２月

　２月のある夜、俺は夢を見た。夢の中で俺は、１匹の猫だった。
　ありえない設定なのに、妙にリアル。そういう夢は時々あるが、その日見た夢は今までの中でも一番不可思議で、しかし現実的だった。
　俺は１匹の野良猫で、多分だが、名前もまだ無かった。
　俺の良く知るあいつも、夢の中に勝手に出てきた。


「あんた、そこで何してんのよ？」
　雨の降る、路地裏、夜の雑踏。俺はダンボールを屋根にして、寒さに耐えていた。
「見りゃ分かんだろ。震えてんだよ」
　そこに雌の三毛猫が１匹通りかかった。俺は雌猫を睨んで、あっちに行けと無言で言った。雌猫は「ふん」と鼻を鳴らして不機嫌そうに、赤い傘を揺らしてどこかへ行った。
　俺は俯いて、ひたすらに世間を恨んだ。理由は分からないが、途方もない孤独があった。それだけで十分だった。
「……ほら」
　顔をあげると、去ったはずの雌猫が居た。ビニールの傘を咥えている。
「どうせ店に余ってたヤツよ。好きにしなさい」
　そう言って、雌猫はビニール傘を俺の前に落とした。傘は明らかに新品だった。
「……いらねえよ」
　と、俺は言う。雌猫は「あっそ。じゃあ捨てておきなさいよ」と言って、再び去ろうとした。
　俺は自嘲気味に呟く。
「傘なんてあったって、行く所がねえ」
　雌猫が歩みを止めて、振り返る。俺はその大きな瞳に、吸い込まれそうになる。
　ヒゲが揺れて、口が小さく開く。雌猫が発した声は、雨音と混じって俺の耳に届いた。
「うち……来れば？」
　結局、そんな事がきっかけで、俺はその雌猫のボロアパートで何故か同居する事になった。
　雌猫は、名前をミケと言った。「ありがちな名前だな」と俺が笑うと「そう言うあんたは何て言うのよ？」と尋ねられた。俺は答える事が出来なかった。
　ミケとの暮らしは、アンバランスながらも長く続いた。ミケは家の近くの猫クラブで働いていて、俺は日中はぶらぶら散歩をして、たまに気まぐれで料理をしたり、古本を読んだりしていた。つまり端的に言うと、ミケのひもだった。
　いつも明け方近くに帰ってくるミケは、そんな俺を見ても一言さえ文句を言わない。
　時々、仕事で嫌な事があってミケが泣いている時、１日中一緒にいて、毛づくろいをしてやればそれで万事が上手くいった。そういう関係だった。
　笑える事も沢山あった。ミケの身体は柔らかくって、本気を出すとまるでボールみたいに丸まるので、俺がそれをころころと転がす。なんだか良く分からないがミケが笑うので、俺もつられて笑ってしまう。一緒に買い物に行くと、ミケはいつもまたたびを我慢する。機嫌の良い時は刺身を買う。
　安らかな時間だった。
「出ていこうと思う」
　ある日唐突に、俺はミケにそう言った。
　理由は分からない。いや、ミケに頼りきっている自分が嫌になっただとか、１人きりになりたかっただとか、理由にならない理由はあるかもしれない。でも、そんなのは言い訳だった。俺はただ単に、出て行きたかっただけだ。
「あっそ」
　ミケは出会った時と同じ口調で、興味なさそうにそう答えた。気は楽になったが、ミケの顔を見る事は出来なかった。矛盾していた。俺は、俺は……。
「世話になったな。それにしてもお前、良くこんなロクでなしの面倒を見てくれたな」
　引き止めて欲しかったのかもしれない。毛づくろいをしてやりたかったのかもしれない。しかし出てくる言葉は無骨で、どうしたら良いのか持て余した、尖った感情の欠片だった。
「あんたは、ロクでなしなんかじゃないわ」
　ミケは真剣に、子供が生まれて初めてついた嘘を訂正するように言った。
　俺は我に返って、「ありがとうよ」と言った。精一杯だった。
　結局、ミケの家を出て行く事は変わらなかった。別にあてはない。ただ、居続ける事が出来なかった。ミケに会うまで、俺は旅をしていたような気がする。そしてまた、旅に出るだけのような気もする。
　出会った時と同じ雨の日に出発する俺に向けて、ミケはこう言った。
「あんたに名前をあげるわ」
　俺はミケにもらった傘をさして、ミケの方に振り向こうとする自分を戒めた。
「あんたの名前は……」


　と、そこで目が覚めた。
　一言で言えば、人生最悪の夢だ。まず間違いなく、これからもこれ以上の悪夢は見る事は無いだろう。俺がミケに養われる？　そんな冗談があってたまるか！　この夢を通して、俺の深層心理は一体何が言いたいんだ？　まるで意味が分からない。
「あんた、うなされてたわよ」
　現実のミケが若干引き気味に俺にそう言う。おまえのせいだ、とも言いたくなったが、また喧嘩になるのでやめておく。
「よっぽど悪い夢見てたんでしょうね」
「……ああ、まあな」
　と返事をすると、ミケは聞こえるか聞こえないかの小さい声で、そっと呟いた。
「……どこにも行かないでよ」
「え！？」
　思わず、呼吸が止まりそうになった。
「何よ？」
　瞬きをしながらミケの顔を見ると、いつもの高飛車な調子に戻っていた。
　さっきの台詞は、俺の聞き間違えだったのだろうか。変な夢を見て、気が動転しているのだろうか。　でも、確かに……。