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【一章 三節】

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 学園の門を出た後に、指先を、繋ぎ合わせた。

 こうしていると、気持ちが安らかになり、

 あまりにも穏やかで、眠たくなってしまう。

 考えることが面倒になり、意識が堕落する。

 思わず、力を篭めて、

 この愛しい十指を切り落とし、持ち帰りたくなってしまう。

(……いけない)
 自分を戒める。衝動を押し殺す。
 ここは街中で、人の衆目が自然に飛びかっている場所なのだから。
 どれほど慣れた手つきで鋏を扱っても、切り落とすことは叶うまい。たとえ上手くいったところで、彼女の指先が、私の物になるのは一日と持つまい。
 欲を出してはいけない。願わず、自然な態を保つのみだ。
 偶然に、しかし確実に訪れるだろう好機を、決して逃さぬよう、常に意識を配っていれば良い。
「………………」
 彼女が、なにかを告げている。
 私をみているようだ。至極、どうでも良かった。
 彼女の存在など、指先を除けば、単なる殻に過ぎぬ。
 興味など、微塵もわかない。
 彼女は、天使の指先の、余計な付属品である。
「………………」
 一切の対応を、外側の殻に任せることにした。
 中身の伴わない、殻の少女たちの会話が続く。
 絡めあった指先の、交わされる体温だけがあれば良い。

 ……。

 とても、あたたかい。

 ひどく、なつかしい。

 思えば、どうしてだろう。

 どうして、私は、母の指先しか愛せなかったのだろう。

 どうして、母は、父の眼球しか愛せなかったのだろう。

 どうして、私たちは、それでも一緒にいられたのだろう。

 一人は、怖かった?

 心細かった? 耐えられなかった?

 寂しかった? それとも理解したかった?

「………………」

 私が、母の指先を愛したのは。

 本当に、単なる収集欲だったのか。

 それとも、

「……?」
 彼女が、不思議そうに、私の方を見ている。
 外側の殻が、なにか失敗をしたのだろうか。
「…………」
 頬を、薄ら赤く染め、はにかむように笑うのは、何故だろう。繋いだ指先に、いつのまにか幾分、力が篭っていたせいかもしれない。これより、気をつけなくては。
「…………」
 何気なさを装い、見上げた空はよく晴れていた。
 梅雨の合間に晴れた今日。もうすぐ夏が来ることを思わせる、少し暑さを覚える一日だ。繋いだ指先はもう少しあたたかく、離れることを厭おうた。
 
 しかし、もう、時間が、ない。

 気持ちばかりが、急いてしまう。

 いっそのこと――――して、しまおう、か。

 かつて、私の母が、父を、そうしたように。

 見知らぬ、白い天井が見えた。
 自然と記憶を反芻し、辿っていた。ぼんやりした意識下でも、そうかからずに、自分が倒れた瞬間のことを思いだす。
(…… "切り裂き魔" ……)
 この小さな世間を賑わせている、犯人が零した【コトノハ】にあてられて、私は気を失ったのだ。
(……あれは、誰の、声……?)
 【コトノハ】は、声帯を震わせ、明確に耳を刺激する言葉とは違う。誰が発したものかは分からない。私自身が見ている目前で零れ落ちたり、その人物を思わせる、特定の固有名称などが無い限り。
(……天使の、指先……)
 背筋が冷たくなった。
 一人の、暖かいお日様のような、あの笑顔を思い出す。
(弥生先輩が……?)
 あの人が "切り裂き魔" に狙われている?
 犯人は、指自体に、強い執着を持っているように感じられた。そうして、天使の指先と呼ばれる、先輩の指に目をつけたのかもしれない。
(……でも、確か、先輩は……)
 壇上で言っていた。
 既に荷物はまとまって、来週にはもう、海外に留学することが決まってしまったのだと。
 そのことを、恐らくは――いや、確実に。
 犯人である "切り裂き魔" も、知っているのだろう。

 【コトノハ】が落ちていた場所は、高等部の音楽室だった。
 彼女が二年間弾きつづけた、ピアノの鍵盤の中だった。

  "切り裂き魔" は、弥生先輩のことを、私なんかよりずっと詳しく知っている。恐らくは、先輩にとても近しい人が、犯人だ。
(…………)
 一人、思い当たる。
 弥生先輩に対して、強い独占欲を発していた、あの人だ。
 校門の前でも『触れるな!』という【コトノハ】を発した、髪を茶色に染めた、高等部の先輩。
(確か、弥生先輩が『雛子』って呼んでいたような……)

 ……。

 考えて分かるのは、恐らくそこまでだった。
 何気なく、両手を伸ばしてみる。十指を翳すように広げ、特に意味もなく見つめていると、
「うむ? 目が覚めたのか、弐乃」
 広げた掌を掴む、もう一つの細い指先が見えた。それから耳に馴染んだ声も。
「……兄さん?」
「あぁ、大丈夫か」
 視界の中に、兄の端正な顔と、女性然とした、筋肉のない華奢な身体が浮かんで見える。
「兄さん」
 不意に、心臓が別の意味で急いた。ゆっくり上体を起こせば、「あまり無理はするなよ」と、こちらを気遣う優しげな声をかけてくれる。
「兄さん……」
 冷たくなった身体が、暖を求めるように。両手を静かに、彼の人に伸ばして、

「あっ、弐乃。起きたん? たこ焼きあるでー」
「むぐむぐ……たい焼きも……むぐ……あるわよ?」

 突き飛ばした。

「うぐっ!?」
 
 兄が盛大に吹き飛び、床に激しくぶつかった。まな板上の魚のように跳ねながら「腰がぁっ!」と、おかしな悲鳴をあげて悶絶している。涙交じりに、こちらを見上げた。
「いきなりなにをするのだ、妹よ!」
「そ、それは、私の台詞ですっ! ここは一体どこですかっ!?」
「前後の言動に脈絡がないのだが――」
「兄さんの馬鹿!」
「ぶっ!?」
 咄嗟に、手近にあった枕を投げつける。兄が再び床に沈む。
「まぁまぁ、落ちつきや。たこ焼きでも食うて。ほい」
 爪楊枝に刺さった、たこ焼き。
 反射的に口を開けて、ぱくりと食べると、
「……っ、あっ、つっ!?」
 とても、熱かった。
「んー、おもろい兄妹やなー」
「まったくねぇ」
 一体全体、なにがどうなってるのか、分からない。
 とりあえず、兄さんが、悪い!

 *

 幾分、落ち着きを取り戻した後で、状況を把握する。
 三玲さんと四葉さんのお二人が、倒れた私を保健室まで連れてきてくださり、自宅にも電話をかけてくれたらしい。
 そうしたらちょうど、家に兄がいて、ここまで来てくれた。そのついでに、たこ焼きとたい焼きを買って来させた、ということらしい。
 白い清潔なベッドから起き上がり、白衣を着た、保健の先生に頭を下げる。彼女の口元にもまた、僅かに餡子がついていた。
「もう大丈夫?」
「はい。ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」
「いいのよ。次は白餡もよろしくね」
 先生を含め、四人の方々にもう一度頭を下げて、保健室を後にした。

 バスに乗って、いつもの停留所で降りるまでの間、三玲さんと四葉さんに、体調を気遣われたことは嬉しく思ったのだけれど、
「弐乃って、やっぱり、お兄さんが大好きだったのねぇ」
「違います」
「目ぇ覚ました時、隠れとったらよかったな」
「違います!」
「はっはっは、そう照れるな妹よ、ぐふっ!?」
「殴りますよ!?」
 散々、兄との事を、冷やかされたりもした。

「ほな、またな、四葉ー」
「身体を大事にね。あと、お兄さんを殴るのは程ほどにね」
「ありがとうございます。また、月曜日に」
 手を振って別れ、二人の背を見送った。
 私もまた、兄と並んで帰路につく。
「良い友達だな」
「はい、お二人とも、とても良くしてくださります――というか兄さん」
「む?」
「どうして家に居たんですか。編集さんと打ち合わせではなかったのですか?」
 それが地味に、さっきから気になっていた。
「うむ、肝心の原稿を一部忘れてしまってな。家に取りに帰っていたら、ちょうど電話が掛かってきたという次第だ」
「……そんな事だろうと思いました」
「良いではないか。そのおかげで妹の大事に駆けつけることが出来たのだから」
「素直に喜べません。では、これからまたお仕事ですか?」
「いや、また後日という手筈になった。それより弐乃、本当に病院に寄らなくて大丈夫か」
 兄がもう一度、気遣わしげに私を見る。その視線に捕らわれていると、また別の意味で心臓が急きそうになる。慌てて目を逸らし、言葉を返した。
「……大丈夫です。いつもの、発作的な、あれですから」
「【コトノハ】か」
「はい」
 兄は、知っているし、疑わない。
 私が人には視えないものを、視る事を。
「親父と、初音さんもそうだったが。あまり、人の心を気負うなよ」
「……はい」
 亡くなった父と、それから母もまた、力を持っていた。
 兄だけが違う。だから、本心を言えば恐ろしかった。
「……恨んで、いますか?」
「なにをだ?」
 兄を視る。視線を交わす。【コトノハ】は零れない。
 瞬きを二つ、兄が、私の言いたいことに思い至ったように、苦笑を浮かべていた。
「弐乃は、頭は良いが、馬鹿だな」
「なっ!?」
「己は、お前まで失いたくない――と、言わねば分からんだろう?」
 兄に笑われてしまう。
 衝動的に持ち上がった手は、けれど何処も叩くことはできず、力なく下がっていくばかりだ。
「……兄さん、私は、」
「そうだ、弐乃。ついでだから飯を食って帰らんか?」
「……」
「うん? なにか言ったか?」
「いいえ」
(あぁ……本当に、もう、この人は……)
 隣にいるだけで、心の上下が忙しない。
「いいですけど、給料日前だということを、お忘れないように」
「うむ。お前も病み上がりであるしな、通りにある、うどん屋でどうだ」
「わかりました。お供させて頂きます。……それから、あの」
「どうした?」
「……あの、ですね……」
 自分の手と、彼の人の手を見比べて。
「いえ、お見舞いに来てくださり、有難うございました」
 結局は、【コトノハ】が一つ。
 自分の口元から、零れるだけだった。
11, 10

  


 土曜日の昼下がり、人がそれなりにひしめく通りの中を、兄と二人で歩く。
「うどん」と書かれた、赤い暖簾が下がるお店が目に入った時、兄が腕時計で、時間を確認した。
「二時前か」
「半端な時間ですね。準備中でしょうか?」
「なに、まだ大丈夫だろう」
 兄が格子戸の扉を横に開き、何度か来たことのある店内へと、足を踏み入れた。
「――いらっしゃいませ、二名様で?」
「うむ。奥の席でも構わんか?」
「どうぞ」
 昼食を取るには、少々遅い時間であるせいか、お客の姿は少なかった。奥にある広い座席に、兄と向き合う形で座る。
「ご注文はお決まりで?」
「己はきつねを一つ」
「私は、月見をお願いします」
「肉うどん、特盛り三玉。肉多め。可及的速やかに頼む」
 私の隣に、胡坐をかいて座る大きな人影。
 兄とは正反対の、大柄な体躯。顎にはびっしりと髭が生えていて、掘りは深く、いかにも男性的な逞しさに満ちている。
「……えっ、と」
 注文を取っていた店員さんが、困った表情を浮かべていた。
「……お客さま、三名様で?」
「おう! そこの『もやし男』と、こっちの可愛い嬢ちゃんとは知り合いでな!」
「黙れ貴様、相席を許可した覚えはないぞ」
 兄が珍しく、剣呑な雰囲気を醸しだしていた。しっし、と大型犬を手で追い払うような仕草を見せつける。
「あぁん? なんだ草一郎。てめぇ、元同期を無下に扱うんじゃねぇよ。つめてぇなぁ」
「五月蝿い。知的の欠片もないお前が、弐乃の隣に座るな。そもそも何処から沸いて出た。帰れ」
「何処から沸いたってお前、そりゃぁ人間、腹が減ったら飯を食いに現れるだろうがよ。この辺りで、安くて美味くて早いつったら、このうどん屋ぐらいだしな。刑事の薄給なめんなよ」
「知るか」
 早口でまくし立てられて、兄が心底不快そうな顔をする。
「弐乃、店を変えるぞ」
「私は相席でも構いませんよ。むしろ兄さんこそ、昔のお友達を無下になさってはいけません」
「おう! その通りだ! 弐乃ちゃんはいいこと言うな! 可及的速やかに見習えよ、草一郎!!」
「黙れ。そして誤解するな弐乃。己は断じて、そのような男を友に持った覚えなど――」
「……あの、すみません。ご注文は以上で宜しいですか?」
「おう! 可及的速やかにな!」
「はい」
 店員さんが素早く、逃げるようにこの場から離れていく。それを目で追って、露骨に大きなため息をついてみせる兄。
「どうした、なんか疲れてるじゃねぇか」
「誰のせいだと思っている」
「知らん」
「貴様のせいだ。熊田五郎(くまだごろう)。名が体を現す野生動物め。己と漢字が一字あってるのが、また許せん」
「そうか。ところでよ草一郎。まだつまんねぇ本を書いてやがんのか?」
「つまらないだと? 貴様如きに己の――」
「そうなんですよ、五郎さん。もっと言ってください」
「おうよ! この前、お前の新しいやつ読んだがな。まったくもって意味わかんねぇから、途中で何度も壁に叩きつけたぜ! 貴重な金と時間を返しやがれ!」
「なんだと――」
「凄いです。あれを、最後までよく読みましたね」
「おう! 事件の調査資料を、一字一句読み飛ばさず眺めるよか苦労したと思うぜ!」
「ぐっ……!」
 私は思わず、賞賛の拍手をしようとしたけれど、兄が机にしっかり突っ伏しているのを見て、やめてあげた。
 
 *

 運ばれてきたうどんに手をつけ、数分。
「ずぞぞぞぞー! ずぞぞぞぞーっ!」
 隣から、掃除機に吸い込まれるような音が、絶えまなく響き渡っていた。うどんの出汁は、大量の一味唐辛子で、血の池地獄のように、真っ赤に染まっている。
「……食欲が失せる……」
 向かいに座った兄が、げんなりした表情で、きつねのお揚げを齧っている。
「あぁん? なんか言ったか?」
「まったく……もう少し、ゆっくり食えんのか?」
「ずぞぞぞぞー!」
「聞けよ!」
「おう! 美味かったぞ! ご馳走さん!」
「……早すぎだろう」
 五郎さんが、紙折で口元を拭う。
 この方は現役の刑事さんで、ひきこもり癖のある兄の、数少ないお友達だった。
「まったく、てめぇは相変わらず小食だな。弐乃ちゃんのが、食ってんじゃねぇのか」
「余計な事を言うな。ほれ、食い終わったのであれば、勘定を払って捜査に戻れ。例の人物を探しているんだろう」
「おう、切り裂き魔、な」
 その名前に、背中を冷たいものが奔っていった。
(伝えるべきですよね……)
 犯人は推測に過ぎないけれど、犯人に狙われている事が、確実だと思われる、先輩の事だけでも。
「奴なら、既に昼前に捕まえたがな。夕刊にも載るはずだぜ」
「……え? 捕まった?」
 驚き、目を剥いた。
 反して兄は、何故か偉そうに、鼻を一つ鳴らすだけだった。
「あれだけ情報が出揃っていたら当然だ。むしろ遅いぐらいだろう。今朝――日が変わってすぐの新夜、四件目の事件が起きる前に、なんとかならなかったのか」
「あぁ、面目ねぇ」
 五郎さんの太い眉が顰められ、歯噛みする。
「新しく上についた奴が、能無しでな」
「言い訳か」
 低い、感情のない、声だった。
 次第に、兄の視線が鋭く、険しくなっていく。
「駒は黙って、非難の矢面に立っていればよかろうが」
「ちげぇねぇ」
 五郎さんが、口元だけを歪めて笑う。私はなんとなく居心地が悪くなり、視線を置いて、うどんを啜る。
「……兄さん。少々、言葉が過ぎます」
「む」
 顔をあげると、苦渋の表情を浮かべて、兄もまた、うどんを口にしていた。
「そうだな、すまん、言い過ぎた」
「かまわねぇよ。久々に "冷凍人間" の叱咤が聞けて満足だ」
「昔のことを持ち出すな。だから貴様と食事をするのは、嫌なんだ」
「たまには言いだろうがよ」
 五郎さんが屈託なく大声で笑うと、兄もまた「やかましい奴め」と、憎まれ口を叩いた。
「うっし! じゃあ行くわ。まだ聞き込みが残ってるんでな」
「お忙しいのですね」
「おう! そこの暇な物書きにも見習ってほしいぜ」
「余計な世話だ。しかし切り裂き魔が一息ついたら、また次か。年中、休みが無いな」
「いや、切り裂き魔についての聞き込みなんだがな」
「え? 既に犯人は捕まえているのでしょう?」
 聞くと、また渋い顔をしてみせる。新しい上司の方を、能無し呼ばわりした時と、同じように。
「……弐乃ちゃん。もう少し気をつけておいてくれや。夜道、いや、昼間でも人通りのないところは、一人で歩かねぇ方がいい」
「え?」
「おい、あまり脅すな。なんだ、また新しい阿呆が出てきたのか。それとも捕まえた奴が "シロ" だったのか?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだが。驚かせてすまん。じゃあよ、行ってくるわ!」 
「あっ、はい、お気をつけて」
「おうよ!」
 五郎さんが、伝票を取り、大股で歩いていく。
 店の外に消えていく広い背中を見送った後で、兄が、私の方を見た。何が言いたいのかは、自然と分かった。
「弐乃、あの馬鹿は "なにを言いかけた" ?」
「はい。<――半分は "クロ" なんだがな――> と……」
「そうか、やはりな」
「兄さん、もしかして、」
「うむ。あいつの言う通り、人通りのない道を歩く時は、少々、気をつけておいたほうがいいだろう」
「えぇと……つまり犯人は、灰色ということですね?」
「……ん?」
 盛大に、首を傾げられてしまった。
「あ、あれ、違うのですか? 犯人は灰色の服を着ているとか、灰色の髪染めをして、偽装していたという意味では……」
「弐乃」
「はい」
「お前は頭が良いが、やはり馬鹿かもしれん」
 兄がお腹を抑えて、くつくつ笑う。
「まったく、食後だというのに」
「わ、笑わないでくださいっ!」
 なにか、とっても納得がいかなかった。
 帰りに買い物をして、重たい荷物をたくさん持たせて差し上げようと、心に誓う。 
 

 夕刻。

 台所に立ち、ご飯の支度をしていると、格子扉が開く音が聞こえてきた。玄関のほうからだった。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい、兄さん」
 少し買い物をしてくると告げ、子一時間ほど、家を開けていた兄が戻ってきた。
「もうすぐご飯できますから。後で器を運んでくださいね」
「うむ、わかった」
 廊下を挟み、開けたままにした襖の向こう側。
 食事をする定位置に腰を下ろし、ちゃぶ台の上に新聞を広げていく兄の姿が映る。
「夕刊を買ってこられたんですか?」
「そうだ」
「…… "切り裂き魔" の記事があったら、後で私にも見せてくださいね」
 私が言うと、兄が少し眦を持ち上げた。少し驚いているような顔をしていたかもしれない。
「どうした、珍しく鋭いな」
「珍しく、は余計です」
「それはすまない」
 意地悪く笑い、それからすぐに真剣な表情に戻って、新聞の活字に目を戻していく。

 ----

  "切り裂き魔" 逮捕。

 四件の傷害事件を起こした人物が、
 本日正午、県警により身柄を拘束されたとの報告。

 犯人は、○○町に住む、無職・三十台後半の男性。
 腕には薬物中毒の跡があり、言動のすべてには正
 確な裏付けがとれないものの、三件目の事件の際
 に多くの目撃証言があったことに加え、容疑者の
 宅内の裏手に、真新しい血糊がこびり付いた【鉈】
 が放置されていたことから、身柄を拘束。
 鑑識の結果により、血糊は本日の早朝に起きた、
 四件目の被害者である女子学生のものと一致した
 という。 

  "切り裂き魔" の異名がつけられるに至った、
 一件目、二件目の事件の被害者である、赤子の手
 首は宅内からは見つからず、県警では引き続き、
 犯人と事件との関連性を捜査していく見込みだ。

 ---

 夕食後、新聞記事におおまかに目を通した後で、私は向かいに座る兄へと告げた。
「兄さん」
「うむ。やはり夏は西瓜だな。まだ季節物には早いが、これも充分に甘くて美味いぞ」
「……ちょっと、食べる手を止めてくれませんか?」
「うむ」
 兄が切り分けた西瓜から手を離す。
 種はあらかじめ箸で几帳面に取り除かれており、ぼこぼこに穴だらけになった物を、やはり箸で切り分けて食べている。
「それで、どうした?」
「お昼に五郎さんの【コトノハ】が告げていた、半分クロということの真意です。つまり真犯人が、この新聞記事とは別に、もう一人いらっしゃるということですよね?」
「近いが、正確ではないな」
「勿体ぶった言い方をしないでください。兄さんの悪い癖ですよ」
「……いや、割と素直に言ったつもりだったのだが……」
 少し気まずそうに、頬をかく。
「俺の予想に過ぎんが、恐らく三件目、および四件目の犯行の人物については、単なる【模倣犯】にしか思えん」
「もほうはん?」
「うむ、記事に載った犯人は、三十台後半で無職の男だろう? 
 仕事を解雇され、途方に暮れていた時に、薬物を常習するようになったが金がない。消費者金融、闇金へと手をだすようになり、首が回らなくなる。切羽詰まり、刃物を持ち、一般人から金銭をせびろうとし――」
「……兄さん、妙に詳しいですね?」
「五郎や、編集部の情報通から聞いた話に、己の想像を少々混ぜている」
 兄が、熱い緑茶に口付ける。
 軽く一息をついて、話を続けた。
「阿呆で馬鹿で間抜け。薬物を常習していたせいで、冷静な判別のつかなくなった男は、世間を賑わせている "切り裂き魔" の名を出せば、被害者が怯えて、金を出すとでも考えたのだろう。失敗したところで、素直に自首をしていれば罪も軽くなったというのに、さらには女子学生を襲い、凶器となった鉈で切りつけた。自業自得だ」
「でも、兄さん」
「む?」
「その話は、いくらなんでも曖昧に過ぎます。他にも【模倣犯】だったという、根拠があるのでしょう?」
「まぁ、そうだが……」
 兄が気まずそうに、視線を逸らした。
「あまり、お前に聞かせるような話では、ないしな」
「構いません。それに私からも、兄さんに伝えておきたいことがあるんです」
「なにをだ?」
「犯人が別にいて、まだ捕まっていないのであれば。私、その犯人を、知っているかもしれないんです」
「昼間、倒れていた理由はそれか」
「……はい。私の学園に "切り裂き魔" が居るかもしれません」
「それは生徒か?」
「……たぶん。確証は、ないのですが」
「ふむ」
 兄の洞察力には、時折、驚かされる。彼の人が描く物語は、まったくもってつまらないというのに、妙なところで鋭い想像を浮かべるのだ。
「気分が悪くなってきたら、すぐに言え」
「はい」
「では、最も大きな疑問からいくか。切り裂き魔が、赤ん坊の手首を切り落とした凶器は、どんなものだと推測する?」
「え? 刃物なのでは……? 鉈は……?」
「それは模倣犯が用いた物だな。そして、模倣犯たらしめる物の一つだ。鉈が宅にあったのか、買って来たのかは知らんが、赤子の手を切ったのは、少なくとも鉈ではないと想像する。たとえばお前なら、どうやって鉈を用いる?」
「……それは、こう……振り下ろして……ずばっ、と」
 私は片腕をあげ、それを垂直に落としてみせた。
 それで赤ちゃんの手首を切ったと考えると、やはり厭な想像だった。
「弐乃は、その時の、赤子の状況を覚えているか?」
「……え?」
 今度は、なんのことかよく分からない。
 すると兄が、別の新聞の切れ端を、差し出した。

 ---

 五月某日。

 日中の公園、赤ん坊の手首、切り落とされる。

 先日、公園内で、ベビーカーに乗った赤ん坊
 の手首が切り落とされるという、凄惨な事件
 が起きた。現場は円型状の小さな公園であり、
 中央には、人工の池が設置されている。
 事件は、母親が湖の対面にある自動販売機に、
 飲み物を買いに向かった、僅か数分の間に発
 生した。
 母親は、赤ん坊の悲鳴を聞いて振り返ったが、
 その時には既に、犯人は逃亡しており――

 ---

「最初の事件の切り抜きだ。以降は読まなくても構わん。ここでの問題は、被害者である赤子が、乳母車、ベビーカーに乗っていたということだ」
「それが、問題なんですか?」
「うむ。五郎に尋ねて、同じ物を見てきたのだが――」
「なんだかんだで、随分と首を突っ込んでるんですね、兄さん」
「そこは流せ。ともかく、これは中々に過剰な代物だったぞ。両側面には、通行人と接触しない為の衝立があり、上には日除け用の傘があり、赤子は落ちぬよう、両肩から斜めに交差したシートベルトが、かけられるように出来ていた」
「それでは……」
「そうだ。とても赤子の手首めがけて、上から力を込めて、"振り落とす" というのは不可能なのだ。さらに言えば、赤子を乗せるための物であるから、横幅も狭い」
「実際には、小型のナイフだったとか?」
「いや、赤子の手首は、位置的に膝の上に乗せられていることだろう。犯人は中腰になって、正面斜めの位置から、不安定な手首を押しつける形になって切らねばならん。赤子の骨が未熟といえど、これは少々厳しいだろう」
「……」
「さらに言えば、切断面は非常に鋭利であり、鋸の類ではない。台座となる赤子の膝上も無傷だったそうだ。そこで、候補に挙がる凶器の一つとしては、」
 兄が一息おき、私の顔を見つめる。
「鋏だ」
「……はさみ、ですか……」
「鋏の刃を手首の下に滑りこませ、それから両手で二つの柄を掴み、力を込めて切断する。特殊な物になれば、金属ですら切り落とせる物もあると聞くが、そこまでの物でなくとも、伐採用の鋏でもあれば、赤子の手首ならば切り落とせるだろう。それからもう一つ、赤子の状況だ」
「ベビーカーに乗っているんですよね?」
「うむ。犯行時に赤子は『快適な空間』で横になっていたともいえるな」
「眠っていたのですか?」
「かもしれぬ。それ故に母親の気も緩んだのだと推測しようか。さらにこう想って離れたのかもしれん。『赤ん坊の目が覚めないように、池の対面にある自販機まで、飲み物を買ってすぐに戻ってこよう』とな。
「……」
「犯行が起き、手首が切り落とされる。しかし赤子が目を覚まし、悲鳴をあげるまでには僅かな時間があっただろう。この隙を狙い、犯人は逃走した。残る手首を切断するのは、時間が足りないと判断した、というわけだ」
「それは……一応、筋は通るかもしれませんが……」
「あまりにも危険だろうな。不確定要素を挙げれば切りがなかろう。もっているだろう。だが、立て続けに二件もの事件を起こして捕まらなかったのは、一重に幸運だけとも言えぬのが事実だ。可能な限り機会を覗い、犯行が可能だと思えた瞬間には、自然と行動に移る。 "切り裂き魔" は恐ろしく大胆であり、同時に冷静な人物だと己は思う。しかし手首を切り落とした以外の事件は、あまりにも衝動的な要因が、露骨に見え隠れしすぎているのだ。すべての事件が同一犯であるとは思えんのは、そのような理由からだ」
「では……何故、赤ちゃんの手を切ったのでしょうか……」
「それは、己にもわからん。赤子であったのは『切りやすいから』という理由で、単に『手首』を手に入れたかっただけかもしれん」
 そんな、理由で。
「……理解できません……」
「そんな物だ。人の趣味・思考などは大概、わかる者にしかわからんのだよ。己の小説もまた然り、だ」
「いえ、兄さんの小説は、本当に面白くありませんから」
 それだけは、私にも判る。
13, 12

五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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