「ああ?」
眉根を寄せたのは瞬間的で、次にどういうわけか微笑むような顔になって、ほぼ間を持たせることも無く、静先生は口を開く。
「そうだな、もし声がでなくなったら――歌が歌えなくなったら、か。俺ならまず手が動くことを、耳が聞こえることを、目が見えることを確認するだろうよ」
「……?」
したり顔をこちらに向ける静先生に、僕は釈然としない顔を返した。
「よくわからないんですけど、まず恨んだりするものじゃないですか? その誰かを」
「恨む? ああ、確かにね。そりゃあ恨みもするだろうな、歌が歌えなくなったんじゃあ、そりゃあ恨む。普通の人間でも、もし声をなくすなんてことになれば恨まないわけにはいかねえだろう。それが俺みたいに歌で飯食ってる人間になってみろ。恨み辛みをどこかに置いてくるなんて、腹で茶を沸かすより無理な話だ」
彼の口からは用意されてたかのごとく台詞が湧いて出てくる。ワードプロセッサーに打ち込んだ原稿みたいに、すらすらと連なって印刷されてくる。
「関係のない歌手さえ恨み、妬むかもしれん。自分が失くしたものを持ってる人間なんて見たくもなくなるだろうからな。俺は歌が好きだ。好きであれば好きであるほど、失った時の重みは増しちまう。半永久的に自分と共にあると思いこんでいる物なんか、失くした時は悲惨だな」
「……」
好きであれば好きであるほど、失った時の重みは増す。
その言葉そのものが、僕には重くのしかかってきた。
「だが安部少年よ」
無精髭の口元をにぃと歪めて、音楽教師は目を鋭く細める。
「言ったろ? 最初にすることは、恨むでもなく、妬むでもない」
「……手と耳と目を確認する、でしたっけ?」
なんなんですかそりゃ、と思わず続けて口からでてしまう。
「確かに俺は歌が好きだ。大好きだ。だから大学では歌をやった。合唱部の顧問もやってる」
ギラギラ脂ぎるその目に、僕は無言を返す。次の言葉を待つ。
「だが、歌は所詮、ツールにすぎねえ。道具だよ」
「道具……?」
「ああそうだ。道具だ。偶々、俺は歌が好きだった。だから俺はそれを選んだにすぎない。お前だって本当は理解してるはずだぜ」
道具。その言葉は、僕の中に張り巡らされたピアノ線を、新鮮に響かせた。
歌は、道具。
「歌が全てじゃないってことだよ。そうだろ? 勿論ピアノだってそうだ。バイオリンだってギターだって、ドラムだってトランペットだってそうだ。全部道具だろう。だから言ってしまえば、俺が本当に好きなのは、歌なんかじゃない」
目を閉じて、噛みしめるように、静先生は言う。
「音楽だ」
当たり前のことを、当たり前のように言う。
そんなの、大前提じゃないか。しかし、大前提が忘れられていないとは限らない。事実僕は今、かぁんと心臓を打ち鳴らされる思いをしているのだから。
弓矢で額を貫かれたみたいに、目を見開いているのだから。
彼は口を開く。
「歌が歌えなけりゃ、ピアノを弾く」
一歩、僕に近づく。
「ピアノがダメなら、ギターを弾く」
もう一歩、組んでいた腕をポケットに突っ込んで。
「ギターがダメなら、フルートを吹く」
格好つけながら、静先生が僕の元へと歩み寄ってくる。
「フルートがダメでも木琴を叩く」
僕はそれを、黙って聞いた。
「木琴がダメなら、ドラムを叩く」
ひたすら黙って、耳を傾けた。
「それでもだめなら、曲を書く」
まるでそれが、一つの音楽みたいに。
「曲も書けないのなら、指揮をする」
美しくはないけれど、荒々しい生命力を感じるような。
そんな音楽に聴こえてきたから。
僕は、目の前に立つ男を、見上げる。
「手があれば、ピアノは弾ける。口があれば、笛を吹ける。足があればリズムをとれる。眼が見えなくても、耳が聞こえればいい。耳が聞こえなくても、振動を感じる肌があればいい。肌を剥がれても、音楽を想像できる頭があればいい。手足をもがれても、曲を作り出せる情熱があればいい。だから」
一息に、音楽を愛する男は続ける。
「問題は、俺が音楽出来ねえ身体になってねえかどうかだよ。恨むのも憎むのも、全部その後だ。何をされたって、何がどうなったって、俺の魂がここに在る限り」
刃物みたいな尖った、そして触れば火傷しそうな笑顔を浮かべて、先生は言った。
「俺の音楽は止まらねえ」
世界が、止まったかと思った。
いや、実際止まっていただろうと思う。
僕の中に手を突っ込んで、両手で魂ごと揺さぶってくるような、そんな言葉。
「はっ」
一転くるりと背を向けて、静先生は言葉を吐き捨てる。
「なかなか教師らしいこと言っちまったじゃねえの。まあ、今のはただのオナニーだがな。一人で勝手気ままに奏でる音楽みたいなもんだ」
「……」
そうは言うけれど、彼の口にしたことは実は、ごく普通のことなのかもしれない。だけどその普通のことが、スタンウェイのピアノと同じくらい良い響きで、僕の耳朶を打ったのだ。雨上りの空を切り裂く白光のオーロラのように、輪郭のある輝かしい音色で僕の心を照らしたのだ。
「多分」
気付けば、口が勝手に動く。
「あ?」
「この音楽室に出るっていう幽霊も、音楽を愛してるんでしょうね」
静先生は、何も言わない。だけど僕は、後から差し込む陽光に照らされて立体的なその背中に向かって、細く続けた。
「きっとそうだ」
そうに違いない。
そうでなければ、何だというのだ。
「ま、その辺は自分で考えるこったな」
彼の言う通りだった。僕の尋ねたことに、静先生は答えてくれたのだ。ならそこから先は、僕が自分ですべきことなのかもしれない。だけど。
「それより、行かなくていいのかい?」
「あ」
言われて、思い出す。二人の少女は、とっくに学校を出てしまっている頃だろう。すっかり忘れていた自分に、ちょっとだけ焦る。だけど、行く前にもう一つ聞いておきたいことがあった。
「あの、静先生」
「何だ、まだ何かあるのか?」
「僕も――」
しかし言いかけたその時、ポケットの中、携帯電話が振動し始める。その唐突なバイブレーションに一瞬身体を強張らせてから、自分の存在を主張するかのようなそいつをズボンから引きずり出して開き、耳に当てた。
「もしもし?」
「あ、えーちゃん?」
真っ直ぐな声は花火のものだ。
「もうバス来ちゃったから先に乗るけど、いい?」
「ああ、悪い。僕は次のやつに乗るから、先行っといてくれ」
「む、何やってんのさ。主人を待たせる気?」
「だから、ごめんって」
「はいはい、じゃあ乗るから、切るね」
ブツ。
切れた。形式的な報告の電話だったらしい。
「電話はもういいのか?」
しかめっ面で振り返って、静先生が訪ねてくる。
「それで、何だ? 何が聞きたい」
「あ、いや……」
言われて、思いなおす。さっき口から出て行きそうになった台詞は、今はまだ、僕の中にあるべきだ。あれは、人に聞くようなことじゃない。
「なんでもないです、やっぱり」
「……? まあ、いい。それならそれでさっさと行きな、安部少年。レディーを待たせるようなやつ、男とは呼べねえぜ」
「レディー、ねえ」
あれはレディーというよりは、まだガールという感じなんだけどな。
ともかく僕は、静先生の横を通り過ぎて、そして練習室を出る。次のバスに間に合おうとするなら、それなりに急がなければならない。だから軽くなった足取りでひんやりした廊下を駆け抜けて、曲がり角で一時停止。振り返り、こちらを見やる音楽教師を補足する。
本当はあのふざけた教師にこんなこと言いたくないんだけど。
「ありがとうございました!」
頭をしっかり下げて、手をひらひらと振る彼に礼を送った。しょうがないよ。本当にありがたかったんだ。
この日僕は僕の師を、改めて尊敬し直した。
そして場面は移り変わり、再びアスファルトの坂道が僕の視界を独占することとなった。