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5☆「高い城の下の少女(上)」(2019/08/01)

 楊貴妃ロマンロードという道がある。
 遥か千五百年前に唐で起こった安史の乱から逃れた楊貴妃が息絶え絶え流れ着いたとされるのがこの向津具半島で、乃々香と莉茉は湊太の運転する車に乗って、この楊貴妃の道を走っていた。
 「俵島なんて行くのなんて初めてだよ」
 「すみません、車を出してもらって」
 「いいって」
 そう軽くあしらって、道沿いにある楊貴妃の里を通り過ぎた。そこには、楊貴妃の墓というものもあるらしい。徐福伝説やキリストの墓のようなものなのだろう。
 俵島。乃々香にとっても行くのは初めてだった。向津具から横に伸びた陸繋島の油谷島から、さらに陸繋島で繋がる珍しい構造をしているのがこの島だった。
 一つ目の陸繋島である油谷島に差し掛かると、道幅がぐっと狭まり暗がりの木立の中を入っていくようになった。
 「まるで林道だな……本当に県道かよ」
  目の前が開けたかと思えば両端に畑が迫った道に、湊太が舌を打つ。一方、莉茉に目を移すと、事も知らずにすやすやと寝息を立てて眠っていた。
 「お兄さんはどうして、こんな場所を指定したんだろうな。……行けば分かるか」
 兄は以前と同じように時間と場所だけを告げてきた。リハビリのためと思っていたものが今では目的の変わったものになってしまっている。乃々香の心臓は破鐘のように脈打つ。
 ポン、という無機質な音と共に、カーナビが目的地に着いたことを伝えた。俵島に一番近い道路にあたりをつけて設定しただけのもので、高台に道を通す外なかったという感じのこの場所からは、海岸線に出なければならなかった。
 観光地化されていないので駐車場なんてものはなく、車を気持ちほど幅の広い路肩に止めるしかない。
 着いたよと莉茉の肩を揺する。言葉のようなそうでないものを漏らす。
 「俺は車に居るよ。なにかあったら電話をかけて……そいつ、こういう晴れた日は暑さに弱いから、早く用事を済ませたほうがいいぞ」
 乃々香はわかりました。そう告げると、夢から醒めやらぬ莉茉の手を引いて車から出た。
「あづい」
「頑張れば早く終わるからね」
 東南アジアのような緑の強い植生に囲まれながら、黄色のガードレールを伝って、民家の脇を下っていく。
 飼料の臭いのする方へ顔を向けると、牛舎があり、牛の鳴き声がした。暗がりから牛の目が光ると、莉茉は強張って乃々香の腕を強く抱いた。さらに下ると棚田が広がり、それも終わると、丸石の転がった海岸へと抜けた。
 ここで初めて俵島そのものが眼前に浮かんだ。
 更に遠くには観光地の角島とそれを渡す橋が小さく見える。
 「行こう」と、莉茉に促す。
 踏む度に丸石に埋まっていく不安定な足場に、莉茉が喜怒哀楽の声を上げる。ハングルの書かれたペットボトルや、何に使うのかさっぱりわからない漂流物を取り立てようとしては、乃々香が制した。
 誰もいない海岸。日本海の青黒い波濤だけが寄せては返している。足元に苦しみながらも島の正面を見据えるところにまでやってきた。
 背後には巨大な石碑が物言わぬ姿で海に立っていた。昭和二年に内務省から名勝に指定されたと石碑に刻まれている。人々の記憶から消え去ってもこの地に頑として残り続けているようだった。
 「これが俵島……」
 鯨のようにこんもりと浮かび上がった島影に、柱状節理の岩肌が島の側面を覆っている。高台には灯台もあるようだった。
 「渡れるのかな」と莉茉が呟く。
 島までに、コンクリート製の台座の飛び石が等間隔に配置されてあった。きっと満潮時には離れ小島になってしまうからだろう。
 水の引いた今ならそれを使わずとも歩いていけそうだ。
 サンダル履きの莉茉が踊るように水たまりを踏んでいる。
 踏石は島の手前で風化し、崩落していた。この島を利用するのは、灯台を管理する海上保安庁ぐらいだろうが、灯台守が歴史から姿を消してからは久しい。
 堆積した石に難儀したものの島に足を踏み入れた。
 「島には入ったけど、ここでいいんだろうか」
 明確なポイントまでは指図されていなかったので莉茉が思案していると、莉茉が暢気な声を上げる。手には黒と黄の混じった標識ロープが握られていた。土の斜面から垂れ下がったロープは三メートルほどして藪に消えている。
 「これで上に登ろう」
 莉茉がふるふるとロープを揺さぶる。今日はやけに機嫌が良いみたいだ。
 まさかこんなところでクライミングのようなことをやるとは思ってもみなかった。先に登り始めた莉茉の背中を押して手助けする。以前背負おうとして共倒れした時よりも軽くなっているようにも感じたが、気のせいだろうか。
 自分の番がやってきて、莉茉にロープを引き上げてもらった。
 いよいよ夏が近づいてきたという暑さに、汗を拭う。
 今度は莉茉が「行こう」と声をかけた。獣道のような人の踏み跡を頼りに藪の中を登り始めた。
 所々に足をかけやすいように石段が設けてあって、かつて人の往来があったことが、足にも心にも余裕を生んでいた。
 「あっ」
 前を進んでいた莉茉が小さく叫んだ。
 白く大きな犬が自分達の目線より高いところでこちらを睨んでいる。
 野犬だろうか、莉茉がどうしよう、と顔を青くして声を漏らすものの、急峻な島の形にして、逃げ場は前後にしかなかった。
 犬は迷う間もなく、すた、すたと、こちらに向かってくる。
 莉茉は恐怖に慄いて背後の乃々香に体を預けた。
 鼻先を莉茉のパンツに近づけて、怪訝な顔をすると顔を背けた。
 「こら!リシチカ!」
 女の子の声──、目深に帽子を被った子供が歩み寄ってきた。
  「乃々香さん達ですよね?」
 犬をあやす少女は、長くおろした後ろ髪に、球体関節人形のような白く透き通る肌をしていた。
 「お話は伺っています……。私は野海華也と申します」
 どうぞこちらへ、そう先導されて辿り着いた先には、日本海を見下ろす小さな白亜の灯台とその横にはカーキ色をしたテントが据えられていた。すぐに建てられたというわけではないらしい、生活の用を足すものが辺りに置かれている。
 乃々香がおずおずと尋ねる。
 「ひとつお聞きしていいですか?」
 「いくつでも」
 「私達はなんのためにここへ呼ばれたんですか?」
 少女は冷笑を込めたような薄い苦笑いをして、それはですね、という言葉の後に「ヅェン!」と叫んだ。
 テントの影から浅黒い顔をした幼稚園児ぐらいの少年がこちらを見つめていた。
 「立ち話も何ですから、お茶にでもしませんか?」と少女は言った。
 二人は状況が飲み込めず立ち尽くしていると、あたりに落ちていた色落ちしたビールケースや、浮標などを人数分集めて、中央にはガスコンロと薬缶が置かれた。
 「さっきの質問ですが、率直に言うと、この子が助かるかどうか――、という話です」
 少女は帽子を脱いで、さらに、髪を掴むと横へ流すと、白にも金にも近い色素の薄い髪が現れた。
 「今から百年以上前――」
 彼女は語りだす。
 日露戦争を運命付けたたあの日本海海戦で、戦いに敗れたバルチック艦隊の乗組員達は、日本海の荒波の中に飲まれて散り散りになったこと。ある者はウルソン島に、ある者は遥か青森県に、日本海の津々浦々に流れ着いて、どの骸も骨は折れ、体は腐り果て、凄惨を極めていたらしい。その中には僅かながらの生存者も居て、石川県の舳倉島では漂流した兵士達がしばらくの間は現地人と生活していたという口伝があるそうだと言う。
「私の曽祖父もそうでした。この長門の地に流れ着いて、地元の漁師の手伝いをしながら生活をしていたようです」
 薬缶から沸騰した音が漏れた。カップに入れた粉のココアに注ぎ、全員に振る舞う。
 「旧くからこの地は色々なものが流れ着くようです。打ち上げられた鯨とその龍涎香、国を追われた楊貴妃、平家合戦に敗れた安徳天皇、戦国大名になる多々良氏……、そしてこの子もそうです」
 三ヶ月前――、いつものように海女の手伝いとして海岸線で海藻を拾っていた少女は、浜で斃れている小さな塊を遠くに見つけた。幼体のクジラ、時に流されてくる深海魚、養殖筏の浮き具、近づくにつれその形にピントが合っていき、それが子供であることに気づくと、手にしているものも投げ出して側に駆け寄った。息がある。死んでいない。そして、どうやら顔つきが『思わしくない』。救命措置など知らず、深い眠りから起こすように色々な気付けを試みていると、ふっと意識を取り戻した。少女は涙を流して大喜びした。子供は年端も行かず、話す言葉も明瞭ではなく、母親の名前を口々にするだけだった。新たに生まれたこの係累を解消すべく、この漂流者を陰のある場所で休ませて集落の方へと向かっていった。色素の薄い彼女も、集落の中では異質な存在だった為、親に事情を打ち明けて対処して貰おう、それが子供にとっては精一杯の行動だった。救急車の糸を引いたようなサイレン音が聞こえる。助けに来たのだろうか。それなら、渡りに船だ。おーい、こっちだよ。懸命になって呼ぶが、目の前を通り過ぎていく。息を切らせて追いかけて、ようやくまばらな人影と救急隊員の姿が見えた。人々が口にする声。「日本人ではない女性の遺体が浜に打ち上がっていた」。彼女は気付かれぬように踵を返した。数年前、海青市に北朝鮮の脱北者が木造船に乗って漂着したニュースをリビングで家族と見ていたことがある。第一発見者に「水を」と言って貰ったペットボトルを一息に飲み干し、警察に保護された後、最後の結びに「日本に亡命したい」とニュースは報道した。分解に分解を重ねれば、日本人ではなくスラヴの血に行き着くであろう父は嫌な顔をしていた。当時は少女でさえ、肯定したい気分に思えなかった――。
 「そこで乃々香さんたちが出てきます」
 乃々香と莉茉はよく分からず顔を見合わせた。
 「隠し通す生活もずっとは続かない、そう思っていた矢先、去るお方がやってきて一つの提案をしたんです。『私が尽力してその子を日本で何不自由ない生活を送れるようにサポートすることを約束する。その代わりに、これからやってくる二人の女の子は二度とお互いの姿を見ることができなくなるかもしれない。その逆も然り。そしてこれを選ぶのは君じゃない。彼女達だ――」
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