3:IS〈Invincible Sakino〉
「福引きしたらこんなの当たった」
「……随分と古くさいフラグを立てるんだね、聡ちゃん」
梅雨が過ぎ、暑さと湿気が悪い意味で絶妙に混ざる初夏手前の季節に、スーパーで貰った福引券で3等(因みに1等は空気清浄機、間に合ってます)遊園地のペアチケットを当ててしまうという中途半端に運を使ってしまった俺は何気なく咲乃に報告していた。
「そんな回りくどい方法でデートからの性行為を狙わなくとも聡ちゃんが希望すればいつでもやらせてあげるというのに……いかなる状況下においても出来るよう常に準備は万端だよ?」
「痴女じゃねーか」
「因みに陰部と肛門には常時ローターが刺さっている」
「止めろ、それはもう引かれるタイプの下ネタだ」
どう考えても本編開始数行目で発していい言語じゃあないぞ、咲乃よ。
「勿論聡ちゃん御用達の君の陰部を僕のアホ毛に巻き付けるプレイも――」
「とりあえず黙ろうか」
俺にそんな御用達はない、腋はあっても髪はない。
その内下剤の準備は万端だよとか言われそうだな。
「別に疚しい気持ちがあって言った訳じゃねえよ。大体遊園地のアトラクションなんて咲乃にとっては巨大で壮大な拷問器具にしか見えないんじゃないのか?」
「ジェットコースター至っては暗闇の洞窟を抜けた途端隣に座っていた人の首から血飛沫が上がるらしいしね、とてもじゃないけど恐ろしくて乗れたものじゃないよ」
「お前コ○ン大好きだな」
「いずれにしても全身筋肉痛を避けられない長旅はご勘弁だよ」
「まあ、そりゃそうだよな」
遊園地に行くだけでガスマスクとベビーカーが必要とか俺も御免だ。
しかし、どうしたものか。
遊園地なんてよっぽど好きでない限りそう1人で行けるものじゃないし、かといって折角当たったものを捨ててしまうのは勿体ない気がするしな。
……どうせ捨てるくらいなら誰かに譲るのが一番無難か。
「行く相手がいないなら私が行ってあげたったってもいいけど?」
「……とりあえず窓から入ってくるな、不法侵入者」
逢坂結。
同級生であり、友人でもあるモンジャラヘッドの茶髪女。
とある事情から今は俺と同様に咲乃の助手として働いている身。
「オイオイ、私は咲乃ちんの助手様だぜ? 不法侵入な訳ないじゃんよ」
「助手は窓から入っていいルールとかないから、あと別に『様』とか付く立場じゃないから」
それにしてもあの一件以降コイツのウザさがアップデートされている気がする。
……いやでも、それもあの一件がもし正しい方向を向かえていなかったら、こんな御転婆な逢坂はもう二度と見ることは無かったのかもしれない、そう思うとこのウザさも少しは我慢出来るような気が「うるせー! 一々揚げ足取んなこのペドフィリア!」しない。
「それはいいとして、逢坂は遊園地に行きたいのか?」
「あえ?」
別に不意を突いた訳では無いのに、何故か間抜けな声を上げる逢坂。
「そ、そーだよ! だって折角当たったチケットなのに捨てるのは勿体ないだろ? だから代わりに私が行ってあげてさしあげたってもよろしいでございますのぜという訳よ」
一遍に言葉を押し込みすぎて日本語がパニックになっているが要するに無茶苦茶遊園地に行きたいってことか、やっぱり女の子ってテーマパークとかそういうのが好きなのか?
まあそんなの別にいいか、誰かに譲れればそれでいいし。
「そういうことなら別に構わな――」
「ちょっと待ったぁ!」
聞き覚えのある声がする方を向くと東橋が腕組みをして仁王立ちしていた。
主に窓際で。
東橋夕季。
彼女もまたとある事情に巻き込まれた俺の友人であり、咲乃の助手の1人。
あの一件以降彼女には際だって変化見られない(それでも東橋が運営していた3年生の学校裏サイトは自主的に閉鎖させたらしい)が、以前より頻繁に話し掛けられるようになった(?)様な気がする、華奢な身体に三つ編みがチャームポイントの天然美女だ。
「わっ、私も遊園地に行きたいんや!」
勝ちたいんや! みたいに言うな。
と思わず言いそうになったが、もしかして大阪出身なら日常言語だったりするのか?
どうなんだろ、いや割とどうでもいいな。
それにしてもデ○ズニーランドに行ける訳でも無いのにえらいテンションだな。
夢も希望も無さそうな既視感溢れるマスコットしか闊歩してなさそうなのに。
「何言ってんだよ東橋ちゃんよ、今交渉権は私の手中にあるんだぜ? それを後出しじゃんけんだなんて卑怯な真似で奪おうだなんて……感心しないなあ~」
「うっ……そっ、それは確かにそうやけど……」
「まあ当然私の交渉が決裂してしまえば交渉権はあんたに移行してしまうけど……果たしてそう簡単に物事は運ぶかな? そこで指咥えて見守るだけもあり得るかもよ~?」
「ぐぬぬぬぬ……」
別に先着順とかルールを設けた記憶はないけどな、普通にじゃんけんすればいいし。
ていうかこの遊園地のチケットってそんな凄いものなのか? 実は知る人ぞ知る凄いアトラクションが満載だったりするのかな……プリキュアショーあるなら俺も大興奮するけど。
「ほっ、ほんなら私はあんたの行動を監視する為に同行させて貰う事にするわ!」
「なぁ!? テメーやってる事が卑劣にも程があるぞ! この偽造女野郎!」
「いやいや、そんなん言うたかて私にはその使命があるしなあ、な、神名川さん?」
「確かにそうだね、第一東橋さんはそういう名目で助手になった訳だし」
何故か薄ら笑いを浮かべながら答える咲乃。
「まっ、待て待て! そうだとしても聡一がいいとは言ってないだろ!」
「別に俺は構わないけど」
「!?」
そう言って俺は逢坂と東橋にチケットを渡す。
「「は?」」
「何かよく分からないが2人とも遊園地に行きたいのは確かなんだろ? なら丁度2枚あるから1枚ずつ上げるよ、俺も捨てるのは勿体ないと思っていたから本当に助かる――ん?」
――刹那、俺の焦点が定まらなくなる。
そして意識が追いついた時には何故か仰向けで倒れていた。
石にされるんじゃないかと思う程冷たい目で見下す、東橋のおまけ付きで。
「えっと…………綺麗な一本背負いですね」
「死ね」
え、えぇ……。
お望み通りにチケットを譲ったら投げ飛ばされた上に罵られた。
恩を仇で返すってレベルじゃねーぞ。
しかも逢坂は強かに拍手してやがるし。
「鈍感もここまでくると公害もんやな」
「ほんま被害が最小限に済んでよかったで」
逢坂が関西弁になるほどにいつの間にか2人は意思疎通し合っていた。
俺、関東人と関西人が不可侵条約を結ぶまでの悪事を働いた記憶なんて無いぞ……。
「いやいや、最高に面白い喜劇をどうもありがとう」
と、ここに来て傍観していた咲乃が笑いながら壇上に上がってきた。
実は一連の元凶は全て僕が仕組んだんだよとでも言いたげな、黒幕張りのノリで。
「やはり所詮君達じゃここまでが限界だろうね、全く、たった1つの固有名詞を入れるだけでエロゲーの主人公並に鈍感な聡ちゃんでも瞬時に分かるというのに……それじゃいつまでたっても僕との距離は縮まらないよ、潔く新たな運命の人探しに精を出したらどうだい?」
「はあ? 何言っているんだ咲乃――」
「そ、そんなん言えたら今頃苦労してへんわ!」
「偉そうな事言いやがって! じゃあお前はすんなり言えるのかよ!」
「聡ちゃん、僕とイチャイチャラブラブし合う為に遊園地に愛を育みに行こう」
は? 何で急にバカップル用語全開なんだよ。
「いや、お前さっきご勘弁って――」
「まあこんなものだよ、残念だけど僕は君達と一緒に3馬鹿ユニットを組めそうにない」
「ちくしょう……引きこもりの癖に引きこもりの癖に……」
「いくら幼馴染みとはいえ……ここまで出来るんか……」
そしてまたしても俺は爪弾きにされるのだった。
俺、語り手の筈なのにね……。
「何、僕だって他人の不幸をおかずにしてご飯を食べるほど憐れな人間じゃあない、ちゃんと栄養になるおかずを毎日4品は食べないと気が済まないタチだからね、安心し給え」
「そのおかずを作っているのは俺だけどな」
「そこで、だ。この遊園地のチケットを賭けて勝負をしないかな?」
「勝負……?」
「そう、勿論この1枚だけを賭けてね。逢坂さん、東橋さん、そして僕の3人で勝負して勝った者がこのプレミアチケットを手にする事が出来るんだ。どうかな?」
「もう1枚はどうするんだよ?」
「鈍感で不感のスカトロプレイヤーは黙ってて」
「え、あ、はい」
おかしいよ、こんなの絶対おかしいよ。
その言い方だとまるで俺がスカトロを得意とするインポ男優みたいだよ。
「勝負は何でするんや?」
「そうだね、やはりここは学生の本分である勉強で勝負するのはどうかな? 確かあと2週間後には期末テスト、通称『世紀末テスト』がある筈だろう? そこで全教科の合計点数で勝負をするんだ。一番得点が高かった者がこのプレミアチケットを得ることが出来る。単純明快だし、即席のゲームで勝負するよりは期間もあるから上手く行けばチケットが手に入る上に成績も格段に伸びるかもしれないよ、勝てば一石二鳥、仮に負けても一石一鳥、最高だろう?」
相変わらず感心させられるが咲乃は利点ばかりを誇張して並べ立てて上手く欠点誤魔化そうとするのが本当に上手い気がする、咲乃のスタート地点はゴールライン手前じゃないか。
ところが意外にもその欠点に気づいたのは逢坂だった。
「いや、それは駄目だろ、だって咲乃ちんはあの『女神様』なんだろ? いくらこれから2週間寝ずに勉強しても学年1位の点数なんて取りたくても取れるもんじゃないぜ? 出来レースもいいとこじゃねーか、流石に少しはハンデをくれないと釣り合いが取れないだろ」
一瞬ニートの一面しか知らない逢坂が何で? と思ったがすぐにある事を思い出す。
そういえば逢坂の父親と咲乃の父親は旧友なんだっけ、その関係で確か咲乃については少し知っているとか何とか言っていたな、なら咲乃の異様なまでの学力は承知済みって訳か。
でも、こうなると有利な立ち位置でのフェアな勝負は出来なくなるぞ。
すると咲乃は平静な態度のままとんでもない事を言い出すのだった。
「それは確かにそうだね、なら逢坂さんと東橋さんが獲得した点数を足した合計点数と僕の獲得点数で勝負してあげても構わないよ? つまり2対1で勝負という訳だ」
「「え?」」
「確か逢坂さんは大体250人中約180位くらいだったかな? たいして東橋さんは50位前後だった筈だ。これなら2人の点数を合わせれば案外とあっさりと僕を負かすかもしれないよ? それに僕に勝った後はお互いのどちらか点数が高い方を勝ちにすればいい、そうなれば僕というより最早君達2人の一騎打ちになるんじゃないかな?」
彼女がした提案はあまりに無謀なものだった。
たとえ全教科満点を取っても負ける可能性が十分にある、それ程のもの。
しかしそれでも――彼女には余裕を感じられるように見えた。
「神名川さんがそう言うなら私は別にかまへんけど……」
「こっちは否定する理由が無いしな、後で後悔すんなよ?」
「なに、僕が言い出したのだから心配御無用だよ、第一馬から落馬するみたいな日本語の使い方をするような人に負ける気がしないしね」
こうして。
かくして咲乃と逢坂と東橋の間で熾烈なチケットを巡る闘いが始まったのであった。
もしこの勝負にオッズが付くとすれば間違いなく咲乃が1.2倍で断トツ1番人気だろう。
調子が悪くとも彼女の異質さ、異様さ、異常さ――は変わらないのだ。
大逃げなんて生ぬるいものじゃない、トップスピードのまま、走りきるのだ。
因みに俺はというと――まるで卑猥物を扱うかのような勢いで隅に追いやられていた。
だから、という訳でもないがどうやら今回もまた俺の存在意義は見事に薄いようだ。
――けれどその間に俺は1人の女性と出会う事となる。
女の子――ではなく女性に。
まるで何処かの誰かさんをトレースしたような、そんな女性に。
僕は出会う事となる。
「……随分と古くさいフラグを立てるんだね、聡ちゃん」
梅雨が過ぎ、暑さと湿気が悪い意味で絶妙に混ざる初夏手前の季節に、スーパーで貰った福引券で3等(因みに1等は空気清浄機、間に合ってます)遊園地のペアチケットを当ててしまうという中途半端に運を使ってしまった俺は何気なく咲乃に報告していた。
「そんな回りくどい方法でデートからの性行為を狙わなくとも聡ちゃんが希望すればいつでもやらせてあげるというのに……いかなる状況下においても出来るよう常に準備は万端だよ?」
「痴女じゃねーか」
「因みに陰部と肛門には常時ローターが刺さっている」
「止めろ、それはもう引かれるタイプの下ネタだ」
どう考えても本編開始数行目で発していい言語じゃあないぞ、咲乃よ。
「勿論聡ちゃん御用達の君の陰部を僕のアホ毛に巻き付けるプレイも――」
「とりあえず黙ろうか」
俺にそんな御用達はない、腋はあっても髪はない。
その内下剤の準備は万端だよとか言われそうだな。
「別に疚しい気持ちがあって言った訳じゃねえよ。大体遊園地のアトラクションなんて咲乃にとっては巨大で壮大な拷問器具にしか見えないんじゃないのか?」
「ジェットコースター至っては暗闇の洞窟を抜けた途端隣に座っていた人の首から血飛沫が上がるらしいしね、とてもじゃないけど恐ろしくて乗れたものじゃないよ」
「お前コ○ン大好きだな」
「いずれにしても全身筋肉痛を避けられない長旅はご勘弁だよ」
「まあ、そりゃそうだよな」
遊園地に行くだけでガスマスクとベビーカーが必要とか俺も御免だ。
しかし、どうしたものか。
遊園地なんてよっぽど好きでない限りそう1人で行けるものじゃないし、かといって折角当たったものを捨ててしまうのは勿体ない気がするしな。
……どうせ捨てるくらいなら誰かに譲るのが一番無難か。
「行く相手がいないなら私が行ってあげたったってもいいけど?」
「……とりあえず窓から入ってくるな、不法侵入者」
逢坂結。
同級生であり、友人でもあるモンジャラヘッドの茶髪女。
とある事情から今は俺と同様に咲乃の助手として働いている身。
「オイオイ、私は咲乃ちんの助手様だぜ? 不法侵入な訳ないじゃんよ」
「助手は窓から入っていいルールとかないから、あと別に『様』とか付く立場じゃないから」
それにしてもあの一件以降コイツのウザさがアップデートされている気がする。
……いやでも、それもあの一件がもし正しい方向を向かえていなかったら、こんな御転婆な逢坂はもう二度と見ることは無かったのかもしれない、そう思うとこのウザさも少しは我慢出来るような気が「うるせー! 一々揚げ足取んなこのペドフィリア!」しない。
「それはいいとして、逢坂は遊園地に行きたいのか?」
「あえ?」
別に不意を突いた訳では無いのに、何故か間抜けな声を上げる逢坂。
「そ、そーだよ! だって折角当たったチケットなのに捨てるのは勿体ないだろ? だから代わりに私が行ってあげてさしあげたってもよろしいでございますのぜという訳よ」
一遍に言葉を押し込みすぎて日本語がパニックになっているが要するに無茶苦茶遊園地に行きたいってことか、やっぱり女の子ってテーマパークとかそういうのが好きなのか?
まあそんなの別にいいか、誰かに譲れればそれでいいし。
「そういうことなら別に構わな――」
「ちょっと待ったぁ!」
聞き覚えのある声がする方を向くと東橋が腕組みをして仁王立ちしていた。
主に窓際で。
東橋夕季。
彼女もまたとある事情に巻き込まれた俺の友人であり、咲乃の助手の1人。
あの一件以降彼女には際だって変化見られない(それでも東橋が運営していた3年生の学校裏サイトは自主的に閉鎖させたらしい)が、以前より頻繁に話し掛けられるようになった(?)様な気がする、華奢な身体に三つ編みがチャームポイントの天然美女だ。
「わっ、私も遊園地に行きたいんや!」
勝ちたいんや! みたいに言うな。
と思わず言いそうになったが、もしかして大阪出身なら日常言語だったりするのか?
どうなんだろ、いや割とどうでもいいな。
それにしてもデ○ズニーランドに行ける訳でも無いのにえらいテンションだな。
夢も希望も無さそうな既視感溢れるマスコットしか闊歩してなさそうなのに。
「何言ってんだよ東橋ちゃんよ、今交渉権は私の手中にあるんだぜ? それを後出しじゃんけんだなんて卑怯な真似で奪おうだなんて……感心しないなあ~」
「うっ……そっ、それは確かにそうやけど……」
「まあ当然私の交渉が決裂してしまえば交渉権はあんたに移行してしまうけど……果たしてそう簡単に物事は運ぶかな? そこで指咥えて見守るだけもあり得るかもよ~?」
「ぐぬぬぬぬ……」
別に先着順とかルールを設けた記憶はないけどな、普通にじゃんけんすればいいし。
ていうかこの遊園地のチケットってそんな凄いものなのか? 実は知る人ぞ知る凄いアトラクションが満載だったりするのかな……プリキュアショーあるなら俺も大興奮するけど。
「ほっ、ほんなら私はあんたの行動を監視する為に同行させて貰う事にするわ!」
「なぁ!? テメーやってる事が卑劣にも程があるぞ! この偽造女野郎!」
「いやいや、そんなん言うたかて私にはその使命があるしなあ、な、神名川さん?」
「確かにそうだね、第一東橋さんはそういう名目で助手になった訳だし」
何故か薄ら笑いを浮かべながら答える咲乃。
「まっ、待て待て! そうだとしても聡一がいいとは言ってないだろ!」
「別に俺は構わないけど」
「!?」
そう言って俺は逢坂と東橋にチケットを渡す。
「「は?」」
「何かよく分からないが2人とも遊園地に行きたいのは確かなんだろ? なら丁度2枚あるから1枚ずつ上げるよ、俺も捨てるのは勿体ないと思っていたから本当に助かる――ん?」
――刹那、俺の焦点が定まらなくなる。
そして意識が追いついた時には何故か仰向けで倒れていた。
石にされるんじゃないかと思う程冷たい目で見下す、東橋のおまけ付きで。
「えっと…………綺麗な一本背負いですね」
「死ね」
え、えぇ……。
お望み通りにチケットを譲ったら投げ飛ばされた上に罵られた。
恩を仇で返すってレベルじゃねーぞ。
しかも逢坂は強かに拍手してやがるし。
「鈍感もここまでくると公害もんやな」
「ほんま被害が最小限に済んでよかったで」
逢坂が関西弁になるほどにいつの間にか2人は意思疎通し合っていた。
俺、関東人と関西人が不可侵条約を結ぶまでの悪事を働いた記憶なんて無いぞ……。
「いやいや、最高に面白い喜劇をどうもありがとう」
と、ここに来て傍観していた咲乃が笑いながら壇上に上がってきた。
実は一連の元凶は全て僕が仕組んだんだよとでも言いたげな、黒幕張りのノリで。
「やはり所詮君達じゃここまでが限界だろうね、全く、たった1つの固有名詞を入れるだけでエロゲーの主人公並に鈍感な聡ちゃんでも瞬時に分かるというのに……それじゃいつまでたっても僕との距離は縮まらないよ、潔く新たな運命の人探しに精を出したらどうだい?」
「はあ? 何言っているんだ咲乃――」
「そ、そんなん言えたら今頃苦労してへんわ!」
「偉そうな事言いやがって! じゃあお前はすんなり言えるのかよ!」
「聡ちゃん、僕とイチャイチャラブラブし合う為に遊園地に愛を育みに行こう」
は? 何で急にバカップル用語全開なんだよ。
「いや、お前さっきご勘弁って――」
「まあこんなものだよ、残念だけど僕は君達と一緒に3馬鹿ユニットを組めそうにない」
「ちくしょう……引きこもりの癖に引きこもりの癖に……」
「いくら幼馴染みとはいえ……ここまで出来るんか……」
そしてまたしても俺は爪弾きにされるのだった。
俺、語り手の筈なのにね……。
「何、僕だって他人の不幸をおかずにしてご飯を食べるほど憐れな人間じゃあない、ちゃんと栄養になるおかずを毎日4品は食べないと気が済まないタチだからね、安心し給え」
「そのおかずを作っているのは俺だけどな」
「そこで、だ。この遊園地のチケットを賭けて勝負をしないかな?」
「勝負……?」
「そう、勿論この1枚だけを賭けてね。逢坂さん、東橋さん、そして僕の3人で勝負して勝った者がこのプレミアチケットを手にする事が出来るんだ。どうかな?」
「もう1枚はどうするんだよ?」
「鈍感で不感のスカトロプレイヤーは黙ってて」
「え、あ、はい」
おかしいよ、こんなの絶対おかしいよ。
その言い方だとまるで俺がスカトロを得意とするインポ男優みたいだよ。
「勝負は何でするんや?」
「そうだね、やはりここは学生の本分である勉強で勝負するのはどうかな? 確かあと2週間後には期末テスト、通称『世紀末テスト』がある筈だろう? そこで全教科の合計点数で勝負をするんだ。一番得点が高かった者がこのプレミアチケットを得ることが出来る。単純明快だし、即席のゲームで勝負するよりは期間もあるから上手く行けばチケットが手に入る上に成績も格段に伸びるかもしれないよ、勝てば一石二鳥、仮に負けても一石一鳥、最高だろう?」
相変わらず感心させられるが咲乃は利点ばかりを誇張して並べ立てて上手く欠点誤魔化そうとするのが本当に上手い気がする、咲乃のスタート地点はゴールライン手前じゃないか。
ところが意外にもその欠点に気づいたのは逢坂だった。
「いや、それは駄目だろ、だって咲乃ちんはあの『女神様』なんだろ? いくらこれから2週間寝ずに勉強しても学年1位の点数なんて取りたくても取れるもんじゃないぜ? 出来レースもいいとこじゃねーか、流石に少しはハンデをくれないと釣り合いが取れないだろ」
一瞬ニートの一面しか知らない逢坂が何で? と思ったがすぐにある事を思い出す。
そういえば逢坂の父親と咲乃の父親は旧友なんだっけ、その関係で確か咲乃については少し知っているとか何とか言っていたな、なら咲乃の異様なまでの学力は承知済みって訳か。
でも、こうなると有利な立ち位置でのフェアな勝負は出来なくなるぞ。
すると咲乃は平静な態度のままとんでもない事を言い出すのだった。
「それは確かにそうだね、なら逢坂さんと東橋さんが獲得した点数を足した合計点数と僕の獲得点数で勝負してあげても構わないよ? つまり2対1で勝負という訳だ」
「「え?」」
「確か逢坂さんは大体250人中約180位くらいだったかな? たいして東橋さんは50位前後だった筈だ。これなら2人の点数を合わせれば案外とあっさりと僕を負かすかもしれないよ? それに僕に勝った後はお互いのどちらか点数が高い方を勝ちにすればいい、そうなれば僕というより最早君達2人の一騎打ちになるんじゃないかな?」
彼女がした提案はあまりに無謀なものだった。
たとえ全教科満点を取っても負ける可能性が十分にある、それ程のもの。
しかしそれでも――彼女には余裕を感じられるように見えた。
「神名川さんがそう言うなら私は別にかまへんけど……」
「こっちは否定する理由が無いしな、後で後悔すんなよ?」
「なに、僕が言い出したのだから心配御無用だよ、第一馬から落馬するみたいな日本語の使い方をするような人に負ける気がしないしね」
こうして。
かくして咲乃と逢坂と東橋の間で熾烈なチケットを巡る闘いが始まったのであった。
もしこの勝負にオッズが付くとすれば間違いなく咲乃が1.2倍で断トツ1番人気だろう。
調子が悪くとも彼女の異質さ、異様さ、異常さ――は変わらないのだ。
大逃げなんて生ぬるいものじゃない、トップスピードのまま、走りきるのだ。
因みに俺はというと――まるで卑猥物を扱うかのような勢いで隅に追いやられていた。
だから、という訳でもないがどうやら今回もまた俺の存在意義は見事に薄いようだ。
――けれどその間に俺は1人の女性と出会う事となる。
女の子――ではなく女性に。
まるで何処かの誰かさんをトレースしたような、そんな女性に。
僕は出会う事となる。
それが今の逢坂を形成するのに充分たる理由だったのかといえば、分からない。
けれど彼女は歪んでいる――精神が、性格が、人格が壊れているのだ。
しかし――彼女は本当に歪んでしまったと言い切ってよいのだろうか。
『歪む』というのは元にあった精神が崩壊して初めて『歪む』と言えるのだ。
つまりそれは端から見てある人間の性格が悪い意味で変わってしまうということ。
ならばその定義の中に彼女は――逢坂結はそれに該当するのだろうか。
初めから歪んでいる彼女を、歪んでしまったと言い切ってよいのだろうか。
「……これはあれだな、八百長だな」
「んな訳ねーだろ馬鹿。聡一にセンスが無いだけだ」
澄み切った青空が広がる土曜日の昼下がり、『いいとも』で定番の新宿アルタ前のモニターの数倍はあろう大画面の前で、俺は馬券を人力シュレッダーで細切れにしていた。
何故かと言われれば逢坂に誘われたからなのだが、それにしても趣味がおっさん臭過ぎる。
要するに俺は月5000円の小遣いが倍になるかもしれないという、うまい話に乗せられて単勝1番人気に1000円賭け、そして物の見事に快晴の彼方に飛ばされていった訳だ。
因みに競馬新聞片手に喜ぶ逢坂の奴は10000円以上も勝っていやがった。
「センスも糞もないだろ、2.5倍で1番人気な上に親があのディープインパクトだぞ? それが3着ならまでしも着外で負けるって、刺青はいったおにいが絡んでいるに違いない」
しかも騎乗しているのはあの武豊さんなんやで…………ってあれ? 武幸?
「そりゃブランドとオッズに惑わされてる典型だぜ聡一、いっとくけどディープが親の馬は他にも沢山いるけど、どの馬も悲しいまでに走って無いんだぞ?」
「え? そうなの?」
ディープインパクトといえば競馬知識が皆無の俺でも知っていたから、てっきりその子もすんげー速い馬だと思っていたんだが……、1敗しかしたこと無いらしいし。
「まったくよーそういう事はちゃんと下調べしとかないと駄目に決まってんだろ? 前走のタイムとか距離がその馬に合っているのかとか、細かい所が結構重要になってくるんだぜ?」
たとえ俺の脳の機能が普段の2分の1しか使えなくなったとしても逢坂の奴から教えを頂くなど那由他が一にでも無いと思っていたが……まさかこんな形で訪れようとは不覚。
「……ていうか、そういう所に頭使えるなら勉強にも頭使えよ」
「うっ、それはごもっともではあるが……ほら、嫌いな事ってどうにも本気が出せないじゃん?」
「まあ、俺も決して頭良い部類の人間ではないからな、気持ちは分からんでもないが」
「気合い入れる為に掃除始めたら、時間が掛かり過ぎて明日でいいやってなったり」
「他にも教科書とか参考書を開いただけ勉強した気になっちゃうんだよな」
「そうそう! 他にも1人SMごっことかしたり――」
「いや、それはない」
「あれっ」
全く持って、共感出来ない。
何で俺の周りはこう基本変態しかいないのか。
「けどよ、今回咲乃ちんとの勝負にはとっておきの秘策があるんだなこれが」
そう言って妙に自信あり気に胸を張る逢坂。
己のやる気次第の勉強に秘策も糞もない気のせいだろうか。
「……ほう、とりあえず聞かせて貰おうか」
「yahoo――」
「ダウト」
「まだ一単語しか言ってないだろ!」
睡眠学習とかならまだしもまさか最近流行りの手法を持ち出して来るとは流石逢坂さん。
「一単語しか言ってなくても分かる。どうせ携帯を使って分からない問題をyahoo知恵袋に問題を投稿し、そして第三者に回答してもらうつもりだったんだろ?」
「なっ!? 何で分かった……! 我ながら天才的な案だと思っていたのに…………はっ! さては聡一が過去に実証済みの十八番だったりするのか!?」
「そんな訳無いだろ、もっと新聞読めボケ」
カンニングして真ん中よりちょっと後ろの順位って、どんだけ俺アホなんだよ。
これが洒落じゃなくてマジで言っているから怖い。
「関係ないけどさ、逢坂ってギャンブルが趣味なのか?」
恐らくこれ以上考えさせてもカンニング以外の秘策を思いつきそうな気配が無いので強制的に話題転換。
「え? ああ、確かに今時の女子高生の趣味が競馬って珍しいもんな」
もしかしたら最近の女子高生の間では俺が知らないだけで競輪や競馬やボートレースが超イケイケなのかと思っていたが、どうやら問題無く逢坂の間でだけのブームらしい。
「別に趣味って訳でもないんだけどさ、単純にこの場所の、この雰囲気が好きなんだよ。ただここにいてもやれる事って馬券以外も何もないだろ? 小遣いは腐る程あったからさ、元々は時間潰しの為にやり始めたんだ。だから趣味というよりは『ついで』かな」
そう彼女は淡く、儚げな顔をして言った。
その姿は、風貌は、いつでも、四六時中見受けられる逢坂のそれでは無く、まるで欧州の貴族を思わせるその気風で――俺はほんの一瞬彼女を額縁に入れて飾りたい衝動に駆られる。
当の本人は無意識だったのかもしれないが、逢坂のそんな顔を見たのは初めてだった。
「ついでって、じゃあこの場所はお前にとって思い出の場所か何かなのか?」
こんな馬とおっさんしかいない様な場所がか、というのは寸前で飲み込み、問う。
「んー、敏明に連れて行って貰った場所らしいけど、思い出と言われると――」
「は? とっ、敏明?」
まさか元彼と一緒に行った場所とかいう滅茶苦茶で無茶苦茶な展開はふざけ倒せよ。
「ん? ああ、敏明っていうのは私の親父の事ね」
「へっ、親父……?」
何だ……逢坂の父親か……ってちょっと待て。
「お前、自分の父親の事を名前で呼ぶのか?」
「えぁ? そりゃまあ、別に親らしい事して貰った記憶ないからなあ」
だから親父じゃ違和感バリバリだから名前で呼ぶんだよ――と、それがまるで当然であるかのように、不満に持った記憶すら無いとでも言いたげな顔で、彼女は答える。
そんな話、漫画や小説の世界だけの、都市伝説かと思っていた。
ただ逢坂の父親って新都高校の理事長である以外よく分からない、というのはあった。
いや、そりゃ勿論友人の父親なんて家族ぐるみの付き合いじゃなきゃ詳しく知らなくて当たり前なんだけど……何というかそういう意味じゃなくて――まるで名目上名前があるだけで本当は存在しないのではないかと思わせるほど誰も彼の事を詳しく知っている者はいないのだ。学校行事に挨拶しに来た場面すら見たことないし。
それこそ逢坂結しか知らないんじゃないか? というぐらい。
でも、その逢坂でさえ、家族でありながら殆ど絶縁状態にあったなんて……。
咲乃の親といい、逢坂の親といい金持ちは自分の子供を他人とでもおもってんのか?
「母さんも私が物心つく頃にはいなくなってたしな――あ、いっけね、こういう家庭の内情は関係無い人に喋ったら駄目って深雪に言われてたんだった。まあ、別に聡一ならいっか」
「え……? ちょ、ちょっと待てよ」
今何て言った? 母親が……いない?
「なんだよ」
「何で……そんな平然としてられるんだよ? 母親がいなくて――父親もいないようなもんなのにどうして……そこまで平気な口ぶりで話せるんだよ?」
「え? うーん、何でだろうな――深雪がいたからっていうのもあると思うけど――正直私にも分からない。だからこう言うのもなんだけど同情みたいな、情けみたいなのを掛けられても返事のしようがないんだよね――聡一、なあ聡一――それっておかしいのかなあ?」
まるで他人事のように話し、問い掛けてくる逢坂に俺は寒気を覚える。
おかしい? おかしいなんてもんじゃない、それはもう狂っているよ。
けれど、そんな台詞を吐ける筈が無かった。自覚を、理解を、認識をしていない彼女にそれを教えたところで『へぇ』の一言で終わりだろう。それを世間の当然として、疑問を持たさないように育ってきた彼女に今更それを説いた所でそれは筋違いな気がする。
そう、もし分かっているのなら、何も知らなかったなら、ほんの数ヵ月でも両親と過ごす期間があったならば自身の境遇に何かしらの寂寥感を覚えて然るべきであるからだ。俺の眼前で彼女はそれを疑問に持って生きている筈なのだ。
しかし、現実は同じ屋の下に住んでいる父親も深雪とかいう教育係みたいな奴も逢坂の『当たり前』の器に『有り得ない』を詰め込んだ。だから、今の彼女が作られた。
なら、おかしいのは逢坂じゃないのかもしれない。
おかしいのは逢坂を取り巻く環境――。
「――おかしくないよ、何も、おかしくない」
今なら分かる、どうして彼女が咲乃や東橋に対してあんな行為に及んだのか。
恐らくそんな事ですら――善悪の区別すらよく分かっていない。
何故彼らが彼女をこんな形にしてしまったのか――理由は分からない、だけど、それが彼女を幸せにさせたとは俺には到底思えない。
「だよなあ、皆おかしいって言うからずっと不思議だったんだよ」
相変わらず聡一は私のこと分かってくれるなあ、と歯を出して笑う逢坂。
やべえ、普通に可愛い。
じゃなくて。
「だから――」
だから、壊してやろう。
「一緒に世紀末テストの勉強しよう」
「――ふへ?」
誰も彼女を、普通の彼女に何もしようとしないなら――
「毎日は無理だけど、互いを監視し合って頑張って勉強しよう」
「いっ、いやでもそれだと本来の目的ある意味果たしてしまうような……」
俺が普通の彼女を壊して、おかしくしてやる。
それが咲乃の言う真の解決に繋がるのであれば尚更だ。
「雑談さえしなければ1人で勉強するよりは捗ると思うぞ? まあ嫌なら別に――」
「いやいやいやいや! 嫌なんていってねーよ!? 寧ろ全くおっけーだよ、万事オールライトだよ、問題ナッシングナイトクルージングだよ! 一緒にやろうぜコンチクショウよ!」
「お、おう、とりあえず国語から勉強するか」
だから、逢坂の事をもっと知ろう。俺の方から歩み寄ろう。
そうして俺は5枚目の馬券を破り捨てた。
けれど彼女は歪んでいる――精神が、性格が、人格が壊れているのだ。
しかし――彼女は本当に歪んでしまったと言い切ってよいのだろうか。
『歪む』というのは元にあった精神が崩壊して初めて『歪む』と言えるのだ。
つまりそれは端から見てある人間の性格が悪い意味で変わってしまうということ。
ならばその定義の中に彼女は――逢坂結はそれに該当するのだろうか。
初めから歪んでいる彼女を、歪んでしまったと言い切ってよいのだろうか。
「……これはあれだな、八百長だな」
「んな訳ねーだろ馬鹿。聡一にセンスが無いだけだ」
澄み切った青空が広がる土曜日の昼下がり、『いいとも』で定番の新宿アルタ前のモニターの数倍はあろう大画面の前で、俺は馬券を人力シュレッダーで細切れにしていた。
何故かと言われれば逢坂に誘われたからなのだが、それにしても趣味がおっさん臭過ぎる。
要するに俺は月5000円の小遣いが倍になるかもしれないという、うまい話に乗せられて単勝1番人気に1000円賭け、そして物の見事に快晴の彼方に飛ばされていった訳だ。
因みに競馬新聞片手に喜ぶ逢坂の奴は10000円以上も勝っていやがった。
「センスも糞もないだろ、2.5倍で1番人気な上に親があのディープインパクトだぞ? それが3着ならまでしも着外で負けるって、刺青はいったおにいが絡んでいるに違いない」
しかも騎乗しているのはあの武豊さんなんやで…………ってあれ? 武幸?
「そりゃブランドとオッズに惑わされてる典型だぜ聡一、いっとくけどディープが親の馬は他にも沢山いるけど、どの馬も悲しいまでに走って無いんだぞ?」
「え? そうなの?」
ディープインパクトといえば競馬知識が皆無の俺でも知っていたから、てっきりその子もすんげー速い馬だと思っていたんだが……、1敗しかしたこと無いらしいし。
「まったくよーそういう事はちゃんと下調べしとかないと駄目に決まってんだろ? 前走のタイムとか距離がその馬に合っているのかとか、細かい所が結構重要になってくるんだぜ?」
たとえ俺の脳の機能が普段の2分の1しか使えなくなったとしても逢坂の奴から教えを頂くなど那由他が一にでも無いと思っていたが……まさかこんな形で訪れようとは不覚。
「……ていうか、そういう所に頭使えるなら勉強にも頭使えよ」
「うっ、それはごもっともではあるが……ほら、嫌いな事ってどうにも本気が出せないじゃん?」
「まあ、俺も決して頭良い部類の人間ではないからな、気持ちは分からんでもないが」
「気合い入れる為に掃除始めたら、時間が掛かり過ぎて明日でいいやってなったり」
「他にも教科書とか参考書を開いただけ勉強した気になっちゃうんだよな」
「そうそう! 他にも1人SMごっことかしたり――」
「いや、それはない」
「あれっ」
全く持って、共感出来ない。
何で俺の周りはこう基本変態しかいないのか。
「けどよ、今回咲乃ちんとの勝負にはとっておきの秘策があるんだなこれが」
そう言って妙に自信あり気に胸を張る逢坂。
己のやる気次第の勉強に秘策も糞もない気のせいだろうか。
「……ほう、とりあえず聞かせて貰おうか」
「yahoo――」
「ダウト」
「まだ一単語しか言ってないだろ!」
睡眠学習とかならまだしもまさか最近流行りの手法を持ち出して来るとは流石逢坂さん。
「一単語しか言ってなくても分かる。どうせ携帯を使って分からない問題をyahoo知恵袋に問題を投稿し、そして第三者に回答してもらうつもりだったんだろ?」
「なっ!? 何で分かった……! 我ながら天才的な案だと思っていたのに…………はっ! さては聡一が過去に実証済みの十八番だったりするのか!?」
「そんな訳無いだろ、もっと新聞読めボケ」
カンニングして真ん中よりちょっと後ろの順位って、どんだけ俺アホなんだよ。
これが洒落じゃなくてマジで言っているから怖い。
「関係ないけどさ、逢坂ってギャンブルが趣味なのか?」
恐らくこれ以上考えさせてもカンニング以外の秘策を思いつきそうな気配が無いので強制的に話題転換。
「え? ああ、確かに今時の女子高生の趣味が競馬って珍しいもんな」
もしかしたら最近の女子高生の間では俺が知らないだけで競輪や競馬やボートレースが超イケイケなのかと思っていたが、どうやら問題無く逢坂の間でだけのブームらしい。
「別に趣味って訳でもないんだけどさ、単純にこの場所の、この雰囲気が好きなんだよ。ただここにいてもやれる事って馬券以外も何もないだろ? 小遣いは腐る程あったからさ、元々は時間潰しの為にやり始めたんだ。だから趣味というよりは『ついで』かな」
そう彼女は淡く、儚げな顔をして言った。
その姿は、風貌は、いつでも、四六時中見受けられる逢坂のそれでは無く、まるで欧州の貴族を思わせるその気風で――俺はほんの一瞬彼女を額縁に入れて飾りたい衝動に駆られる。
当の本人は無意識だったのかもしれないが、逢坂のそんな顔を見たのは初めてだった。
「ついでって、じゃあこの場所はお前にとって思い出の場所か何かなのか?」
こんな馬とおっさんしかいない様な場所がか、というのは寸前で飲み込み、問う。
「んー、敏明に連れて行って貰った場所らしいけど、思い出と言われると――」
「は? とっ、敏明?」
まさか元彼と一緒に行った場所とかいう滅茶苦茶で無茶苦茶な展開はふざけ倒せよ。
「ん? ああ、敏明っていうのは私の親父の事ね」
「へっ、親父……?」
何だ……逢坂の父親か……ってちょっと待て。
「お前、自分の父親の事を名前で呼ぶのか?」
「えぁ? そりゃまあ、別に親らしい事して貰った記憶ないからなあ」
だから親父じゃ違和感バリバリだから名前で呼ぶんだよ――と、それがまるで当然であるかのように、不満に持った記憶すら無いとでも言いたげな顔で、彼女は答える。
そんな話、漫画や小説の世界だけの、都市伝説かと思っていた。
ただ逢坂の父親って新都高校の理事長である以外よく分からない、というのはあった。
いや、そりゃ勿論友人の父親なんて家族ぐるみの付き合いじゃなきゃ詳しく知らなくて当たり前なんだけど……何というかそういう意味じゃなくて――まるで名目上名前があるだけで本当は存在しないのではないかと思わせるほど誰も彼の事を詳しく知っている者はいないのだ。学校行事に挨拶しに来た場面すら見たことないし。
それこそ逢坂結しか知らないんじゃないか? というぐらい。
でも、その逢坂でさえ、家族でありながら殆ど絶縁状態にあったなんて……。
咲乃の親といい、逢坂の親といい金持ちは自分の子供を他人とでもおもってんのか?
「母さんも私が物心つく頃にはいなくなってたしな――あ、いっけね、こういう家庭の内情は関係無い人に喋ったら駄目って深雪に言われてたんだった。まあ、別に聡一ならいっか」
「え……? ちょ、ちょっと待てよ」
今何て言った? 母親が……いない?
「なんだよ」
「何で……そんな平然としてられるんだよ? 母親がいなくて――父親もいないようなもんなのにどうして……そこまで平気な口ぶりで話せるんだよ?」
「え? うーん、何でだろうな――深雪がいたからっていうのもあると思うけど――正直私にも分からない。だからこう言うのもなんだけど同情みたいな、情けみたいなのを掛けられても返事のしようがないんだよね――聡一、なあ聡一――それっておかしいのかなあ?」
まるで他人事のように話し、問い掛けてくる逢坂に俺は寒気を覚える。
おかしい? おかしいなんてもんじゃない、それはもう狂っているよ。
けれど、そんな台詞を吐ける筈が無かった。自覚を、理解を、認識をしていない彼女にそれを教えたところで『へぇ』の一言で終わりだろう。それを世間の当然として、疑問を持たさないように育ってきた彼女に今更それを説いた所でそれは筋違いな気がする。
そう、もし分かっているのなら、何も知らなかったなら、ほんの数ヵ月でも両親と過ごす期間があったならば自身の境遇に何かしらの寂寥感を覚えて然るべきであるからだ。俺の眼前で彼女はそれを疑問に持って生きている筈なのだ。
しかし、現実は同じ屋の下に住んでいる父親も深雪とかいう教育係みたいな奴も逢坂の『当たり前』の器に『有り得ない』を詰め込んだ。だから、今の彼女が作られた。
なら、おかしいのは逢坂じゃないのかもしれない。
おかしいのは逢坂を取り巻く環境――。
「――おかしくないよ、何も、おかしくない」
今なら分かる、どうして彼女が咲乃や東橋に対してあんな行為に及んだのか。
恐らくそんな事ですら――善悪の区別すらよく分かっていない。
何故彼らが彼女をこんな形にしてしまったのか――理由は分からない、だけど、それが彼女を幸せにさせたとは俺には到底思えない。
「だよなあ、皆おかしいって言うからずっと不思議だったんだよ」
相変わらず聡一は私のこと分かってくれるなあ、と歯を出して笑う逢坂。
やべえ、普通に可愛い。
じゃなくて。
「だから――」
だから、壊してやろう。
「一緒に世紀末テストの勉強しよう」
「――ふへ?」
誰も彼女を、普通の彼女に何もしようとしないなら――
「毎日は無理だけど、互いを監視し合って頑張って勉強しよう」
「いっ、いやでもそれだと本来の目的ある意味果たしてしまうような……」
俺が普通の彼女を壊して、おかしくしてやる。
それが咲乃の言う真の解決に繋がるのであれば尚更だ。
「雑談さえしなければ1人で勉強するよりは捗ると思うぞ? まあ嫌なら別に――」
「いやいやいやいや! 嫌なんていってねーよ!? 寧ろ全くおっけーだよ、万事オールライトだよ、問題ナッシングナイトクルージングだよ! 一緒にやろうぜコンチクショウよ!」
「お、おう、とりあえず国語から勉強するか」
だから、逢坂の事をもっと知ろう。俺の方から歩み寄ろう。
そうして俺は5枚目の馬券を破り捨てた。
子供の頃の俺というのは自分で言うのも何だが超がつくほど正義感が強い子供だった。
誰に言われるでもなく理不尽に虐められる弱者は守り、その対極に位置する自分勝手な強者には立ち向かうという、今の俺からは想像も出来ない、そんなヒーロー気質な性格。
その所為で上級生に目を付けられることはしばしばあったが、それでも同級生からの評判はすこぶる良く、低学年の頃は友達が100人いたのでないかと思うほど人気者で、本当に365日人と遊ばなかった日は無かったと断言出来るほどの順風満帆な生活を送っていた。
そんな中でも特に仲が良かったのは咲乃と、もう1人はユウキという男の子だった。
幼女咲乃は実は今からは想像出来ないほど活発で、恐らく今時の家でゲームをして育ってきたようなもやし男児よりはよっぽど生傷の絶えない生活を送っていたような奴で、対してユウキは小学校2年生の夏休み明けに引っ越して来た転校生だったのだが、筋金入りの引っ込み思案な性格が起因して、転校生というちょっとした有名人ポジションにありながら学校では全く友達が出来ず、いつも教室の隅で本を読んでいるような根暗な子供だった。
けれど、当時の俺の性格やユウキの家が真向かいにあったというのもあってか、俺が咲乃を連れて家にけしかけたのをきっかけであっさり仲良くなり、気がつけば常に3人一緒に行動していたといっていいほど、深い絆で結ばれた関係になっていた。
今思い返してもあの頃は毎日が本当に楽しくて、多分俺の人生の中で一番輝いていた瞬間だと自負しても問題は無いだろう、弱者に崇められながら強者を制す、そして周りには自分を信頼してくれる仲間もいる、さながら革命家のような気分であったと思う。
恐らく大人にはまだ数字にして2桁もいっていない年齢にも関わらず、そんなある種の気味の悪さを感じさるような、ませたクソガキに見えたであろう。
そんなある日のことだった。咲乃が大事にしていた玩具のペンダントが無くなる事件が起こったのだ。
そのペンダントは俺が咲乃の誕生日の時にあげたもので、よほど嬉しかったのか、咲乃はそれを四六時中大事そうに身につけて『たからもの』と自慢していた。
どうもそのペンダントが体育の授業から戻ってきたらなくなっていたらしい、そんなに大事なら体操服のポケットに入れとけよと思ったが、多分何かの拍子にポケットから出て無くしたり、汚れるのを嫌がったのだろう、スカートのポケットにしまっておいたようだった。
勿論俺はユウキと一緒に探し回った――もちろん誰かが盗んだ可能性も考慮して学年問わず沢山の人に、時には声を荒げて訊き回ったりもした。
が、結局ペンダントはおろか有力な情報さえも聞き出すことが出来なかった。
その内咲乃も『探してくれただけで十分だよ』と言って諦めてしまい、結局後腐れが残ったままこの件は終わりを迎えようとしてしまっていた――
――俺が、ユウキの部屋で咲乃のペンダントを見つけなければ。
全く持って理解が出来なかった、思考が停止したと言ってもいい、でも、それは当然であろう、あれだけ仲の良かった、固い絆で結ばれていた筈の、自信を持って親友と呼んでいたその友が、あろうことか同じ親友である咲乃の宝物を盗んでいたのだから。
言うまでもなくショックだった、同じ状況なら誰だってそうだろう、信じていた仲間に裏切られることほど悲しく、辛いものはない、その中に大人子供は関係ない。
だから俺は酷く怒り、猛ってしまった。立場的に弱き者を守らねばならないヒーローが感情的に、問答無用に、か弱い子猫に正義を執行したのだ。
でも、どうしようもなかったのだ。その時の俺には彼が敵に、強者に見えてしまっていた。
それは、俺が強弱大小に関わらず、悪いことをした奴は総じて悪者だと思っていたから。
無論、これをきっかけとして俺はユウキの間には巨大な溝が出来てしまった――そして彼はまた教室の隅で本を読む生活に逆戻りしてしまったのである。
被害者であるにも関わらず、咲乃には『ペンダントのことはもういいから』と何度も仲直りするように言われたものだったが、『正義』の観念に捕らわれ過ぎていた俺は変に意固地になってしまい、咲乃説得も虚しくいつまで経っても互いを隔てる溝は埋まらなかった。
そんな状態が続いていた3年生の夏休み前、ユウキが突然転校することになった。
いや、突然という言い方はおかしいのかもしれない、というのも後から聞いた話だが彼の家庭は転勤が日常茶飯事だったのだ――実際この学校に転校してくる前にも既に2回も転勤を重ねていた。
だから、それは突然ではなく――必然だったのだろう。
けれど大人の事情など子供の俺は知る由もない、だから唐突以外のなにものでもなかったのだ、ましてや彼と絶交状態にあったのだから尚更である。
――正直どうしたらいいのか分からなかった。
俺は自分がやったことに一切の間違いはなかったと信じていた。それがたとえ生涯の友と誓い合った仲間であろうとも、悪事を働いたのであれば過去の思い出なんて全部、総じて、偽りだったのだと、そうとしか思えなかった。
だから、ヒーローを誑かせんとする怪人には正義の鉄槌を下して当たり前なんだと、信じて疑わなかったのだ。
でも、それでも、だとしても、俺と咲乃とユウキが一緒に遊んできた絶世の日々があったことに嘘偽りはないのだ、それが表面的であったとしても、もう二度と戻って来ないのかもしれない、修復不可能になる一歩手前まで来ているのだとしても――それを考えると不思議と胸がキリキリと痛み出すのも事実だった。
その胸中をユウキが転校する当日、迷いに迷った末に咲乃に打ち明けたらビンタからの上段蹴りをされて怒られた。
聡ちゃんはずるいって、そんなの正義という名の盾で守りながら自分の考え方を押しつけているだけに過ぎないよって、本当の正義は相手の気持ちを分かってあげなきゃいけない――ユウキがどうしてあんなことをしたのかもっとよく考えて――悪いことにでも何か事情があるときだってあるんだよって、目に大粒の涙を溜めながら言われてしまった。
まさに寝耳に水、その言葉にショックを受けたのは言うまでもなかった。というのも、悪にも事情があるだなんて馬鹿げた話、絶対に無いと思っていたからだ。
しかも、同時にそれは所詮受けいりの主義とはいえ、俺の根底にある生き方を否定されているようなものだったのだ。信じる信じないの問題ではなく、信じる訳にはいかなかった。
けれど、現に俺の正義が原因で目の前にいる彼女は泣いてしまっていた――仲間で、親友である筈の彼女を――ならば俺の正義は間違っていたのだと、認めざるを得なかった。
思えば咲乃の方がよっぽど正義で、大人だったのだ。
なら子供だから仕方ないと片付けて、あっさりとやり直せばよかったのかもしれないが、いきなり俯瞰的に物事を見れるようなら今頃こんなことにはなっていないだろう。
だから中途半端に大人ぶり、悦に浸ってしまっていた俺は実に哀れに、何も言えずに項垂れるしかなかった、当然これからユウキに対して何をすればいいのかも、分からぬまま。
その様子を見かねたからなのか、それとも純粋に後押しをしてくれたのか、それは分からなかったが、咲乃はくしゃくしゃになりかけの顔を元に戻すかのように笑うと、こう言った。
『けど、こんなの嫌だって、辛いって思っているなら、まだ大丈夫、聡ちゃんはヒーローでいられるよ』
*
「……う……ん……?」
目を覚ますと何故かリビングに仰向けになって寝ていた。
へ……? 俺何してたんだっけ、確か飯を食おうとして、それで――
「…………オイコラ咲乃ボケテメェ、何故俺が座ろうとした瞬間に椅子を後ろに下げるなどという新春期イキりたい盛りの中学生がやるようなしょうもない悪戯をしやがった」
「何を言っているんだい。僕がチ○コイジりたい盛りの中学生がするような一方的愚行を犯す訳がないだろう、これは聡ちゃんが僕に仕掛けた無差別攻撃に対する報復だ」
「ほう、今日の晩飯に肉料理が入っていないだけで俺は気絶にまで追い込まれるのか、これは震えが止まらんな、USAの圧倒的軍事力を眼前で見せつけられたような気分だ」
「ふふふ、だろう? これに懲りたなら明日は必ず唐揚げにし給えよ」
「そうだな、前向きに検討させて貰うとしよう」
明日は精進料理パーティだな、亀甲縛りにして無理矢理食わせてやる。
――それにしても昔の夢を見るなんて、まるでジジイだな、俺。
「ユウキ――か」
「肉料理が無いならアメリカンドッグを食べればいいじゃない」と戯言をほざきながら俺のズボンに手をかけようとする咲乃を引き剥がすと、独り言のようにそう呟いた。
「ん? 随分と懐かしい名前だね、ユウちゃんか……もう彼とは10年も会っていないか」
「やっぱり咲乃も覚えてるか、ユウキのこと」
割と痛む後頭部を押さえながら起き上がると、倒された椅子を起こし、一応咲乃を警戒しながらようやく座る。
「聡ちゃんより圧倒的に記憶力が優れている僕が忘れていたら明日は日本沈没だよ――それに、あれほど筆舌に尽くしがたい日々を記憶から抹消出来るなら是非とも教えて欲しいね」
「そりゃそうだな、もしかしたら記憶喪失しても忘れないかもな」
大体俺が最も輝いた日々でもあったんだ――それが鈍い輝きだろうと、忘れはしない。
忘れては、いけないのだ。
「一時期は心配で仕方なかったけど、最後はちゃんと仲直り出来たみたいだしね」
「そう……だな」
そう。
俺はあの後ユウキに会いに行った、素直な気持ちを伝えに行く為に。
けれど、本当のことを言えばそれで仲直りしたかといえば、微妙なのだ。
もちろんそのことは咲乃に話していない、別に咲乃に言えないような内容だったから、という訳ではない、ただ言いたくなかったのだ、単純に自分のしたことが照れくさかったというのもあったけどそれ以上に――咲乃に迷惑をかけたくなかったから。
だからそれ以降僕はヒーローごっこを辞めてしまった、噂によればそれによって学年中が騒然としたらしいけど……、今思い返しても信じられない話である。
……そういえばあれから一切モテなくなったな。
「ユウキの奴、元気にやってるかな」
「あの人見知り具合は病的だったからね、あのまま成長していたら引きこもりにでもなっていてもおかしくないところだ」
「お前がそれを言うか」
「失敬な、僕は人見知りではないしコモラーでもないよ、ちゃんと学生だし『神名川人生相談事務所』を営業しているだろう、聡ちゃんの網膜は捏造された神経情報でも送っているのかい?」
「単なる慈善活動までも職業とするか、最近は依頼なんて全く来てない癖に」
あと俺の人体組織を否定するのは止めろ。
「まあ、極論を言えば別に引きこもりでも構わないのだけど」
「え、そんなあっさりと認めるのかよ」
「なんたって僕の隣には聡ちゃんがいるから、寂しくないしね」
そうさらりと言うと、すまし顔で俺の膝の上に乗っかる咲乃。
「……え、いや、何やってんだよ」
「何を恥ずかしがっているんだい、僕と聡ちゃんは恋仲なのだからこれぐらい当たり前のスキンシップだろう? もしかしてずっとリアルお飯事をしていたとでも思っていたのかい?」
「……いや、そんなことはないですけど……」
お前の愛情表現はどストレート過ぎるんだよ、受け止めきれねーんだよ。
「だから僕は幸せでたまらない、もちろんあの頃だって幸せだったよ? でも今だってそれに引けを取らないほど幸福で、至福で、陶酔してしまっているんだ」
俺の胸に身体を預けながらそう言い切る咲乃の顔は、充実感に満たされた優しい顔をしていて、あまりの可愛さに一瞬呼吸の仕方を忘れそうになる。
……そうか、なんだかんだいっても俺と咲乃も5年以上もの間疎遠だったんだ。
それを俺は別に一般的なことだと思ってあまり気に止めていなかったけど、咲乃はこんなにも心待ちにしていた――こうしてまた出会えるのを、願って止まなかった。
ずっと、ずっと1人で――
「――だな、その上でいつか3人で話せる機会があれば、言うこと無しだろうな」
「案外その日近いのかもしれないけどね」
「? どういう意味だよ」
「なんでもないよ――っと、さて、イチャラブもこれぐらいにしてそろそろ夕食にしようか、早くしないと折角聡ちゃんが作ってくれた糞まずそうな肉無し料理が更にまずくなる」
「『文句言うんやったら食べんでええ』って子供に言う親の心境が今痛いほど分かったわ」
俺は咲乃の最後の言葉を軽い気持ちで受け止めていた。
正直に言えば聞き流していたと言ってもいい。
だからこそ、1ヶ月後本当にユウキと再会した時は心底驚いたものだった。
でも――それは幸福の始まりではなく、不幸の始まり。
夏休みの2分の1を一瞬で終わらせた、悪夢の幕開け。
焦熱地獄が現世に実在するのなら、もしかしたらこれなのかもしれない。
誰に言われるでもなく理不尽に虐められる弱者は守り、その対極に位置する自分勝手な強者には立ち向かうという、今の俺からは想像も出来ない、そんなヒーロー気質な性格。
その所為で上級生に目を付けられることはしばしばあったが、それでも同級生からの評判はすこぶる良く、低学年の頃は友達が100人いたのでないかと思うほど人気者で、本当に365日人と遊ばなかった日は無かったと断言出来るほどの順風満帆な生活を送っていた。
そんな中でも特に仲が良かったのは咲乃と、もう1人はユウキという男の子だった。
幼女咲乃は実は今からは想像出来ないほど活発で、恐らく今時の家でゲームをして育ってきたようなもやし男児よりはよっぽど生傷の絶えない生活を送っていたような奴で、対してユウキは小学校2年生の夏休み明けに引っ越して来た転校生だったのだが、筋金入りの引っ込み思案な性格が起因して、転校生というちょっとした有名人ポジションにありながら学校では全く友達が出来ず、いつも教室の隅で本を読んでいるような根暗な子供だった。
けれど、当時の俺の性格やユウキの家が真向かいにあったというのもあってか、俺が咲乃を連れて家にけしかけたのをきっかけであっさり仲良くなり、気がつけば常に3人一緒に行動していたといっていいほど、深い絆で結ばれた関係になっていた。
今思い返してもあの頃は毎日が本当に楽しくて、多分俺の人生の中で一番輝いていた瞬間だと自負しても問題は無いだろう、弱者に崇められながら強者を制す、そして周りには自分を信頼してくれる仲間もいる、さながら革命家のような気分であったと思う。
恐らく大人にはまだ数字にして2桁もいっていない年齢にも関わらず、そんなある種の気味の悪さを感じさるような、ませたクソガキに見えたであろう。
そんなある日のことだった。咲乃が大事にしていた玩具のペンダントが無くなる事件が起こったのだ。
そのペンダントは俺が咲乃の誕生日の時にあげたもので、よほど嬉しかったのか、咲乃はそれを四六時中大事そうに身につけて『たからもの』と自慢していた。
どうもそのペンダントが体育の授業から戻ってきたらなくなっていたらしい、そんなに大事なら体操服のポケットに入れとけよと思ったが、多分何かの拍子にポケットから出て無くしたり、汚れるのを嫌がったのだろう、スカートのポケットにしまっておいたようだった。
勿論俺はユウキと一緒に探し回った――もちろん誰かが盗んだ可能性も考慮して学年問わず沢山の人に、時には声を荒げて訊き回ったりもした。
が、結局ペンダントはおろか有力な情報さえも聞き出すことが出来なかった。
その内咲乃も『探してくれただけで十分だよ』と言って諦めてしまい、結局後腐れが残ったままこの件は終わりを迎えようとしてしまっていた――
――俺が、ユウキの部屋で咲乃のペンダントを見つけなければ。
全く持って理解が出来なかった、思考が停止したと言ってもいい、でも、それは当然であろう、あれだけ仲の良かった、固い絆で結ばれていた筈の、自信を持って親友と呼んでいたその友が、あろうことか同じ親友である咲乃の宝物を盗んでいたのだから。
言うまでもなくショックだった、同じ状況なら誰だってそうだろう、信じていた仲間に裏切られることほど悲しく、辛いものはない、その中に大人子供は関係ない。
だから俺は酷く怒り、猛ってしまった。立場的に弱き者を守らねばならないヒーローが感情的に、問答無用に、か弱い子猫に正義を執行したのだ。
でも、どうしようもなかったのだ。その時の俺には彼が敵に、強者に見えてしまっていた。
それは、俺が強弱大小に関わらず、悪いことをした奴は総じて悪者だと思っていたから。
無論、これをきっかけとして俺はユウキの間には巨大な溝が出来てしまった――そして彼はまた教室の隅で本を読む生活に逆戻りしてしまったのである。
被害者であるにも関わらず、咲乃には『ペンダントのことはもういいから』と何度も仲直りするように言われたものだったが、『正義』の観念に捕らわれ過ぎていた俺は変に意固地になってしまい、咲乃説得も虚しくいつまで経っても互いを隔てる溝は埋まらなかった。
そんな状態が続いていた3年生の夏休み前、ユウキが突然転校することになった。
いや、突然という言い方はおかしいのかもしれない、というのも後から聞いた話だが彼の家庭は転勤が日常茶飯事だったのだ――実際この学校に転校してくる前にも既に2回も転勤を重ねていた。
だから、それは突然ではなく――必然だったのだろう。
けれど大人の事情など子供の俺は知る由もない、だから唐突以外のなにものでもなかったのだ、ましてや彼と絶交状態にあったのだから尚更である。
――正直どうしたらいいのか分からなかった。
俺は自分がやったことに一切の間違いはなかったと信じていた。それがたとえ生涯の友と誓い合った仲間であろうとも、悪事を働いたのであれば過去の思い出なんて全部、総じて、偽りだったのだと、そうとしか思えなかった。
だから、ヒーローを誑かせんとする怪人には正義の鉄槌を下して当たり前なんだと、信じて疑わなかったのだ。
でも、それでも、だとしても、俺と咲乃とユウキが一緒に遊んできた絶世の日々があったことに嘘偽りはないのだ、それが表面的であったとしても、もう二度と戻って来ないのかもしれない、修復不可能になる一歩手前まで来ているのだとしても――それを考えると不思議と胸がキリキリと痛み出すのも事実だった。
その胸中をユウキが転校する当日、迷いに迷った末に咲乃に打ち明けたらビンタからの上段蹴りをされて怒られた。
聡ちゃんはずるいって、そんなの正義という名の盾で守りながら自分の考え方を押しつけているだけに過ぎないよって、本当の正義は相手の気持ちを分かってあげなきゃいけない――ユウキがどうしてあんなことをしたのかもっとよく考えて――悪いことにでも何か事情があるときだってあるんだよって、目に大粒の涙を溜めながら言われてしまった。
まさに寝耳に水、その言葉にショックを受けたのは言うまでもなかった。というのも、悪にも事情があるだなんて馬鹿げた話、絶対に無いと思っていたからだ。
しかも、同時にそれは所詮受けいりの主義とはいえ、俺の根底にある生き方を否定されているようなものだったのだ。信じる信じないの問題ではなく、信じる訳にはいかなかった。
けれど、現に俺の正義が原因で目の前にいる彼女は泣いてしまっていた――仲間で、親友である筈の彼女を――ならば俺の正義は間違っていたのだと、認めざるを得なかった。
思えば咲乃の方がよっぽど正義で、大人だったのだ。
なら子供だから仕方ないと片付けて、あっさりとやり直せばよかったのかもしれないが、いきなり俯瞰的に物事を見れるようなら今頃こんなことにはなっていないだろう。
だから中途半端に大人ぶり、悦に浸ってしまっていた俺は実に哀れに、何も言えずに項垂れるしかなかった、当然これからユウキに対して何をすればいいのかも、分からぬまま。
その様子を見かねたからなのか、それとも純粋に後押しをしてくれたのか、それは分からなかったが、咲乃はくしゃくしゃになりかけの顔を元に戻すかのように笑うと、こう言った。
『けど、こんなの嫌だって、辛いって思っているなら、まだ大丈夫、聡ちゃんはヒーローでいられるよ』
*
「……う……ん……?」
目を覚ますと何故かリビングに仰向けになって寝ていた。
へ……? 俺何してたんだっけ、確か飯を食おうとして、それで――
「…………オイコラ咲乃ボケテメェ、何故俺が座ろうとした瞬間に椅子を後ろに下げるなどという新春期イキりたい盛りの中学生がやるようなしょうもない悪戯をしやがった」
「何を言っているんだい。僕がチ○コイジりたい盛りの中学生がするような一方的愚行を犯す訳がないだろう、これは聡ちゃんが僕に仕掛けた無差別攻撃に対する報復だ」
「ほう、今日の晩飯に肉料理が入っていないだけで俺は気絶にまで追い込まれるのか、これは震えが止まらんな、USAの圧倒的軍事力を眼前で見せつけられたような気分だ」
「ふふふ、だろう? これに懲りたなら明日は必ず唐揚げにし給えよ」
「そうだな、前向きに検討させて貰うとしよう」
明日は精進料理パーティだな、亀甲縛りにして無理矢理食わせてやる。
――それにしても昔の夢を見るなんて、まるでジジイだな、俺。
「ユウキ――か」
「肉料理が無いならアメリカンドッグを食べればいいじゃない」と戯言をほざきながら俺のズボンに手をかけようとする咲乃を引き剥がすと、独り言のようにそう呟いた。
「ん? 随分と懐かしい名前だね、ユウちゃんか……もう彼とは10年も会っていないか」
「やっぱり咲乃も覚えてるか、ユウキのこと」
割と痛む後頭部を押さえながら起き上がると、倒された椅子を起こし、一応咲乃を警戒しながらようやく座る。
「聡ちゃんより圧倒的に記憶力が優れている僕が忘れていたら明日は日本沈没だよ――それに、あれほど筆舌に尽くしがたい日々を記憶から抹消出来るなら是非とも教えて欲しいね」
「そりゃそうだな、もしかしたら記憶喪失しても忘れないかもな」
大体俺が最も輝いた日々でもあったんだ――それが鈍い輝きだろうと、忘れはしない。
忘れては、いけないのだ。
「一時期は心配で仕方なかったけど、最後はちゃんと仲直り出来たみたいだしね」
「そう……だな」
そう。
俺はあの後ユウキに会いに行った、素直な気持ちを伝えに行く為に。
けれど、本当のことを言えばそれで仲直りしたかといえば、微妙なのだ。
もちろんそのことは咲乃に話していない、別に咲乃に言えないような内容だったから、という訳ではない、ただ言いたくなかったのだ、単純に自分のしたことが照れくさかったというのもあったけどそれ以上に――咲乃に迷惑をかけたくなかったから。
だからそれ以降僕はヒーローごっこを辞めてしまった、噂によればそれによって学年中が騒然としたらしいけど……、今思い返しても信じられない話である。
……そういえばあれから一切モテなくなったな。
「ユウキの奴、元気にやってるかな」
「あの人見知り具合は病的だったからね、あのまま成長していたら引きこもりにでもなっていてもおかしくないところだ」
「お前がそれを言うか」
「失敬な、僕は人見知りではないしコモラーでもないよ、ちゃんと学生だし『神名川人生相談事務所』を営業しているだろう、聡ちゃんの網膜は捏造された神経情報でも送っているのかい?」
「単なる慈善活動までも職業とするか、最近は依頼なんて全く来てない癖に」
あと俺の人体組織を否定するのは止めろ。
「まあ、極論を言えば別に引きこもりでも構わないのだけど」
「え、そんなあっさりと認めるのかよ」
「なんたって僕の隣には聡ちゃんがいるから、寂しくないしね」
そうさらりと言うと、すまし顔で俺の膝の上に乗っかる咲乃。
「……え、いや、何やってんだよ」
「何を恥ずかしがっているんだい、僕と聡ちゃんは恋仲なのだからこれぐらい当たり前のスキンシップだろう? もしかしてずっとリアルお飯事をしていたとでも思っていたのかい?」
「……いや、そんなことはないですけど……」
お前の愛情表現はどストレート過ぎるんだよ、受け止めきれねーんだよ。
「だから僕は幸せでたまらない、もちろんあの頃だって幸せだったよ? でも今だってそれに引けを取らないほど幸福で、至福で、陶酔してしまっているんだ」
俺の胸に身体を預けながらそう言い切る咲乃の顔は、充実感に満たされた優しい顔をしていて、あまりの可愛さに一瞬呼吸の仕方を忘れそうになる。
……そうか、なんだかんだいっても俺と咲乃も5年以上もの間疎遠だったんだ。
それを俺は別に一般的なことだと思ってあまり気に止めていなかったけど、咲乃はこんなにも心待ちにしていた――こうしてまた出会えるのを、願って止まなかった。
ずっと、ずっと1人で――
「――だな、その上でいつか3人で話せる機会があれば、言うこと無しだろうな」
「案外その日近いのかもしれないけどね」
「? どういう意味だよ」
「なんでもないよ――っと、さて、イチャラブもこれぐらいにしてそろそろ夕食にしようか、早くしないと折角聡ちゃんが作ってくれた糞まずそうな肉無し料理が更にまずくなる」
「『文句言うんやったら食べんでええ』って子供に言う親の心境が今痛いほど分かったわ」
俺は咲乃の最後の言葉を軽い気持ちで受け止めていた。
正直に言えば聞き流していたと言ってもいい。
だからこそ、1ヶ月後本当にユウキと再会した時は心底驚いたものだった。
でも――それは幸福の始まりではなく、不幸の始まり。
夏休みの2分の1を一瞬で終わらせた、悪夢の幕開け。
焦熱地獄が現世に実在するのなら、もしかしたらこれなのかもしれない。
「やあ、久しぶりだね」
昨今の日本人サッカー選手の海外におけるめざましい活躍に、にわかにも関わらず並々ならぬ影響を受けていた俺は、体育の授業において盛大に調子に乗る気満々であった。
故にサイドバックを任されていた俺は完全に、完璧にと言っていいほど長友の気分であり、というか俺が長友であり、サッカー部のストライカー相手に封殺する気満々だった。
が、冷静に考えてみればそもそも毎日血の滲むような、血反吐をはく思いで練習やフィジカルトレーニングを積んでいる筋骨隆々のレギュラー選手と、家から学校までの距離を行き帰り合わせても10分程度で通学し、ましてやパンを口に咥えて激走通学した記憶もない帰宅部のホワイトアスパラとの体格差など歴然という言葉を用いるのも烏滸がましいほど圧倒的ゆえ、オチは最初の接触で2mも吹っ飛ばされて両足がお逝きになるという大変無様なものであった。
ていうか両足捻挫ってなんだよ、聞いたことねーよ、超レアだよ、パラレルレアだよ。
しかも何で若干捕らわれた宇宙人みたく運ばれてんだよ、担架もってこいよ。
うーむ、にしてもウイイレで結構修行したつもりだったんだけどなあ。
……まあ咲乃の野郎宇宙規模で強かったけどな。
俺がバルサで咲乃が北朝鮮でも0-5で負けたし。
ちゃっかりハットトリックとかされたしね、ふざけろ。
まあ。
そういった経緯を経て、俺は保健室にいるのだった。
「…………いや、多分初めましてだと思うのですが」
「あれ? そうだったかな、君とは随分と前から面識があるような気がするのだけど」
「そう言われましても……生き別れでも無い限り面識なんて……」
まあそんなはずも無いのだけど。
第一、虚弱で、脆弱で、ひ弱なボディの癖に無駄に健康体に産まれてしまった俺は、自慢だが生まれてこの方体調不良なる症状で保健室にお世話になったことは一度もないのだ。
ましてや帰宅部であるこのわたくしが、生傷の絶えない日々を送るなどもってのほかなので恐らくその線も無い、怪我などしてはエースの面目丸潰れだからな。
だとすれば身体測定の時、だろうか。
いや、でもあれは確か教師総出で全校生徒を検査するはずだから、その中から保険の先生に当たるなんてまずないだろう、仮に当たっていたとしても何百人もいる生徒の中から大してイケてる顔でもない俺だけに強い印象に残るなんて幾ら何でもあり得ない。というかそんなどうでもいい出会いで一々『久しぶり』なんて言葉を使うのは話が噛み合わないだろ。
だとしたら何だ? 単純に俺を保健室の常連だった人と勘違いしているのか?
「ふむ……、それでも君の顔は何度か見た記憶があるのだけどねえ、一体何処だったかな」
しかしやはり何か引っかかるのか、火本先生は喉に刺さった小骨を取り除こうとするような面持ちで、俺との接点に夢中になり続けるのだった。
……ん? いや、日元だったかな?
漢字は忘れたけど、確かそんな名前。俺が通う新都高校の保健担当の先生。
生徒(主に男子から)は『美人過ぎる教師』として有名だったので名前と顔はよく知っていた。ショートヘアに猫目が特徴の、水泳か新体操でもやってそうな、そんな見た目。
ボディラインに至っては峰藤子を彷彿とさせる優美さで、可憐な曲線を描いており、男子生徒が主に上半身の出血で保健室にお世話になるのも頷けるものがあった。
ただ俺の場合、年上の女、もとい大人な美しさにあまり魅力を感じないタイプなので、男子生徒が飼っている象が麒麟に変化するという保健室に行ったことが無かったのだった。
――別にロリコンとかそういうのじゃなくてね。
ていうか、早く俺の足診てくれよ。
「…………やっぱりどうしても思い出せないね、君、名前は何て言うんだい?」
一頻り脳のハードディスクを漁っても検知出来なかったのか、彼女はそう質問してきた。
「あ、えっと、北海堂、北海堂聡一ですけど」
「きたかいどう…………? きたかいどうそういちねえ……そういち……そういち……そのうち………………そう……………………そう………………………………聡ちゃん?」
「はっ!? えっ、あ、いや、な、何でしょうか……?」
唐突にちゃん付けで呼ばれたのでつい頓狂な声を出してしまう。
いや、その呼び方は――
「そうか、そうか、そうか、君があの聡ちゃんか、咲乃の奴からよく話は聞かせて貰っているよ、なるほど、なるほど、君があの咲乃がこよなく愛す聡ちゃんだったのか」
「え……? 先生咲乃のこと……知っているんですか……?」
まるで喉にフィルターを付けられたかのように急に声が詰まり気味になる。
「知っているも何も、あの子は僕の娘みたいなものだよ、咲乃が新都高校に入学したその日からずっと百合百合しいお付き合いをさせて貰っている」
そう、彼女は薄ら笑いを浮かべながら、飄々と答える。
――待て、そんな話、聞いたことないぞ?
確かに俺と咲乃が話すようになったのはつい最近の話だから、いくら付き合っているといっても中学以降の互いの生活実態についてあまり知らないのは当然のことだ。
しかも、その空白の5年は咲乃から進んで話したがらない――というよりはまるでその期間は存在しなかったかのように振る舞うので、俺からも何となく、踏み込めないものがあった。
ただ、それを別にしても、あいつは、咲乃は、はっきりと自分の口から学校など行く必要がないと、そう公言していたはずだ、なのに保健室にはいつも行っていたというのか……?
一体何の事情があって――?
「咲乃は授業を受ける必要がないといっただけで、学校に行く必要ないとは一言もいってなかったと思うよ? まあそこら辺に関する入れ知恵は大体僕がやったからなのだけど」
そう言うとひもと先生は徐に『わかば』と書かれた黄緑の箱をポケットから取り出すと、箱から煙草を押し出し口に咥え、卓上に放置された用途不明のチャッカマンで火をつける。
そして、濃霧警報レベルの大量の副流煙を、満足そうに吐き出した。
…………………………………………まじかよこの女。
医者の不養生なんてよく言ったものだがここまで大胆に、しかも保険室内で、あろうことか一生徒の前でひけらかすように吸うとか……不養生を通り越してただの阿呆だろ。
よくよく見ると天井や彼女の白衣にも澄まし顔でヤニの黄ばみがこびり付いており、どうやら俺だから、という訳でなく日常的に、至極当然に公私を混同しているようであった。
――まあ、そういう部分も含めて男子共からは大人の魅力を感じさせる女性として絶大な人気を博しているのだろうけど、俺から言わせれば『不快』以外の何物でもなかった。
だからこそ、なのか、咲乃がこの女と深い接点があるとはどうにも信じ難かった。
――いや、もしかしたら信じたくなかったのかもしれない。
そう。
それほどまでに彼女は、この女は不気味な、不吉なオーラを放っている気がしたのだ。
人を見た目で判断してはいけないことぐらい道徳の範疇として理解している、だから彼女の非常識さを軽蔑したのではなくて、根本的に『この女は駄目』な気がしたのだ。
それがただ、煙草をきっかけに表面化して見えたように思えた。
どうしようもない、生理的な、本能的な拒絶反応。
たとえそれが咲乃と似たような喋り方だとしても、杞憂には出来そうになかった。
無意識下にあった違和感が増長し、意識下を浸食し始める。
「それにしても近年の煙草の値上がりには参っちゃうよね、いやこんな3級品でも吸わないと碌に身体が働かない自分にも参っちゃうのだけどさ、公務員だからといって皆金持ちとは限らないっていうのにさ、世間は未だに勘違いして気が狂ったように叩き続けるんだぜ? その所為で缶ピーさえも吸えないなんて全く嫌になるよ……聡ちゃんもそう思わないかい?」
「いや、俺未成年ですから、社会人じゃないのに大人の事情とか分かりませんから」
「あれ? 聡ちゃんは煙草を吸わないのかい? 今時珍しいね、僕が学生の頃はやんちゃしてようがしてなかろうが男なら皆ドヤ顔で吸っていたものだったけど」
「どこの無法地帯だよ」
「それに君は僕を目の前にして全く挙動不審にならないんだね、大抵の男子生徒は股間が荒ぶって満足に会話も出来ないものなのだけど……、ああ、それとも聡ちゃんは咲乃みたいな幼児体型で端正に舗装された道路みたいなパイオツの女の子にしか欲情しないのかな?」
「誰がペドフィリアだ」
いつの間に俺は幼女好きの設定になったんだ。ちゃんとプロット確認しろ底辺作家。
「それともあれかな? 僕と咲乃の思わぬ義親子関係に少し戸惑っているのかな?」
「――、……」
虚を突いた物言いに、一瞬声が詰まる。
確証のない何かが俺を囃し立てるが、悟られぬよう平静を装いながら、口を開く。
「…………いえ、まあ咲乃が授業に出席せずに保健室に通っているとは思いませんでしたけど」
「知らないのも無理はないよ、聡ちゃんは中学校以来咲乃と全く音沙汰無かったのだから」
まるで人工衛生を使って常に監視しているような、全てを見透かした口調。
外見を除けば咲乃と会話をしているのと何ら変わりない幻覚を見せようとするこの女は、やはり今も昔も遜色無く、俺が知らない咲乃を知っているのだろう。正直に言えば、昔話に花を咲かせる程度のノリで根掘り葉掘り話を聞きたい気持ちは山々だった。
けれど、足を引っ張るかのように抱き続けている彼女への不信感は、他愛もない昔話をタブーへと変貌させ、二の足を踏んでしまう。
「そうなると、もしかしてテストとかも保健室でやっていたんですか?」
そして結局、虚飾溢れる与太話を持ち出すのだった。
「うむ、本当は咲乃が高等学校如きで習う勉強など受ける価値皆無なのだけどね。ホラ、聡ちゃんもご存知の通り彼女は出席免除の代わりにテストで上位に入らないといけないように言われているからさあ、仕方なくここで、って奴だよ」
咲乃を疑うつもりは無かったけど、やっぱり毎回定期考査で1位をキープしているって話は本当だったのか。でもあいつ、小学校の頃は別に神童って訳でもなかったんだけどな。
「それがどうかしたのかい?」
「いや、咲乃の奴が定期考査ではいつも上位に入ると自負していたんですけど、そもそも学校に行っていないのにどうやってテストを受けていたのかずっと疑問に思っていたんですよ」
「ああ、そういえば君達は咲乃と今回の世紀末考査で遊園地のチケットを賭けて対決をしているのだったね。しかしまあ、何と言うか、流石は僕の咲乃といったところか」
「……? どういうことですか?」
「ふむ? おかしなことを訊くんだね、浅学非才な君でももうかれこれ1ヶ月以上も咲乃と恋仲にあるのだから、流石に彼女の素晴らしさに気づいていない訳じゃないだろう?」
「……まあ、洞察力というか話術というか、そういう部分が長けているとは思いますけど」
「だろう? まあそういう部分も僕が伝授してあげたのだけどね、それが分かっているのなら咲乃が提示した案に、何も腑に落ちなかったのかい?」
さながら咲乃は自分が育てたとでも言いたげな、自慢げな口調で語り続けるひもと先生。
もしかしたら俺は彼女と咲乃の深い結びつきに、単に嫉妬しているだけなんじゃないかと一瞬思ったが、彼女の言動を聞けば聞くほどその思考は地平線の向こう側に放置され――寧ろその関係の先にある何か、知ってはいけないものが、俺の中で蠢き始めている気がした。
「それはもちろん……、いくら全教科で殆ど満点を取れる咲乃でも2対1じゃいくらなんでも負けてしまうんじゃないかとは思いましたけど……仮に秘策があったとしてもどうこうなる状況とも思えませんし」
実際過去の平均から出した現時点での点差は70点で、一応咲乃が優勢になってはいるが、その程度の点数なら数教科に力を入れれば十分に抜ける点差だったのだ。
だから咲乃はテストで勝負するんじゃなくて、何か裏で逢坂と東橋を仲違いさせるような、直接攻撃をしかけるつもりなんじゃないかと、そんなことを考えていた。
でも。
「秘策なんてあるはずないだろう、咲乃は普通にテストを受けるだけで勝てるのだから」
「…………は? 一体どういう――」
その内容はある意味簡単で、けれど盲点を突いた話だった。
昨今の日本人サッカー選手の海外におけるめざましい活躍に、にわかにも関わらず並々ならぬ影響を受けていた俺は、体育の授業において盛大に調子に乗る気満々であった。
故にサイドバックを任されていた俺は完全に、完璧にと言っていいほど長友の気分であり、というか俺が長友であり、サッカー部のストライカー相手に封殺する気満々だった。
が、冷静に考えてみればそもそも毎日血の滲むような、血反吐をはく思いで練習やフィジカルトレーニングを積んでいる筋骨隆々のレギュラー選手と、家から学校までの距離を行き帰り合わせても10分程度で通学し、ましてやパンを口に咥えて激走通学した記憶もない帰宅部のホワイトアスパラとの体格差など歴然という言葉を用いるのも烏滸がましいほど圧倒的ゆえ、オチは最初の接触で2mも吹っ飛ばされて両足がお逝きになるという大変無様なものであった。
ていうか両足捻挫ってなんだよ、聞いたことねーよ、超レアだよ、パラレルレアだよ。
しかも何で若干捕らわれた宇宙人みたく運ばれてんだよ、担架もってこいよ。
うーむ、にしてもウイイレで結構修行したつもりだったんだけどなあ。
……まあ咲乃の野郎宇宙規模で強かったけどな。
俺がバルサで咲乃が北朝鮮でも0-5で負けたし。
ちゃっかりハットトリックとかされたしね、ふざけろ。
まあ。
そういった経緯を経て、俺は保健室にいるのだった。
「…………いや、多分初めましてだと思うのですが」
「あれ? そうだったかな、君とは随分と前から面識があるような気がするのだけど」
「そう言われましても……生き別れでも無い限り面識なんて……」
まあそんなはずも無いのだけど。
第一、虚弱で、脆弱で、ひ弱なボディの癖に無駄に健康体に産まれてしまった俺は、自慢だが生まれてこの方体調不良なる症状で保健室にお世話になったことは一度もないのだ。
ましてや帰宅部であるこのわたくしが、生傷の絶えない日々を送るなどもってのほかなので恐らくその線も無い、怪我などしてはエースの面目丸潰れだからな。
だとすれば身体測定の時、だろうか。
いや、でもあれは確か教師総出で全校生徒を検査するはずだから、その中から保険の先生に当たるなんてまずないだろう、仮に当たっていたとしても何百人もいる生徒の中から大してイケてる顔でもない俺だけに強い印象に残るなんて幾ら何でもあり得ない。というかそんなどうでもいい出会いで一々『久しぶり』なんて言葉を使うのは話が噛み合わないだろ。
だとしたら何だ? 単純に俺を保健室の常連だった人と勘違いしているのか?
「ふむ……、それでも君の顔は何度か見た記憶があるのだけどねえ、一体何処だったかな」
しかしやはり何か引っかかるのか、火本先生は喉に刺さった小骨を取り除こうとするような面持ちで、俺との接点に夢中になり続けるのだった。
……ん? いや、日元だったかな?
漢字は忘れたけど、確かそんな名前。俺が通う新都高校の保健担当の先生。
生徒(主に男子から)は『美人過ぎる教師』として有名だったので名前と顔はよく知っていた。ショートヘアに猫目が特徴の、水泳か新体操でもやってそうな、そんな見た目。
ボディラインに至っては峰藤子を彷彿とさせる優美さで、可憐な曲線を描いており、男子生徒が主に上半身の出血で保健室にお世話になるのも頷けるものがあった。
ただ俺の場合、年上の女、もとい大人な美しさにあまり魅力を感じないタイプなので、男子生徒が飼っている象が麒麟に変化するという保健室に行ったことが無かったのだった。
――別にロリコンとかそういうのじゃなくてね。
ていうか、早く俺の足診てくれよ。
「…………やっぱりどうしても思い出せないね、君、名前は何て言うんだい?」
一頻り脳のハードディスクを漁っても検知出来なかったのか、彼女はそう質問してきた。
「あ、えっと、北海堂、北海堂聡一ですけど」
「きたかいどう…………? きたかいどうそういちねえ……そういち……そういち……そのうち………………そう……………………そう………………………………聡ちゃん?」
「はっ!? えっ、あ、いや、な、何でしょうか……?」
唐突にちゃん付けで呼ばれたのでつい頓狂な声を出してしまう。
いや、その呼び方は――
「そうか、そうか、そうか、君があの聡ちゃんか、咲乃の奴からよく話は聞かせて貰っているよ、なるほど、なるほど、君があの咲乃がこよなく愛す聡ちゃんだったのか」
「え……? 先生咲乃のこと……知っているんですか……?」
まるで喉にフィルターを付けられたかのように急に声が詰まり気味になる。
「知っているも何も、あの子は僕の娘みたいなものだよ、咲乃が新都高校に入学したその日からずっと百合百合しいお付き合いをさせて貰っている」
そう、彼女は薄ら笑いを浮かべながら、飄々と答える。
――待て、そんな話、聞いたことないぞ?
確かに俺と咲乃が話すようになったのはつい最近の話だから、いくら付き合っているといっても中学以降の互いの生活実態についてあまり知らないのは当然のことだ。
しかも、その空白の5年は咲乃から進んで話したがらない――というよりはまるでその期間は存在しなかったかのように振る舞うので、俺からも何となく、踏み込めないものがあった。
ただ、それを別にしても、あいつは、咲乃は、はっきりと自分の口から学校など行く必要がないと、そう公言していたはずだ、なのに保健室にはいつも行っていたというのか……?
一体何の事情があって――?
「咲乃は授業を受ける必要がないといっただけで、学校に行く必要ないとは一言もいってなかったと思うよ? まあそこら辺に関する入れ知恵は大体僕がやったからなのだけど」
そう言うとひもと先生は徐に『わかば』と書かれた黄緑の箱をポケットから取り出すと、箱から煙草を押し出し口に咥え、卓上に放置された用途不明のチャッカマンで火をつける。
そして、濃霧警報レベルの大量の副流煙を、満足そうに吐き出した。
…………………………………………まじかよこの女。
医者の不養生なんてよく言ったものだがここまで大胆に、しかも保険室内で、あろうことか一生徒の前でひけらかすように吸うとか……不養生を通り越してただの阿呆だろ。
よくよく見ると天井や彼女の白衣にも澄まし顔でヤニの黄ばみがこびり付いており、どうやら俺だから、という訳でなく日常的に、至極当然に公私を混同しているようであった。
――まあ、そういう部分も含めて男子共からは大人の魅力を感じさせる女性として絶大な人気を博しているのだろうけど、俺から言わせれば『不快』以外の何物でもなかった。
だからこそ、なのか、咲乃がこの女と深い接点があるとはどうにも信じ難かった。
――いや、もしかしたら信じたくなかったのかもしれない。
そう。
それほどまでに彼女は、この女は不気味な、不吉なオーラを放っている気がしたのだ。
人を見た目で判断してはいけないことぐらい道徳の範疇として理解している、だから彼女の非常識さを軽蔑したのではなくて、根本的に『この女は駄目』な気がしたのだ。
それがただ、煙草をきっかけに表面化して見えたように思えた。
どうしようもない、生理的な、本能的な拒絶反応。
たとえそれが咲乃と似たような喋り方だとしても、杞憂には出来そうになかった。
無意識下にあった違和感が増長し、意識下を浸食し始める。
「それにしても近年の煙草の値上がりには参っちゃうよね、いやこんな3級品でも吸わないと碌に身体が働かない自分にも参っちゃうのだけどさ、公務員だからといって皆金持ちとは限らないっていうのにさ、世間は未だに勘違いして気が狂ったように叩き続けるんだぜ? その所為で缶ピーさえも吸えないなんて全く嫌になるよ……聡ちゃんもそう思わないかい?」
「いや、俺未成年ですから、社会人じゃないのに大人の事情とか分かりませんから」
「あれ? 聡ちゃんは煙草を吸わないのかい? 今時珍しいね、僕が学生の頃はやんちゃしてようがしてなかろうが男なら皆ドヤ顔で吸っていたものだったけど」
「どこの無法地帯だよ」
「それに君は僕を目の前にして全く挙動不審にならないんだね、大抵の男子生徒は股間が荒ぶって満足に会話も出来ないものなのだけど……、ああ、それとも聡ちゃんは咲乃みたいな幼児体型で端正に舗装された道路みたいなパイオツの女の子にしか欲情しないのかな?」
「誰がペドフィリアだ」
いつの間に俺は幼女好きの設定になったんだ。ちゃんとプロット確認しろ底辺作家。
「それともあれかな? 僕と咲乃の思わぬ義親子関係に少し戸惑っているのかな?」
「――、……」
虚を突いた物言いに、一瞬声が詰まる。
確証のない何かが俺を囃し立てるが、悟られぬよう平静を装いながら、口を開く。
「…………いえ、まあ咲乃が授業に出席せずに保健室に通っているとは思いませんでしたけど」
「知らないのも無理はないよ、聡ちゃんは中学校以来咲乃と全く音沙汰無かったのだから」
まるで人工衛生を使って常に監視しているような、全てを見透かした口調。
外見を除けば咲乃と会話をしているのと何ら変わりない幻覚を見せようとするこの女は、やはり今も昔も遜色無く、俺が知らない咲乃を知っているのだろう。正直に言えば、昔話に花を咲かせる程度のノリで根掘り葉掘り話を聞きたい気持ちは山々だった。
けれど、足を引っ張るかのように抱き続けている彼女への不信感は、他愛もない昔話をタブーへと変貌させ、二の足を踏んでしまう。
「そうなると、もしかしてテストとかも保健室でやっていたんですか?」
そして結局、虚飾溢れる与太話を持ち出すのだった。
「うむ、本当は咲乃が高等学校如きで習う勉強など受ける価値皆無なのだけどね。ホラ、聡ちゃんもご存知の通り彼女は出席免除の代わりにテストで上位に入らないといけないように言われているからさあ、仕方なくここで、って奴だよ」
咲乃を疑うつもりは無かったけど、やっぱり毎回定期考査で1位をキープしているって話は本当だったのか。でもあいつ、小学校の頃は別に神童って訳でもなかったんだけどな。
「それがどうかしたのかい?」
「いや、咲乃の奴が定期考査ではいつも上位に入ると自負していたんですけど、そもそも学校に行っていないのにどうやってテストを受けていたのかずっと疑問に思っていたんですよ」
「ああ、そういえば君達は咲乃と今回の世紀末考査で遊園地のチケットを賭けて対決をしているのだったね。しかしまあ、何と言うか、流石は僕の咲乃といったところか」
「……? どういうことですか?」
「ふむ? おかしなことを訊くんだね、浅学非才な君でももうかれこれ1ヶ月以上も咲乃と恋仲にあるのだから、流石に彼女の素晴らしさに気づいていない訳じゃないだろう?」
「……まあ、洞察力というか話術というか、そういう部分が長けているとは思いますけど」
「だろう? まあそういう部分も僕が伝授してあげたのだけどね、それが分かっているのなら咲乃が提示した案に、何も腑に落ちなかったのかい?」
さながら咲乃は自分が育てたとでも言いたげな、自慢げな口調で語り続けるひもと先生。
もしかしたら俺は彼女と咲乃の深い結びつきに、単に嫉妬しているだけなんじゃないかと一瞬思ったが、彼女の言動を聞けば聞くほどその思考は地平線の向こう側に放置され――寧ろその関係の先にある何か、知ってはいけないものが、俺の中で蠢き始めている気がした。
「それはもちろん……、いくら全教科で殆ど満点を取れる咲乃でも2対1じゃいくらなんでも負けてしまうんじゃないかとは思いましたけど……仮に秘策があったとしてもどうこうなる状況とも思えませんし」
実際過去の平均から出した現時点での点差は70点で、一応咲乃が優勢になってはいるが、その程度の点数なら数教科に力を入れれば十分に抜ける点差だったのだ。
だから咲乃はテストで勝負するんじゃなくて、何か裏で逢坂と東橋を仲違いさせるような、直接攻撃をしかけるつもりなんじゃないかと、そんなことを考えていた。
でも。
「秘策なんてあるはずないだろう、咲乃は普通にテストを受けるだけで勝てるのだから」
「…………は? 一体どういう――」
その内容はある意味簡単で、けれど盲点を突いた話だった。
初めは社会復帰に対するアシスト。
次は仕事たる仕事を一切していない助手。
まあ真相は介護に限りなく近い家政夫。
そして――咲乃の恋人。
果たして俺は彼女の何を知ったのだろう、何を知っていたのだろう、何を知ったつもりで、何を知ったかぶっていたのだろう。
人は変わる、大学デビューを狙って外見を奇抜にする意味合いではなく、内面が。
より芯に響く、刻まれる経験をしていれば時に別人のようにもなったりする。
だからこそ、それに気づき、理解してあげることは何よりも大切なことなのだ。
そこに義務や責務は介在しない、気づかない者はたとえ縁者であっても気づかないのだから。
けれどそれは言い訳には出来ない――いや違う、後に悔恨の念に駆られてしまったのならそれを言い訳にしてはいけない。
咲乃と再会して1ヶ月と少し、果たして俺は1秒でも彼女を理解しようとしただろうか。
いつまで俺は、お遊戯気分でいた?
「聡ちゃんは新都高校の期末考査の採点方式を知っているかい?」
「採点方式……ですか?」
確か期末考査はマークシート方式のはずだから――
「……普通に回答用紙を機械に通して終わりじゃないんですか?」
「まあ、間違ってはいないが、僕の訊いているのはそういうことじゃない」
そう言うと彼女は2本目の煙草を燻らしながら、こう続けた。
「聡ちゃん、君は期末考査の時に自分としてはよく出来たと思っていたのに、いざテストが帰ってきたらあまり点数が良くなかった、なんて経験をしたことはないかい?」
「うん……? いや、元々あまり勉強はするタチじゃないんで『良く出来たのに』というのは無いですが、まあ、いつも通りやったのに中間と比べると下がったな、ということなら思った記憶はありますけど……」
でも、それがどうしたっていうんだ? そんなのただの、ヤマが外れた程度のものだろ。
ただの俺のミスが、咲乃の勝利の方程式と関係性があるとは到底思えないが。
「やれやれ……、本当は最初の期末考査の時に軽く説明しているはずなのだけどね。いやしかし、担任のくどく、凝り固まった説明じゃ殆どの人間は話半分にしか聞いていないのかな? 分からないからといって一々質問する生徒もいないだろうし……、まあそれを見越しているからこそ咲乃はこの手段を使ったのだろうけど――」
俺に、というよりは自問自答するかのようにひもと先生は話すと、本題を切り出した。
「聡ちゃんは『相対配点』って知っているかい?」
「……聞いたことある気もしますけど、無いといえば無い、って程度の認識ですかね」
「まあそんなものだろう、実際説明は出来てもその単語名自体は知らない人が殆どだろうし――相対配点っていうのはね、主にTOEICで採用されている採点方式なんだよ。普通は作成した問題に対して初めから配点を決めておくものだろ? だけどこの方式は生徒が問題を解いた後に各問題の正答率によって配点を決めているんだ。正答率が低ければ高得点に、高ければ低得点って具合にね、こうすれば勉強をしない限り幾らやっても点数は上がることはない、要するに『まぐれ』で高得点を取るのを防ぐことが可能になるって寸法さ」
「確かに……それなら偶然で咲乃に勝つことは出来ない、完全な実力勝負になりますね」
でも、それが咲乃が勝つ絶対的な理由にはなっていないんじゃないのか。
考えるまでもなく、逢坂も、東橋も運に任せて勉強なんてしていない、2人とも実力を、今より高得点を取れるように勉強しているに決まってるのだから。
こんなの、過去のテストで割り出した平均点差がより明確になっただけじゃないのか?
「努力を怠る、運任せで勝負するような阿呆と闘っているならこの方式は絶大な効果を発揮するでしょうけど、これが逢坂と東橋に当てはまると本気で思っているなら少し彼女達を嘗めすぎだと思いますけど」
「まるで僕が考えたアイデアみたいに言うなよ、これに関して僕は一切助言していない、それに、本当にこれだけだと思っているならそれこそ咲乃を嘗めすぎだ」
「………………」
そう――だろうな、幾ら何でもこれじゃ肩すかしもいいところだ。
「なら、咲乃はどうやって――」
「中央値方式だよ」
「中央値……方式……?」
なんだ、それ、相対配点以外にもまだあったのか?
「中央値方式は主に私立大学で採用されている方式でね、簡単に言えばテストを受けた全生徒の成績を1位から最下位に順位付けした後に、その丁度真ん中の順位に位置する生徒より点数が低ければ低いほど、あるいはその近辺にいる生徒の持ち点を減点していくという方法なんだよ。――といっても実はこれ本来規定のボーダーで受験生を落とすために作られたものだから一高校が採用するのはおかしな話ではあるのだけどね」
「は……なんだよそれ、いくらなんでも無茶苦茶、いや奇想天外過ぎる」
「そう、奇想天外なんだよ。でもね、これが意外にも難関国立大学を目指す受験生には異常に受けがよくってさ――考えてもみたまえよ、少しでも気を抜けば点数がガタ落ちする危険性があるんぜ? それはいかなる物事にでも順位付けして、その上位に立ち敗者を見下し、悦に浸る高学歴厨からすれば最高の刺激だと思わないかい? それはもう否応にでも気合いが入るというものだ。毎年新都高校から多くの東大・京大合格者が輩出されるのには実はこの常識の枠を見事に外れたやり方が原因の1つだったりする」
「でも、そんなことしたら俺や逢坂みたいな成績の悪い奴らは――」
「順位は大して変わらないだろうけど笑えてくるぐらい点数が落ちるだろうね、でもさ、そんなこと知るかよ、っていうのが学校側の見解なのさ、馬鹿に手取り足取り教えてる暇があったら天才の質を上げた方がよっぽど益になるのは当然だと思わないかい? 言ってしまえば馬鹿は黙って塾にでも行って中堅私立大学目指してろって話なんだよ」
「……だとしても、相対配点はともかく中央値方式の情報を咲乃しか知りえていないというのは、いくらなんでもおかしい気がするんですが」
「誰が咲乃しか知らないなんて言ったんだい、ちゃんと知っている人間は知っているよ、といっても確か前回の中間テストの上位100位までだったと思うけど」
「なら、当然東橋は知っているはずじゃ」
「そこに手を打っていなかったら愚鈍の極みだろ、そもそも教師である私がこの勝負の内情を知っている時点で気づき給えよ、それはたとえ理事長の娘だろうと例外ではない」
「…………本気で言っているんですか?」
「テストや勝負の根幹に関わっていないのだから卑怯も糞もないだろう」
ルールというのは決めた者勝ちなんだよ、と彼女は嘆息しながら言う。
……これが、咲乃の勝利の法則だったのか。
確かに、この方法なら間違い無く、相違なく、咲乃は勝つ。そりゃもちろん逢坂だって頑張って、必死になって勉強している、でもこの方式ならちょっと学力が上がった程度じゃ殆ど点が上がる見込みはない、いや、下手すれば以前より下がる可能性だって十二分にある。
だったら東橋なら、とも思ったが大学受験を念頭に作られている今回の期末考査は1、2年の授業内容も範囲になっていたはず、だとしたら何も事情を知らない東橋1人じゃいくらなんでも咲乃との点差をカバーするのは無理があるというものだ。
しかもテストは明日、今更どう足掻いても間に合わない。
対して咲乃はこれらの網に引っ掛かるどころか、燃やした上で堂々と歩いて行くだろう。
それを――これら全ての事実を、咲乃は1対2の構図の中に隠した。
流石、と言うべきなのか。
だけど、本当にそこまで見据えて、理解して、咲乃は勝負を提案したっていうのか?
いや、咲乃なら必然的に思いつくのだろう、あり得ない話でないことぐらい分かっている。
……なのに、俺の中の蟠りというか、凝りは抜けようという気配すら見せなかった。
もちろん常に咲乃が自律的な意思を持って行動しているのは知っている、それは日頃の咲乃を見ていればわざわざ口にするのも無粋で、愚問な話だから。
なら、どうしてこんなにも、胸がざわつく?
この不気味な女が絡んでいるから? 咲乃らしくないから?
それとも俺が、直視することに怯えてしまっているのか?
「ねえ、聡ちゃん」
そんな俺の様子を悟ったのか、半ば放心状態だった俺に向かって彼女は静かに問いかけた。
「君は、咲乃のことをどう思っている?」
「……? 何を、突然――」
「咲乃はね、僕と出会ってからずっと、聡ちゃんと再会することを望んでいたんだよ、いやそんなもんじゃない、待ち焦がれ、待ち焦がしてしまっていたんだよ」
「それは――」
分かっている、つもりだ。咲乃は、臆面無く、聞いているこっちが赤面するような台詞を平然と愛情表現として使う奴だから。戯言でなく俺のことを待っていたのは、ちゃんと――
「それならとっとと会えばよかったのに、って話なんだけどさ、咲乃も色々とあったからね――その姿はさながら遠距離恋愛にもどかしい思いをしている乙女のようだったよ」
「咲乃は……あいつは俺と再会するまでの間に、一体何があったんですか?」
そう言い切ってから、まさかこの言葉を言わせる為に上手く誘導されていたんじゃないかと一瞬危惧したが、ひもと先生は俺の発言に対し只でさえ細い目を一層細め、微塵も可愛さを滲ませない笑顔を見せるときっぱりとこう言った。
「それは言えない」
「え、ど、どうして?」
「咲乃との約束だからだよ、そりゃ僕みたいな不吉しか漂わない人間と、年単位で付き合いあったのだと思うと不安になる気持ちは分かるけどね」
「――別に、そんな風には思っていませんけど」
だから何で分かるんだよ、読心術でも会得しているのかこの人。
「はははっ、謙遜しなくてもいいよ、基本男子からはもれなく好かれている僕だが、一部の女子からは存外気味悪がられていてね、いやはや、流石に顔だけでは八方美人、八面六臂な効果は発揮しないみたいだよ。ま、だからといって気に病んだことはないけれど」
そう言って3本目の煙草を灰皿に押しつけると、こう続けた。
「でもね、焦慮する必要はない、いずれ分かることだ。それは私の口からでなくとも、咲乃の口からでなくとも、きっと知ることになるだろう、それがどんな形であろうと聡ちゃんは必ず直面する。だからこそ聞きたいんだ――君は、北海堂聡一は神名川咲乃のことをどう思っているのかを――」
「俺は……」
どう、なんだろう。
そもそも俺は咲乃のことを理解しようとしていたのだろうか、いつも俺のことを正面から見て、見据えてものを言うあいつの気持ちを、芯から受け止めていただろうか。
恐らく受け止めなどいなかった。いや、それどころか受け流していたんじゃないのか?
あいつと付き合っているのも何処か飯事気分で、社会復帰慈善活動にしたって、未だに『ごっこ』気分が抜けないままでいるんじゃないのか?
……否定は出来ない、肯定出来るなら今頃美辞麗句を並べ立てて答えているはずだから。
だから、そんな曖昧な接し方だったから、咲乃は何も話してくれないんじゃないのか?
ならこうなって当たり前だ。ふわふわしてる奴に誰も身なんて預けたくなんてない。
そういうことなら、咲乃が本当に俺に望んでいるのは、『今』の俺ではないのだろう。
確実に、今あいつの隣にいていいのは俺じゃない、いる価値さえない。
――なのに、どうして咲乃はずっと傍にいてくれているんだ?
こんな、正義感を思春期の入り口に置いてきた俺に、一体何を望む?
たった1つの因果で、心が揺らいでいるような、こんな奴に――
分からない、分からない、分からない、分からない。
――でも、俺の所為であいつの笑顔が消えてしまうなら、それは嫌だな。
女の笑顔でご飯が三杯いける俺としては、あまりに耐え難い話だ。
なら、それならまだ、大丈夫なのかもしれない。
「――もちろん好き、ですよ、それはもう、今後付き合うであろう最初で最後の女性だと確信しているほどですから。ただ、それだけの価値が俺にあるのかといえば、それは分かりません、いや、多分無いと思います。でも、いずれ変えていくにしても、価値はなくとも意味はあるなら、咲乃がどんな事情を抱えていようと好きでい続けます――それであいつが笑ってくれるなら、安いもんです」
そう言い終えた途端、自分の尋常じゃないキモさに雲散霧消したくなったが、その俺の言葉にひもと先生は「ふうん」と呟き、何故か一瞬だけ視線を逸らし、戻すと、こう言った。
「ふふふ、そうか。なに、それならいいんだ。無粋な真似をさせて悪かったね、実は僕も僕で色々と心配していたからさ、でもこの様子なら何の問題もなさそうかな」
すると彼女は確実に今思い出したかのような体で湿布と包帯を取り出すと、手際よく俺の両足を治療し、松葉杖を渡してきた。
そういえば足怪我してここに来てたんだっけ。そんなこともすっかり忘れていた。
「さて、いつまでも長々と会話をしていては男子生徒諸君にあらぬ勘違いをされそうだからここいらでお開きとしようか。ふふ、こう見えても僕は結構貞操は固い方でね、薄い本にありがちな初々しい生徒の童貞喰うことを生き甲斐にしているような糞ビッチ保健教師キャラとは訳が違うんだよ、ちゃんと常時カーボン製の貞操帯を付けているしね、見るかい?」
「え、締めで突然何を言っているんですかアナタは」
咲乃の驚異の変態っぷりも、どうやらコイツが元凶で間違いなさそうだな。
今は多分、これでいいのだろう。
今更決意した分際で偉そうなことをいうつもりはない。
けれど、もう横を向たり、斜めを向きながら話したりなんてしない。
咲乃がどんな怪しげな女と付き合いがあろうと、過去にどんな事情があろうと、関係ない。
それらの行為が最終的に共依存だと揶揄されようと、一向に構わない。
いつか違うこと無く向き合える日が来るまで、俺は咲乃の為に居続けよう。
それは助手としても、恋人としても――だ。
次は仕事たる仕事を一切していない助手。
まあ真相は介護に限りなく近い家政夫。
そして――咲乃の恋人。
果たして俺は彼女の何を知ったのだろう、何を知っていたのだろう、何を知ったつもりで、何を知ったかぶっていたのだろう。
人は変わる、大学デビューを狙って外見を奇抜にする意味合いではなく、内面が。
より芯に響く、刻まれる経験をしていれば時に別人のようにもなったりする。
だからこそ、それに気づき、理解してあげることは何よりも大切なことなのだ。
そこに義務や責務は介在しない、気づかない者はたとえ縁者であっても気づかないのだから。
けれどそれは言い訳には出来ない――いや違う、後に悔恨の念に駆られてしまったのならそれを言い訳にしてはいけない。
咲乃と再会して1ヶ月と少し、果たして俺は1秒でも彼女を理解しようとしただろうか。
いつまで俺は、お遊戯気分でいた?
「聡ちゃんは新都高校の期末考査の採点方式を知っているかい?」
「採点方式……ですか?」
確か期末考査はマークシート方式のはずだから――
「……普通に回答用紙を機械に通して終わりじゃないんですか?」
「まあ、間違ってはいないが、僕の訊いているのはそういうことじゃない」
そう言うと彼女は2本目の煙草を燻らしながら、こう続けた。
「聡ちゃん、君は期末考査の時に自分としてはよく出来たと思っていたのに、いざテストが帰ってきたらあまり点数が良くなかった、なんて経験をしたことはないかい?」
「うん……? いや、元々あまり勉強はするタチじゃないんで『良く出来たのに』というのは無いですが、まあ、いつも通りやったのに中間と比べると下がったな、ということなら思った記憶はありますけど……」
でも、それがどうしたっていうんだ? そんなのただの、ヤマが外れた程度のものだろ。
ただの俺のミスが、咲乃の勝利の方程式と関係性があるとは到底思えないが。
「やれやれ……、本当は最初の期末考査の時に軽く説明しているはずなのだけどね。いやしかし、担任のくどく、凝り固まった説明じゃ殆どの人間は話半分にしか聞いていないのかな? 分からないからといって一々質問する生徒もいないだろうし……、まあそれを見越しているからこそ咲乃はこの手段を使ったのだろうけど――」
俺に、というよりは自問自答するかのようにひもと先生は話すと、本題を切り出した。
「聡ちゃんは『相対配点』って知っているかい?」
「……聞いたことある気もしますけど、無いといえば無い、って程度の認識ですかね」
「まあそんなものだろう、実際説明は出来てもその単語名自体は知らない人が殆どだろうし――相対配点っていうのはね、主にTOEICで採用されている採点方式なんだよ。普通は作成した問題に対して初めから配点を決めておくものだろ? だけどこの方式は生徒が問題を解いた後に各問題の正答率によって配点を決めているんだ。正答率が低ければ高得点に、高ければ低得点って具合にね、こうすれば勉強をしない限り幾らやっても点数は上がることはない、要するに『まぐれ』で高得点を取るのを防ぐことが可能になるって寸法さ」
「確かに……それなら偶然で咲乃に勝つことは出来ない、完全な実力勝負になりますね」
でも、それが咲乃が勝つ絶対的な理由にはなっていないんじゃないのか。
考えるまでもなく、逢坂も、東橋も運に任せて勉強なんてしていない、2人とも実力を、今より高得点を取れるように勉強しているに決まってるのだから。
こんなの、過去のテストで割り出した平均点差がより明確になっただけじゃないのか?
「努力を怠る、運任せで勝負するような阿呆と闘っているならこの方式は絶大な効果を発揮するでしょうけど、これが逢坂と東橋に当てはまると本気で思っているなら少し彼女達を嘗めすぎだと思いますけど」
「まるで僕が考えたアイデアみたいに言うなよ、これに関して僕は一切助言していない、それに、本当にこれだけだと思っているならそれこそ咲乃を嘗めすぎだ」
「………………」
そう――だろうな、幾ら何でもこれじゃ肩すかしもいいところだ。
「なら、咲乃はどうやって――」
「中央値方式だよ」
「中央値……方式……?」
なんだ、それ、相対配点以外にもまだあったのか?
「中央値方式は主に私立大学で採用されている方式でね、簡単に言えばテストを受けた全生徒の成績を1位から最下位に順位付けした後に、その丁度真ん中の順位に位置する生徒より点数が低ければ低いほど、あるいはその近辺にいる生徒の持ち点を減点していくという方法なんだよ。――といっても実はこれ本来規定のボーダーで受験生を落とすために作られたものだから一高校が採用するのはおかしな話ではあるのだけどね」
「は……なんだよそれ、いくらなんでも無茶苦茶、いや奇想天外過ぎる」
「そう、奇想天外なんだよ。でもね、これが意外にも難関国立大学を目指す受験生には異常に受けがよくってさ――考えてもみたまえよ、少しでも気を抜けば点数がガタ落ちする危険性があるんぜ? それはいかなる物事にでも順位付けして、その上位に立ち敗者を見下し、悦に浸る高学歴厨からすれば最高の刺激だと思わないかい? それはもう否応にでも気合いが入るというものだ。毎年新都高校から多くの東大・京大合格者が輩出されるのには実はこの常識の枠を見事に外れたやり方が原因の1つだったりする」
「でも、そんなことしたら俺や逢坂みたいな成績の悪い奴らは――」
「順位は大して変わらないだろうけど笑えてくるぐらい点数が落ちるだろうね、でもさ、そんなこと知るかよ、っていうのが学校側の見解なのさ、馬鹿に手取り足取り教えてる暇があったら天才の質を上げた方がよっぽど益になるのは当然だと思わないかい? 言ってしまえば馬鹿は黙って塾にでも行って中堅私立大学目指してろって話なんだよ」
「……だとしても、相対配点はともかく中央値方式の情報を咲乃しか知りえていないというのは、いくらなんでもおかしい気がするんですが」
「誰が咲乃しか知らないなんて言ったんだい、ちゃんと知っている人間は知っているよ、といっても確か前回の中間テストの上位100位までだったと思うけど」
「なら、当然東橋は知っているはずじゃ」
「そこに手を打っていなかったら愚鈍の極みだろ、そもそも教師である私がこの勝負の内情を知っている時点で気づき給えよ、それはたとえ理事長の娘だろうと例外ではない」
「…………本気で言っているんですか?」
「テストや勝負の根幹に関わっていないのだから卑怯も糞もないだろう」
ルールというのは決めた者勝ちなんだよ、と彼女は嘆息しながら言う。
……これが、咲乃の勝利の法則だったのか。
確かに、この方法なら間違い無く、相違なく、咲乃は勝つ。そりゃもちろん逢坂だって頑張って、必死になって勉強している、でもこの方式ならちょっと学力が上がった程度じゃ殆ど点が上がる見込みはない、いや、下手すれば以前より下がる可能性だって十二分にある。
だったら東橋なら、とも思ったが大学受験を念頭に作られている今回の期末考査は1、2年の授業内容も範囲になっていたはず、だとしたら何も事情を知らない東橋1人じゃいくらなんでも咲乃との点差をカバーするのは無理があるというものだ。
しかもテストは明日、今更どう足掻いても間に合わない。
対して咲乃はこれらの網に引っ掛かるどころか、燃やした上で堂々と歩いて行くだろう。
それを――これら全ての事実を、咲乃は1対2の構図の中に隠した。
流石、と言うべきなのか。
だけど、本当にそこまで見据えて、理解して、咲乃は勝負を提案したっていうのか?
いや、咲乃なら必然的に思いつくのだろう、あり得ない話でないことぐらい分かっている。
……なのに、俺の中の蟠りというか、凝りは抜けようという気配すら見せなかった。
もちろん常に咲乃が自律的な意思を持って行動しているのは知っている、それは日頃の咲乃を見ていればわざわざ口にするのも無粋で、愚問な話だから。
なら、どうしてこんなにも、胸がざわつく?
この不気味な女が絡んでいるから? 咲乃らしくないから?
それとも俺が、直視することに怯えてしまっているのか?
「ねえ、聡ちゃん」
そんな俺の様子を悟ったのか、半ば放心状態だった俺に向かって彼女は静かに問いかけた。
「君は、咲乃のことをどう思っている?」
「……? 何を、突然――」
「咲乃はね、僕と出会ってからずっと、聡ちゃんと再会することを望んでいたんだよ、いやそんなもんじゃない、待ち焦がれ、待ち焦がしてしまっていたんだよ」
「それは――」
分かっている、つもりだ。咲乃は、臆面無く、聞いているこっちが赤面するような台詞を平然と愛情表現として使う奴だから。戯言でなく俺のことを待っていたのは、ちゃんと――
「それならとっとと会えばよかったのに、って話なんだけどさ、咲乃も色々とあったからね――その姿はさながら遠距離恋愛にもどかしい思いをしている乙女のようだったよ」
「咲乃は……あいつは俺と再会するまでの間に、一体何があったんですか?」
そう言い切ってから、まさかこの言葉を言わせる為に上手く誘導されていたんじゃないかと一瞬危惧したが、ひもと先生は俺の発言に対し只でさえ細い目を一層細め、微塵も可愛さを滲ませない笑顔を見せるときっぱりとこう言った。
「それは言えない」
「え、ど、どうして?」
「咲乃との約束だからだよ、そりゃ僕みたいな不吉しか漂わない人間と、年単位で付き合いあったのだと思うと不安になる気持ちは分かるけどね」
「――別に、そんな風には思っていませんけど」
だから何で分かるんだよ、読心術でも会得しているのかこの人。
「はははっ、謙遜しなくてもいいよ、基本男子からはもれなく好かれている僕だが、一部の女子からは存外気味悪がられていてね、いやはや、流石に顔だけでは八方美人、八面六臂な効果は発揮しないみたいだよ。ま、だからといって気に病んだことはないけれど」
そう言って3本目の煙草を灰皿に押しつけると、こう続けた。
「でもね、焦慮する必要はない、いずれ分かることだ。それは私の口からでなくとも、咲乃の口からでなくとも、きっと知ることになるだろう、それがどんな形であろうと聡ちゃんは必ず直面する。だからこそ聞きたいんだ――君は、北海堂聡一は神名川咲乃のことをどう思っているのかを――」
「俺は……」
どう、なんだろう。
そもそも俺は咲乃のことを理解しようとしていたのだろうか、いつも俺のことを正面から見て、見据えてものを言うあいつの気持ちを、芯から受け止めていただろうか。
恐らく受け止めなどいなかった。いや、それどころか受け流していたんじゃないのか?
あいつと付き合っているのも何処か飯事気分で、社会復帰慈善活動にしたって、未だに『ごっこ』気分が抜けないままでいるんじゃないのか?
……否定は出来ない、肯定出来るなら今頃美辞麗句を並べ立てて答えているはずだから。
だから、そんな曖昧な接し方だったから、咲乃は何も話してくれないんじゃないのか?
ならこうなって当たり前だ。ふわふわしてる奴に誰も身なんて預けたくなんてない。
そういうことなら、咲乃が本当に俺に望んでいるのは、『今』の俺ではないのだろう。
確実に、今あいつの隣にいていいのは俺じゃない、いる価値さえない。
――なのに、どうして咲乃はずっと傍にいてくれているんだ?
こんな、正義感を思春期の入り口に置いてきた俺に、一体何を望む?
たった1つの因果で、心が揺らいでいるような、こんな奴に――
分からない、分からない、分からない、分からない。
――でも、俺の所為であいつの笑顔が消えてしまうなら、それは嫌だな。
女の笑顔でご飯が三杯いける俺としては、あまりに耐え難い話だ。
なら、それならまだ、大丈夫なのかもしれない。
「――もちろん好き、ですよ、それはもう、今後付き合うであろう最初で最後の女性だと確信しているほどですから。ただ、それだけの価値が俺にあるのかといえば、それは分かりません、いや、多分無いと思います。でも、いずれ変えていくにしても、価値はなくとも意味はあるなら、咲乃がどんな事情を抱えていようと好きでい続けます――それであいつが笑ってくれるなら、安いもんです」
そう言い終えた途端、自分の尋常じゃないキモさに雲散霧消したくなったが、その俺の言葉にひもと先生は「ふうん」と呟き、何故か一瞬だけ視線を逸らし、戻すと、こう言った。
「ふふふ、そうか。なに、それならいいんだ。無粋な真似をさせて悪かったね、実は僕も僕で色々と心配していたからさ、でもこの様子なら何の問題もなさそうかな」
すると彼女は確実に今思い出したかのような体で湿布と包帯を取り出すと、手際よく俺の両足を治療し、松葉杖を渡してきた。
そういえば足怪我してここに来てたんだっけ。そんなこともすっかり忘れていた。
「さて、いつまでも長々と会話をしていては男子生徒諸君にあらぬ勘違いをされそうだからここいらでお開きとしようか。ふふ、こう見えても僕は結構貞操は固い方でね、薄い本にありがちな初々しい生徒の童貞喰うことを生き甲斐にしているような糞ビッチ保健教師キャラとは訳が違うんだよ、ちゃんと常時カーボン製の貞操帯を付けているしね、見るかい?」
「え、締めで突然何を言っているんですかアナタは」
咲乃の驚異の変態っぷりも、どうやらコイツが元凶で間違いなさそうだな。
今は多分、これでいいのだろう。
今更決意した分際で偉そうなことをいうつもりはない。
けれど、もう横を向たり、斜めを向きながら話したりなんてしない。
咲乃がどんな怪しげな女と付き合いがあろうと、過去にどんな事情があろうと、関係ない。
それらの行為が最終的に共依存だと揶揄されようと、一向に構わない。
いつか違うこと無く向き合える日が来るまで、俺は咲乃の為に居続けよう。
それは助手としても、恋人としても――だ。
これで順当なのだろう、いや、当然の帰結と言うべきなのか。
逢坂も東橋も無茶苦茶悔しがっていた、当たり前だ。
一見すればまるで僅差で負けたような構図なのだから。
でもそれは予定調和。
一生懸命頑張ってもそれはちょっと頑張ったにしかならない。
けれど努力が徒労に、骨折り損になっていることなど彼女達は知る由もない。
もし知ったとしても、それはもっと後の話だろう。
しかし知ったところで、あいつらはそれが原因と気づくのだろうか。
それほどまでに、咲乃の勝ちは完璧だったように思えてならない。
……まあ、俺も全く知らなかったから、ある意味負けてしまったのだが。
大体採点方式以前に問題のレベルが高すぎるしね、進研模試が赤子同然だし。
東橋が教えてくれた勉強法も、独特過ぎて全く参考にならなかったしな。
『暗記物は総じて脳裏に焼き付けろ』って何だよ、ほぼ暗記パンじゃねーか。
理数系至っては『考えるな、感じろ』レベルだったからな、無理。
――まあ、それはともかくとして。
いずれにしても、この勝負は言わば出来レースみたいなものだったのだ。
咲乃にしか出来ない、いや咲乃だからこそ可能にした、必然的結果。
仮に最初から種が分かっていたとしても、挽回出来たか怪しいだろう。
けれど、これは違う。
これは必然であってはならない、偶然でなければいけない。
そうでなければ、僕のような人間がもう1人いることになる。
もちろん初めからいたのなら何の問題もない、ただの天才として処理出来る。
受験も佳境に入り、最後の期末考査で出てきたのなら、努力家として処理出来る。
だが、こんな中途半端な時期に出てくるのは、明らかにおかしいのだ。
あってはならない、あってはいけない、あることは許されない。
でなければ、これが意味する先は、灰色の世界に藻掻き苦しむ、愚者の成れの果てだけだ。
――しかし、僕がそれをどうこうする権利は有していない、許されていない。
有するのは愚者が廃人になる様を、同情の余地も持たずに漫然と見つめる特権のみ。
全く、こんな輩が人助けをしたいなど、矛盾もいいところだ。滑稽の極みである。
これでは聡ちゃんを我が物にしたかっただけだ、と言われても仕方ないのではないか。
……それでも、僕は彼女の訪問を待つことしか出来ぬ、畜生でいなければならない。
あくまで何でも屋としての段階を踏まなければ、干渉することさえままならないのだ。
――嗚呼実に愚かしい、何て僕は愚図で愚直なんだろう。
でも、それでも僕は、全てを背負って、理解して、その通りに動くしかない。
期末考査 成績優秀者
1 蒼森 夏美 900
2 神名川 咲乃 896
3 籠嶋 冬子 890
4 卍山下 圭佑 772
5 薬師丸 朱音 768
6 鈴木 颯太 759
7 新妻 葉百合 755
8 一 一三 748
9 山田 真也 742
10 藤原 弘明 738
11 ―― ―― 7――
12 ―― ――
逢坂も東橋も無茶苦茶悔しがっていた、当たり前だ。
一見すればまるで僅差で負けたような構図なのだから。
でもそれは予定調和。
一生懸命頑張ってもそれはちょっと頑張ったにしかならない。
けれど努力が徒労に、骨折り損になっていることなど彼女達は知る由もない。
もし知ったとしても、それはもっと後の話だろう。
しかし知ったところで、あいつらはそれが原因と気づくのだろうか。
それほどまでに、咲乃の勝ちは完璧だったように思えてならない。
……まあ、俺も全く知らなかったから、ある意味負けてしまったのだが。
大体採点方式以前に問題のレベルが高すぎるしね、進研模試が赤子同然だし。
東橋が教えてくれた勉強法も、独特過ぎて全く参考にならなかったしな。
『暗記物は総じて脳裏に焼き付けろ』って何だよ、ほぼ暗記パンじゃねーか。
理数系至っては『考えるな、感じろ』レベルだったからな、無理。
――まあ、それはともかくとして。
いずれにしても、この勝負は言わば出来レースみたいなものだったのだ。
咲乃にしか出来ない、いや咲乃だからこそ可能にした、必然的結果。
仮に最初から種が分かっていたとしても、挽回出来たか怪しいだろう。
けれど、これは違う。
これは必然であってはならない、偶然でなければいけない。
そうでなければ、僕のような人間がもう1人いることになる。
もちろん初めからいたのなら何の問題もない、ただの天才として処理出来る。
受験も佳境に入り、最後の期末考査で出てきたのなら、努力家として処理出来る。
だが、こんな中途半端な時期に出てくるのは、明らかにおかしいのだ。
あってはならない、あってはいけない、あることは許されない。
でなければ、これが意味する先は、灰色の世界に藻掻き苦しむ、愚者の成れの果てだけだ。
――しかし、僕がそれをどうこうする権利は有していない、許されていない。
有するのは愚者が廃人になる様を、同情の余地も持たずに漫然と見つめる特権のみ。
全く、こんな輩が人助けをしたいなど、矛盾もいいところだ。滑稽の極みである。
これでは聡ちゃんを我が物にしたかっただけだ、と言われても仕方ないのではないか。
……それでも、僕は彼女の訪問を待つことしか出来ぬ、畜生でいなければならない。
あくまで何でも屋としての段階を踏まなければ、干渉することさえままならないのだ。
――嗚呼実に愚かしい、何て僕は愚図で愚直なんだろう。
でも、それでも僕は、全てを背負って、理解して、その通りに動くしかない。
期末考査 成績優秀者
1 蒼森 夏美 900
2 神名川 咲乃 896
3 籠嶋 冬子 890
4 卍山下 圭佑 772
5 薬師丸 朱音 768
6 鈴木 颯太 759
7 新妻 葉百合 755
8 一 一三 748
9 山田 真也 742
10 藤原 弘明 738
11 ―― ―― 7――
12 ―― ――