ギリシア神話でパンドラの箱に最後に残ったものが希望だった。
井上は最後の瞬間それに気付いて、
希望は残っていると言ったのか、まったくの偶然だったのかは、
今となっては分からないが、井上の執念がなしたものとしか思えない。
だがクロスワードパズルが解けたのはいいが、いったい何が犯人の手がかりになるのか分からない。
33手目、ついに問題児の佐野が動いた。
柳田の指示を仰がずに犯人側のナイト役のいるf5のマスに向かって突進した。
佐野はすぐに怪しい男に目星をつけた。
グレーのスーツに涼しげな青と白のストライプのネクタイ、
黒い大きめのカバン、一見すると特に怪しいところはみられない。
しかし、佐野は男の靴が汚れているのを見逃さなかった。
これだけ清潔感のある身なりをしていると靴だけ汚れているのは
かえって目立つ。
セオリー通り職務質問すると、男はすぐに目をそらし無視して通り過ぎようとした。
間違いない黒だ。
即座に判断して手首をつかむと、
つかんだほうの右袖のひじの内側あたりに痛みが走った。
静電気だと思ったが、犯人の右手に握られていたものを見て間合いを取る。
注射器。
佐野のスーツの袖に小さな穴が開いている。
どうやら服の上から刺されたようだ。
「何を刺した。」
男はなにも答えない。
そして逃走をあきらめ飛び掛る。
佐野は懐に忍ばせておいたさすまたで男の右手首を土塀の壁面に押し付けた。
「確保。」
普通さすまたは抑えやすい胴体を狙うのが一般的だが、手に持った注射器で自殺を
図られるのを防ぐためにあえて佐野は右手首をねらったのだ。
しかし、その心配は無意味だった。
男はパトカーで護送中死んだのだから。
後に検死の結果により遅行性の毒によるものだと明かされるが、
佐野はその事実をまだ知らない。
いや、永遠に知ることはなかった。
佐野が腕をまくると刺されたところが、赤くはれていたが
体に不調もなかったので、特に気にしなかった。
「佐野、てめぇかってに動いてんじゃねーよ。
皆だって動きたいのを我慢してるんだぞ。」
さっそく内藤が無線で怒鳴りちらしてきたが、
佐野は怒られ慣れているので意にも介さない。
「まぁ、犯行グループのひとりを生け捕りにできたし、
犯人も気付いてないみたいだし、結果オーライっすよ。」
確かに犯人からは何も言ってこない。
内藤が疑った駒以外の監視役の人間などいないのかも知れない。
35手目先手、Bxd6。
つまり犯人側がビショップでd6のマスにある警察側のナイトの駒を取ったのである。
ここにいるナイトの駒の役は一文字。
一文字もまた死の瞬間から逃れられない。