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Act2:追憶

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 起立。礼。着席。
 機械みたいに体が動く。教室にいる全員がロボットで、先生もただ与えられた任務を機械的にこなしているみたいだ。
「じゃあねー」
「またね」
 分かれ道。別れ際の挨拶。
 飽きもせずに全く同じような話をして、同じ場所を往復している。そんな風に、ひねくれた人間は思うだろうか。
 細長い通路を通って、団地の中にある自宅に帰って、自分の部屋に入って、ノートを広げる。今日の仕事。
 大人になった人ってのは、これの延長でしかない。
 馬鹿げてる。
 友人はそう言った。確かに、同じ所を行ったり来たりして、仕事と名前の付いた作業を淡々と済まして、疲れた顔で眠りに就いて、朝起きればまた行ったり来たり。

 それでも満足だった。
 何もない部屋の中に居るような、殺風景な程何のへんてつもない、普通という言葉で一蹴されそうな高校生。不完全燃焼気味の日常を消化するのに精一杯。
「つまんないなー」
 口ではそう呟いても、心の中は深い霧の中に似て、本当にそう思っているのか、いないのか。
 けれど、それは表面。
 引っくり返せば、彼女は機械そのものだ。
 機械みたいに、任務をこなす毎日。何も、特別も、普通すら、何もない。

 ただ、戦う。
 彼女は、そんな「9」の数字でしかないのだ。
 名前は、白井優実。

「今日は、何なの?」
 白井優実は目の前の女子生徒に聞いた。手には卵焼きを挟んだ箸が握られている。
「へへーん、聞いて驚かないでよ。ほらっ!」
 『UFOあらわる』という新聞の切り抜きを見て白井は、吹き出しそうになる。
 バカじゃないんだから、と溢すと、その女子生徒はムッとした。
「世の中にはまだ解らないことは沢山あってさ、UFOだって、ないはずなのに目撃者がいっぱいいるんだ」
 確かにね。
 白井は写真に顔を近付けた。
 空中に円盤が飛んでいる。ラジコンに見えなくもないが、彼女の言う通りUFOはそこにあった。白井は、それをラジコンと言う人間はどれだけいるだろう、と思った。
「ねぇ。これが何処に現れたか知ってる?」
「?」
「それがね、この辺りなんだ」
 言葉を失わざるを得ない。白井は口に運びかけたウインナーをピタリと止めた。
「すごいでしょ? もしかしたら、ユウがUFOに出会えるかもよ?」
「ないない。そんなの」
 ウインナーを口に放り込み、白井は少し上気しかけた心をなだめた。いきなり連れ去られたりしたらどうしようと、少し過ってしまったからだ。白井は、元より怪談が苦手な方だった。
 そんな事もいざ知らず、やっぱユウもそう思うかー、と向こうで相槌を打つ声があった。
 その子の名前は、倉内。

 その日の帰り道。白井の隣では、菅原がぶつくさと言葉を白井にぶつけていた。
「でさ、思うんだよね、ウチは」
 愚痴っぽい事の内容は、先生が面白くないだとか、最近新しく出てきたカフェのデザートが美味しかったとか、たわいもない事が並ぶ。
「でもさ、やっぱりあれはないわ、て思うわけ」
 先生の恒例となったお説教の話である。毎日毎日、飽きもしないで自分の言いたいことばかり言っている先生は、皆からの嫌われ者だった。
「毎日、ご苦労様だよね。誰も聞かないのに」
「そうだよね。やっぱりさ、勉強なんてやる意味が解らないんだよね。意味なんて考えるなって言うけど、それじゃウチらは奴隷ですか、って話なのよ」
 そういう話にも一理ある。意味も分からないままに押し付けられた『仕事』を、理由もなく繰り返す事に意義もやり甲斐も感じないと言うのは、当たり前で同情するのも簡単だった。
「確かに、そうだよね」
「でしょ? ウチらは機械じゃないし、奴隷でもないんだからさ。もっと自由にさせてくれても良いと思わない?」
 彼女の見た目はしっかり者に見える。清楚の文字を表したようなその出で立ちは、実は周りの期待に縛り付けられたものだという事は、白井はつい最近知ったのだった。彼女は、最後にはこうも言った。
「皆、いちいち過保護すぎるんだよ」

「騒がしい」
 黒柳は辺りを見回した。生真面目な堅物学級委員はむっつり顔でノートと格闘していた。そんな彼に、歩み寄る影があった。
「アンタも物好きだね。そんなことばっかで楽しいの?」
 菅原は半分茶化すつもりで聞いた。すると、冗談も分からないように黒柳はこう言った。
「楽しくないと言えば、楽しくない。だけど……やっていないと、無性に落ち着かないんだ」
 菅原は調子の狂う思いだった。どんなに変化球を投げても、直球で返ってくる、そんな感じだ。絶対に「からかわないでよ」とは言わない気がした。
「ま……いいんだけど」
「……菅原さん」
「何?」
 さん付けに戸惑う菅原だが、振り向くだけの余裕はあった。
「最近、変死体が立て続けに発見されてるよな」
「うん、まあ、そうよね」
 その事件は、マスコミでも物凄い話題を呼んだ。外傷も痕跡も、全く何もない死体である。死因が解らないのだ。犠牲者が多数出ているので、事件として警察も躍起になっているが、首を捻る以外に何も出来ないのが現状だ。
「あれ、僕達の近くで起きてるんだろ」
「…………」
 ふと菅原の頭を過ったのは、近頃話題のUFOの記事だった。もしかしたら、宇宙人の仕業かも知れない。
「話題のあのUFOと関係あるのかもよ」
「そうかな」
 黒柳はそう相槌を打つと、再びノートに向かい合った。
「……まさか。UFOはどうやって人を殺すんだい?」
「……それもそうね」
 黒柳は糞が付くほどに真面目で通っているが、最近おかしな行動に出るようになった。図書室に籠って哲学の本を読み漁ったり、寝不足で学校に来たり、かと思えばよく分からない言葉を紙に書いていたり。菅原はよく思春期で片付けているが、どうも変だ。
「……よし」
 黒柳はさっきまで計算式を書き連ねたノートを閉じ、それを持って教室を出ていった。
「何なんだか」
 呆れている調子で、菅原は肩をすくめた。
 朝、食卓で白井を出迎えてくれたのは大見出しの新聞記事だった。
『今日もまた犠牲者』
 変死体がまた発見された。白井は、その記事が帯びたヒステリックな雰囲気が背筋を気味悪く撫で上げるのを感じた。
 組織の計画かどうか聞くと、偽装家族として食卓にいる白井の使用人は、組織の計画にそんなものはないと言った。
「私達の中に、その様に殺人出来る人間はいないはずです」
 彼女の言葉で、ますます気味が悪くなった。UFOと言い、変死体と言い、訳の分からない事件が起こりすぎていた。
「私達も独自に調査していますが、実態の解明には時間が掛かると思います」

「犠牲者が出過ぎているから、君の所で外出禁止令が出ているらしいね」
 鈴木修介は電話でこう言った。彼はいわゆる白井の『仕事仲間』だった。
「あなたはどうなの?」
「警察に変装して気になる事件を調べてるよ。今日は休みだからさ、久し振りに都会にね」
「どっちの事件?」
「……どっちも、だよ。何だか嫌な予感がするからね」

 鈴木と白井は直属の戦闘員の中ではただ二人だけ、組織の外に出て生活している人間だった。遺伝子工学を駆使し生み出された白井達は、形式上直属と言う肩書きだが、まだ訓練生のようなもので、任務こそあるが、戦闘配備は殆どされていなかった。
「……まだ訓練には少し早いのでは?」
「私用で……ね」
「ああ……私からはなるべく角が立たぬように言っておきます」
「ありがとう」
 白井の武器は拳銃だった。彼女に与えられたのは、世界最強の拳銃『パイファーツェリスカ』を改造したもので、単発の威力は折り紙付きである。そこに電子制御を使い、その威力にも関わらず反動はかなり軽減され、連射が可能になっている。
「しかし、警察に見つかれば職務質問どころでは済みません。十分にお気を付けて」
 使用人は念を押して言った。
「心配は要らないよ。私も馬鹿じゃないから」
 そして、そっと団地から抜け出していった。

 白昼の太陽が照りつける。晴れた穏やかな日和に、カラスの鳴き声が伸びる。白井は、鈴木ととある路地裏に来ていた。
「見てごらん」
 目の前に横たわるのは、例の変死体だった。目を虚ろに開いた姿は生命の欠片も感じられないが、かと言って不思議と死んでいる気がしなかった。
「全く外傷がないし、何か毒を服用したわけでも、体内に病原体がいる訳でもない。なのになぜ、彼は死んでいるんだろうね。まるで命だけ抜き取られたみたいだ」
 鈴木は腕に取り付けたウェアラブルコンピュータを忙しなく操作していた。
「これはきっと、かなり質の悪いやつの仕業だよ。本当、趣味が悪いな……ん」
 鈴木はコンピュータに向かって不思議そうな目を向けた。白井にはそれが見えないが、何かヒントを見つけたらしいことは分かった。
「……脳死だ。脳がまず死滅して、それから心肺機能が停止してる事になってる。脳殺ってことだ。初めてだよ、こんなのは」
 脳死……という言葉を頭の中でなぞった。という事は、脳を殺す何かがある。に違いない。
「厄介だよ。人の脳に干渉出来る何か……ってことかな。気味が悪い」


「そうか」
 使用人は河原崎に向かって何か話していた。電話を挟んだ河原崎の声は、相も変わらず淡々としていた。
「だが、手筈は整っているはずだろう。今更変更出来ない。変死体があちこちで発見されているとは言え、私達には時間がないからね」
「はい。分かりました」
「だが、1つ、言っておきたい」
 河原崎の言葉で、受話器を元に戻そうとした使用人の手が止まった。
「はい」
「不穏な動きには変わりない。警戒は怠らない方がいい。私も出来るだけ静かに行く」


「この事態でどうしようもないのは確かなんだよな」
 鈴木は白井に向かった。2人は路地裏を出て、団地へ抜けていた。
「しかし、どう言うことだろう。全く分からないよ」
「何が?」
「犯人がいるとして、今は警察が張り巡らされてる。僕はまだ変装で誤魔化しが効いてるけど、何でこうして人が死ぬんだ?」
 警察が監視し出した社会で、どの様にして人を殺しているのか。犯人が人ではないと言えれば簡単だろうけど、人ではないとして何が……?
 そこに、電話が鳴った。
「白井様」
 使用人の大人しく控え目な声が聞こえてきた。白井は家に帰る必要があると悟り、すこしがっかりしたが、使用人の声音はどこか切羽詰まっていた。
「大変です。あなたの友達が……」
 それまでは無我夢中だった様な気がする。黒柳の家に着くまで、さほど時間は掛からなかった。
「君、分かっているのか!? 今は外出禁止令が……」
「じゃあ何で家の中で死体が発見されてるの!? 意味があって言ってるの!?」
 白井は警察の制止を振り払って黒柳の部屋に入り込んだ。窓が破られている。机の上は散らかっている。黒柳は自分の部屋で、やはり虚空を見つめて死んでいた。だけど、その姿は眠っているように見え、本当に死んでいるとは思えなかった。
「叫び声が聞こえたような気がしたから行ってみたら……そしたらまさか死んでるなんて……」
 黒柳の母親が塞ぎ込む。
「なんで……私の子が……」
「……白井」
 鈴木は白井に囁いた。
「行こう。もう嫌な予感しかしない」
 外に出ると、斜陽が射し込んできた。いつもは騒音まみれの黄昏時も、誰もいないことで街は静かに横たわっている。
「どういう……」
 白井は言葉に詰まった。まだ、悲しみの中にどっぷりと浸かったままだった。見知った顔が居なくなるのが、本当に信じられなかった。
「凹むなよ。まだ……」
「他人事だと思ってる!!」
 鈴木に当たった所で、何もいいことがないのは、白井自身、よく分かっていることだった。けれど、その無責任な発言に、感情が爆発していた。
「……ごめん」
 鈴木は言葉に押し潰されて、小さくなっていた。それでも、言いたいことは言った。
「まだ、何も解決していないんだ……だから、僕に出来ることがあれば何でも言って。出来るだけ力になるよ」
 白井は、小さく頷いただけだった。
18, 17

  

 家に帰ると、使用人が玄関先に待ち構えていた。こういう時は、必ず誰かが来ているということだ。
「クヴァール様がお待ちです」

「やあ。久し振り」
 居間には、見覚えのある青い髪の青年がソファに腰掛けていた。
「高校に入ってから、全く会ってなかったね」
「そう。それより、鳥籠から出た気分はどう?」
 無邪気な声に、顔が歪むような気がした。ジェイには、友達が死んだことは分からない。それは分かっていたのに、どこかに慰めてくれる事を期待した自分がいることに気付いて、白井は少し嫌な気分になった。
「いつもと変わらないよ」
 白井が浮かない顔をしていると、ジェイが口を開いた。
「……そうだ、そう言えば、こんなものを見つけたんだ」
 ジェイは金属でできたフリスビー大の円盤を取り出した。真っ二つになっている円盤が、白井とジェイを挟んでいるテーブルにゴトリと置かれた。
「何?」
「これ、この辺で有名なUFOでしょ。見つけたからナイフで切ったけど、なかなかすばしっこくてさ」
 UFO……か。白井にとってはどうでも良かった物だが、それにしては手の込んだ精巧な作りだったのが気に掛かった。
「それより、いきなり訪ねてくるのには訳があるんでしょ?」
「あ、うん」
 ジェイの顔が、ちょっと固まった。白井がいつもと違うのを感じ取った様だった。
「その……任務だよ。河原崎直々の」
 河原崎は、ホワイトハウス爆破未遂で捕まり、そこから脱走していたが、まだ組織に戻っている訳ではなかった。その河原崎の任務と言えば、大体は分かる。
「ようやく日本に入国するから、保護するように、だってさ。僕とリオも手伝っての任務だよ」
「……やっぱり」
「明後日の午前2時。その時間に、河原崎を乗せた小型潜水艇がここの湾にやって来る。一応変装はしてくるらしいけど、念のために僕達を寄越して来いって事みたいだね」
 白井は、明後日の2時、とジェイの言った言葉を辿った。その頃には、事件は解決しているだろうか……。

 次の日になると、警察の厳戒態勢の元で、外出が認められるようになり、学校にも行けるようになった。だが、恐怖と悲しみがごちゃ混ぜになった教室のムードは最悪だった。
「全く、誰も彼も話さないのよ。退屈してたのに、これじゃ学校に来ても最悪じゃん」
 その中で菅原だけは相変わらずだった。
「死ぬかもしれないのに」
 そう言う白井に向かって、あーはいはい、と半ば荒れた返事を返した。
「ウチはね、そんな小さなこと気にするよりはもっと大事に時間を使いたいの。死ななかったら心配した時間が無駄になるじゃん。どうせ、死ぬときは死ぬんだし」
 菅原らしいな。と白井は思った。不謹慎と言えば不謹慎だが、そんなに豪快な事を口走るのは、白井には真似出来ない事だった。
「菅原、真っ先に死にそう」
 口の悪い誰かが言うが、それを聞くような菅原ではなかった。

「学内にも死者がでたから、親達も血眼になってる」
 そう教えてくれたのは、倉内だった。オカルト好きな彼女はやはりUFOを追い続けていて、ポケットには小型のデジタルカメラを常備している。倉内は帰り道に落ちている小さな石を蹴飛ばした。
「あーあ。本当にどうして黒柳君が殺されなきゃいけないのかな」
「……だよね」
 白井には、黒柳が殺される理由が思い当たらなかった。もっとも、無差別殺人なら話は別だが。
「殺人の理由が分からないよね。家の中に侵入してまで人を殺すなんて、普通はしないよ」
「…………」
「もしかしたら、幽霊とかの仕業かもね」
 白井は視線を落として考えた。無差別殺人にしては、何故か黒柳だけ限定的な扱いだ。今まで、屋内であんな風に殺された人はいなかった。
 黒柳が死んだ理由、彼の性格から考えて……
「……あ、あれ!」
 倉内が興奮した声を上げた。落とした視線を持ち上げてみると、その指差す先に浮遊するUFOを発見した。
「あんなに小さかったんだ。今すぐ写真に……」
 カメラを構える倉内。するとUFOは不規則に揺れ動き始めた。
「あっ……ダメだ、追いきれない……」
 UFOはフラフラ動きながら遠ざかっていく。倉内も白井も(白井は倉内を追い掛ける形だが)それを追っていたが、すぐに見えなくなった。倉内が息を切らして立ち止まった。
「速……」
 倉内はがっくりと肩を落としていた。その姿が例えようもなく可哀想だったので、白井は声をかけることにした。
「またチャンスが巡って来るって。だから諦めないでよ」
 励ました後で、しまったと思った。けど、その目の輝きを幻滅させたくもなかった。
 黒柳が殺された理由。それは、彼が事件について、何か知ってしまった可能性がある……そう白井は考えた。もしそうなら、わざわざ彼の部屋へ殺しに来る理由がはっきりしている。勿論、口封じだ。
 それは相当に『やばい』事件。
 そして、黒柳が殺されたとなると――


 白井は黒柳の部屋にいた。探し物は、警察の捜査では出てこなかった。家の周りの警察を昏倒させ、気付かれないように窓から忍び込んだ。
 ――きっと、黒柳を殺した奴も同じように……
 首をぶんぶん振って目の前の散らかったままの部屋に目をやる。この部屋のどこかに、もしかしたらあるかもしれないものを探す。隠すとしてもそんなに大掛かりな場所に隠す余裕はないはず。だが、机の引き出し隅や、カーペットの裏などを調べても、何も出てこない。簡単に見つけられると思っていたが、なかなか見つからない。
 ああ……ないのか。
 犯人が持ち去った可能性に、白井が気付いたのはこの時だった。それもそうだ。もし本当に『やばい』事件なら、そんなもの、ここにあったらとっくの昔に無くなっているはず……。
「……!」
 分かる。分かった。彼がどこに隠したのか。どこに隠すべきなのか。
 ――当然、敵が絶対に見ないところに決まってる。周りの人目が多くて、かつ地味な場所だ。
 つまりは。




 学校だ。
 黒柳がよく図書室に来ているのは、菅原からよく聞かされていた。その情報の示す所は、目当ては図書室の中にあると考えていいだろう。黒柳が一体何を知ったのか、白井には分からない。知らないかもしれない。だが、もし知っているなら、何か手掛かりを残しているはずだ。
 学校はまだ開いていた。グラウンドから、元気のいい叫びが打ち上げ花火みたいに上がっていく。玄関の下駄箱を調べると、下駄箱の天井に紙がテープで貼り付けられていた。
『東京タワーに見る文化と思想』
 手書きで、そんな字があった。
 一瞬、何のことかと頭を捻らせたが、すぐにその意味が分かった。私は、その紙を引き剥がすと、ポケットにしまっておいた。

 図書室には相変わらず人気は少ないが、いくらかの生徒は勉強に勤しみ、本を読み耽る人もいた。そのそびえる本棚の奥に、その本はあった。
『東京タワーに見る文化と思想』
 手に取り、パラパラとめくっただけで、それは姿を現した。几帳面過ぎるくらいに綺麗に折り畳まれたノートの切れ端だった。それを恐る恐る広げて、中の文字を確認する。
『事件の事実』
 白井の背筋に冷たいものが走り抜ける。同時に、紙を持つ手が震えた。震えが治まってから、その続きを読んだ。
『変死した21人は、約半数が身元不明。戸籍に名前のない人間だった。残りは特に問題ないが、その中に警察官が数名いることも考察の価値がある』
 偉く学者ぶった文体が連なっていた。お前は何様なんだと言いたくなったが、もうこの世にはいない。観念して続きを読むと、その後に予想だにしないことが書かれていた。
『これを書く2日前、とある人と接触した。その人はその次の日に殺されたが、私に、死ぬ前に誰かに伝えておきたいと言い、その内容をここに記す事にする』
 そこから少し空白があった。私は息を軽く吸い込んでから、その内容を目で追い始めた。
『曰く、ここにテロリストが潜伏していると。さらに、詳しいことは分からないが、近い内にこの街は消し去られる、と。この街にいるテロリストが不特定多数であるからという理由らしい。過去に家畜にウイルス性の感染症が蔓延した時、周りの家畜もろとも殺処分されたが、あれに近い感覚だ。この殺人事件も、このことを広めれば確実に混乱が起こるとの配慮にもならない配慮からのようだ』
 自分の心が冷たい刃で貫かれた気分だった。胸の内からドクドクと流れ出るものが、白井の胃を締め付けた。
 テロリスト……。
 私?
 私がいたから?
 私がいたから、人が死ぬの?
「…………」
 ここが図書室だということを忘れていたなら、白井は躊躇いなく泣いていただろう。すでに目頭が熱く、つんとした感覚が彼女から何かを押し出そうとしていた。
『いくらなんでもやり過ぎだと思うが、それほどのテロリストがこの街に潜んでいると言うことのようだ。ここからは個人の推察だが、身元不明の約10名は、恐らくそのテロリストの一味であろうと考えられる』
 自分の頬を伝う何かにすら、気付くのに時間が要った。
 バカだね。あなたのすぐ近くにいたんだよ。そのテロリストが。
 黒柳に、それが届くわけがない。最後にはこうあった。
『もしかしたら、私も近い内に死ぬ。これを誰かが見つけられるように、学校の至るところにヒントを隠しておいた。我ながらこんな事をするのは恥ずかしいが、これを読んでくれている人には噂としてこっそりと広めてくれればありがたい』
 白井は涙を悟られない様に、そっと図書室を後にした。しかし、他の人がもしかしたら読むかもしれないその紙を、もとの場所に戻すことはしなかった。
 知っていれば、いずれは殺される。なら、知っているのは自分だけで十分だ、と白井は思った。


 家に帰ると、いつになくひっそりと静まり返っていた。使用人の姿が見えないのだ。食卓のテーブルには、ラップを掛けられた皿。
 そして『外出しています』と書かれた紙。
 ハッとした。
 彼女は事件について調べようとしている。
 殺される。
 連想がそこで切れた。
 白井は、自分の武器を掴んで外に飛び出した。
 どこにいるのか、当てはない。だけど、助けたい。
「お困りのようですね」
 敬語を使い慣れていないような、ぎこちない声が聞こえてきた。
「やあ、また会ったね」
 鈴木だった。まだいたのか、などと言ってはいられない。彼の力は、自分にとってはこの上ない程頼りになるのだ。
「私の使用人、どこか行っちゃって……殺されるかも」
 鈴木は、白井の言った内容を噛み砕く必要があったが、割りとすぐに分かったようだった。
「うん、調べてみるよ」
 白井は頭の中で、黒柳の書き付けた言葉が、本人の声で再生されるのを聞いた。
『身元不明の約10名は、恐らくそのテロリストの一味であろうと考えられる』
 つまりはそういうことだ。この事件を知った白井の組織の1人が死んだ。それは民間人をも巻き込んで大量殺人事件に発展した。真相を知って生きてはいけないだろうが、死んでもいいから何らかの情報を残したいと白井の使用人は出ていったのだろう。
 知るために、自分の命すら投げ出す。それが彼女の使命とでも映ったのか。
 それは、間違っている。
 偽装家族だったとしても、彼女は白井の唯一の家族。
 失いたくない。
 それがただの我が儘だと言うことは分かりきっている。だけど、我が儘でも、いなくなるのは耐えられないことだった。
「君の使用人の居場所、分かったよ」
 鈴木が言った。
「彼女はきっと……」
20, 19

  

 知るために、白井の使用人、白井真由美はそこにいた。彼女は独自に捜査するなかで、この殺人は一纏まりになっていることを知ったのだ。
 実際には、殺害されたとする21人以外に、さらにホームレス、行方不明とされている人も合わせて40名もの人が死んでいる。そして、その死者の職業や日常を1つ1つ照らし合わせると、ある1つの点が地図上に浮かび上がった。彼女は、最後の確認のためにそこにいるのだ。
 そこは、工場の跡。何年か前に廃れたまま、解体されずに放っておかれている場所だった。
 その工場の中に単身、銃を片手に潜入する白井真由美の動きには、無駄がなく洗練されていた。日が沈みかけた赤く薄い闇に紛れて、一挙一投足に細心の注意を払って歩いていた。
 人はいないはずだったが、30人程がその工場の中にいた。どうやら会合の最中のようだ。その中で、リーダー格の男が静かに言った。
「あと2日。あと2日で、計画は達成する。それまで、知られてはいけないよ。今まで通りだ」
 計画……。
 やはり無差別殺人ではなかった。何か意図がある。と白井真由美は確信した。当然だが、計画については触れられない。どういう計画なのか、確かめたい思いが彼女のなかにあった。
「それと、1つ言っておきたい事がある……」
 その時、後ろに気配があった。振り向くのが間に合わないと感じ、すぐに気配から逃れようと飛び退いた。
「バレバレっすよ、お嬢さん」
 銀髪の青年が視界に現れたかと思えば、瞬時に回りを囲まれた。
 明らかに不利だ。
 だが、戦わなくてはいけない。
 白井真由美が銃を振り上げると、次の瞬間には天井の鉄骨が崩れ落ちる。それはピンポイントで敵の頭上に落下した。青年は身軽な動きで落下点から逃れ、落ちてきた鉄骨を殴り飛ばしてきた。
 飛んでくるそれを踏み台にして高く飛び上がった彼女は、続けざまに3発の銃を放つ。すると、青年の回りは、爆風で舞い上がった砂塵で何も見えなくなる。
「全く、どんな銃を使ってんだ……しかーし」
 青年が腕を振るうと、その腕の先に白井真由美がいた。彼女は壁に激突し、その勢いで鉄筋コンクリートの壁が凹む。
「丸見えだっつーの」
 白井真由美の眼前に、フリスビー大の円盤があった。恐らく、これで回りの状況を読んでいたのだろうか。
「びっくりしたか? サテライトって言うんだぜ、それ」
 サテライトは、工場内に幾つも張り巡らされている。これだけあれば、死角はないに等しい。
「さぁて、反撃だ」
 瓦礫が立て続けに幾つも投げられる。その内2つは銃で砕いたが、それ以降は間に合わない。そこで、目の前に落ちている鉄筋を撃ち、浮かせると、一瞬だが盾代わりになった。その束になった瓦礫を掻い潜るように青年に向かっていく。
「ぬん!」
 青年が足で地面を思い切り踏み付けると、地面が砕け、中の水道管から水が噴き出す。水圧に押し出される様に一歩下がった所に、青年の無機質な腕が伸びた。
 銃を叩き落とされ、首根っこを掴まれる。
「……何で人が何の外傷もなく死んでるか分かるか?」
 青年の腕に力が入る。白井真由美は息が出来なくなり、声にならない声を上げた。
「人間の神経を一時的に停止させる機械が、俺の腕に仕込まれてんだ。腕とかに作用すればちょっとの間動きが止まるが、脳に作用させるとどういう訳か丁度脳死状態になるんだよ」
 青年のもう一本の手が、彼女の頭にかざされた。
「脳死状態になれば、心肺機能は停止するって話……さあ、デッドエンドだ」
 その時、砕けていた地面が盛り上がった。何が起きたのか青年が察知する前に、中から鉄の塊が飛び出してきた。その膝蹴りが、白井真由美の首を掴んでいた腕をへし折った。手から解放された白井真由美が、地面に突っ伏して咳き込んだ。
「いてっ……」
 出てきたのはヒューマノイド、つまりは人形ロボットだった。徐にカンフーの構えを取り、青年を威嚇している。
「ヒーロー参上、てね。何とか間に合った」
 鈴木はパソコン片手に工場の窓に腰掛けていた。
「おー? コイツの仲間か? しまったなぁ、さっさと殺しときゃ良かった……」
 今度は銃声。
 猛烈な威力を持った弾丸は、青年の腕を弾き飛ばした。
 白井が現れると、青年の顔が歪んだ。どうやら、3対1は彼にとってあまり好ましくないようだ。
「……大分騒ぎたてたな。警察来ちまってるし、今日だけは生かす……近い内、まとめて殺ってやっから、お楽しみにってことで!」
 青年は飛ぶように去っていった。白井達も、もうすぐそこまで迫っているパトカーのサイレンに、急いで工場を後にした。

 サテライトについて聞かされた白井達は、家に帰る代わりにジェイの潜伏している廃ビルにやって来た。外見とは裏腹に、中身はそれほど古びた感覚ではなく、むしろ綺麗な印象を受けた。
「大分派手にやらかしたね……結局、計画も分からないまま……」
 ジェイが白井真由美に応急措置を施し、暫く安静にと言い聞かせ、彼が白井に向き直る。
「で、白井は、何か分かったって顔してるね。聞かせて欲しいな」
「……近い内に、この街が消えるって」
 白井は黒柳の遺した紙を、ジェイに手渡した。
「へぇ……もう僕達の居場所を突き止めてるんだ。この一件で、サテライトが君達を監視し出すのも時間の問題だね」
「え……?」
「もしかして、考えて無かったのかい? 多分サテライトで君達の顔がばれてるから、これ以降君達と接触した人は疑わしいとして殺されるはずさ。友達との接触は避けるべきだね」
 白井は、友達の姿を浮かべた。多分、もう話せなくなると思うと、息が詰まる思いだった。
「まあ……何かあったら言ってよ。作戦決行まで、しばらく遊んでくるから」
 そう言ってジェイは建物の外に向かって歩いていった。
 時刻は、もうすぐ8時を回る。すっかり黒ずんだ空には月が出ていた。ただ1つ大きく、太陽の光を受けて妖しく輝く白い光は、不吉とも吉ともとれた。白井は月から目を離し、目を瞑った。とにかく、今は眠りたかった。
 刹那。
 無に還る一瞬。
 物凄い爆風があった。
 それから、白井はその街の姿を見た。
 目の前に広がるのは、火の海。全てが破滅に追いやられた街の姿が、白井の眼前に倒れていた。形あるものは1つとしてない。
 そして、横たわる友人達……


「っ……」
 眩しい。
 朝日……ではなかった。鈴木の持っていた小型の照明が、白井を照らしていた。少し鬱陶しく思いながら体を起こす。
「起きて。時間だよ」
 壁に掛かった時計を見てみた。
 1時だ。
 照明が顔から外れると、真っ暗闇が白井を飲み込んだ。手探りで武器を手繰り寄せた頃には、大分目が慣れてきたが、それでも月明かりの陰は暗かった。
「僕がここに残ってるから、君の使用人については任せてよ」
 鈴木が見送る建物の外には、車のエンジンが静かに猛っていた。ジェイが運転するワゴン車に乗り込むと、そこにリオはいた。
「久し振り」
 リオはこちらを見るとすぐ、嬉しそうに言った。ワゴン車は狭くて息苦しかったが、その顔を見ると、白井も嬉しくなった。
「本当にそうね。でも、変わってないよ、みんな」
 相変わらず、艶のいい髪が顔を動かす度に上品に揺れる。
「ううん。ユウは変わった」
 ハッキリと言われて、白井はたじろいだ。そういう意味じゃなくってさ、と慌ててリオは続けた。
「何だか、成長してるって意味だよ」
 心を見透かすその瞳は、色んな嘘を見てきたせいか、なかなか人の目を直視しようとはしない。今も、白井をちらと見ただけで、後は顔を背けていた。その横顔を眺めていると、リオが再び白井の方をちらと見た。
「友達……ってどんな感じ?」
「え?」
「友達だよ。どんな風に過ごしてるの?」
 リオからすれば、素朴な質問だったに違いない。だが、白井は、その素朴な疑問に、ハッキリとした答えを見いだせなかった。
「あんまり変わらないよ。私達と一緒でさ、遊んだり、話したり」
「……そうなんだ」
 意外と言う風でもなく、ただ平然と頷いていた。何気ないその表情が僅かに沈んでいるのが分かり、白井は心配になった。
「どうしたの?」
「何でもない。何だか拍子抜けたなー、って……」
 リオは笑おうとしたが、すぐに悲しそうな顔になった。諦めたように、リオは重い口を開いた。
「……友達が死んだら、ユウはどう思う?」
「何て……何言ってるの?」
「答えて」
 リオの横顔に、問い質すような厳しい光があった。その光に白井は続く言葉を見失った。
「……悲しい。もしリオが死んだら、悲しいよ」
「……そうだよね」
 ゆっくり、ゆっくりとリオは頷く。ちょうど、高価な料理をじっくり噛み締めて味わう感じだった。
「だよね……今のは忘れて。私、どうかしてる」
 その面持ちに、白井は違和感を覚えたが、あまり気にしないことにした。それを知ってはいけない気がしたのだ。

 しばらく闇の中に揺られていると、車が停車した。ジェイがこちらに振り返った。
「着いたよ。ここが到着予定地だよ」
 海岸沿いの、全く車の通らない道路に停車した。荒々しく打ち付ける波の瑞々しい音が聞こえてきそうだったが、車から出ると、その音とは程遠い騒がしさがあった。音の出所を探すと、近くには石油化学工場があった。
「そろそろだ」
 その声が合図になったかのように、水を掻き分ける波が水面に出来た。それが浮かび上がって、1人のダイバーの格好をした人が水面に現れる。そしてすぐに、ジェイが電話をかけた。
「見えますか?」
『ああ、ばっちりだ。今からそっちに向かうから、潜水艇の処理を頼む』
「分かりました」
 まず、リオが海から1人入るのが精一杯の大きさの潜水艇を引き揚げる。それをジェイがワゴン車で拾い、運転して隠れ家まで運ぶ。私と河原崎は、敵を警戒しながら、あらかじめ近くの駐車場に用意しておいた車に乗り込む。そういう計画だった。
「……しばらく見ない内に、随分大きくなったな」
 そう言う2年ぶりの河原崎は、すっかり老けて見えた。白髪が増え、髭を生やし、痩せこけた顔は逃亡生活の片鱗を垣間見ている気がする。それについて言うと、時間がないからだと河原崎が言う。
「国際特殊警察がそろそろ勘づき始めている。時間稼ぎももう出来そうにない。とにかく計画を急がなければ」
 そう言えば……白井は思った。計画について、白井達は何も教えられてはいなかった。一体、どんなことを計画しているのか、白井には見当もつかない。河原崎は、深くは教えてくれないようだった。それ以降は口を閉ざし、何も言うまいと静かに歩いていた。
 車の元まで辿り着いた時、白井は1つ溜め息を吐きたくなった。ここまで一言も会話しなかった。白井にとって、空気の重力がこれ程までに重たく感じられたことは、今までなかったのだった。
「あの……」
 我慢しきれずに話し掛けた瞬間、それは起こった。白井達の回りに、あの円盤――サテライトが、たくさん浮遊しているのが分かったのだ。
「これは……!」
「よぅやく見つけたぜ……河原崎さんよぉー」
 駐車場の真ん中に人がいるのを白井は発見した。それは、ついさっき工場でみたあの銀髪の青年だった。青年は、白井に気づくとははん、と鼻を鳴らした。
「やっぱりお前ら、河原崎の仲間だったのか。予想通りだ」
 白井は銃を青年に向け、河原崎に目配せした。河原崎は理解したように身を引き、車に乗り込む。遠くに離れていく音を確かめてから、注意を彼に向けた。
「ちっ、いい判断だ。ま、時間稼ぎくらいにしかなんねぇけど」
 1つのサテライトが彼の乗る車を追い掛けた。居場所は分かる、ということか。
「っとまぁ、こんな感じで、俺は目の前の邪魔者を消して、あいつを追い掛けりゃいい訳だな」
「ただの力で、私は消せないよ。それでもやるなら、私があなたを消す」
「言うねぇ」
 青年は軽く首を回し、ボクシングのオーソドックスな構えをとった。
「じゃ、ちゃっちゃと終わらせようぜ。夜が更ける前にさ」
22, 21

  

「役を全うしているだけだ」
 車のシートに身を委ねている河原崎は、運転席にいる女性の質問に答えた。車での逃走中に、彼女が現れたのだ。
「何の役?」
 彼女は親しげに河原崎に質問を重ねた。組織の中でも見知った幹部同士ではあったが、河原崎は彼女や他の幹部に対して、計画の全容を話してはいなかった。
「そうだな……世界征服を目論む悪者の頭……と言ったところか」
「……そう」
 女性は赤信号にブレーキを踏んだ。エンジンが発する静かな音も、なくなると車内が殺風景になった。
「悪者……ね」
「嘘じゃないだろう」
「確かに、世界からすれば抹殺すべき存在かもね」
「様々な禁も犯した。もう、生きては帰れないだろうな」
 再びアクセルが掛かる。加速を感じるなかで、女はその力で押し出すように言った。
「死ぬつもり……?」
「…………」
 狭い車の中で、沈黙はその重さを倍増させていた。街灯が幾つか通り過ぎた後、外の景色を眺めていた河原崎は、冷たい窓から目を離した。その視線は、一直線にミラー越しの女性に向けられた。
「そのつもりだ」
「……どうして」
 また、赤信号。ゆっくり減速していく車内は、それに比例して更に静かになる。
「それは分かっていることだろう、シルヴィア。私自身、私そのものが、悪役だからだ」


「てめーらの親玉、相当ブッ飛んだヤローだってな」
 青白い光に照らされる青年は、ヘラヘラと笑った。まるで、白井の境遇に同情しているかのその振る舞いに、白井は少しの怒りを感じた。
「それが?」
「いいのかよ、それで。それでてめーは満足か?」
「関係ないよ。河原崎がどれだけの人間かなんて、私には興味ないし」
「……そうか」
「それに、あなただって、命令されて何人も殺して、それで満足なの?」
 青年の顔から笑みが一瞬で引っ込んだ。だが、すぐに顔を元に戻し、元の力の抜けた笑い声が駐車場に広がった。
「それ言われたら敵わねーや。確かに、俺は人を殺すのが仕事だ。どんなに嫌な顔したって、命令ならどんな奴も殺す。命令してるうちの親玉もひでー奴さ。冷徹非情で、人を騙すも操るも自由自在。上司じゃなかったら、死んでも付き合いたくないね」
「分かる。最低な先生とか、言うこと聞きたくないけど、でも先生だから、渋々やってるの」
「だよな。気が合うじゃねーか」
 お互いに、フッと軽く笑う声が跳ねる。つり上がった口角を元に戻して、お互いに睨み合う。
「流石にやり辛いね。だがしかーし」
「あなたとは戦いたくないかも。でも、やっぱり」

「悲しいけどこれ、命令なんだよね」
「友達を殺した罪は、重いよ」


「悪役だなんて。あなたは自ら進んで悪を全うするって?」
 シルヴィアはハンドルを握ったまま、ミラーの向こう側にいる河原崎に言った。河原崎は、静かに息を吸い込んだ。
「世界からすれば、だよ。私は私の正義を貫いているつもりだ。だが、それは誰かに刷り込まれた歪んだものかもしれないけどね」
「……刷り込まれた?」
「そう。私は、誰かから与えられた理由なくして生きることは出来ないのだよ。今こうして計画を推し進めているのは、自分の意思だけではあり得るはずもない事だ」
「…………」
 シルヴィアは黙り込んだ。シルヴィアは、河原崎の言ったその意味を分かりかねていた。
「私はもうじき、アメリカに、世界に宣戦布告するつもりだ。もう私には関わらない方がいい。これは私の個人的な戦いだ」
「私達を……」
「君達とは今は無縁でありたいんだよ」
 その時、そびえ立つアジトのビルが窓の視界に入り込んできた。その時、まだ走っている車の、扉が開く音がして、シルヴィアはハッと後ろを振り返った。
「私は降りるよ……後の始末は子供達に頼んであるから、これから起こることは彼らに任せておけばいい」
 河原崎は、音もなく車から飛び降り、闇の中に紛れた。振り向いたシルヴィアは、目の前に巨大な装甲車を見つけた。その備え付けられた機関銃は彼女の乗った車を指している。
「何よ……一体、何なのよ……」
 シルヴィアのハンドルを握る手に力がこもった。


 広くはない駐車場。
 爆音が岬に響く。青年は命令だけを理由にして戦っていた。
『邪魔するやつは排除しても構わない』
 河原崎について、彼は詳しく知らない。雇われ殺し屋の彼に、知る権利は無かった。言ってみれば、彼は人形だった。
 これまでに幾多もの人の亡骸を目にし、それと同じだけの復讐を見てきた。面と向かって睨む人々の顔には、怒り、恐怖、悲しみ、渦巻く種々の感情が入り混じる。そうして、報復は連鎖していき、殺人は日課になっていた。ひょっとしたら、命を狙われているのは寧ろ、自分かもしれないと思うほどだった。
 そんな彼が驚いたのは、今、自分と同じ目をした人間が、目の前にいたことだった。その目は、自分と同じく無機質なもので満たされている様に見えた。
 仲間がいた喜びだろうか。青年は嬉しくなって口を開いた。
「こんなに骨のあるやつは久し振りだよ」
「嬉しいの?」
 白井にとって、戦いはまだ日常ではない。が、遠い未来そうなることは青年は分かっていた。
「……お前にはまだ分かるかよ」
 二人が少しの間を挟んで、一瞬だけ睨み合った。お互い、即座に相手の命を刈り取ることができる間合いだ。
 決着は一瞬で付いた。青年の腕が伸び、白井の頭を鷲掴みにした。同時に、白井の銃の銃口が青年の顔を捉えた。

 白井の銃が、一瞬早く火を噴いた。
 一際大きな銃声。それは山の木々に紛れていった。
「おいおい、俺、死ぬのかよ」
 青年の声がした。
 白井を掴む手から力が感じられなくなった。海から、塩気に満ちた風が吹き込んできた。それでも静かだ。明かりが青白い。血が紅く映える。白井の頭が空っぽになる。人を殺めたのはこれが最初だった。
「何? 悲しい? 馬鹿かてめーは。これからお前はそれが日常になっていくってのに、怖いだ? そんなんで勤まるほど甘くないね」
「……悲しくなんかないよ」
「そりゃ大きなお世話だったな、ま、俺はせいぜい海にでも捨てといてくれや」
 プツンと糸が切れるように青年は崩れ落ちた。背中からコンクリートにぶつかるが、その音に生命はない。白井の空っぽになった頭の中に、青年の言った一言が流れ込む。
「これから……」
 私は人を殺し続けるの?
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