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一章

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 あるところに、ネルという名の少女がいました。
 おさないころに両親を失った彼女は、あまり仲のよくない叔母の家で毎日ひっそり暮らしています。貧乏な家で、娯楽もなく、おまけに友達もすくないので、ネルはいつも退屈です。
 ネルの退屈をまぎらせてくれるのは、父親の残してくれた百冊ぐらいの絵本。それと、たまに(誕生日とかに)買ってもらえる絵本だけです。

 ある日、ネルはふしぎな夢を見ました。
 なんだか白いヒゲをはやした神様みたいな人が出てきて、こう言ったのです。
「あなたがいつも絵本を愛してくれるお礼に、ちょっとした魔法をかけてあげましょう」
 一瞬、びくっとするネル。カエルにでもされるのかと思ったのです。
「こわがらないで。あなたにかけてあげるのは、絵本の中身を現実にする力です」
 ああこれは夢なんだな、と思うネル。
「目をさましたら、好きな絵本の好きなページをひらいて、表紙をたたいてみなさい。そこに描かれたどんなものでも、現実になります」
「なんでも? ほんとうに?」
「はい。ただし、この力が使えるのは五回だけです。よく考えて、慎重に使ってくださいね」
 ネルがうなずくと、ヒゲのおじさんは消えてしまいました。

 目がさめると、ネルは半信半疑で一冊の絵本を手にとりました。
 どうしてその本をえらんだのかというと、それが童話作家だった父親の残した最後の作品だったからです。もう何百回読みかえしたかわかりません。それぐらい気に入っているのです。
 ネルは見開きいっぱいに絵の描かれたページを開いて、それを下に向け、表紙を指でたたきました。
 一瞬、なにも起こらなくてガッカリするネル。
 しかし、すぐさま異変に気付きました。風を切るものすごい音が窓の外から聞こえて、次に雷みたいな吠え声が響きわたったのです。
 窓の外を見ると、ネルの希望どおりのものが空を飛んでいました。
 竜です。
 それも、真っ黒な巨体に悪魔のような翼をもった、邪悪な竜でした。

 どうしてそんなものを選んでしまったのか、ネル自身にもよくわかりません。
 けれど、その恐ろしい姿を見た瞬間、ネルは心を奪われたような気がしました。
 この悪竜なら、きっと私の退屈を粉々にふっとばしてくれる。そう思ったのです。
 実際、そのとおりになりました。
 竜は最初の咆哮を終えると、おおきく息を吸い、真っ赤な炎を吐き出したのです。
 滝のように注がれる炎が、いくつもの家々を焼き払い、人々を消し炭のようにしました。
 たちまちのうちに、街はパニックです。

 さすがにネルも青ざめました。いくら退屈をふっとばしてくれるといっても、これはやりすぎです。
 どうにかしようと思うネルですが、どうすることもできません。
 見ると、悪竜の描かれていた絵本のページは真っ白になっています。どうにかして、竜をここにもどさなければ──。しかし、そんな方法わかるはずありません。
「そうだ! 退治すればいいんだ!」
 あわててページをめくり、ネルは竜退治の英雄が出てくるところをさがしました。
 絵本の中で竜をやっつけてくれる英雄ですから、たよりになるのは当然です。

 表紙をたたくと、まるで魔法みたいに(まちがいなく魔法なんですが)甲冑姿の若者があらわれました。見上げるほど大きくて、腰には竜殺しの宝剣が吊りさげられています。
「……どこだ? ここは」
 事情がわからず、きょろきょろする若者。
「説明してるヒマはないの。わたし、まちがって竜を呼び出しちゃって……!」
 ほんとうはまちがったわけではないのですが、まさか退屈しのぎに竜を呼び出したとか言えるはずありません。
「わかった。竜を倒せばいいんだな?」
「うん。できるよね?」
「もちろん。それが俺の仕事だからな」
 絵に描いたような(実際描かれていたんですが)タフガイぶりに、ネルも大喜びです。

「いそごう。こうしている間にも、無垢な人々の命が次々に失われていく」
「……え? わたしも行くの?」
 ネルはあわてました。彼女にできるのは絵本に描かれているものを現実にするだけで、竜と戦うことなんかできません。
「俺の存在は、キミの意思によって生まれている。キミがいなくても戦うことはできるだろうが、近くにいてくれたほうが力が出るようだ。無理にとは言わないが、ついてきてくれると助かる」
 かっこいい英雄にこんなことを言われて顔が赤くならない少女なんかいません。
「わかった。いっしょに行くよ」
「ありがたい。俺の名前は……」
「シグルドでしょ。知ってるよ。わたしはネル。よろしくね」
 ふたりは握手をかわし、こうしてネルの退屈な日々は終わりをつげたのでした。
 外へ飛び出すと、そこは地獄のようなありさまでした。
 逃げまどう人々。燃えさかる建物。街のいたるところから火の手が上がり、晴れわたる朝の青空を真っ黒な煙でおおいつくしています。
 竜が呼び出されてから、まだほんの数分。だというのに、街では何千人もの命が奪われていました。まさに、悪竜の名に恥じない殺戮ぶりです。

「どうするの、シグルド」
 ネルが問いかけました。
「どうもこうも、奴を殺すだけだ」
「でも、あんな空高くにいたんじゃ、剣もとどかないよ」
 ネルが指差す空の、ずっと高いところを竜は飛んでいます。剣どころか、弓矢だってとどきそうにありません。仮にとどいたとしても、かたいウロコに弾きかえされるのはわかりきっています。
「奴も、ずっと飛びつづけられるわけじゃない。それに、奴の行き先は大体わかる」
「どこなの?」
「城だ。竜という生きものは、秩序を破壊し、世界を混沌に落とすことを本能としている。奴はまちがいなく王を殺そうとする」
「そういえば、絵本の中でもそうなってた」
「まにあえばいいが……」
 甲冑の重さを感じさせない身軽さで走りだすシグルド。その大きい背中を、ネルは必死になって追いかけました。
 このときネルが感じたのは、とてつもない解放感。そして、胸おどる冒険感でした。

 竜はネルたちのことなど気にもかけない様子で、街に火を放ち、人々を殺しつづけました。まるでそれだけのために生み出されたみたいに、竜は殺戮の本能をむきだしにしています。
 竜がようやく落ち着いたのは、街の半分以上が灰になったあとでした。
 竜は赤と黒に塗りこまれた一面の焼け野原を見下ろすと、満足げに首をうなずかせて悠然と羽ばたきました。向かう先は、王様の住んでいる城です。シグルドの言ったとおりでした。
「あ、ホントだ。お城のほうに向かって飛んでる」
 走りながら、ネルは空を見上げました。やっぱりシグルドはたよりになりそうです。
 けれど、問題がありました。城まではとても遠くて、歩いて行けるような距離ではないのです。すくなくとも、川をふたつと山をひとつ越えなければなりません。
 もちろん、空を飛ぶ竜にとっては川も山も単なる景色にすぎないわけですから、ネルたちの足とは比べものになりませんでした。

 竜は楽々と王城に襲いかかると、有無を言わさぬ残酷さで王と臣下を皆殺しにしました。
 兵隊たちはそれなりに奮戦しましたが、けっきょくのところ竜のウロコにはキズひとつ付けることさえできませんでした。ただの人間が竜に勝てるはずなどないのです。
 王が殺されたというしらせは、たちまち国中に広まりました。
 人々は大混乱です。
 でも、混乱することができる人は、まだしあわせでした。だって、それは生きているということですから。
 竜は廃墟同然となった王城に住みつき、気が向くと街を襲って人々を殺すという、まさに物語の世界そのままの邪悪ぶりを見せつけて、すべての人々を恐怖と絶望の淵に突き落としました。中には剣や弓をとって抵抗する勇気ある人たちもいましたが、そういう人は例外なく返り討ちにされました。
 あまりに一方的でした。ネルが魔法の力で竜を呼び出してから、わずか三日でこの国は滅亡の危機に立たされようとしていたのです。
2, 1

  

 ネルとシグルドのふたりが城にたどりついたのは、ことが始まって四日目のことでした。
 シグルドひとりなら半分の日程ですんだところですが、彼にとってネルの存在は欠かせないものだったのです。ネルの魔法によって生まれたものは、ネルが近くにいるほど力を得るのですから。
 もちろん、シグルドは馬鹿ではありません。だから、ネルの存在が竜の力にも影響があることは予想していました。
 そして、彼はもうひとつの事実も予想していました。
 けれど、その事実はあまりに残酷なので、シグルドがそれを明かすことはありませんでした。いったい、だれが言えるでしょう。ネルが死ねば竜もシグルドも死ぬに違いない、などと。

 ネルたちが到着したとき、城は死んだように静まりかえっていました。
 数日前までは大陸随一の繁栄を誇っていた城下町も、いまやすべてが灰と瓦礫の下です。
 シグルドは慎重に剣をかまえ、注意を払いながら城の中を進みました。
 貧乏暮らしをしていたネルにとって、城の中は見たことのないものばかりです。東洋風の調度品、ペルシア風の織物、金銀の散りばめられた装飾品などなど。どれを見ても、目のくらむような思いでした。
 いくつかもらって帰ろうかなと考えるネルでしたが、清廉潔白な英雄シグルドがそばにいるのでは、そんなことできるはずもありません。だいいち、悪竜との戦いを間近にひかえて、よけいなものを持っている余裕などあるわけもないのでした。

「よく来たな、宿敵シグルド。そしてネルよ」
 ふたりが王室に踏みこむと、そこに待っていたのは浅黒い肌をした青年でした。
 これが悪竜の変化したものだということぐらいは、ネルにもわかります。絵本の中でも、邪悪な竜は人間の姿に化けて人々をだましていたのですから。
「ずいぶん暴れてくれたようだが、今日をもって貴様は絵本の世界に退場だ」
 すらりと剣を抜いて、シグルドが言いました。
 ククッと笑って、悪竜が答えます。
「絵本の世界では、決められた結末しか訪れない。だが、この世界では違う。英雄シグルドの勝利は約束されてはいない。絵本の世界でルールを決めたのはネルの父だが、この世界でルールを決めるのはネルだ」
「ならば、俺の勝利は約束されたも同然だ」
「どうかな」

 一瞬のうちに、悪竜の姿は人間のものから竜本来のものにもどりました。
 雄叫びをあげて、シグルドが斬りかかります。
「おろかな英雄よ。灰に帰るがいい」
 竜が顎を開くと、そこからマグマのような炎のかたまりが吐き出されました。
 まともに受けたら、灰も残らないほどの火炎です。しかし、シグルドの手にした剣──竜殺しのグラムが、炎をまっぷたつに裂きました。左右に割れた火流の間を、シグルドは一直線に突進します。
 すさまじい竜炎でした。王室の端まで避難しているネルにも、その熱が伝わってくるほどです。
 なにもかも、絵本で見たのと同じ展開でした。あらゆるものを灰にする竜の炎ですが、ただひとつ宝剣グラムだけは焼くことができないのです。この剣こそ、英雄シグルドの、英雄たる象徴でした。

 やっぱり、こうなっちゃうんだ。シグルドが勝って竜が殺されて──
 痛いような胸の中で、ネルが思った、その瞬間でした。シグルドの足が止まり、グラムの切っ先が震えて、炎の流れが太さをとりもどし、そして──。
 まるで紙切れみたいに、英雄シグルドは灰になって崩れ落ちたのでした。

「うそ……」
 呆然として床にヒザをつくネル。
 シグルドが負けるなど、あってはならないことでした。絵本の中で、彼は常勝無敗だったのです。あたりまえのことですが。
「礼を言うぞ、ネルよ」
 恐ろしい姿のままで、悪竜は言いました。
 あまりの結末に、ネルは声も出ません。
「私が勝てたのは、おまえのおかげだ」
 なにを言っているのか、ネルにはまったくわかりませんでした。
 それを察したように、竜が説明します。

「私たちは、おまえの意思によって生かされている。おまえの中にある反逆の精神こそ、我が力の源泉だ。宿敵シグルドの力は、おまえの持つ正義の力そのものだろう。……そして、私が勝利した。これがどういうことか、聡明なおまえには理解できるな?」
「……わたしが、あなたの勝ちをのぞんだってこと?」
 あってはならないことでした。けれど、言葉にしてみるとネルにとってそれはあまりに自明なことだったのです。
 たくさんの絵本を読んできたネルには、わかっています。物語を動かすのは、秩序や平穏ではないということ。どのような物語にも、その根底には争いというテーマが存在していて、『悪』がいなければ成り立たないということを。
「私には、最初からわかっていた。この勝利が」
 言うのと同時に、悪竜は人間の姿に化けていました。精悍な顔だちの、その口元を歪めて、彼は続けます。
「そこで、私から提案がある」
「な、なに?」
「我が妻になれ、ネルよ」
「ええ……っ?」
 とんでもない言葉に、ネルは耳をうたがいました。

「私は、おまえがいなければ存在できない。そして、おまえは私を必要としている。婚姻に十分な理由だと思うが?」
「まって! わたしはあなたを必要だなんて思ってないよ!」
「自分に嘘をつくのは、やめたほうがいい。おまえが私を必要とする心こそが、英雄シグルドを殺したのだ」
「そんな……。シグルドが死ぬなんて思わなかったし……」
「いいや、おまえは思っていたはずだ。シグルドが勝つ結末なんて見飽きたよ、とな」
「そんなこと、思ってないよ……」
 嘘でした。ネルは、思っていたのです。この世界を退屈にさせてくれる英雄なんかいらない、と。この世界をぐちゃぐちゃの混沌に落としてくれる悪逆こそ、『正義』なのだと。
 でも、ネルは自分の心に気付きません。

「私の求婚をことわって、どうするつもりだ? もはやこの国は滅亡寸前。おまえの行く場所など、どこにもないぞ?」
「うう……」
「我が妻になれば、すくなくとも退屈はさせない。世界の命運をにぎることさえできるのだぞ」
「でも……。ダメだよ、やっぱり!」
 ちょっと心をひかれたネルですが、退屈しのぎに世界をほろぼしてしまうほど、彼女は冷酷ではありませんでした。ただ、すこしばかり刺激的な生活がほしかっただけなのです。

 そのとき、ネルは名案を思いつきました。
「まってて。あなたを倒せる英雄をさがしてくるから」
「ほほう」
「絵本の中には、シグルドより強い人なんていくらでもいるんだよ」
「たしかに、そのとおりだ。しかし、私より強い者はどこにもいない」
 竜はどこまでも余裕たっぷりです。ネルは、まるっきり子供あつかい。実際子供なので、当然といえば当然ですが。

「ほんとうに、だれにでも勝てるの?」
「もちろんだとも。英雄だろうと神だろうと、だれでもつれてくるがいい。すべて灰にしてやろう」
 ニヒルな感じに微笑む悪竜を見て、不謹慎なことにネルの心はときめきました。
「わたしは、あと三回魔法をつかえるの。だから、あなたが三回勝ったら結婚してあげるよ」
「よかろう。約束したぞ」
「じゃあ、強い人さがしてくるから。ちゃんとまっててね」
 そう言って、ネルは走りだそうとします。

「まて。どこへ行くつもりだ?」
「えっと……」
 だまりこんでしまうネル。なにも考えてなかったとか言えません。
「この国は危険だ。あちこちで暴動が起きているからな。となりの国へ行け。そこに、巨大な図書館がある。おまえのさがす絵本も、無数に蓄えられているはずだ」
「でも、どうやって行けば……」
「これをつかえ」
 人間の姿のまま竜が近付いてきて、持ちきれないほどの金貨をネルに手渡しました。
「うわあ!」
 目を丸くするネル。
 竜はさらに言います。
「これも持っていけ。我が牙の一本だ。身につけていれば、だれもおまえに手を出すことはできない」
 親指よりも大きい牙が、ネルの胸元に押しつけられました。
「そして、ほんとうに困ったときにはそれをにぎって私を呼べ。いつでもどこでも、すぐに駆けつけてやる」
 まさに、いたれりつくせりのサービスでした。他人からここまでやさしくしてもらったことなど、ネルには覚えがありません。一瞬、このまま結婚してもいいかなと思ってしまうほどでした。

「どうした? 私に惚れたのか? おまえがその気になったのなら、いつでも妻にむかえるぞ?」
「ほ、ほれてないよ!」
「そうか。では行け。そして、おまえの知恵と私の力をためすがいい」
「うん。わかった。でも、ほんとうに強い人つれてくるからね。泣いても知らないよ?」
「たのしみだ」
 こうして悪い竜に見送られ、ネルは絵本さがしの旅に出たのでした。
4, 3

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