぐったりとして、無明の底に沈んでいこうとする佳純に僕は急いで寄った。なにを狙ったのかあえてスク水を着ている理由とか、どうしてカメラを首にぶら下げているのか(レンズが光を反射していたみたいだ)、疑問を抱かざるをえなかったが、まずは彼女を陸に上げることが先決だ。
僕は佳純を抱いて上をむいた。
そして――その光景に一寸だけ目を奪われた。
宇宙にも似た黒い海中に、無数の銀河が漂っていた。
クラゲだ。お椀型のからだの中で様々な色の光が渦を巻いていて、それが浮かんでいるだけだ。けれど神秘的で、ずっと見ていたいと、触れてみたいと感じるほどに美しかった。とはいえ、呼吸の関係とか佳純の二の舞になる危険性があるわけで、そんなことはしていられない。漂流する銀河の中を、僕は新たな光をめざして泳いだ。
海岸に打ちつけられるように、帰還することに成功した。
僕は相当息が上がっていたが、佳純にいたっては息すらしていない。あのときよりもずっと青褪めた顔で眠っている。僕は人工呼吸を迷いなく選択した。佳純の唇にむしゃぶりつくように――もとい、戻ってきてくれという思いを巡らせるように酸素を送り込む。佳純の発展途上のおっぱいをこねまわすように――いや、魂を叩き起こすように胸を押す。送る。押す。舌も入れてみる。送る。揉む。ん? 先進国、だと……?
ほどなくして佳純が目を覚ました。
「ん……あれ、ドウテイ?」僕を見て小さく言う。「どうして鼻血まみれなの?」
「いや、さっきハーレムの術を使うおちこぼれ忍者がいて」僕は鼻血を拭った。
「あたし、どうしたんだっけ?」
「溺れてたんだよ」そう言ってから、彼女の無謀さに対する怒りが今さらながらに湧いてきた。「ていうかなんで海に入ったりしたんだ、バカっ。入水禁止なの知ってるだろ?」
「そうだったんだ。なんか今日はいっぱいいるなーって、思ったけど」
大事そうに息を吐いてから、佳純はつづけた。
「ドウテイに見せてあげたかったんだ」
「なにを」
「……前に泳いだときにね、見上げたクラゲがドウテイの好きな銀河に見えたの。だから、それを一緒に見たかったけど、いかないっていうから。写真だけでも撮って見せてあげよーって思って」
それでカメラか。急に綿のように疲れて、僕は嘆息した。
「見ましたよ。佳純さんのおかげで堪能できましたよ」
「そっか」佳純はつまらそうに微笑んだ。「でも、いいや。こんど写真あげるね」
翌週になってもカミナリクラゲのことが報道されていた。今夏のあいだはここに居座るつもりらしい。すなわち、一番暑いときに憩いの海はおあずけだという話である。
前編の冒頭のように朝の身支度を終えて、玄関にむかう最中だった。
「あ、道程」母さんの声に背を叩かれた。「この前、言いそびれたままだったんだけど」
取材の自慢話じゃなかったのか、と思いながら振り返る。
「なんだよ」
「佳純ちゃんとこの、昨日引っ越したわよ」
「えっ」僕はびっくりして聞いた。「冗談だろ?」
「結構いきなりな感じだったけど、事情が事情だからね。仕方ないかもね」
僕は思案した――昨日も佳純はふつうに学校にきていたし、隠し事の気配も怪しい素振りもなにひとつなかった。だがもしかしたら、彼女が僕に写真をあげたいと言ったのは、最後の思い出を、自分の形見となるものを渡したかったからではないのか。
そう考えてはいたが、正直なところ頭は茫然としていた。佳純がこの町からいなくなった。その事実を飲み込もうとする部分と押し返そうとする部分があって、ぐらぐらした。
それでも足は勝手に靴を履き、外に出る――と。
「おはよっ!」
なぜか佳純がいた。夏服を着て、いつもどおり七時半にそこにいた。
「なんでやねん!」僕は佳純の頭をどついていた。「われ引越したんとちゃうんかボケ!」
いたぁい、と文句を言ってから彼女は答えた。
「なんで? 引っ越したのはお父さんだよ? 支部の中の支部なのに、なんかとてつもない大仕事をやってのけたんだって。それで本社にいくことになっちゃって、早い話が単身赴任だよね。地方と都会が逆のさ」
にししと笑う佳純を見ながら、僕は母さんとの意思疎通のあり方に絶望すら覚えた。「父」をちゃんといれてほしい。「一家」だと思うだろうが。
「あ、そうそう」佳純は僕の心労もよそに、鞄から一枚の写真を取り出して言った。「クラゲの写真の現像ができたからあげるね。結構うまく撮れたと思うんだけど」
「どーも」
僕はそれを受け取り、佳純を置いて学校へ歩きはじめた。顔を並べたくなかった。彼女が引っ越したと勘違いしてショックを受けたことが、なんだか恥ずかしくなったのだ。
すると、後ろの佳純が遠慮がちに言ってきた。
「……あのさ。こんど一緒にいきたいところがあるんだけど」
「はあ?」僕はいやな予感とともに振り返った。「またぞろ危ない場所にいこうなんていうんじゃないだろうな。僕はもう懲り懲りだ。里穂なり孝樹なりを誘えよ」
「ううん、道程じゃなくちゃダメなの」
久しぶりに名前で呼ばれたことに戸惑いつつも、僕は返した。
「僕とどこいきたいんだよ」
「……遊園地」
珍しいことに、頬を薄桃色に染めつつ身を縮み込ませるようにして、どこかか細い声で佳純はそう言った。もじもじしてから、ちらりと不安げな瞳でこちらを見てくる。
しかし――「バカ言え」と僕は彼女の誘いを一刀両断して、歩みを再開した。
「なんでそんなところいかなきゃならないんだよ」
そして、瞳の滲みかけた佳純にむかってつづけた。
「どうせならもっとでっかい、USJみたいなテーマパークにいこうぜ。ちょうどあと一週間もしたら夏休みなんだ。海に入れないバカンスでも有効に使わなくちゃな」
僕は、写真を、折り目がつかないように優しくポケットにしまった。