神歴1035年、3月。――天界。
「……準備はできてるか?」
地上から遠く離れた、遙か天の奥に広がる天界。この世界でもっとも太陽に近く、光りに包まれた場所には場違いな黒い集団がいた。彼らは漆黒のローブを全身にまとい、それぞれ素性がわからないようになっている。その集団の中心にるひときわ異彩なオーラを醸しだす男が、そうつぶやいたのだった。
「なんの問題もありません。手はず通りに行えば」
隣にいる男がそう囁く。中心人物の男は、ローブの中で密かに口元を緩めた。
「ああ、だいたいのことは頼んだぜ。なんせ俺は、ここじゃ長いこと活動できないんだからな」
獲物を捉えた猛獣のように、舌なめずりをしてみせる。その歯は、不気味なほど鋭く尖っていた。
「サイード殿、まもなく門が開きます」
またも同じ隣の男が、そう言った。どうやらリーダーの男はサイードというらしい。
「さあ、始めよう。――反逆を!」
黒い者たちは、一斉に四散した。
「大変です、ガブリエル様! 何者かが、神の領域に侵入した模様です」
天界の中でも一等地にあたる大天使領域。そこに居を構え、天界の政務を取り仕切る大役についているガブリエル=ミカエルは、臣下のジョセイルの怒号によってその安眠を妨げられた。
「どうしたんだジョセイル、時間をわきまえろ」
厳格な態度で天使たちを取り仕切る普段の姿とは思えない気の抜けた返事をガブリエルはした。しかし、そんなことなどジョセイルの耳には届いていないようだった。彼は動揺したふうもなく繰り返す。
「一大事でございます! もう一度申し上げます。何者かが、神の領域に侵入しました!」
寝ぼけ眼で焦点の合わなかったガブリエルの目は、一瞬で活力を取り戻し、その全身に力をたぎらせた。
「どういうことだね、ジョイセル。詳しく説明してもらおう」
「はい、かいつまんでお話しを……」
時間がないのだろうか、ジョイセルの口調は流れるように早かった。
天界は既に騒然となっていた。
”敵はどこだ!?”
”複数人いるらしい。怪しいやつを見つけたら構わん、殺せ!”
”西門の部隊がやられた! 敵は西だ、急げ!”
背中に羽を生やした天使たちの軍勢が、ぞろぞろと移動する。それをローブの男が二人、地面から生え立つ塔の上で眺めていた。一人は先ほど集団をまとめていたサイードである。
「……陽動は成功しているようだな」
「はい。ことは手はず通りに進んでおります」
「さて、こっちも行動開始といくか」
その言葉を合図に、二人は塔から飛び降り、地面に降り立つ。地面といっても天界の地面はまるで雲のようなものだ。気を抜けばそのまま地上へ落下してしまいそうな錯覚に陥ってしまう。しかし二人はそんなものものともしない様子だった。
「動くな!」
不意に二人の背後より声がする。
「ゆっくりと、そうだ、ゆっくりとこちらを向きたまえ」
二人が言われたとおりに振り向くと、そこには弓矢をかまえた天使が三人、立っていた。
「貴様ら、何者だ?」
中央に立つ天使が問う。彼らは全身に銀を基調としたカラーリングの鎧を見にまとい、その手に持つ弓矢は物質ではなく、光り輝くものであった。これは彼らが特とする魔法の一つである。
「何者って言われてもねえ……」
サイードはそうつぶやく。次の行動をどうしようか思案している様子だ。
「ここは私が引き受けましょうか」
隣にいる男が言う。しかし、サイードはなにか決心したような表情をローブの下でつくりながらこう答えた。
「いや、お前がいなかったら、最後の鍵を開けられないだろう? ここは、俺がやる」
サイードは一歩前に進み出た。
「貴様、抵抗するか!」
天使たちの矢を引く力が強くなる。それにもかかわらず、サイードはなんの動揺もみせていなかった。表情はローブのせいで、彼らには見えていない。
「情けはいらないぜ。早く射てよ」
明らかな挑発にしびれを切らしたのか、天使たちは怒りの形相をその顔に表し、一呼吸おく間もなく矢を放った。
「お前らの攻撃は――!」
そう言いながらサイードは自らの手を横に一閃させた。
一斉に男に向かって放たれた光の矢は、横から何か特別な力の影響をうけたかのようにその勢いを失い、男の目の前で無残に落下、そして霧散した。
「効かないんだなぁ、これが」
天使たちは一瞬唖然としたが、すぐに次の矢を召喚すると、サイードに向かって再び放った。
次の男の行動は、矢を撃ち落とすことではなかった。身をかがめたかと思うと、一瞬でその姿を消したのだった。
「!?」
天使たちが驚きを表情として表したとき、すでに彼らの背後に男は立っていた。
男は手近にいた天使の一人の背中に向かって、自身の腕を突き刺した。
天使の胸部からサイードの腕が姿を現す。一瞬の出来事であった。突き刺された天使は、その腕を目指するまで、自分に何が起きたのか理解できなかった。そして、突き出た腕、指先の爪は、まるで凶器だ。――鋭く尖っていたのである。
「……ぁ……がっ……!」
男が腕を引き抜くと、胸に大きな風穴を開けた天使は、その場に崩れ落ちた。
「馬鹿な……屈強な我ら戦闘部隊が、一撃で……?!」
残された天使の一人が、驚愕の表情を浮かべ、そう吐き出した。まさに信じられない光景だったのだ。
「そういうことだ。天使ごときが、俺の邪魔をするな」
サイードは得意げな表情だった。しかし、もうその顔を隠すローブのフードはなかった。瞬間的移動の際に頭から外れてしまったようだ。
彼の姿を見た天使は、誕生してから今までに感じたこともない衝撃を受けたことだろう。
「なぜ……だ。なぜ……貴様のようなものが……ここにいる。……なぜだ……悪魔!」
サイードの肌は浅黒かった。とてもこの光に満ちた天上界には似つかわしくもない。もちろん背中に羽があるわけがない。尖った耳、鋭い牙と爪。かれは天界にいてはならない存在、地下界に棲む悪魔だった――。
「俺はな、奪い取りに来たのさ。ここにある、神の力をな」
「なに!」
それが、その天使の最後の言葉になった。彼に額には、光り輝く矢が刺さっていた。
その矢を放ったのは、もう一人のローブの男だった。
「な……」
ひとり取り残された天使は、間近に入る悪魔ではなく、矢を放ったローブの男を凝視していた。
「どうした、顔に信じられないと書いてあるぞ? ここは天界だ。天使がいたっておかしくないだろう」
男は顔を隠していたローブのフードから顔を出してみせた。その肌の色も、髪の色も、眼前に立つ天使のそれを一切変わらなかった。
「裏切り者が……いたのか!」
「じゃなきゃ悪魔がこんなところにいれるわけねーだろ!」
完全に身体を固めた天使に、サイードが迫る。
「……」
天使がサイードに攻撃されたことに気づいたのは、見える世界が反転した後だった。
彼は自らの爪をまるでナイフのように扱い、天使の首を飛ばしたのだった。
「天使相手にも動じないとは、さすがですな、サイード殿」
裏切りの天使は嫌らしい笑みを浮かべてそう言った。サイードの表情は涼しげだが、どこか楽しそうでもある。
「これくらいできなきゃな、神を得ようなんぞ思えんさ」
「少し時間を持っていかれましたね。急ぎましょうか、祭壇へ」
二人は、目前に迫った神の元へと走った――。
「どういうことだね、こいつらは、囮とでもいうのか」
ガブリエルは怒りの形相で部下たちにそう迫った。
「は、はい……。どうやらやられたようです。かれらは部隊のうち大部分をこちらに陽動として派遣したようで……。おそらくコヤツらの狙いは反対側の……」
「神の祭壇……か。天界の宝物庫を狙わず神を直接手にかけるとは、命知らずな侵入者よ」
必死に説明を続ける部下を尻目に、ガブリエルはそう自己完結するのだった。
「ここまでやるんだ。下等天使にはできない芸当だなぁ。こりゃ、どっかの大天使が絡んでいるとみて間違いなさそうだ」
まさか悪魔が主導したものとは微塵にも思わないガブリエルたちをよそに、サイードの計画は着実に進んでいった。