クロはやけに人なつっこい猫だった。初対面のわたしにも物怖じしない。手わたしで餌を食べるし、甘えるように頬を擦りつけてくれる。赤い首輪をつけてやると、にゃあ、鳴いて喜んだし、牛乳も最後の一滴まで舐めてくれる。トイレはしつけるまでなくどこか野外で済ませてきて、ついでに爪研ぎも石垣で綺麗に整えてくる。
「な、なんて紳士な猫なんだ」
と加賀は驚いていた。続けて、
「藤田も見習えよ」
みたいな。失礼な。死ね。
○
多分週末のことだったと思う。サザエさんがやっていたたからきっとそうだ。すでに日は暮れて、真っ赤な西日が部屋中で踊り狂っていた。その運動に巻き込まれながら、わたし、クロと一緒にテレビをぼんやり眺めていた。カツオくんが馬鹿なことをやっていた。そうして、お父さんに叱られていた。いつものサザエさんだった。まだ夕食を食べていなかったわたしは、ああ、カツオのたたきが食べたいなあ、と思った。冷蔵庫を開けると、牛乳と豆乳と、たったそれだけだった。
「クロ、買い物行ってくんない?」
けれど黒猫はこれを無視した。わたしの膝の上でまるまって、ふわあああ、あくびをしていた。
「お駄賃あげるからさ」
うりうりと頬をこねくると、にゃあ、気持ちよさげに鳴いた。この猫は買い物には行ってくれない猫だった。いつかのこと、働かざる者ユグドラシル、と加賀は言った。意味はよく分からない。というか、まったく分からない。けれど分からないなりにも無職なわたしへのあてつけということくらいは承知しているので、わたし、今、この猫に言いたいと思う。
「働かざる者ユグドラシル」
にゃあ? とクロは首をかしげて、可愛い。
○
仕方がないので加賀に電話した。加賀は美人で(以下略)なのですぐに飛んで来てくれた。
「おおお、お、おい。ク、クロが病気だって?」
「そうなのです。カツオノタタキヲタベナキャシンジャウ病なのです……。カツオのたたきを食べなきゃ死んじゃうのです……。お願い、加賀。カツオのたたきを買ってきて」
「……は?」
瞬間、加賀の顔、ちょっと見物だった。目と口がまんまるでムンクみたいだった。笑った。殴られた。見事なアッパー・カットだった。
「あ、あ、あああ、あんたね、ああ、あ、あんまり人を心配させないでくれる!」
あ、これ、マジだ。
感づいたわたし、即座に正座、平身低頭の態、ごめんなさいを山と重ねて、平謝りに謝り続けた。ジュースも奢る約束した。キスもしてあげようと言った。それは却下された。
「いやぁ、ほんとに申し訳ない」
「いくら藤田でも、ああいう冗談は怒るからね、私」
「ごめんってば。ほら、肩もんであげるよ」
「存分にもみなさい」
わたし、加賀の肩、もみもみもんで、てのひらが痛くなるまでもんで、ついでにふくらはぎまでもんで、ようやく、
「……で? なにが食べたいって?」
「かつおのたたき」
「じゃ、かつお買ってきなさい。作ってあげるから」
「え、わたしが買って、はいはい行きます。行けばいいんでしょ!」
「ついでにケーキも」
「ケーキ? かつおにケーキ!?」
「いいから買ってこい馬鹿!」
加賀に追い立てられて、わたし、しぶしぶ部屋を出る。ドアを開ければ、冷気が肌にしみる。夕暮れの濃密が気管支にからみつく。
「うっへえ」
理由もなく呟く。声がかすれる。
「帰りてえ」
夕日に向かって歩く。ふらふら、ふらふら、歩いていく。足取りはおぼつかねえ。歩く。加賀に持たされたエコバックは、熊のプリントがしてあって、茶色の毛玉が、がおー、立ち上がって吠えていて、それがなんとも可愛らしい。そのちゃちなプリントを撫でて、なんとか心を奮い立たせる。
「がおー」
西の果てには楽園があるという。そこでは人々、働かないで毎日毎夜悠々自適、ひたすら猫との戯れにふけっているらしい。なんてうらやまけしからん。
「がおー」
わたし、この世のすべてに喝! して。スーパーに急ぐ。ふらふら、ふらふら、歩いていく。足取りはおぼつかねえ。歩く。
○
「♪今日のごはんはなんにしよう。ラーメンビフテキトンカツウォウウォウ、おいしいごはんはいいものだ、ぱっぱ、ぱっぱら、ぱぱぱーやー!」
自動ドアを開くと、ヒーターで温められた空気と一緒に間抜けな歌が耳に飛び込んできて、そのあまりに素敵なメロディーにおもわず一緒にハミングしてしまいそうになる。なるだけ、だけど。だけだけだけど。
店内は照明の人工的なまばゆさに満たされていて、隅の隅までよく見渡せる。わたしの顔も、きっと毛穴の奧の奧まで見て取れることだろう。それがわたしを居たたまれなくする。いっそ加賀の前で全裸だったほうが、どれだけ気が楽なことか知れない。
背筋を伸ばす。ぴん、と伸ばす。ロボットだ、わたし、ロボットだ。ぎりぎりぎこちなく店内をまわる。
「♪今日のごはんなナンにしよう! おさかなおにくおんどりいぇいいぇい、おいしいごはんはいいものだ、ぱっぱ、ぱっぱら、ぱぱぱーやー!」
おさかなおさかなおさかないぇいいぇい。鮮魚ゾーンまで来ると、試食の魚肉ソーセージを勧められる。一口いかがですか? わたし、あいまいに笑って、小走り。逃げた。目についたかつおのパックを手に取って、鮮度なんて確認する間もない、レジに直行して、千円札をだし、お釣りを受け取り、エコバックの中、ぽつんとかつお、ひとりきり。
○
店をでると、すでに夕日は沈みきって、けぶる宵闇が東から迫ってくる。西の果ての楽園も、いずれはあれに飲み込まれてしまうのだろう。いい気味だ。
夕暮れが薄まってきたので、呼吸はすこし楽になった。全身から吹き出る汗を、夜風の冷たさが誤魔化してくれる。すこし頭が痛い。どこかで犬が鳴いている。のをあある、とをあある、やわあ、鳴いている。まるで荻原朔太郎の詩みたいに。
空には月が昇っている。知っている。あれは神様の眼球で、わたしをじっと見つめている、その視線から逃れるべきだと。けれども同時に、それが妄想だということも、また。
「がおー」
家に帰れば加賀がいる。クロもいる。ふらふら、ふらふら、歩いていく。足取りはおぼつかねえ。こけた。なにもないのにつまづいて、こけた。ひざをすりむいた。痛い。赤い。うつぶせのまま、飛んでいったエコバックを探す。それはすぐに見つかって、水溜まりのなか、ゆっくりくつろいで鼻歌をハミングしていた。あわててつかみあげると、茶色い熊、どろどろに汚れて、こぼしたカレーのしみみたくなっていた。がおー、と可愛らしい顔立ちが、情けないくらいしょぼくれて見える。
どうしても涙がでるので、わたし、ひたすらうつむいていた。歩く。足取りはおぼつかねえ。とぼとぼ、とぼとぼ歩いていく。月がわたしを見つめている。風の声がささやく。みじめねえ、みじめねえ、ささやく。わたし、シカト、ぶっこいて。
○
「あ、あんた。どうしたの、それ」
ドアを開けるなり、加賀はびっくりしたような顔で言った。
「こけた。慰めて」
涙の跡が乾いて頬はぴりぴりひりつくようだった。きっとひどい顔をしているので、あまり加賀に見せたくなかった。表情を隠すようにバッグを差しだした。
「ごめんね、バッグ、汚しちゃった」
「それくらいいいから。消毒してやるから、ほら、座りな」
「でも、熊が……」
「だからいいって。それくらい洗うし。……っていうか、救急箱どこだよ」
「そんなもんいらん」
ふう、と加賀はため息をついた。
「じゃ、せめて水で洗い流しなさい」
「はい」
じゃー、ぼとぼと、じゃー、ぼとぼと。蛇口をひねると、ステンレスのシンクが激しい音をたてる。わたしはこの音が好きじゃない。神経中で跳ね回って、内側をかき乱すような騒々しさ、頭蓋骨が痒くなるから。こびりついた血液が水道水に薄まっていく。どろどろに黒ずんだ深紅も、洗い流され、いまやピンク、インクみたいにどぎついピンク、シンクを染めて。
「んじゃ、私はかつおのたたき作っておくから」
「ういすういす。よろしく」
わたしのとなりで、加賀は包丁をふるう。かつおが引きちぎられていく。パックにつめられた、元、生き物、その残骸。なにか遙かな違和感があった。その違和感は、きっと、人類すべてが持っていて、でも、この世界で生きていくなら、生き物でいたいなら、捨ててしまわなければいけないものだ。
血が、とまった。傷口は鮮やかな桃色で、すこし女性器にも似ている。メタファー。
「洗えた」
「ふうん、じゃ、クロとでも遊んでおきな。私、作ってるから」
「ううん、手伝うよ」
「そう? つっても、別に手伝われることなにもないんだけど。タレも作っちゃったし、ご飯も炊いたし」
「じゃあ、見てる」
「見てる?」
「うん。加賀を」
「いや、見られても……、その、なんだ、困る」
「見てる」
「そ、そっか」
○
それから、出来上がったかつおのたたき、加賀とクロと一緒に食べた。美味しかった。
「これでなにかしらお酒があればねえ」
と、わたし、しみじみ呟いた。
「買ってきてくれよ、加賀」
「いまさら遅いでしょうよ。つうか、あんた見てないで買ってこればよかったじゃん、酒」
「が、がびーん。その手があったか。しまった……」
「がびーん言うな」
はい、これ、今回のオチです。
○
「じゃ。私、そろそろ帰るわ」
「ういすういす。お仕事頑張るっちゃ、ダーリン」
「あんたもな、お仕事探し頑張れよ、いい加減」
「うーん、ま、気が向いたらね」
「自由だな」
「わたし、鳥だから」
「そうか」
「いや、そんな軽く流してくれるなよ」
「それじゃ、また。もう変な嘘つくなよ」
「あいよ。また」
ドアのしまる音。人の気配が消え去って、部屋には猫と鳥しかいない。鳥に翼はない。二本の脚は細くかよわい。まるでふるえるひなどりが、そのまま育ってしまったみたい。
鳥は猫に語りかける。
「だからって、食べちゃわないでよ」
にゃあ? とクロは首をかしげて、可愛い。