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【去年 五月 弐】

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 思った通り、元々薄いこともあるが小説は1時間半を過ぎたくらいで読み終わってしまった。現在5時半。まだ夕食の準備にしても少し早すぎる時間だ。
「もう一冊読もうかな」
 短編集の一、二編くらいなら読めるだろう。
 そう思って、私は階段を上った。
「あれ」
 上り終わると、私はあることに気付いた。
 ドアが開いている?
 私の部屋ならば閉め忘れたのかもしれないが、なぜこの部屋のドアが。
 階段から一番近い部屋。すなわち、お姉ちゃんがいた部屋のドアは私を招くように開いたり閉まったりを繰り返す。
 入ってみると、どうやら窓を閉めていなかったみたいだ。風のせいで緩く閉まっていたドアが開いてしまったらしい。
「閉め忘れてたのか。今度から気をつけよう」
 もっとも、泥棒が入っても盗まれるものなどないが――と自虐してみる。応答などあるはずもない。まさか思い出を盗むなんてことはしないだろうし。そんな奴がいたら逆に差し出したいくらいだ。
 カーテンが揺れわずかに光が差し込むと、フローリングにしてはやけに鮮やかな紅が映し出される。
 その紅がなんなのか、私は知っている。知りすぎるほどに知っている。
「……っはぁっ。はぁっ」
 知らぬ間に、私は膝をついていて、呼吸はぜいぜいと切れていた。全身に汗が吹き出している。寒気がしてぶるぶると震える。
「忘れるはずないじゃない、お姉ちゃん……」
 私は独り言を言った。
 何が起きたのかと言えば。
 思い出泥棒が居たのなら真っ先に持って言って欲しいと断言できる記憶が、ビデオのごとく再生された。この場所で起こったこと。この家で起こったこと。失ったもの。そしてその結末。
 脳という保存領域が壊れてしまわない限り劣化しない。けれどそれ以上に鮮明に目も、耳も、鼻も、肌も。舌さえもがあの時の空気の味を覚えている。ならば一番良いたとえとしては時間が巻き戻って再び繰り返しているようと言った方がいいかもしれない。
 何より、ビデオで撮るのは所詮自分以外が演じているドラマだ。私が体験した話でもなく、自作した物語でもない。
 けれど頭に残るこれは他の誰のものでもなく、私自身の、過去という事実。
 消そうとしても、消えてはくれない。
10

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