人や物の輪郭からじんわりと溢れ出すような柔らかい輝きが、空気中に流れ込み景色を煌めかせる。アウフタクトのHが時の流れに落とす色彩はぼんやりとして淡く、それは最初にはらりと散ってしまった一枚目の、暖かさと悲哀にまみれた花びらだった。
そんな小さなエネルギーでも、誰かの胸の真ん中を、人差し指で小突いて、わずかながら確実なすき間を作る。
声を出す間もなく、それが確実に始まりになる。
――ショパンだ。
「……エチュードか」
静先生のテノールが、曲名を添えてくれた。
伸びのあるメロディーは、揺れるチェロに支えられるヴィオラのトーン。セピアを思わせる、さよならのホ長調。
『別れの曲』だ。
ビクついて固まって、言語に縛り上げられた身体に、音楽の熱は無情にも無常にも、ゆっくりとゆっくりとレガートに染み渡り、硬くなった腕や脚をほぐしていく。
僕は、緊急停止しそうになった口を無理やり開いた。
まだ、猶予はある。
「静先生」
「……」
声が、かすれて出にくい。彼は、語らない。美しすぎるメロディーがノスタルジーを乗せて僕達へ染みこんでくるこの空間で、静先生は僕を待ってくれている。
「人は、人を変えることが出来るんでしょうか。仮にできたとして、僕にそんなことをする資格はあるのかな」
「それは愚痴か、それとも相談か」
達しそうで達しないギリギリのところで、穏やかにターンして折り返す、メロディー。
「相談です」
「……ならば応えてやろう。人は変わる。だが誰かに『変えられる』わけじゃない。変わるときは、自分で変わるんだ」
「ですが、人が人を変えることだってあるはずです」
「誰かに変えられたように見えたのなら、それはその誰かが手を差し伸べただけだ。その手を取るか取らないか、最後に決めるのは他でもない、そいつ自身だろう」
「……」
メロディーが上り詰めて、胸を二重三重に引き裂かれるような和声が、白いキャンパスにバラバラの色をぶちまけながら、何もかもを振り回しながら、移り変わる。
「もし、阿部少年、お前が誰かを変えたいと思い、それでいて人を変えることがダメなことだなんて思っているなら、それは自惚れってやつだ。自分に人を変える力があるだなんて思い込んでやがるんだから。誰かを変えちまって、それが後悔の種になったとして、だから何だと言う話だぜ。最後に変わることを選んだのはお前じゃなく、手を差し伸べられたそいつだったんだ」
「しかし、それではあまりにも無責任ではないですか」
「責任論を持ち出すのはどうかと思うがな」
めくるめく、廻る廻る和声。それに連れられて、廻る、映像。
花火との出会い。放課後のピアノ。
降って湧いたような不幸、出口を閉じられた絶望感。
何もかもを失って、何もかもが白黒に成り下がった世界。
そして――。
羽月との邂逅。
僕の中を、一つのパイプのようになった身体の中を、込み上げてくる。
暖かく、泣きそうになるほど柔らかい、音の奔流。
「ただ、無責任になれと言った覚えはない」
再び原点、Eの和声へと、立ち返る。
「手を差し伸べたなら、最後まで聴け」
緩やかに、穏やかに、閉じられていく、音で紡がれた空気の縫い目。
「そいつの魂が奏でる音楽を、最後までな」
静先生が、僕を視る。
「行ってこい」
おそらく出会ってから初めてだろう、こんなにも穏やかな口調で彼が話すのを聞いたのは。言われるまでもない。僕はもう、メロディーに手を引かれ立ち上がっていた。なんだかフラフラするけれど、この酩酊感は嫌いじゃないね。ポケットに手を突っ込んだまま格好つけて立ち尽くす音楽教師の脇を、黙って通りぬける。ドアを開け、窓から差し込む光の中を、シップの香りが漂う空間を、ただ前へ向かって突き進んでいく。
緩やかな死を迎えるように、眠りにつくエチュード。
でも、まだ終わらない。ここにあるのはただの空白だ。次へ進むための呼吸に過ぎない。
「ああ、言い忘れてたぜ」
保健室と廊下の境界線を一歩跨いだところで、テノールボイスが背中越しに飛んできた。
「男の仕事だぜ、手を差し伸べるのも、掴んだ相手を引き上げるのもな」
ちょっとだけおちゃらけた、それでいて気障な、彼らしい台詞だ。
僕もそう思う。
それを聞き届けて、身体の操縦桿を握る。
走る必要はなかった。ゆっくりと歩きだす。
転調し、逆説的に加速する音楽に身を委ね、僕の進むべき今を歩き続ける。白と黒が混じりに混じった、音とリズムのきりきり舞い。僕の熱発した身体の中で、そしてショパンのエチュードで、風に吹かれてては落ちる音の粒。その表情を恐ろしく変えた別れの曲は、引き離される痛みを伴って流転する。
この曲が終わるまでが別れだと言うのなら、終わらせる訳にはいかない。走るまではいかなくても、自然と足が早まった。空にひびが入って落ちてくる、そんな倏忽なディミニッシュの連続。どこまでも終りが見えない、不安の連鎖。
『別れの曲』というタイトルはショパン自信がつけたものではないんだ。
これはフランス映画の邦題。郷愁を描いた曲には違いないが、別れの曲という思いを込めてショパンはこれを作っていない。
だからって。
「哀しすぎるんだよ……」
知ってるぞ、この演奏は。
音楽棟にたどり着き、特別音楽室の前へと歩み寄る。
知ってるんだ、この音も、この歌い方も。
ドアノブに手をかけて、呼吸を調え。
知ってるよ、ずっと前から。
僕はその旋律と繋がる扉を、ここ一月で何度開けたか分からないその扉を、開け放った。再び長調に戻りかけていたエチュードは、ふと止まり。昼間の太陽に照らされたホコリっぽい部屋は、静寂にしんと静まり返る。
「……よお」
予想はついていた。ついていたし、心構えもあった。だけど実際に彼女の指が鍵盤の上を踊っているのを見るまでは、信じられなかった。そして今こうして見ていても、やはり信じられない心地のほうが大きい。
心音が聞こえそうなくらいの無音に包まれて。
「やっぱり来てくれたね、えーちゃん」
微笑んでピアノの前に座っていたのは、他でもない。
夜野花火、その人だった。
確かに、驚愕ではある。だけど、彼女のこの行為自体へはいささかの疑問も感じない。何故なら、そういう兆しはあったから。花火自身が、ピアノと再び向きあおうとしているのが、僕にもうっすらと理解できていたからだ。
そして、ブロンドの少女はここにはいない。
だけど、どうやら今僕が向かうべきなのは、目の前に佇むピアニストであり、生徒会副会長であり、右手の動かない僕の幼馴染だった。心を落ち着けて、口をつぐんだままの彼女に声をかける。
「……左手のためのエチュードか?」
「うん。結構頑張って練習したんだ。どうだった?」
結構頑張って、だって? 一朝一夕で出来るような演奏じゃない、音のバランスも、メロディーの完成度も、何もかも。それに左手だけで別れの曲を弾くなんてこと自体、至難の業なんだ。それを笑って、結構頑張って練習した、だって?
「どうもこうも」
何かが溢れ出そうになって、僕は大きく息を吸い込む。
肺に空気を入れると、少し感情がおさまった。
「すごく――よかったよ」
うまく、笑えただろうか。それはわからないけれど。
「そっか、ありがと」
花火が心から笑う時、目がすごく細くなって、大分年上の女性に見えることがある。そんな表情を見たのも久しぶりな気がした。
「右手が思うように動かないっていうのはさ、不便だよね。今は鉛筆握るとか、かばんの持ち運びとか、それくらいは出来るようになったけど。それでも時々怪我しちゃうし、気づかないうちにかすり傷だらけになってたりしてさ」
ひらひらと振るその右手には、やはり何枚ものバンドエイドが巻いてある。それを見て気が重くなるのももはや慣れたものだ。そんな僕の内心を知ってか知らずか、花火は大きな、そして澄んだ目で僕を見て。
「でもさ、右手が動かなくてもピアノは弾ける。最近、またピアノを弾きだして思い出したけど」
少し気恥ずかしそうに、もしくはどうすればいいか分からないとでも言うかのように、頬をほんのり紅潮させて、口の両端を少しだけ上げた。
「音楽ってこんなに楽しかったんだね」
何かが、大きく膨らんでいた何かが。
僕の中ではじけた気がした。
にわかには信じがたい台詞だと思った。花火を信じられないわけではない。そんなことを彼女の口から聞けたという事実が、僕にとってはもはや夢の中の出来事だったのだ。だけどこれは夢じゃない。何故なら僕の幼馴染が僕の前で笑っている。そしてそんな彼女は、目を瞑って右手をさすりながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。
「私がね、事故に遭ったのとおんなじ時期に、右手が動かなくなったピアニストがいたんだ」
「……」
「私の方は神経がダメになっちゃってて、もう治ることはないって言われて、実際リハビリは死ぬ程してみたけれど、結局もう一度ピアノが弾けるほど指が上手く動くことはなかった。だけどね、そのピアニストは精神的なことが原因で、肉体的には問題ないのに、ピアノが弾けなくなっちゃったんだって。普段はどうってことないのに、ピアノの前に座っていざ弾こうとすると、手が震えて、息が上がって、とにかく弾けないらしいの」
「……」
「私とは違うけど、私と一緒。でもね、仲間ができたからって、全然嬉しくはなかったの。私、その人の演奏が大好きだったから。落ち込んだなあ。それこそ、自分がピアノを弾けなくなったことと同じくらい、ううん、ひょっとしたらそれ以上だったかも」
「……」
「そのピアニストはどうだったか知らないけど、私はその人のピアノをずっと忘れなかった。忘れることなんて出来なかった。無意識のうちにずっとそれを探してたんだと思う。だから驚いたんだ」
「……」
窓から飛び込む光に手を右手を晒して、花火は満足気に目を開く。
「高校に入学して、『幽霊』の話を聞いたときはさ」
そして、目線を手から僕へと移し、花火はしばらく無言を貫いた。底の深い湖のように澄んだ黒い双眸が、僕の瞳を掴んで離さない。もう、限界だった。今すぐにでもその真っ直ぐな目線に背を向けて脱兎のごとく逃げ出したかった。だけど、それは彼女が許さないだろう。そしておそらく僕自身も、それは許さない。
「それもその幽霊、片手でピアノを弾くらしいじゃん」
自分がどんな顔を彼女に向けているかはわからなかったけれど、僕が動かないのを見かねてだろうな。
花火はついに、それを口にした。
「君のことだよ、えーちゃん――いや、音楽室の幽霊君」
音のない音楽室ほど静かなものはない。凛とした花火の声が、その空気を震わせただけ。
僕は、今この瞬間、再び世界に降り立った気がした。