一人の男がいた。名をスズキという。歳は二十五歳。スズキは一言で言うとうだつの上がらない男であった。人間生きていればどんな人でも、輝く瞬間というのはあるが、今までのスズキの人生にはそれがなかった。ただ、スズキは生きているだけ、のようなものだった。小学校を卒業し、中学を卒業し、高校を卒業し、大学を卒業した。どの学校も無難に生きていれば普通に入れるものだった。友達も数人はいた。皆、スズキのようにうだつのあがらない人間ではあったが、スズキは中でも群を抜いていて、友人達も自らよりうだつの上がらぬ、スズキに対して安心感を覚えていた。スズキは友人達にとってそのような存在であった。スズキもその事を重々理解していたが、いつもスズキが思う事はしょうがないという事。だいたいの問題はその「しょうがない」でスズキの中で片付けられてしまう。なによりも、考える事をしなくて良い、楽さ、が「しょうがない」にはあるのだ。もちろん恋人など出来た事などはなかった。好きになった人はいたが、いつも「しょうがない」で自らとその好きになった人を比べては勝手に身を引いていくのが、スズキの行動のパターンであった。
具体的にうだつがあがらないとはどういったものなのか。基本的にはスズキは無気力ではなかった。だが、あまり野心というものがスズキにはなかった。その辺のややこしい所がうだつのあがらなさを助長させ、やる気はあるけど、誰かをおしのけてとか、誰かの邪魔になるならやらないと選択し、それが空回りして結局うだつがあがらないという結果だけを顕著に残す。周りの評価はやる気の有無など知るよしもなく、スズキに対してうだつがあがらないと評価するだけだった。
そんなスズキだが、彼は今、無難に無難な大学を卒業し、就職し、会社で営業の仕事をしていた。就職したが、うだつはあがらなかったので、仕事も上手くいくという事がなかった。営業先に行っても、自分の会社に戻って来ても、彼はとにかく怒鳴られ続けた。怒鳴られる事に普通なら慣れてもいいのだが、スズキはそれに慣れる事も出来ず毎日は暗澹だった。無気力ではない分、それは耐えられぬ程、スズキの心を痛めつけたが、何か自分を変えようという意志を出そうとも、今までのスズキの人生の経験がそれを許さないのだった。
そんなある日の事だった。スズキは営業先の会社へと街を歩いていた。これから行く営業先はスズキにとって気の重いものであった。大きな会社ではないのだが、その会社に腰掛ける社長はとにかくスズキに対して厳しかった。確かにスズキはうだつがあがらずいつも対応はしどろもどろだが、それ以上にそこの社長は手厳しく、スズキがどこと比べても、怒鳴られる激しさはその社長が一番だった。そんな訳でスズキは暗い気持ちを抱えながら重い足取りで営業先の会社まで歩いていた。するとスズキが歩く先に高級車が一台止まった。中から人が出てくるとスズキは足を止めた。車の中から出てきたのは高校時代のスズキの同級生のアンドウだった。アンドウはスズキが高校時代唯一、自分よりも立場が下の人間と思っていた男だった。スズキがアンドウの姿を見るといつも友達もおらず。いつもぼんやりと一人でいて、見ていて解るぐらいおどおどしていた。結局卒業するまでアンドウには一人も友達がいる気配はなく、卒業式の時誰とも喋らずに一人で帰って行くアンドウの後姿を見てスズキは自分の方がまだ楽しい高校生活を過ごしていたと、アンドウを見て自らに満足感を与えていた。
そんなアンドウが高級車から出てきた。しかも着ている服も自分には買えそうもない高価なものを着こなしていた。一瞬アンドウかと目を疑ったがその顔はほとんど高校時代と変わっておらずアンドウに間違いはなかった。車や格好もさる事ながらアンドウは人に与える、オーラともいえるその漂う感じというもの変わっていた。おどおどした所は全くなく、地面に対して真っ直ぐ立ち、表情からは自信が伺えた。スズキが驚き立ち止まっていると、アンドウの元に数人のスーツを着た男達が集まって来た。男達はアンドウを取り囲み話を始めた。どうも見ている感じはアンドウの部下のようだった。スズキはただその光景を呆然と見ていた。信じる事が出来なかった。あの自分よりは人間的に下と思っていたアンドウが今は自分よりもはるか上に思えるのだ。横にあった店ショーウィンドウに映る自分を見た。自分は高校時代から何も変らず見た目は明らかにうだつがあがりそうにない人間だった。アンドウを見た、ふと自分と目があった。アンドウはスズキを見て驚いたのか、しばらくスズキ凝視していたが、ニヤリと微笑を浮かべると部下と思われる男達と共に車に乗って行ってしまった。スズキはアンドウが去った後もしばらく呆然とその場に立ちつくしていた。アンドウは努力したのだ。あの卒業式で私はアンドウを見て安心していたが、アンドウはあれを教訓にしていたのだ。自分はなんて愚かなのだろうか。私はその少しの安心で今も昔と変らずうだつがあがらないのだ。何をしていたのだろうか。スズキは苦悶しながら歩を進めて行った。
社長がスズキを見るなり怒鳴りつけた。
「また来たのかね、君は」
ごにょごにょとスズキが返事を返す。
「おたくの会社には人がいないのか、それとも君が一番ましなのか、えぇ、どうなんだ」
「い、いえ、あ、あのぉ」
「何言ってるか全然わからんよ、なぁ、きみどうやって今まで生きてきたんだ、両親は何を君に教えてきたんだ、えぇ?君の両親もそんなんなんだろう、だから君を見ても不思議に思わないんだ。蛙の子は蛙だね、カッカッカッカ」
いつものスズキならただただ我慢するだけだったが、今日のスズキは違っていた。スズキの感情はとてつもない憎悪と怒りに満ち溢れていた。それはやはりアンドウが原因だった。ここに来る前に見たアンドウの姿と今、この社長に怒鳴られる自分自身を投影してスズキは怒りを増大させた。
「う、うるさいいー」
気が付いたら、灰皿を握っていた。そして、目の前には今まで、自分に罵詈雑言を浴びせていた社長が倒れており、手にはその社長の後頭部を強打した感触が残っていた。
「あわわわわ」
終わった、スズキは自分の人生の終わりを悟った。社長室に物音を聞きつけ他の社員がやって来た。
その社員と目が会った。
ナシモトは苦悩していた。自分の人生に不要な人物がいる。もしかしたら不要ではないのかもしれない。そういう考えを抱いた時もあったが結論はやはり不要。今のナシモトの苦悩はどうやってその不要な人物を排除するかという事だった。
『やはり、殺すしかない』
別の答えを探ってはみたが、この答えが一番合理的で効率的に思えた。しかし、殺すのはいいがどうやって殺すのかが問題だった。絶対に自分が犯人と疑われてはならない。だから相当な計画を用意しなければならない。とりあえずその不要な人物は相当色んな所で恨みをかっている事は間違いない。その辺でなんとか都合出来ないだろうか。もし、路地裏に引きずり込んで殺したとして犯人は特定されまい。しかし、確実とはいかない。強盗に会ってそのまま殺されるという筋書きはどうだろうか。ありえなくはない。一応身分は高い人間だ。強盗に襲われる可能性は高い方だ。では、どうやってそれを見せかけたらいいだろうか。それを考え出すとまた難しい問題になってくる。行方不明にするというのはどうだろうか。日本には行方不明者というのは数知れず居るというのを聞いた事がある。その中にはいろんな人がいるだろう。本当に家出して行方不明な者。そして殺されてどこかに埋められたとか沈められたとかいう者もいるだろう。つまり殺して遺体を人の目のつかない所に隠してしまえばかなりの確立で成功するのではないだろうか。ではどこに隠そうか。そういえばこの前映画で死体を車のトランクに入れたままスクラップ工場で一緒に潰して見事に遺体を処理するのを見た。中々合理的な手法だった。そこまでいかないとしても方法はいくらでもありそうだ。近くの空き地にでも埋めて家が建てば何十年も気付かれる事はないだろう。何十年後気付かれたとしても遺体の身元なんてまずわかるはずがない。まてよ、そういえば丁度いい空き地があった。ほとんど人通りはないし、深夜ならほぼバレずに埋める事が出来る。そんな事をニヤニヤと表情に浮かべながら、考えていると会社に着いた。
ナシモトは車を止めた。おそらく今はその不要な人物がここに居るのだろう。少し気が重くなるが入るしかない。自分の会社なのだから。
スズキは硬直していた。入ってきた社員と思わしき人物と目が会う。その社員と思わしき人物は次に転がっている社長を見つめた。その後スズキを見てニヤリと微笑んだ。
「気にする事はありません」社員ナシモトが興奮しているのか、やたらと大きな声で叫ぶように言った。
スズキはナシモトが何を言っているのかが上手く理解出来ない。
「こいつは死ぬべき存在でした。あなたがやっていなければ私がやっていた」
何を言い出すんだこいつはとスズキは思った。自分が作り出したこの状況だがこの男は解っているのだろうか、この状況の危機が。
ナシモトは幸運を手に入れたと思っていた。自分には後一歩の行動力が欠けているとナシモトは自負していて、どうせ今回の殺意も自分の中で消えていくと思ったていたが、その後一歩を踏んでくれる人物がいた。顔は知っていた。いつも不要なあの人物にグチグチと嫌味を言われ続けていた男だ。何も出来ない男だと思っていたが、まさかやってくれるとは思わなかった。初めてナシモトはスズキに対し敬意を表した。
「な、何を言っているんだ、僕はこ、殺してしまったんだ」スズキは震えながら転がった社長を指差す。
「だから、言っているでしょう。こいつは殺されて当然な男でした。こんな男を殺した事であなたが不幸になるべきではない。手伝ってください。こいつの死体を私の車のトランクにいれます」
ナシモトはやる気充分だった。何も今日思いたった殺意ではなかった。どんどんとそれが形になって来ていた段階であってそれが今爆発したのだ。
「いや、僕は自首する」スズキは静かに言った。スズキからすれば当然の答えだった。
ナシモトは考えた。さっきは嬉々としてこの男に加担する事を望んだが、なにも自分はそんな危険など冒さなくてはいいんではないか。自分の望みは叶ええられたのだ。しかも自分が一切手を染めることもなくだ。この男が自首するという以上それを止める事も別に無い。不要な社長がいなくなったのだ。これで今まで抑えつけられていた自分の才能を生かす事が出来る。
その時だった。社長の体から声が発せられた。その次にピクリと体が動く。ナシモトとスズキはお互いを見合った。死んでいなかったという目をお互いがした。
「きゅ、救急車を」スズキがしどろもどろに言った。スズキの心の中でこの事態は複雑だった。殺さなくて良かったという気持ちが生まれたが、これからこの社長に受ける仕打ちの想像も生まれて来た。だが、人殺しよりははるかにマシだ。殺人未遂で逮捕されるかもしれないがやはり殺人よりはマシだ。
「待った」ナシモトは叫んだ。
「と、とどめをさそう」ナシモトは生唾を飲んだ。目は左右に激しく動いている。
「な、何を言ってるんだ、はやく救急車だ」
スズキは側にあった電話の受話器に手をかけたが、その手の上にすぐさまナシモトの手が乗って来て、スズキの手を抑えこんだ。
「駄目だ、この床に転がってるやつはこの世の中にとっていらない人間だ。ここまで来てなぜ引き返す。最後までやろう。こいつは本当に最低のクズだ。もし、今救急車を呼んでこいつが助かったとしても、君はこいつにどんな事をされるか解ったもんじゃない。もしかしたら命まで取られるかもしれない。こいつはそういう人間なんだ」
「こ、殺される?そ、そんなわけ・・・」
「ないとは思わないだろう、君も良く知っているはずだこの男の人間性をこいつは親父が社長だっただけで今の地位に座っているクズだ。自分の気に入らない才能のある人間にはことごとく冷たく接し、才能のないゴマをする事だけしか出来ないようなくだらない人間を側に置いて、まるで殿様気分だ。そんなやつが自分に危害を与えた人間に対してどう思うと思う。しかも自分に危害を与えた人間がいつも自分が馬鹿にしてクズのように扱っていたやつにだ。こいつは親父の付き合いから暴力団との付き合いも少しある。どうだ、解ったか君の危険性がこいつを生かしていては君の身が危ないのだ」
スズキはたじろいだ。そしてゆっくりと受話器から手を離した。
「よし、それでいい」ナシモトは親指をたてた。スズキはこんなときになんてやつだ、と思ったが、ナシモトの表情はとても冷静ではなく、焦りがいくつも見えた。きっとそれを抑えようとわざと、冷静な感じを装っているのだろう。
「しかし、とどめをさすっていうとどっちがさすんだ」
「いいか、我々は共犯だ。これから私がやることは君がやることと同じと思ってくれ」
ナシモトは転がっていた灰皿を拾い上げた。スズキは黙ってそれを見守る。転がっている社長に近づく。そして、灰皿を振り上げ勢いよく社長の頭を殴打した。ぐっという低い声が社長の体がした。
「よし、次は君がもう一発打つんだ」
ナシモトがスズキに灰皿を手渡す。
スズキはもう戻れない事を悟った。この男にもう全てを託すしかないと思った。うだつのあがらない自分の人生が今何か変わっていっているような気もした。スズキはこの危機的状況においてやっと自分の人生が開いているかのような気がしていた。もしこれで失敗して捕まってもいいとさえも思っていた。今自分の人生に意味を感じ取れた気がした。スズキはナシモトと同じように灰皿を振り上げ社長の頭を殴打した。もう社長の体からは何も聞こえてこなかった。だが、ゴンという社長の頭の頭蓋骨に当たる音は自分の人生の幕明けのような鐘の音に聞こえた。この音はもう一生忘れないだろうとスズキは思った。
「よし、これで君が二回、私が一回叩いた。最後に私がもう一回叩いておくとしよう」
そういうとナシモトはこなれたように社長の頭を再び殴打した。スズキはナシモトが叩いた音は自分の人生の幕明けの鐘の音ではないと思った。やはりあの音だけは特別なものだったのだと思った。自分にしか出せない音だと。
トランクに収められた社長の体はもう人間とは全く見えなく、マネキン人形のように思えた。ナシモトが勢いよくトランクのドアを閉めた。
「よし、ここまでは完璧だ。後は埋めるだけだ」ナシモトはぶつぶつと何かを思考しているようだった。おそらくこれからの行動をシミュレーションしているのだろう。
「よし」ナシモトが声を上げた。そして、
「後は私に任せてください」
「いいんですか?」スズキはうろたえた。
「はい、きちんと死体は処理します。我々はよくやりました」
「しかし、僕もちゃんと最後までやりますよ」
「いやいや、死体を隠すのは一番重要な仕事だ。一番見つかってはいけない。だからなるべく一人で行動すべきだ。そして我々はあんまり一緒にいない方がいい。誰かに見られてもし万が一でも関係を疑われれば厄介だ。だからここでお別れにしよう。あなたはこれから一生私の会社に近づかない事。出来ない事じゃない。やるんだ。じゃあ、お別れだ。お互い名前も知らないまま別れよう」
「こんな簡単でいいのか?この会社にはもっと多くの社員もいるだろう」
「ああ、だが、この社長がいなくなって、悲しむ人間はこの会社には一人もいやしない、喜ぶ人間はたくさん居てもね」
「しかし、そんな急に行方不明でもなったらさすがに」
「大丈夫だ。この社長は裏で汚い事をいっぱいやりすぎている、殺したがっていた人間なんて表にも裏にも山ほどいるだろう。行方不明になったってなんら不思議な事じゃないんだ。ではお別れだ。帰って酒でも飲むといい」
そう言うとナシモトは車でどこかへ走り去って行った。スズキは武者震いした。一体これからどうなると言うのだろう。もしこの事が明るみに出たら自分の人生はほぼ終わりだ。あの男は一体どこまで信用していいのだろうか。それにしてもさっきの自分は本当に自分だったのだろうか。何か不思議なものにつかれていたような、そんな心持だった。
スズキは歩き出した。足は震えていた。震えない方がおかしいというものだ。ゆっくり一歩ずつ歩き出し、さっきの出来事を何度も思い返した。今までの自分のうだつのあがらない人生から殺人を犯すという人がほとんど成しえない事をし、うだつの上がらない人生は幕を降ろした。
数歩先にコンビニがあった。スズキはそこでライターとタバコを購入した。スズキは学生時代に好奇心からタバコに手を出したが、煙たさからすぐに辞めそれ以来吸う事はなかったが、こんな時にはタバコを吸うものだという思いからタバコを吸うことにした。一本取り出しくわえ火をつけた。実に何年ぶりの感触だった。だが、以前吸った時の事はほぼ忘れており初めて吸うかのような感触だった。一気に肺に煙をいれ吐き出す。別に何も変わらなかった。もっと何か安心を得れると思ったが別に肺に煙を入れる前と後で何も変わらなかった。ただ、タバコを吸うという行為を行っただけだった。だが、少しスズキの気は紛れたのかもしれない。
空はもう夕暮れだった。一日がゆっくりと終わろうとしていた。今日が終わるという事実にスズキはホッとした。今日は終わらない気がしていた。それほど今日という日は特別な日な気がした。さっきから色々と考えていたが自首しようという気持ちは起きなかった。何故だかはスズキにも解らなかったが、それは違うと思った。それよりもこれはチャンスだと思ってさえいた。今までの自分から変わるチャンスだと。今日から頑張ろうと思った。やっとうだつの上がった自分の人生を逃してはならない。そんな気持ちだった。
翌日、スズキは会社に辞表を提出した。
まとめて読む
「社長いかがなさいましょうか」
「そうだな、ここの会社はコストは安いが仕事のやり方がどうも私は気に入らない。こっちの会社はコストは高いがしっかりと仕事してくれる。将来的な利益になるのはこっちの会社だろう」
「なるほど、おっしゃる通りです。解りました。こちらで事を運びます」
スズキは部下が去った後、ズシリと重い椅子に腰掛けた。ここまで来た。思えば長い年月だった気がするし短かったような気がする。どうにかこうにかここまで来る事が出来た。もう駄目だと思う時も何回もあった。だが、そんな時はあの日の事を思い出した。すぐさま脳内であの音が聞こえる。自分が始まりの音だと感じたあの音が。その音を思い出す度に私は頑張ろうと思ったのだ。一歩もう一歩と踏み出していけば、必ず目的地に辿り着く。
あの社長を殺した日からスズキはがむしゃらに生きた。全てのものと真剣に対峙し、うだつのあがらない人生から脱却した。そして、登りつめて登りつめて自ら会社を立ち上げその会社も軌道に乗せた。こうしてスズキ社長が誕生した。スズキは今やっと安息出来る地位にいた。一つ気がかりなのは今まで仕事の事しか頭に無かったので、妻を持つことが出来なかった事だ。しかし、それは仕方がないのかもしれない。今までの自分のうだつのあがらなかった時期の分を挽回したと思えばそこに恋愛だとか結婚だとかを入れる余裕は無かった。今の現状に不満があるわけじゃない。昔に比べれば自分の人生は劇的に変わった。だが、何か一つ足りないというか、まだ手にしていない、まだ自分のうだつはあがりきっていない。そんな気がしていた。
「社長」
秘書のマツナガが入って来た。マツナガは美人と言っていいほど顔立ちが良く、その品格の良い顔立ちにスズキは未だ慣れずにドキッとする事がある。
マツナガが自分の妻になれば。スズキは考えたがその答えそすぐに阻止した。いくら自分が変わったからといってもそれほど魅力があるようには思えない。そもそも、自分はこの会社の社長である、社長というものはもっと色恋沙汰には関係なくどっしりと腰をすえていなければならないものだ。
「社長、聞いていますか?」
「ああ、すまない」
「最近、お疲れのようですが、少しは休まれてはいかがでしょう」
「そうだな、少し仕事もひと段落したしな」
「今度の週末私とどこかへいきませんか?」
ベッドの中。眠るマツナガの横顔をスズキはぼんやりと見ていた。なんとも自分の人生は変わった。と何度も思う中で今その気持ちを強く感じていた。いいのだろうか。自分はこんな人生を送っていていいのだろうか。そんな気持ちが少しはよぎるがすぐに消え去っていく。今の自分があるのは自分が努力したからだろう。人間努力すればどこにでもいけるのだ。そう思うしか仕方があるまい。
数年後、スズキはマツナガと結婚し、子供も出来て、順風満帆な生活を送っていた。日々の早い流れから何もかもを忘れていた日。スズキの元に一人の男が現れる。妻も子供も外出しており、その男は突然家に尋ねて来た。
「スズキさんお久しぶりです」
スズキはその男を見た。だが誰かというのが解らなかった。その男の身なりはかなりミスぼらしくホームレスと間違われても仕方のないものだった。
「どうやら、俺が誰か解らないみたいだな」
男は微笑を浮かべながらスズキを見つめていた。その微笑からスズキにある男を想像させた。
「アンドウ!もしかして君はアンドウか?」
「そうです、アンドウです。何年ぶりですかねスズキさん」
「ア、 アンドウ。一体どうしたというんだ?」
「同窓生ですからね、たまには顔を見たくなるもんですよ」
アンドウは変わり果てていた。あの人生の鐘の音を聞いた日に見た、アンドウとは別人だた。高校時代に戻った。いや、それ以上にみすぼらしかった。
「いやあ、スズキさん、変わりましたね。こういっちゃなんだが、スズキさんは本当、見えなかった。僕の目には見えなかった」
「見えなかった?」
「そう、見えなかった。スズキさんは僕の目には映らなかったんですよ」
「どういうことだ?」
「スズキさん。僕とあなたは高校を卒業して以来、一回だけ偶然に街で出会ったというのを憶えていますか?」
スズキの心臓がドクンと動いた。
「ああ、憶えているとも。高そうな服を着て、高そうな車に乗っていたね」
「ふふふ、そうです。その時の僕はこの世の人口の半分ぐらいの人が見えなかった。もう目に映すのも邪魔で仕方なかったんです。だからスズキさんもその一人でした」
「あ、ああ、無理もないだろうね、あの時の私はとにかくうだつの上がらない男だったよ」
「ふふふ、そうです。うだつがあがらない、その通りです。でもね、スズキさん。高校時代は僕はあなたの姿だけはやたらとはっきりと見えていました。自分とそこまで変わらない、うだつの上がらなさだけなのに、持ち前の卑しさだけで、こびうり、ごますり、友達にしっぽを振って付いていってた、あなただけは私は本当によく見えていて、そして、憎悪の対象でした」
「酷い言われようだ」
「でもね、僕も高校を卒業して頑張りました、あれを教訓に頑張りました。そして、のし上りました。あなたの卑しさを真似て、様々なプライドを捨てました。そして、僕には見えない人間がいっぱい出来ました。あの時、スズキさんと偶然に再会した時もスズキさんは僕の目には映らなかったんです。全く何も変わっておらず、その卑しさで自分の首を絞めているかのような表情をしたあなたが、私は見えなかった。あの日飲んだ酒は格別のうまさでした。この世にあんなうまい酒はないでしょうね」
「でも、今の君はあの頃の覇気がまるで感じられないね」
「ふふふ、そうです。全ては砂の城でした。スズキさんを真似た卑しさだけでは砂の城を意地する事は不可能でした。私は一気に人の目に映られない人間になりました。私には本物がありませんでした」
「そ、それは辛かっただろう」
「ふふふ、辛かった?ふははははは、なんとも他人事みたいに言いますね。私を陥れた張本人が」
「アンドウ、それは言いがかりだろう」
「言いがかり?今こうやってぬくぬくと暮らしているあなたがよく言いますよ」
「私も私なりに努力したんだ」
「努力ですか・・・。素敵な奥さんと子供さんですね」
「ア、アンドウ、何を考えている?何をしにきたんだ?」
「ふふふ、今、僕は底辺を彷徨っています。底辺の世界には面白い話が一杯ありましてね、今日は一つその面白い話をスズキさんにしにきたというわけです」
「面白い話だと?」
「ふふふ、そうです。話というのはこうです。あるところに、一人の何の才能もなく、ただ大きな権力を持つ親の血を引いているだけの、誰からも嫌われる社長がいました。ある日、その社長はいつも嫌味をネチネチと言っていた、うだつの上がらない他の会社の人間に殺されて、どこかに埋められてしまったという話です」
スズキは動揺を隠せなかった。
「な、なんだ、その話は」
「ふふふ、面白い話でしょう?」
「な、何も面白くない」
「もう、とぼけるのはやめましょうよ、もうはっきり解っているんです。スズキさんが社長を殺したって事はね」
「そんな事はしていない」
「ふふふ、しらをきりますか」
「ああ、そんな事、身に覚えが無い」
「その社長を殺した日が僕とスズキさんが再会した日というのは憶えておいでですか?」
「な、なにを?」
「ふふふ、実はさっき底辺の世界の話と言いましたが、これは僕が自分の目で確かめた事なんですよ。あの日、僕はスズキさんと再会した日、スズキさんのことが気になりましてね、こっそりと後をつけていたんです」
「確かめただと?」
「ど、どうしたいんだ?」
「ふふふ、そうですね。とにかく、金です。別にこれは脅迫とかではないですよ。私に対する慰謝料を払ってもらうだけです。まずは一千万」
「まずは、だと?」
「そうです、スズキ社長には一生私のパトロンになってもらいます。私が警察に話して、何もかも無茶苦茶にされたくはないでしょう?」
「・・・」
「一週間後、また来ます。その時に最初の一千万。用意しておいてくださいね」
そう告げるとアンドウは不適な笑みと共に家を出ていった。スズキはアンドウが出て行くとその場に崩れ落ちた。
『まさか、あの事がばれていたとは』
そして、その後スズキのオフィスで首を吊ったスズキが発見される。
何が間違いだったんだろうか。
「そうだな、ここの会社はコストは安いが仕事のやり方がどうも私は気に入らない。こっちの会社はコストは高いがしっかりと仕事してくれる。将来的な利益になるのはこっちの会社だろう」
「なるほど、おっしゃる通りです。解りました。こちらで事を運びます」
スズキは部下が去った後、ズシリと重い椅子に腰掛けた。ここまで来た。思えば長い年月だった気がするし短かったような気がする。どうにかこうにかここまで来る事が出来た。もう駄目だと思う時も何回もあった。だが、そんな時はあの日の事を思い出した。すぐさま脳内であの音が聞こえる。自分が始まりの音だと感じたあの音が。その音を思い出す度に私は頑張ろうと思ったのだ。一歩もう一歩と踏み出していけば、必ず目的地に辿り着く。
あの社長を殺した日からスズキはがむしゃらに生きた。全てのものと真剣に対峙し、うだつのあがらない人生から脱却した。そして、登りつめて登りつめて自ら会社を立ち上げその会社も軌道に乗せた。こうしてスズキ社長が誕生した。スズキは今やっと安息出来る地位にいた。一つ気がかりなのは今まで仕事の事しか頭に無かったので、妻を持つことが出来なかった事だ。しかし、それは仕方がないのかもしれない。今までの自分のうだつのあがらなかった時期の分を挽回したと思えばそこに恋愛だとか結婚だとかを入れる余裕は無かった。今の現状に不満があるわけじゃない。昔に比べれば自分の人生は劇的に変わった。だが、何か一つ足りないというか、まだ手にしていない、まだ自分のうだつはあがりきっていない。そんな気がしていた。
「社長」
秘書のマツナガが入って来た。マツナガは美人と言っていいほど顔立ちが良く、その品格の良い顔立ちにスズキは未だ慣れずにドキッとする事がある。
マツナガが自分の妻になれば。スズキは考えたがその答えそすぐに阻止した。いくら自分が変わったからといってもそれほど魅力があるようには思えない。そもそも、自分はこの会社の社長である、社長というものはもっと色恋沙汰には関係なくどっしりと腰をすえていなければならないものだ。
「社長、聞いていますか?」
「ああ、すまない」
「最近、お疲れのようですが、少しは休まれてはいかがでしょう」
「そうだな、少し仕事もひと段落したしな」
「今度の週末私とどこかへいきませんか?」
ベッドの中。眠るマツナガの横顔をスズキはぼんやりと見ていた。なんとも自分の人生は変わった。と何度も思う中で今その気持ちを強く感じていた。いいのだろうか。自分はこんな人生を送っていていいのだろうか。そんな気持ちが少しはよぎるがすぐに消え去っていく。今の自分があるのは自分が努力したからだろう。人間努力すればどこにでもいけるのだ。そう思うしか仕方があるまい。
数年後、スズキはマツナガと結婚し、子供も出来て、順風満帆な生活を送っていた。日々の早い流れから何もかもを忘れていた日。スズキの元に一人の男が現れる。妻も子供も外出しており、その男は突然家に尋ねて来た。
「スズキさんお久しぶりです」
スズキはその男を見た。だが誰かというのが解らなかった。その男の身なりはかなりミスぼらしくホームレスと間違われても仕方のないものだった。
「どうやら、俺が誰か解らないみたいだな」
男は微笑を浮かべながらスズキを見つめていた。その微笑からスズキにある男を想像させた。
「アンドウ!もしかして君はアンドウか?」
「そうです、アンドウです。何年ぶりですかねスズキさん」
「ア、 アンドウ。一体どうしたというんだ?」
「同窓生ですからね、たまには顔を見たくなるもんですよ」
アンドウは変わり果てていた。あの人生の鐘の音を聞いた日に見た、アンドウとは別人だた。高校時代に戻った。いや、それ以上にみすぼらしかった。
「いやあ、スズキさん、変わりましたね。こういっちゃなんだが、スズキさんは本当、見えなかった。僕の目には見えなかった」
「見えなかった?」
「そう、見えなかった。スズキさんは僕の目には映らなかったんですよ」
「どういうことだ?」
「スズキさん。僕とあなたは高校を卒業して以来、一回だけ偶然に街で出会ったというのを憶えていますか?」
スズキの心臓がドクンと動いた。
「ああ、憶えているとも。高そうな服を着て、高そうな車に乗っていたね」
「ふふふ、そうです。その時の僕はこの世の人口の半分ぐらいの人が見えなかった。もう目に映すのも邪魔で仕方なかったんです。だからスズキさんもその一人でした」
「あ、ああ、無理もないだろうね、あの時の私はとにかくうだつの上がらない男だったよ」
「ふふふ、そうです。うだつがあがらない、その通りです。でもね、スズキさん。高校時代は僕はあなたの姿だけはやたらとはっきりと見えていました。自分とそこまで変わらない、うだつの上がらなさだけなのに、持ち前の卑しさだけで、こびうり、ごますり、友達にしっぽを振って付いていってた、あなただけは私は本当によく見えていて、そして、憎悪の対象でした」
「酷い言われようだ」
「でもね、僕も高校を卒業して頑張りました、あれを教訓に頑張りました。そして、のし上りました。あなたの卑しさを真似て、様々なプライドを捨てました。そして、僕には見えない人間がいっぱい出来ました。あの時、スズキさんと偶然に再会した時もスズキさんは僕の目には映らなかったんです。全く何も変わっておらず、その卑しさで自分の首を絞めているかのような表情をしたあなたが、私は見えなかった。あの日飲んだ酒は格別のうまさでした。この世にあんなうまい酒はないでしょうね」
「でも、今の君はあの頃の覇気がまるで感じられないね」
「ふふふ、そうです。全ては砂の城でした。スズキさんを真似た卑しさだけでは砂の城を意地する事は不可能でした。私は一気に人の目に映られない人間になりました。私には本物がありませんでした」
「そ、それは辛かっただろう」
「ふふふ、辛かった?ふははははは、なんとも他人事みたいに言いますね。私を陥れた張本人が」
「アンドウ、それは言いがかりだろう」
「言いがかり?今こうやってぬくぬくと暮らしているあなたがよく言いますよ」
「私も私なりに努力したんだ」
「努力ですか・・・。素敵な奥さんと子供さんですね」
「ア、アンドウ、何を考えている?何をしにきたんだ?」
「ふふふ、今、僕は底辺を彷徨っています。底辺の世界には面白い話が一杯ありましてね、今日は一つその面白い話をスズキさんにしにきたというわけです」
「面白い話だと?」
「ふふふ、そうです。話というのはこうです。あるところに、一人の何の才能もなく、ただ大きな権力を持つ親の血を引いているだけの、誰からも嫌われる社長がいました。ある日、その社長はいつも嫌味をネチネチと言っていた、うだつの上がらない他の会社の人間に殺されて、どこかに埋められてしまったという話です」
スズキは動揺を隠せなかった。
「な、なんだ、その話は」
「ふふふ、面白い話でしょう?」
「な、何も面白くない」
「もう、とぼけるのはやめましょうよ、もうはっきり解っているんです。スズキさんが社長を殺したって事はね」
「そんな事はしていない」
「ふふふ、しらをきりますか」
「ああ、そんな事、身に覚えが無い」
「その社長を殺した日が僕とスズキさんが再会した日というのは憶えておいでですか?」
「な、なにを?」
「ふふふ、実はさっき底辺の世界の話と言いましたが、これは僕が自分の目で確かめた事なんですよ。あの日、僕はスズキさんと再会した日、スズキさんのことが気になりましてね、こっそりと後をつけていたんです」
「確かめただと?」
「ど、どうしたいんだ?」
「ふふふ、そうですね。とにかく、金です。別にこれは脅迫とかではないですよ。私に対する慰謝料を払ってもらうだけです。まずは一千万」
「まずは、だと?」
「そうです、スズキ社長には一生私のパトロンになってもらいます。私が警察に話して、何もかも無茶苦茶にされたくはないでしょう?」
「・・・」
「一週間後、また来ます。その時に最初の一千万。用意しておいてくださいね」
そう告げるとアンドウは不適な笑みと共に家を出ていった。スズキはアンドウが出て行くとその場に崩れ落ちた。
『まさか、あの事がばれていたとは』
そして、その後スズキのオフィスで首を吊ったスズキが発見される。
何が間違いだったんだろうか。