Neetel Inside 文芸新都
表紙

脳髄モダニズム
「プレチオーザの見た夢」

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 NO 廃墟, NO LIFEとはよく言ったもので、それぞれの理想や価値観についての本質を突き詰めていけば必ず根底にあるのは廃墟である。
 これはあまりにも世に聞こえた金言であり、聡明英知で知られる君たち読者なら既に処世訓の領域までに高めていることだろうと存じる。
 さて、そんなミステリーハンターな私が今回紹介する廃墟は今出川通りを東に行き、白川通りと交わる一歩手前にある。
 期待してくれてよい。頭の天辺から爪先まで廃墟廃墟の君たちが涙を流しながら貪り読める廃墟の真髄をたっぷりと語り尽くそうではないか。
 廃墟が嫌いなそこの坊やは今すぐ回り右をし、おうちでミルクでも飲んでいるが良い。
 廃墟を知らずして、君に大人の階段を昇る日は未来永劫来ないだろうと断言する。

 ○

 京都大学からほど近い、今出川通り沿いの、密集した木造建屋の古臭い小道の中、一際不気味な瘴気を放ちながら漫然と佇む廃墟の姿は現世そのものを超越しており、その周辺だけ時空が歪み近隣に住んでいる学生たちは必ず一限目の講義に出席できないともっぱらの噂である。
 私がその廃墟と遭遇したのは夏の盛る八月のことであった。張り付くような昼間の日差しにゲッソリしながら歩いていると、ふいに涼しげな風がその小道から吹いてきた。
 ちょうど建屋に埋もれた小道は日陰となっており、苔の生えた石段が波を打つように続いていた。私は涼を求め、誘われるようにして朦朧と石段を進み、荒涼とした無人駐車場を抜けた先にその廃墟は現れた。
 朽ちた木の扉に、錆び尽くした鉄の骨組み。玄関には赤い椅子が置かれており、そこらじゅうに鍋や薬缶、破れた布団に分断された木造ベッドなどが散乱していた。四階の硝子のない窓からは白いカーテンが生ぬるい風に吹かれひらひらたなびいている。
 私は妙な感覚を覚えていた。砂嵐のような印象が脳裏を過り、込み上げてくる底知れぬ恐怖と、暖かな懐かしさが混在するような、実に妙な感覚だった。
 玄関に立ち、扉を見ると厳重に鉄の棒が打ち付けられていて、何かを封印しているようにも見える。
 私は背筋に寒さを感じながらその場を即座に離れた。
 嫌なものを見た。
 それだけで終わるはずだった。
 そうだったのに。

 ○

 その夜、私は廃墟の前に立っていた。
 濃厚な闇が辺りを包み込んで、立っているのがやっとな状態だった。喉が鳴る。雨の匂いを含んだ湿った風がまたここに吹いていた。
 懐中電灯で足元を照らすと、硝子の破片がキラキラと光った。
 何故、今ここに私が立っているのか不思議で仕方なかった。気付いた時にはここに来ていた。行かなければならない、そんな風にも感じた。
 引き寄せられるように、私はまた玄関の前に立つ。すると、厳重に封がされているはずの扉が開いていたのだ。
 私は、恐る恐る手を伸ばし、そっと扉を開けた。
 なんとそこには、背丈の小さな老人が立っており、一本の蝋燭を持って頭を垂れていた。
「おかえりなさいませ、あなたをお待ちしておりました」
 傍らには目の青い兎が二匹、こちらをじっと見つめている。
「さあ、ここはあなたの城です。今宵は宴でございますよ」
 といったファンタジーの入り口を妄想しながらムフフと笑ってみたが、やはり怖いものは怖い。扉は相変わらず厳重に打ちつけられており、私一人の腕力ではとても開きそうにない。
 くそがああぁ!!!!!と横に落ちている椅子を思いっきり投げつけてやってもよかったが、私はか弱く繊細なのでそんなことは決してしない主義である。
 どこかに入り口は……と裏手に回ってみると、ふと屋上の窓から誰かがこちらを見ているような気がした。影がひとつ、ゆらりと揺れた後、また闇へと戻った。
 そして背後にも気配を感じ、私は身構えた。
「か、囲まれた……!?」
 すると、どこからともなく声が聞こえた。
「かかったな。もう逃げられん」
「誰!?」
「我ら極東忍者連合。この場所を知られたからには生きて返さぬ」
「仕方ない。ならばこちらも容赦はしない! 覚悟!」
 その覚悟ができていない私は低俗な作り話で気を紛らわせるしかなかった。
 帰りたいが、奥へ行けば行くほど闇に飲まれてしまいそうで、後にも先にも退けなかったのだ。あと極東忍者連合とそれ以上の展開は望めないとも思った。
「あ、行き止まり……こっちには行けないのね」
 すぐ隣が農学部の施設棟になっているらしく、用水器の無機質な稼働音が空気を震わせている。
 少し、寒くなってきた。腕時計の針はちょうど0時を回ろうとしている。
「帰ろうか……」そう思い振り返ったその時。
 透き通るように白いワンピース姿の少女が私のすぐ目の前に立っていたのだ。赤い紅を引いているのか、真夏の夜に強烈な印象を与える少女はそのまま滑るようにして廃墟の中へと消えていった。
「こっち、早く、こっちよ」
「ま、待って!」
 私は彼女を追った。追わねばと思った。
 ちょうど裏口のドアは朽ち果て破れており、そこから中へと入ることができた。
「どこ? ねえ、どこにいるの?」
「こっち、こっちよ、あはは」
「どこよ」
「すぐわかる、あなたなら、すぐわかるの」
「何? よくわからない」
「だって、あなたは、私の」
 こういう前世での因果を絡めたホラー小説はよくあるが、だいたいは終盤でその目的が濁されたままの唐突な事件解決、またはお約束である脱出劇へと変貌してしまうのは何故か。私は読んだことないけどね。怖いの嫌いだもん。
 さてそんな話は置いておいて、いい加減飽きてきた私は「なんか体に悪いものでも喰らってそのまま寝腐れよう」と考え深夜のコンビニに入った。
 中は異様に明るかったが、レジに異様なまで暗い表情をした眼鏡野郎が立っていたのでそのギャップにまたもや喉を鳴らした。
 客はひとりもいない。
 私はとりあえず駄菓子コーナーへ直行し、ヨーグルを箱ごと買って成人としての地位を保とうと考えた。
 膝を折り、胸を鳴らしてその場を物色していた卑しい私であったが次の瞬間目を疑う光景に出くわす。
 モロッコヨーグルスーパー80が――そこにはあった。
 かの都、大阪西成を代表する大企業、サンヨー製菓が満を持して開発に踏み切り、即発売中止となった幻の商品がなんとこんなところにあろうとは。近くて見えぬは睫、遠きを知りて近くを知らずとはまさにこのことである。私はヨーグルをこよなく愛し、雨の日も風の日もヨーグルを想い、弁当箱の果物スペースにそっとヨーグルを忍ばせていたヨーグルフリークであるこの私が、モロッコヨーグルスーパー80の存在を忘れていたなんて。
 私はヨーグルを誰よりも知っていたはずであったが、本当はヨーグルを何一つ理解してはいなかった。その愚かさに絶望し、己を呪った。
 今にして思えば、青リンゴ風味のモロッコヨーグルりんご村も食したことがない。とんだ、ヨーグル素人であったのだ。笑うなら笑え、私は食わせものだ。ピエロだ。偽善者だ。不細工だ。おまけに頭もでかい。
 結局、何も買わずに蹌踉と店を後にした私は、そのままふらりと百万遍に躍り出て己の命を絶つ覚悟を決めていた。
 今までありがとう、母よ父よ、なにひとつ、いいことはなかった。
 しかしせめて、最後に旨いものを食いたくなった意地汚い私は最後の晩餐としてラーメン屋を選んだ。
 目先にあったラーメン屋に入り、消沈しながら席についた、その瞬間だった。
「ニコ……?」
「……アンディ」
 アンディアス・メイ・ヴァルパチーノ。和名はタケシである。
「タケシ。なんで、なんであんたがこんなところにいるのよ」
「ニコ、聞いてくれ、俺は」
「聞きたくない! あんたは私を捨てたのよ!」
 思わぬ再開だった。あれほど望んでいた、あれほど焦がれていた人――でも、一番会いたくない人だったんだ――。
 ラーメン屋でふたりきり、私たちの間に沈黙が落ちた。
「そうだな、俺が間違っていたよ。最初に言うべきことは、そんなことじゃない」
「なによ」
「らっしゃい、だ」
「バカね……」
 涙って、こんな時にでも出てくるんだね。初めて知ったよ、バカは私か。本当はうれしいのにね。
 アンディ、いや、タケシはコップ一杯の水を差し出し、ゆっくりと切り出した。
「今更謝っても、許してもらえるとは思っていない。俺はお前の気持ちに応えてやれなかった不甲斐ないガイさ。面目もない。俺にはさ、どうしてもかなえたい夢があった。俺はあの時、正直迷ってたんだ。あのままヨッチャン食品工業で酸っぱい臭いに包まれながらよっちゃんイカを製造し続ける人生でいいのかって、それが本当の俺なのかなって。でもな、お前、言っただろ。ブタメンの、新しい味に出会いたいって」
「それとこれと、何の関係があるの」
「これが、俺の答えさ」
 タケシはおもむろにラーメン鉢を私の前に差し出した。温かく、優しい湯気の向こうに、彼が笑顔を見せていた。あの時と同じ、笑顔で。
「真ブタメン。あえて豚骨をベースにせず、鶏がらとたっぷりの野菜で出汁を取った、究極のブタメンさ」
 その言葉に、私は箸を割りながら言ってやったの。
「本当に、バカね。もはやブタメンじゃないじゃない」
「ハハ、まあ本家のブタメンも全然豚骨じゃねえけどな」
 ひとくち、スープをいただく。濃厚な鶏がらのうまみ、何十時間も煮込まれた野菜エキスが全体をひきしめるようにまとめあげ、サラリと喉を通っていくのにパンチ力がある。それに麺とスープの絶妙なコンビネーション、最後に残る優しい甘味、これはまるで――。
「あのさ」彼が恥ずかしそうに切り出した。
「店を持ったら、言おうと思っていたんだ。ニコ、結婚しよう」
「バカね、私はまだ、何も注文していないわよ」
「はは、違いねえ」
「じゃあ注文するわ。一生分の幸せを頂戴」
「あいよ」
 私たちは、カウンター越しにキスをした。それからのことは、もう話さなくてもいいだろう。

 ○

 NO 廃墟, NO LIFEとはよく言ったもので、それぞれの理想や価値観についての本質を突き詰めていけば必ず根底にあるのは廃墟である。
 心に誰しもが廃墟を抱えている。しかし、それは本当に廃墟だろうか。
 廃墟も見方を変えれば、美しさが見えてくる。君の廃墟は美しいか?

       

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