特に何を指示されたわけでもないというのに、ただ目の前にピアノがあるから、ピアノを弾く。弾かずにはいられない。そういうやつだとは思っていたし、そう思っていたからこそ連れてきた。だけどそれでも色んな意味で大したやつだと思う。
足下にこぼれ落ちる怪しげで規則的なリズムの上空、蠱惑的な輪のように拡がる青や緑の光。
ドビュッシーの、花火だ。
なるほどね。もうすっかり聴き入っている幼馴染を一瞥して、再びピアニストに目を戻す。発想は月並みだけど、別に羽月は発想で勝負しているわけじゃない。その左手に打ち上げの低周波が混じり、光は白や橙に明滅。だんだん、右手の動きが間隔を詰めて性急になっていく。やがて曲の初めから続いていた音の連続が、段階を追って見上げるように天に昇っていき、そして――
はじける。
一気に空から地面へと、はじけた金色の閃光が急速に光度を失いながら落ちていく。落ちて、静寂。夜空の闇が次弾の影を匂わせ、しばしの後、再び上空へ幾筋もの揺れる光が尾を引いて昇っていく。昇りきって次の瞬間、綺羅びやかな音が真昼のような明るさで次々に夜空を彩った。明るいが、遠くで輝くフランスの和声。
曲が進むに連れて、和声の色、輝き、遠近、響きの全てに幅が出て、何もかもが立体的にドビュッシーの幻想を紡いでいく。一音も外さないし、的はずれな音など一つたりともない。端々の音まで耳が行き届いている。もはや演奏技巧に関しては言うまでもない。しかも曲の背景や作曲者のことなんて知らないのだろうが、羽月は今回もまた、確実に切実にその本質に手を伸ばし掴んでいた。
打ち上げの、街中に響き渡る大砲のごとき低音、上空高く弾けて空を彩る大きな星、目まぐるしく近い空で観るものを楽しませる中小の花々。白もあれば、赤もあり、橙もあれば青もある。たしかに、日本の花火とはほんの少し、違っているのかもしれない。おそらくパリの祭りを描いたものだ。だがしかし、それを見て、聴いて、火薬の香りを嗅ぎ、それが花火でないと言うものはいないだろう。加えて決して日本の心からかけはなれた単なるお祭り騒ぎではないということもわかる。
花火は、美しい。
中間、和風で神秘的な和声を織り交ぜたしだれ柳のような静けさをはさみ、息もつかせぬような連続は一端落ち着きをみせる。しかしそれが、コーダへ向けての布石であることを、全員が予感していた。
そしてそれはやってくる。爆音と共に大玉を連続して打ち上げたあと、カウントダウンのように和音が階段を昇っていき。
グリッサンドの鉤爪が一閃、夜を引っ掻いた。
音の眩しさに直視できないかと思った。それは流れ落ちるように上からすぅと消えてなくなる。余波のごとく残った低音に、どこかから遠くで鳴り響くフランス国歌――ラ・マルセイエーズ。そして目を閉じて、瞼の裏に残る光の残像を見る頃には、花火は終わりを告げていた。
羽月が手を鍵盤から離しても、誰も何も言わなかった。いや、言えなかったというほうが正しい。彼女自身が、余韻に浸っているのだ。それも含めて、彼女の音楽だったから。
一番最初に声を上げたのは後ろにいた凛さんだ。
「……ブラボー」
関心と感嘆と感動を一緒くたにしたような様子で、ため息と共にそんな台詞を吐く。羽月の演奏を聞いた人間は、誰だってそうなるのだ。雲の切れ間にかかる雨上がりの虹を、美しすぎる虹を一番最初に見つけた人間のように、言葉と声を失うのだ。僕だってそうだったし、花火もそうだったに違いない。
「……ありがとうございます」
言われた当人は頬を紅潮させて、かすかに目元を笑わせる。羽月は演奏の余波を震える身体と上下する肩で体現していた。一走り終えた陸上部員みたいな感じだ。冬場なら肩から立ち上る湯気が見えてもおかしくないだろう。
「失礼かもしれないが、こんな演奏が聞けるとは思ってもみなかった。いきなり弾き始めたのには驚いたが、技術もさることながら、怖いほど綺麗なドビュッシーだったよ。素直に心から、嘘偽りなく感動した……」
「凛さんと同意見だ。ちょうど花火の季節だしね、良い選曲だと思うよ」
と、僕も凛さんに乗っかって感想を述べる。
「毎回毎回、君は音の引き出しが無数にあるみたいだな」
「そんな、誉め過ぎです」
とか言いながら、えへへと頬を掻くピアニストにさっきまでの張り詰めた緊張感は感じられず、そのぬいぐるみの如き愛らしさは実に僕の庇護欲を駆り立てるのだった。
「……ありがと」
そこで、ワンテンポ遅れて花火が口を開く。
「私の曲弾いてくれて。っていや、私の曲ってわけじゃあないけどさ」
どうやら、照れているらしかった。頭に手をやって、髪をいじっている。
「ふふ、よかったです。花火さんが気に入ってくれたなら」
「……うん、勇気でた」
慎ましく頷いて、口数の少ない花火は、レアだった。インフルエンザでダウンしている時くらいのものだ。普段はなかなか見られない。僕は密かにそのほうが女の子らしくて可愛いと思っているのだけど。
「そういえばこのピアノ」
羽月が思い出したように言った。
「学校にあるピアノの……お兄さん、ですよね?」
「あ、わかった? さっすが、はーちゃん」
彼女らの言うとおり、このピアノと、学校の特別音楽室に設置されているピアノは同じスタンウェイだ。それだけでなく同じ年代に作られ、同じ調律師に音を調えられ、そしてこの楽器店で十余年を過ごした。まさに兄弟と言って差し支えない。
「本当は数ヶ月前まであのピアノもここにあったんだ。この部屋は二台のピアノがあるレッスン室として貸し出されてたんだよ。ですよね、凛さん」
振り返ると、後ろに立つ店の主人は驚きに眉を上げている。
「ああ、そうだ。しかしよく兄弟だとわかったな。兄か弟かまでは俺にも分からないが」
「だって、そっくりですよ。椅子に座った時の感じとか鍵盤の雰囲気とか、音の響きとか。それに弾いてみてわかったけど『弾いて弾いてー』っていう人懐っこいタッチがよく似てます」
最後のはよく分からないが、たしかにそうなのかもしれない。だが、違いがあるからと言ってそれが知覚できるかどうかはまた別の話だ。羽月の指先の感覚や音楽を感じる感性は、やはり生まれついてのものなのだろうか。
「珍しいよな、兄弟のピアノなんて」
羽月をここに呼んだ理由の一つは、僕が彼女の演奏をこのピアノで聴くためだった。僕の中にある何か起爆スイッチのようなものを、羽月に押してもらおうと思ったのだ。僕の中に湧き上がる何かを感じるということは、おそらくその目論見も上手くいったのだろう。もう一つは単純に、このピアノを弾けば羽月が喜んでくれると思ったからだ。むしろそちらのほうがメインだといっても過言ではない。
「気に入ってくれたか?」
「ええ、とても!」
とろけるような笑顔で、ピアニストは笑った。それだけで、連れてきた甲斐があったと思える。僕も彼女に面映い笑顔を返した。
「……しかし」
その笑顔に唸り声をぶつけるのが、凛さんである。
「俺も少し前までは音楽の教師をしていたんだが、君ほどのピアニストはなかなかお目にかかれないぞ……それこそ」
彼はそこで一端言葉を止めた。誰かに視線を送っているのが、丸分かりだ。まあそこにはあえて触れないけど。
「いや、そうだな。とにかくいいものを聴かせてもらった。夜野さんと阿部くんがここへ連れてきた理由もよくわかった。さっき料金はタダだと言ったが、むしろ俺が君に払いたいくらいだよ、山田さん」
「そ、そんな、本当に誉め過ぎですよっ」
顔を赤らめて、羽月は首をぶんぶん振りながら両手を胸の前で振る。
「どうする? もう一曲弾いていくかい? いや、俺としては是非もう一度君の演奏を聴きたいね」
凛さん、随分がっつくな。そりゃ、気持ちは分からなくもないが。対応に困っている羽月に成り代わって静止に入ろうか、あたふたする彼女も可愛いから放っておこうか迷っていたところ、僕の左隣から声が上がった。
「あ、私は時間なのでそろそろお暇しますね、凛さん」
「そうなのかい? それは残念だ……積もる話もあるというのに」
その積もる話は、なかなかどうして積もりすぎた感が否めないのだが。
「まあ時間ならそれも仕方ない」
「そ、それなら私も、そろそろっ!」
椅子から慌てて立ち上がって、羽月が流れに乗る。
「ええっ」
清涼感のあるテノールが部屋に響き渡った。凛さん、あからさまに残念がりすぎだよ。
「女の子を夜遅くまで拘束しているわけにもいかないでしょ、凛さん。二人は僕が送りますよ」
「むむ、それもそうか……。それなら次の機会を待つことにするよ」
どう見ても納得のいっていない顔で、凛さんはドアを開けてくれる。ぴょこぴょこと兎のように駆けてくる羽月を待ってから、僕ら三人は部屋をでた。そのまま流れに身を任せて、静楽器店から西空が少し赤くなった外へと躍り出る。
出口で「ありがとう」と手を振る店主に別れを告げて、三つの人影は一時歩を止める。
「……羽月、家はどっちだ?」
「私は、あっちです」
彼女の指差した方向は、東。
「じゃあはーちゃん、私とは逆だ」
「そのようだな」
花火の帰る方角は、日の沈む西だった。
「じゃ、私やらないといけないことあるし、もう行くね。今日はありがとう。また学校で会おうぞ!」
「あ、おい」
ふざけた敬礼を飛ばして駆け出そうとした花火につい声をかけると、どういうわけか彼女はおっとっとと方向転換して僕に振り返る。振り返るどころか、そのまま顔を耳に近づけて、ひそひそ声で僕に話しかけてきた。
「ね、凛さんにはーちゃん自慢したかったんでしょ?」
「は……?」
一瞬、ドキリとした。何を言い出すんだこいつは。いや、確かにそう言われればそういう気持ちがなかったわけではないが。
「でもさ、まだえーちゃんの物じゃないんだよ? はーちゃんは」
「……」
花火が本当に何を言っているのかわからない。あたりまえだろうが、そんなことは。
「しっかりつなぎとめておかないと、どこにいっちゃうかわからないってことだね」
「……お前、何言って」
「なーんちゃって!」
「うわっ、耳元でいきなり喚くな!」
はっはっは、なんて笑いながら、今度は本当に西日を追いかけてかけ出す花火。と思ったらもう一度くるりと、短い髪を靡かせながら彼女は振り向いた。
「はーちゃんもさ、さっきバスん中で話してたこと、なるべく早くしたほうがいいよーっ! 私は君から勇気を貰ったけどさ、君も勇気ださないとさあ! とーにーかーくっ」
そこで台詞を切って、花火は腹まで息を吸い込んだ。そして、両手を口に添えて、叫ぶ。
「がんばれーっ!」
それだけ言うと、またくるりと方向転換、もう二度と振り返ることなく花火はたたたっと駆けていった。
「……なんだ、あいつ」
熱気の中に取り残されたのは、僕と羽月の二人だけ。羽月も同じく横でポカンとしているものとばかり思っていたのだが「なあ?」と目をやったその顔は、予想していたよりもはるかに勇ましいものであり、そして幾分か緊張が見て取れるものだった。まるで授業参観で発表でもさせられるかのような、そんな顔に見えたのだった。僕は困惑した。
「……行こうか?」