キンキンに冷した鉄板の上でアイスクリームを錬成するというものがあるけど、今このアスファルトはへたなアイスクリームなんかよりもずっととろけていて、足を上げる度に靴の底がねちょねちょする。アイスなんて乗っけようものなら、出来あがるのはコールタール味の宇宙になるだろう。その上を歩く僕のほうも過分に溶けているようで、先程から額の汗をぬぐう作業に余念が無い。
今日は土曜日で、今は七月。
ようやく期末試験も終わり、惰性のように学校に通う日々も残すところ一週間となっている。早いもので、あれから既に一カ月が経過しようとしていた。ちなみに『あれから』というのは、花火に奴隷にされてから、だ。
その彼女はというと、相変わらず何をするわけでもなく僕と昼食を共にしていた。それはもはや習慣化しつつあり、昼休みを知らせるチャイムの音は条件反射のように僕を食堂へと向かわせる。なんとなく、そしてぎこちなくではありながらも、僕と花火は少しずつ元の調子を取り戻しているような気がするのだ。歯車がかみ合ってきたような、そんな感じだ。花火が幽霊だなんて血迷ったことを口走っていたのも本当に最初だけで、昨今は来たるサマーソニックに向けての意気込みを語ることにその時間の大半を費やしていたりする。
ただ、所々の話題の切れ目で僕を眺める花火の、その目の色だけが未だ気掛かりではあった。気付いたら、彼女は優しいような、憐れむような目でこちらを見ているのだ。子供を見る母親のような、はたまた恋する少女のような――いや、それは違うか。どちらにせよ、僕の測り知るところではない。そんな彼女の真っ直ぐな目線をいつも、情けなく左へ右へと受け流して、バンアパの話へと彼女の興味の矛先を変えるのだった。ただ、例え意図がわからなくても、彼女と過ごす下らない時間は十分有意義だと、そう感じられる程度にはなっている。それだけ分は進歩したということでいいだろう。
そして『あれから』というのは同時に、羽月のピアノに魅入られてから、でもある。彼女と同じ時間を共有することでわかったこともまた、たくさんある。
彼女は、いろんな側面で花火と違っていた。
羽月は、純真だった。ああ、この表現は誤解を生むかもしれない。別に花火がそうじゃないと言っているわけではないのだ。ただ、羽月にはまるで不純物とかそういうものがない。素直なのだ。嘘をつけない。そこがまず花火とは違う。言いたくないことは言いたくないと態度に表すし、そうでないことはあっさりと教えてくれる。そのおかげで、羽月がこの学校のものではない制服を身につけているということはわかっていても、僕はまだ彼女がどこの学校の生徒なのかもしらない。当然のごとく苗字も知らないし、家族構成なんて知る由もない。でも、彼女は音楽を愛していたし、ショパンを愛していた。ピアノをこよなく愛しているし、奏でる音の一つ一つを愛でていた。持ち前の素直さが、演奏ににじみ出るのだ。
羽月は、何十、いや何百、ひょっとしたら何千もの曲を知っている。そして驚くことに、彼女には音楽の知識が全くなかった。毎回、自分の弾く曲のタイトルさえまともには言えない。ノクターンという言葉は知っていても、スケルツォというジャンルは知らない。ソナタという曲は知っていても、ロンドという構成はよくわからない。ドイツ語音名を知っていたことがそもそも奇跡的だったような気もする。
曲は、全部聴いて覚えたという。彼女のことだ。当然驚きはしたけれど、たぶん嘘ではないのだろう。疑うつもりも一切ない。ただ、いつどこで誰の演奏を聴いて覚えたのかは、教えてくれないけれど。
だから彼女がピアノを弾いて、僕がそれを解説する。中でも、彼女の名前と同じ『月』を含む曲を、僕は多く語った。ドビュッシーが『月の光』という曲を生涯で何曲も作っていること。ベートーヴェンソナタの『月光』は実は本人がつけたタイトルではないということ。おかしな話だけど、彼女は僕の博識ぶった解説に一々喜んで耳を傾けてくれるのだ。音楽オタクにはありがたいことこの上ない。
そして彼女がピアノを弾いて、僕がそれを愛聴する。
僕と彼女の時間には、それだけあれば十分だった。
そんな風に過ごす時間はあっという間で、一か月なんて早送りしたビデオみたく過ぎ去ってしまったのである。
そして今、青い空には美味しそうな入道雲がもくもく育っているし、蝉は年末の第九にも負けないくらいの大合唱にいそしんでいる。で、僕は炎天下の舗装された山道を、えっちらほっちら登っている。
何故って?
理由は簡単。一か月の時を経てなお、『幽霊』が見つからないからだ。正確には、幽霊の名を語る不届きものが盗みだした楽譜を探し出すのに悪戦苦闘しているから、である。
普通見つからないものは、見つからないと諦めるのが一番だ。少なくとも僕なら一ヵ月探して行方不明なら、捜索を断念する。しかしこの場合諦めるという選択肢を選ぶということは、静先生からデータを貰うことを諦めるということだ。つまり、僕が諦めるなどということはさっぱりあり得ない、ということになる。
このような思考回路を辿り、僕が貴重な土曜日を消費してまで向かうべく先は決まった。
楽器店である。
まあ、何をするかは言うまでもないだろう。あのデータには、金を払うだけの価値があるということで。
「しかしまあ、なんでこんな山の上にあるんだろうな……」
僕の高校も、まあなかなか山の中腹に位置しているのだけれど、そもそもこの神戸という街は半分山で半分海なのだ。海岸線沿いに降りていくか、山沿いに登っていくかしかない。平らな土地なんて目でみて数えるほどしかなく、大抵は道に傾斜がついている。特に名所があるわけでもないのに無駄に名前だけ有名なこの神戸という都市だけど、こういうふうにして坂を登ったあとの振り返って見る景色は結構いいものだ。
大阪湾から、空気が澄んでいる時は四国のほうまでが、ちょっと高度を上げるだけですぐに眺望できる。
まあ、この辺りでひと休みくらいしてもバチは当たらないだろうと、僕はまたTシャツの袖で汗を拭って、足を止める。車が一台脇を通り過ぎると、右手にはいつもの、白い神戸の街が在った。開放感を覚える、嫌いじゃない景色だ。うぅんと一つ、伸びを打つ。
さて、もう一息だな。と、気合を入れ直した時だった。
「この街が好きかい?」
「ひぇっ?」
その声に、僕ははっとして後ろを振り向く。油断していたものだから、思わず変な声を出してしまった。いつの間にか僕の横に、緑色のベレー帽をかぶったナイスミドルが立っている。
「ああいや、すまない。街を眺める君がいい顔をしていたのでね」
「は、はあ」
そんな顔をしていたのか? 僕。
ていうか誰だろう、この人。背はそれほど高くないけれど、グレーのシャツにブラックのジーパンとシックなトーンで全身を固め、年相応の落ち着いた雰囲気を演出している。しかし黒を基調としたこの服装でこの陽光に晒されながら、よく涼しい顔をしていられるものだ。
「いいよなあ、高台から望むこの景色は。摩耶山から見ても六甲山から見ても落ち着くよ。君はわざわざ休日に山登りかい?」
整った顔の、だけどちょっぴり初老を感じさせる彼は、少し掠れた声で尋ねてきた。
「あ、いえ。目的はショッピングです」
「買物か。どちらにしても珍しいね、若いのに」
「はあ、そうですかね」
「若い欲を満たすためなら普通は女の子と遊ぶか、家で発散するかだろう」
いきなり何を言い出すんだ、このおじさん。よく見ると細く優しい目の奥がギラギラしている。案外若いのかもしれないな。
「そうかもしれないですね」
一応笑ってごまかしておく。
とはいえ、僕のこの行動も突き詰めれば、あの音源を手に入れるため、ひいては若い欲を満たすためのものなのだけど。
「ハイキングですか?」
彼を見て、問い返した。
「僕かい? 僕はロケーションかな」
「は?」
映画関係者か何かなのだろうか。
「まあ、あまり気にしないでくれ。ところで一ついいかな」
「……? ええ、まあ」
若干の不信感を覚えながらも、彼の持つ柔らかい肌合いにはどうも敵対心を抱く気になれない。僕だって人並みの警戒能力は有しているつもりだけど、この男に対してはそれがどういうわけか働かないのだ。まあ、実際のところは印象判断なんてものがアテになるかどうかはわからない。君はコックリさんを信じるかい? とか、願いの叶うダルマさんがあるのだけど、どうだい? とか、ツバメさんに興味はあるかい? とかそんな危ないニュアンスの台詞が彼の口から飛び出したが最後、その時はヨーイドンでクラウチングスタートを切るだけだ。
と、こんな具合に心構えをしていたのだが、男の口からはその心構えの内のどれでもない、意外な言葉がこぼれ落ちる。
「君もいつか、この街を出ていくのかい?」
「へ?」
ただ、それはそれで答えに困る質問に違いなかった。
「いや、そんなに深い意味はなくてね。野心を抱く若者には少し狭いだろう、ここは」
「そう、ですかね」
小さくううんと唸って、再び眼下の街を見下ろす。狭い? そうなのだろうか。広げられた羽のような包容力のあるこの街に、そんな感想を持ったことは未だかつてない。他の地方と比べたって、ここは幾分か都会なはずだ。
「別に、狭いとは思いませんけどね」
適当に作り笑いを浮かべて、僕はへらへら答えた。勿論、答えにはなっていないが。
ただ、初対面の人間に対して真実を答える必要はないはずである。どうして僕の将来の夢をどこの誰とも知らないおじさんに対して語らなければならないのだろう。
でも、それは所詮言い訳で、僕は答えなかったのではなく、答えられなかったのだ。六甲のおいしい水のように澄んだこの街の空気に、僕の未来はどう映ってる?
「そうかね。では、この街で何かしたいことがあるのかい」
答えは簡単だ。何も映っていない。
ふと、僕の脳裏に二人の女の子が浮かぶ。真っすぐで、純真で、自分をしっかり持った二人が。彼女たちなら、どう答えるだろうか、この質問に。
「……あいにくまだ高一なので」
僕は逃げた。
高一だから、と。年なんて、関係ないはずなのに。
「そうか、それはそうだろうな」
そんな僕の事情なんてわかる由もなく、彼は細やかに笑った。
「僕が君くらいの年齢の時も、将来のことなんて何も考えていなかったよ。それが普通さ、それが普通……」
確かめるようにそう二回呟いて、男は遠くの雲を見つめる。陰になったその淋しげな横顔が、何故か嫌に印象に残った。この人もまた、僕にはわかる由もない事情を抱えているのかもしれない。
そんな風にぼんやり彼を見つめていると、男はこちらを向いて申し訳なさそうに眉の端を下げ、唇の端を上げた。
「引きとめて、その上変な質問をして済まなかったね。僕は行くよ。なんだか君とはまた会う気がするな」
「……はあ」
なんだか、調子を狂わされる。マイペースなおじさんは、革靴を鳴らして僕が登ってきた道を下って行った。哀愁と無責任を覚えるその背中を、無言のまま見送る。逃げ水の出来た道路から上がる熱気に晒されながら、僕はしばらく動けなかった。
この街を出ていくのか? なんて、本当は深く考えるような話じゃなかったのだろう。ほんの話題作りだったのかもしれない。笑って、笑いとばしてそんなのわかりませんと言えればよかったのかもしれない。だけど。
同じ質問を花火と羽月にしたら、どう答えるだろう。
少なくとも僕よりはまともな回答を持ち合わせているに違いない。根拠はないけど、確信はあった。僕には無い一本の頭から足の先まで通った軸のようなものを、彼女らは持っているから。
そう考えると、イエスもノーも返せなかった、こんな単純な質問にも答えられなかった自分が、あまりにもみじめで、僕は途端に夏の青さの中に自分が溶けていくのを感じたのだった。
くそ、今日はこんな気持ちになる予定なんてなかったのに。
その定まるような定まらないような心地のまま再び進行方向に顔を向けると。
「お、安部君!」
そこには僕に手を振る男の姿があった。