私の眼の前の悪魔
英雄の愛した女
その悪魔は人を誑かし、煽動し、争いを生むことが生業だと聞く。退治せねばなるまい。私は歩き始めた。
私には分からなかった。何故こんなことをするのだろうか。例え悪魔としてもあまりにやりすぎだろうと。
私の足元に石礫のように転がる人間を見た。
頭部を貫かれた老婆、手足をもがれた芋虫のように見える少年、頭が割れ頭蓋が顔を出しながら、岩から漏れ出す流水のようなその脳漿。
まともに見える死体もあったが、よく見るとその頭蓋に収まるべき両目は無く、その穴からは蟲が蠢いていた
激しい嫌悪感が襲う。異臭がそれを増加させる。私が感じた印象はこうだ”これらは本当に人間か?”と
眼下に惨然と広がる景色、踏みしめる大地はどれもこれもこのような人間らしきものに埋れている。どれもこれもだ。
私は歩を進める。躓いて転げたくはないので慎重に踏みしめる。元人間達を。
しばらく歩くと、死体が山となっていた。その山頂で立ちすくむ者が微かに見える。
私が倒すべきは奴だ。私は直感した。山を登り始める。
死体、死体だ。おぞましき死臭はさらに増す。だが登らなくてはならない。その為に私は来たのだから。
山頂に着くと。斜め後方から見えるその姿。そこにいたのは一人の女性だった。私は驚かなかった。悪魔とはそういうものだ。
彼女は慈しみを感じさせる表情で一つの死体を眺めていた。自分が何をしたのか理解出来ていない様にも見える。
頭部の無い死体だ。だがその服装から私はその正体を察することができた。長く尊大な図柄の衣、その節々に血塗れた石ころが見える
恐らく宝石だ。確証はできないほどその石ころは血で覆われていた。この死体はこの国の王だろう。
私は剣を抜こうと、手を柄に向け、力を入れ。そして抜く。いつでも剣を振れるように気づいていないなら一撃で決めてやろう。これは好機だ。
私はその悪魔の背後にゆっくりと周り、間合いを詰める。
だが、私は愚かだった。間合いを詰めることに集中するあまり、下で崩れたのだろうか。僅かに動いた死体の山に反応することが出来ず、躓いてしまった。なんとも情けないことだ。その表紙に声を呻いてしまったことなどもってのほかだろう。
気付かれた。その悪魔は恋人に呼ばれたかのようにゆっくりと静かに振り返り、私を見る。
こうなれば奇襲もこうもないだろう。私は覚悟を決める。だが私は愚かしい。またも私の気は乱されることになった。
その悪魔が話しかけてきたのだ。
「私を殺しにきたのでしょうか」
これほどの惨劇を引き起こした悪魔だ。その言語に惑わされるのは危険だ。聞く前に問答無用で始末すべきなのだが、私は拍子に言葉を口走ってしまった。
「そうだ、とんでも無い真似をしてくれたな。覚悟するがいい」
その悪魔は表情を変えずこう喋った。
「覚悟しております。これほどの事を起こしてしまったのですから」
油断させるための言葉だろう。だが悪魔の表情をみるとその言語は偽りには見えなかった。
悪魔はゆっくりと私の前に歩み寄った。そして私の前に跪き、首を差し出しこう続けた。
「何時でも私を殺していただいても構いません。ですが私の話を聞いて頂けませんか」
私は剣を悪魔の首に当てる、これなら何時襲いかかってきても一瞬で首を落とすことが出来る。
一瞬の油断も出来ないが。ならばその集中力が切れる前までに悪魔の話を聞いてやることも出来ると考えた。
これほどの惨劇を引き起こした悪魔だ。何を曰うか、少し興味もあった。依頼主達に聞かせれば、報酬もあがるやもしれぬ。
下賎な考えだが。実際の所は、ただの好奇心だろう。
「いいだろう。だが余計なことをしてみろ。一瞬でその首を跳ね飛ばしてやる」
悪魔は表情を変えない、だが僅かに視線を下に向ける
「ありがとうございます」
「何を喋るというのだ。自らの行為を示威したいのか」
「私は、懺悔したいのです。あなたをお待ちしていました。」
懺悔だと。悪魔が。なんの笑い話だろうか。酒場で語ればさぞ盛り上がるだろう。
「笑わせる。なんの冗談だ。」
悪魔の両手が震えだす。その眼がボヤけて見えたのは私の気のせいか。
「こんなことに…こんなことになるとは思わなかったのです」
こんなはずではと何度も呟く悪魔の姿を見て、私は狼狽した。
だが、すぐに気を持ち直し、僅かにブレた剣先を整え再び、首に当てる。
悪魔は動かない、剣先はわずかに揺れる。
相手に喋らせ、調子をつかせてはいけない。私は口を開く
「何を言うか。これこそ貴様の目的であろう」
悪魔、微かに動揺したように話しだす。
「いいえ…。いや、そうかもしれません…。ですが、こんな事になるとは思わなかったのです。
私は…この国に住む人々を重税から開放し、より安らかに暮らせるようにしたかったのです」
「なるほど。その結果がコレか。確かにこの国の民は重税に苦しんでいたと聞いたことがある。数年前の事だがな。
お前の言うことが正しければお前は確かに人々を圧政から開放し、お前の言う安らか、そう、死体にしてやった訳だ。大したものだな。
一体どうやってここまでの事を起こしたのだ」
「聞いてくださるのですね」
「ああ、少し興味が湧いた。話してみるがいい。だが余計なことはするな」
私は言葉を続けろと剣先を揺らし促す。
悪魔はありがとうと呻くような声で呟き、言葉を紡ぎ始める。
「では、事のあらましからお話ししましょう。私は天界より、この国を救えと命を受け、この地に舞い降りた天使でございます。」
まさか、このような事を聞かされようとは思わなかった。天使だと。フザケたことを
「お前は何を言っている。お前がしたことは正に悪魔の所業だ。何を言うかと思えば天使だと。天界から命を受けた?
馬鹿げたことを。」
「やはり信じては貰えませんか。当然でしょうね。証拠をお見せします。すこし服を脱いでもよろしいでしょうか。ご覧になれば
分かるかと思います。」
「余計なマネをするなと言ったはずだ。」
「ですがご覧に頂けると、ご理解を頂けるはずです。」
「お前の背に羽が生えているとでもいうのか。」
「そうです。それこそが私が天使であると証明できるはずです」
「そうか。ではお前を殺してから、確かめてやる。だが、本当に羽があるとして、それが何だというのだ。悪魔の偽装という可能性も
あるのではないか。そんなことはどうでもいい。貴様の行った行為は事実だ。事実はどうすることもできまい。話を続けろ。」
「その通りです…私は自分の行ったことがこんな事になるとは本当に思わなかったのです…。ですが…」
私は言葉を遮るようにして剣を悪魔の首筋に引っ掛けた。その細首からは一筋の血が流れる。紅い。
「続けろ、お前は何をしたのだ」
「…はい。天命を受け、この地に降りた私は王に近づく為に、このような姿に化粧しました。王はその財力で思うがままに、
遏絶に他方の女を招きよせては我が物とし、自分の思い通りになるよう暮らしているのは、天使の間でもそれは有名でございましたので、女になり、近づくことは
簡単な事でありました。」
「色香で惑わし狂わせるか。悪魔の常套手段ではないか」
悪魔は初めてその表情を驚きに変え、少し考えた後に、元の表情に戻り、私に聞こえるか聞こえないか程の声でこう言った。
そうですね。確かにどちらも同じようなものかもしれません。と。
そして私の目を見た。その目は確かに悪魔とは思えなかった。私の顔が映るほど澄んでいたのだ。確かにこの悪魔には人間を信じさせる力がある。私にはそう見えた。
私は悪魔の目を出来るだけ見ないように努めたが、しばらくしても目線がそれることはない
悪魔は話をつづけてもいいかと私に訪ねたいのではないかと察した。私は頷いた。
「…そして後はいつも通り、王の身近に付き添いながら、王を愛する様に、そう、母親の様に接しながら、愛の尊さ、生きとし生けるものの
素晴らしさをゆっくりと時間を掛けて説いていきました。最初の内は、私や他の者達に暴力を働くことは日常茶飯事でしたが、
私は時間を掛けて慎重に説いていきました。王も少しずつでしたが、周りの女達を、臣下達を労り始めていきました。私はどのような
人間にも心は、良心はあるのだと確信しておりました。ですが念の為、一層慎重に事を進めるよう努力しました。このまま続けていけば
万事解決することになるだろう。王の周囲を取り巻く者たちも王の変化に気付き始めうまくいっていたのです。周囲に変化があれば
人の心は急速に変わるものです。ここからはもう私自身が王を諌める事も無くなりました、それから王は再び人々の身を案じ、税を下げ、福祉に従事し
始めるようになりました。ここまでくれば私の必要はないだろうと思い、最後に王に愛を説き、この場から退場しようと考えました。」
「フムン。そこから、全てをどん底に突き落とした訳だな。話に聞く悪魔の所業そのものではないか。退場だと。お前は何をした」
「はい、私は死ぬことにしました。私が死ぬことで王の中で私は生き続け。王が生きている限り、国に安寧が訪れるものと信じていました。しかし…」
「なるほどな。その後に王が狂乱し、虐殺した。そして反乱が起こりこの有様という訳か。なるほどな。話が読めたぞ」
悪魔はここから何故分かるのかと心底理解出来ない様子で私の顔を見る。
「王はお前の事を真に愛していたのだ。お前の紛い物の言葉と違ってな」
悪魔は、かすかに首を震わせることでそんな馬鹿なと頭を左右に振るように見せた。
「私には…分かりません」
「分からんか。そうだな、お前には分かるまい。人間の愛がどういうものかを知らぬお前には」
「…何故ですか。何故…なぜ…」
「彼はあなたの教えを信じたのではないということだ。分からんのか」
「なぜ…………」
「恍けるな、分かっているのだろう。悪魔め。彼はお前自身を信じていたのであって、愛や福祉などどうでもよかったのだ」
「ですが…王は…彼は確かに、私の言葉を守ると言ってくれました…その言語に偽りがあったとは私には思えません」
「大した悪魔だな。お前は彼をどう思っていたのだ。操り人形のつもりか?所詮貴様は人の事をなんとも思っていない身勝手な存在だったということだ
それでも自分を天使だと言い切れるか?」
「私は…私は彼を…愛していました…そう、間違いない。何故だ。どうしてこうなったのだ。私には他の国を幾度と無く救ってきたのだ。今もこれからもだ…何故だ、何故、おお、神よ…」
「話は終わりだ。悪魔め」
私は刃を名一杯引き裂いた。悪魔の首は跳ね転がり、それからぽとりと力尽きたかのように止まった。私はその首を拾い、用意していた首桶に入れた。
私は悪魔の言っていた言葉を思い出し。上衣を裂いたみた。そこに見たものは、確かに、見まごう事無き純白とも言える天使の羽であった。
だが、彼女の言った言葉が事実なのかどうかはもはやどうでもいいことだ。彼女の行った行為は事実なのだから。
私は天使の首を持ち帰った。国は私を英雄として誉め讃えた。そしてしばらくの後、私は王となった。国を救った救世主として。反対するものは誰もいなかった。
ある日、私は、些細な事で激昂し家臣の一人を斬りつけた。
ある日、私の前に一人の女が現れた。私はその女を愛した。その女の言葉を信じた。その女は私の全てだった。
ある日、女は死んだ。私は発狂した