Neetel Inside ニートノベル
表紙

かすかなる風、ドラゴンの夏
04.シュレディンガーの愛猫

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 ひゅんッ、と耳元を銀色のやじりが掠めていった。ぷつっ、と皮膚が裂ける気配がして、耳がなにかで濡れ始めた。たぶん血だろう。気にしない。べつに死にはしないし、まさか波雲いずみもやじりに毒を塗って執拗に竜宮夏臣抹殺計画を敢行するつもりはないだろう。いまの一矢には殺意が籠もっていた気がするが、水に流してやろう。当たらなかったし。
 雑念に負けて注意を逸らせば、氷菓に振り落とされかねない。この龍、いまだに夏臣が幽のうしろについていることが気に喰わないらしく、時折不愉快そうに身もだえする。これまでも夏臣が乗る前に急発進することもあれば、わざと乗り手に負荷のかかる飛び方をしたりしてきた。そのくせ主の幽が気絶するような高機動は絶対にやらない。いやらしい龍だ、神聖もへったくれもない、下心丸出しの中学生のガキと変わりゃしねえ。
 だから、夏臣は氷菓のことを気に入っている。
 なんだか、歳の離れた弟ができたようで、くすぐったい。
 龍にまたがっていれば、そいつが何を考えているかくらいはわかってくる。鞍を通じて、熱い龍の体温を股に感じていると心まで染み透ってくるような気がする。冷たく細い、女の髪のような雨が弱々しく降り続けるこの寒くて寂しい異界のなかで、それは自分を現世に繋ぎとめておく楔だった。
 けれど竜宮夏臣にはわからない。
 自分の駆人が何を考えているのか。
 歌方幽がどういう人間なのか。
 竜宮夏臣には、すぐ目の前にいる小さな背中をした女の子のことが、どんなに頭をひねってもわからない。
 幽がぴしりと手綱を振るう。部室のジオラマをさわって、実際に街を歩いて、完璧なサーキット・データを脳に構築し終えたその手つきに迷いはない。
 ぐんッと氷菓が身を低くして速度をあげた。
 電気の切れた自販機と、倒産した不動産会社のポスターが消し忘れみたいに貼りついた電信柱を超えて、長々と続いたコンクリート塀が終わり、煙草屋の角を曲がった。いつもは座布団に座った梅干そっくりの婆さんが店番をしているその店は、いまぴたりと木戸を閉じている。時刻は午前二時。しかし閉店しているのは時刻のせいだけではない。
 街には人っ子ひとり姿はない。普段は繁華街からこぼれ落ちた酔っ払いや、暇と身体を持て余した中高生や、情熱を思い出した深夜のマラソンマンがうろついている路地でさえひっそりと静まり返っている。街灯はひとつ残らず灯りを消し、いつも停まっている路上駐車の車の影もない。
 不思議なことはなにもない。
 ここは裏側の国、『異界』なのだから。現世というカーボン紙の下に敷かれたもうひとつの世界。龍脈の源泉により近い空間。
 文明という鉄と鋼に覆われた街は、紫の葉をした柳に似た木々に侵略され屈服している。節くれだった大樹が四組の桜井さん家の天井をぶち破って伸び上がり、
野良猫を拾っちゃ飼いしている猫婆ァのゴミ屋敷は不気味なつるの鞭に縛り上げられてすっかり困窮してしまっている。二柱の龍が疾駆する住宅街のサーキットの真上は紫色の枝と葉でできたアーチがかかっていて、飾りつけのように赤いぶつぶつした果実が下がっている。
 氷菓と森羅は、同時にガバァと口腔を開けてその果実にかぶりついた。龍の刃のような牙が一噛みで果実を果汁まですり潰す。
 同じタイミングで宙を舞い、雨の飛沫を跳ね散らして、
 竜宮夏臣と波雲いずみの矢が交錯した。
 お互いの体中を駆け巡るアドレナリンが、二人の時間の流れを鈍化させる。波雲いずみのレンズの向こうの、夜の闇を凝縮したような蒼い眼が夏臣を見ていた。その瞳の辛辣な光は、手綱を握ったばかりの新米駆人とは思えない風格を漂わせていた。釘矢なしでも走ってみせると言ってみせたその糞度胸に、嘘はなかった。
 波雲いずみは咄嗟に足で龍の腹を蹴り十数センチ下降し、夏臣の矢は的を失って民家の窓ガラスをぶち破って消えた。パァン。
「あっ!」
 夏臣は振り返り、自分の背後にくっついている三つの風船のうち一つが弾け飛んだのを見た、その瞬間には、もう視界が液状化していた。
 龍の果実、龍桃(りゅうとう)は、龍の胃袋に収まった途端、その強力な胃酸で溶けて一気に血流に分散し、細胞を隅々まで活性化させる。
 ドーピング上等。
 龍神騎走にモラルはない。勝てばいい、ただのそれだけ。
 たとえ練習中でもその理念に変わりはない。殺す気でやらなければ鍛錬にならない。死者が出るくらいでちょうどいい。
 どうかしている、と夏臣の冷静な部分が思う。体育会系の可愛がりとはまた違ったタチの悪さだ。言うならば共食い。己の研鑽のためなら命なんてものはガソリン程度の消耗品でしかない――
 そこまできつくやれ、とは釘矢に命じられてはいない。
 だが、己の意思で、歌方幽と波雲いずみは、手加減なしで練習に臨んでいる。必然、幽の防人である自分もそれに巻き込まれる形にならざるを得ない。
 もう何週しただろうか。
 コースを形成する鬼火を宿したカンテラがさわれば手をもぎとられそうな勢いで背後へ消えていく。街をぐるりと一周するサーキット、元から住む街でもあるし、駆人でなくてもすでに道順を覚えてしまった。無論、駆人と呼吸を合わせなければならないのだから、手綱を握っていなくても防人もコースを把握していなければならないのは当然のことだ。
 だがコースもルールもセオリーも、歌方幽の説明書にはなってはくれはしない。
「――――ひゅっ」
 幽が軽く息を吐いた。夏臣は身構え、固定ベルトの巻きついた足を鞍にきつく押しつけた。龍桃補正の四秒加速が終わったばかりでスピードも落ちきっていないというのに、幽はまた速度を上げるつもりらしい。よくスタミナが続くものだ。幽はほとんど高機動のダメージを受けていない。生まれつき振動に耐性があるのか、訓練して得たものなのか。夏臣は初めての練習の日、思い切り異界の水たまりをゲロたまりにしたことを思い出して眉をひそめた。まさしく苦い思い出だ。これも水に流して記憶のゴミ箱いきにしてしまおう。
 夏臣は矢筒から片手で三本の矢を引き抜いて弓につがえ、立て続けに波雲いずみとその愛龍、森羅に向けて放った。弱い雨を跳ね飛ばして夜を貫く軌跡は、森羅のたてがみの上をはためく風船のひとつを撃ち抜いて灰色の街並みへと消え去った。波雲の舌打ちが聞こえた気がした。矢を避けようとしてやや減速後退したために被弾したのだ。牽制と攻撃を同時に成功させたことになる。夏臣は満足し、ちらっと幽の背中に視線を送ったが、駆人さまは龍と戯れることに夢中らしい。
 軽くため息。
 べつにいい。
 幽が手綱を振るう。
 氷菓の鱗の一枚がばりっと剥がれた。パイプに似た龍孔から圧縮空気が噴出。やや減速し緩やかに胴体をカーブに入れていく。
 そのとき、夏臣は一瞬気が抜けていた。だから、幽に注意を促すことができなかった。
 気づいたときにはもう森羅はすぐそばにいて、カーブはもう目と鼻の先にあり、幽は依然として前を向いていて、波雲いずみの眼は燦々と燃えていた。
 弁当屋の角を曲がると右手に小学校の塀が続いている。波雲いずみと森羅はインから強引に直線気味にカーブに飛び込み、先行して曲がりかけていた歌方幽と竜宮夏臣を乗せる氷菓の横っ腹に体当たり気味の接触を敢行した。氷菓は衝撃をさばききれず押し流され、コースラインのカンテラが軒並みぶち壊れて鬼火が散乱し、龍の巨体と小学校の塀が幽と夏臣の足をがりがりがりと削った。
 焼けるような痛みが走った。守護外套越しでなければ足が弾け飛んでいたかもしれない。夏臣の肺から熱い吐息が漏れた。痛みよりも疲労を感じさせる呼気に夏臣は焦った。集中力を欠けばブラックアウトする危険性も高まる。固定ベルトのおかげで落龍はまぬかれるだろうが、幽はいつも、
「使えないと思ったら切り捨てるから」
 と人のことをロケットの初動エンジンのように扱ってくるので、夏臣は気が気ではない。この速度で異界の塗れた路面に激突すれば悪くて死亡、よくて全身の皮がべろりと剥がれる。歯を食いしばって意識を保つ。もう何週目だろう。今日のノルマはまだ終わらないのか。コースアウトするとついてくる鬼火が周囲を取り巻いていないことだけが救いである。カンテラを割った程度ではアウト判定にならないらしい。
 そのとき、耳にはめ込んだ無線用の勾玉から真鍵釘矢の怒鳴り声が飛んできた、
「波雲ォ! 人に怪我させるような走りはやめろって言ってんだろうがクソボケッ! 落ちて転んで死ねッ!」
 これはべつに真鍵釘矢が実は優しいあんちゃんだということを意味する発言ではない。
 どんな種目でもそうだが、部活動において怪我をすれば、その分だけ練習が滞ってしまいトータルで損なのだ。それは卓球だろうと龍神騎走だろうと変わらない。
 情熱で時間と錬度を買うことはできない。真鍵釘矢はそのことを熟知しているキャプテンだった。
 夏臣は生唾を飲み込んで喉を整えてから、言った。
「――おい、大丈夫か幽。足、無理すんなよ」
 答える声はそっけなく冷ややかだ。愛龍の名のように。
「問題ない。いける。それより森羅の接近を防いで。ああいうときは鱗の隙間を狙って射てしまえばいい。怯む」
「でも、練習中はできるだけ龍は傷つけない方がいいって――」
「一瞬あればさっきの突撃は上昇ないし下降してさばけた。だからいまのは君のせい。わたしはライン取りに集中するから、君は君の仕事をやって。いい?」
 ため息をつき、あいよ、と答えて、新しい矢をつがえた。つがえながらも、意識の一割は幽に残している。
 龍に乗っているときの歌方幽は本当に取りつく島がない。まるで別人だ。いや、正確に言えば現世にいるときも、幽は以前に比べて冷淡になった。笑顔を見せることも冗談を言うこともなくなった。夏臣は罪悪感さえ覚える。自分の入部が歌方幽を不快にしているのではないかと。
 それでいて、クモノスカシラの首を土産に夏臣が入部を頼んだとき、幽はこくんと頷いたのだ。見間違いではないことは夏臣がここにいることからも確かだ。
 もしどうしても嫌だというなら、そのとき断ってしまえばよかっただけのはず。べつに祟り神の首を入部許可の免状とする、なんていうちゃんとした取り決めがあったわけでもないのだ。
 なにがなんだかわからない。女心は秋の空、とでも思えというのか。
 勘弁して欲しい、こっちだって必死なのだ。なぜか自分を目の敵にしている波雲いずみはともかく、パートナー同士、波長を合わせていなければ、いつか重大な破綻をきたす。
 それがわかっていない歌方幽であるはずがないのに。
 勝つことがすべてだといいながら、どうして防人を拒むのか。
 いくら釘矢に「防人と駆人は以心伝心、ご飯に味噌汁、月に杯、団子に渋茶よ。とっとと押し倒すなりなんなりして波長合わせろやァ」と言われても、これでは、どうにもならな
「夏臣」
 ひゅん、と一発射てから夏臣は前を向いた。視界の端で森羅の二つ目の風船が割れ、波雲いずみの表情にようやく疲労の陰りがよぎるのを見た。
「な、なんだよ。うまくやったろ、いま」
 幽は前を向いたまま、
「わたしの声を聞いたとき、腕の筋肉がヘンな軋み方した。ねえ、やましいこと考えてたでしょ」
 常人離れした聴覚はともかくとして。
 一瞬、その幽の声が出会ったばかりの、無邪気なものに戻ったような気がした。
 が、
「くだらない雑念なんか捨ててよ。わたしのことは、ナビゲーションプログラムだとでも思えばいい。お互い道具に徹しようって、約束したよね」
 ――――夏臣は、自分の楽観主義にそろそろ見切りをつけるべきなのを思い知った。あいよ、と答える声に覇気がないのを誰が責められるだろう。
 鼓膜のすぐそばで、釘矢の声を出す勾玉が撤退を命じている。これから部室に戻ってマットに横になって、まどろむ暇もなく学校が始まる。
 夏臣は深々とため息をついた。

     


 九月二十四日。
 美津治高等師範学校一年一組の午前八時二十八分四十四秒を激震が襲った。重々しい空気のなか、教壇に立ったクラス代表、高橋しのぶは俯いて歯を噛み締めている。まるですべての責任は自分にあると言わんばかりの消沈っぷりである。木製の教壇を割れんばかりに握り締め、みしみし言っているので最前列の生徒が机を引いて避難している。
「じゃあ、代表」と保健委員の加藤が言った。
「マジで、中止なの。うちのお化け屋敷」
 ことの発端はこうである。
 昨夜、しのぶの元に学園祭実行委員会から呼び出しの通告があった。緊急の連絡だという。そのためしのぶは朝飯も喰わずに会議室に駆けつけ、つんのめって引き戸をぶち破って参上し、こめかみに血管を浮き立たせた実行委員長に宣告された。
 セクハラ事件があったからお化け屋敷は全面撤廃。あとその粉々のガラスと歪んだ引き戸はフツーに弁償。
 そして現在にいたる。
 高橋しのぶは少しずつ削って大切にしていたお年玉を全額徴収され、一年一組にはガラクタと化したホラー装飾が散乱するばかりとなった。
 学園祭を一週間後に控えた、九月二十四日のことだった。


 はい、とミイラ男が手を挙げた。しのぶが顔面を前髪で隠したまま彼を指差した。
「なに、上野くん」
「そのままお化け喫茶にしちゃえばいいんじゃねーの?」
 迷路などの建築を破棄して、装飾はそのままに茶を出すなり雪女の生足をちらつかせたりするなりすればいい、とミイラ男は言う。見た目に似合わずまともな見解である。しかし、しのぶは弱々しく首を振った。
「飲食系は検便したりしないといけないから、いまからじゃ間に合わないよ。それともやってみる? やってみよっか? いまからみんなでペットボトルかなんかに検便してあの糞むかつく実行委員会のネクラ眼鏡どもにフタあけたままボトル提出してやろうか? いいねえそれいいよすごくいい楽しそーうふふふふふけらけらけら」
 しのぶが壊れたのでこの案は廃案になった。
 だが壊れてもクラス代表、問題点だけはきちんと突いているのがさすがというか職業病というか、伊達に児童会長の小学校時代を経て生徒会長の中学生時代を潜り抜けて辿り着いた高校一年のクラス代表ではない。
 ぽつぽつとしのぶの顔色を窺いながらいくつかの意見があがった。
 手品ショー。誰もできない。ダーツ、ボーリング、ストラックアウトの手作りゲーム場。隣の二組がやってる。占い。それも二組がやってる。スーパーボール拾い。これはいけるかと思われたが、なんと二組の占いは目隠ししてすくったボールの形と色とにおいで占うという斜め上をいくどころか枠線をぶち破ったシロモノであることが判明した。ここまで来ると二組の連中の出し物の全容が気になるばかりである。
 ここで吸血鬼の吉倉が起死回生のカジノ案を出した。有無を言わさずしのぶに正義執行されそうになったが、入場代金と引き換えにお客にチップを渡して、遊んでもらい、稼いだチップと交換という形でお菓子とかよそのクラスの出し物の割引券や優先チケットを配ることを命からがら提案することに成功し、しのぶの手から磁石ではない方のコンパスがカランと落ちた。しのぶの眼がきらきらと輝き、がしっと吉倉の白手袋に包まれた手を握った。
「なんて素晴らしい案なの。あなたが天才だなんて知らなかった。結婚しよ、吉倉くん」
「やだ」
 吉倉の亡骸は保健委員の加藤が白いベッドとクスリのにおいがする場所に運んでいった。
 また、美化委員の遠藤が言うには、お化け屋敷のセクハラも問題視されているが、実際に金銭をかける賭場を学園祭で開帳したことで警察沙汰になった学校もあるらしく、どの道あの実行委員会が認めることはないだろうとのことだった。いくら健全で楽しいカードとルーレットとダイスが舞う楽園の果てにあるものがお菓子の山だと説明しても、あの分厚い眼鏡を通してみれば百鬼夜行のチンピラ企画だと一蹴されてしまうのは想像するに難くない。
 高橋しのぶががくっと膝をついた。手から赤い何かがついたコンパスが滑り落ちた。
「じゃあどうしろっていうのよ! もう学園祭まで時間なんてほとんど残ってないのに、喫茶店もダメ、インチキ占いもダメ、スイーツカジノもダメ! ダメダメばっかり! こんな学校間違ってる。そうだ、テロよ。テロしかないわ。腐った教育体制に革命を!」
「おいやめろストーブを蹴り壊したって爆発したりしないっ! ちょっ、へこんできてるっ、へこんできてるからっ! あああああああ!!」
 しのぶは鬼神のごとき立ち振る舞いでまとわりついてくる男子をはね飛ばして暴虐の限りを尽くし、女子が逃げ惑い力の弱い男子から教室の外へ避難誘導され始めた頃になってようやく、竜宮夏臣が居眠りから眼を覚ました。




 夢の続きだと思った。
 だってこんなの現実でありえるだろうか。クラス代表で茶道部の高橋しのぶが馬手に机、弓手に机の二刀流で机の海をなぎ倒している。野球部の右近とバスケ部の左藤が二人がかりで羽交い絞めにしようとして跳ね返され、教室後方に立てかけてあった『一年一組 撃滅! 東洋VS西洋 オカルト大戦』の看板をぶち破って、空いた大穴から二組の足がぷらんと垂れた。
 夏臣はあくびをする。どうせこれは夢なのだからなにが起こったっておそるるに足らない。
 途端、誰かに机の下に引きずりこまれた。
 びっくりするほど近くに夜鳥の顔があった。茶色く染められた髪から薬みたいなシャンプーの香りがする。
「バカ竜宮、あんた死にたいの? 戦場なめてんじゃないわよこのウスラトンカチ」
「すまん。で、夢の中の夜鳥よ」
「夢の中のってなによ」
「なんで高橋あんなキレてんの」
「黒板」
 夜鳥が指差す先には、学園祭の出し物(改)とある。なるほど。
「あと三日で、検便なしで、公権力が絡んでこない健全な企画を提案しないとあの鬼は鎮まらないね」
「へえ」
 夏臣はあくびをした。そしてあたりを一通り見渡して言った。
「縁日でいいじゃん」
 ぴたり、と。
 床に固定されていたはずの教壇を右近と左藤に振りかぶっていた高橋しのぶが止まった。
 ぎぎぎ、と首がからくり仕掛けのように動いて夏臣の方を向き、とばっちりを食った夜鳥が「ひっ」と押し殺した悲鳴をあげた。
「竜宮くん。いま、なんて?」
「だから、縁日でいいじゃん。金魚すくいとか、射的とか、カタ抜きとか。ちょうどウチが用意してた背景用のトタンって河原が描いてあるから和風っぽいし、暗幕張ったら夜の縁日っぽくなるだろ。西洋の仮装はボツだけど、東洋のやつならスタッフにしとけば雰囲気作りにもなるじゃん。暗いところでセクハラ可能な場所がなければいいんだろ? 灯りは提灯にしてさ、女子スタッフが三人以上クラスを離れないってすればセクハラ関係は問題ねーだろ。せっかく帯の結び方覚えてた女子もこれなら無駄にならなくて済むし」
 高橋しのぶは、その手から教壇を離し、びしりと夏臣を指差した。
「それ、採用」
 それに対して、夏臣の求める報酬はたったひとつだけだった。
「寝ててもいい?」
 

     


 寝ててもいいどころか、一日オフにされてしまった。夏臣の机はあっという間にバラして解体されロッカーにぶちこまれ、カバンはアウトローの北見が早退途中に夏臣の自宅へ届けてくれるらしい。クラスメイトたちは笑顔で功労者の下校を見送った。親指をびしっと立てて。
 気の遣い方がなんか狂ってる、と夏臣は思う。
 しかし、おかげで平日の朝っぱらから自由になった。犬の散歩をする主婦や公園で野良犬と戯れる元ホワイトカラーたちと同じ平和で安穏とした時間を満喫できるわけだ。家に帰ってゲームをやるもよし、中古書店で漫画を立ち読みするもよし。部活が始まる翌日午前二時まで部室でゴロ寝するのも悪くない。
 だが、夏臣の頭の中では、釘矢の言葉が幾度も反響していた。
 ――なにしたって構わないからさっさとなかよしになれ。
 言われなくてもわかってる。頭を振ってうっとうしい釘矢の笑い声を振り払う。心底バカが羨ましい。なにも考えずに動いて、その時々でうまくいったりいかなかったりする。夏臣にはそんな真似はできない。博打なんか大嫌いだ。
 だから、夏臣は一目だけ見て帰ることに決めていた。
 歌方幽が教室で普通に授業を受けている姿を、夏臣はまだ一度も見たことがない。


 廊下に一直線に伸びた黄色い点字ブロック。その上に置いてある学園祭用の道具類を蹴りよけながら、特別学級クラスを探した。すぐに見つかった。教室の戸の上に木の札が下がっている。ハメ殺しの窓から中を窺う。
 いた。
 白いブレザーの女子たちに混じって、歌方幽がころころ笑っていた。なにがそんなに面白いのか机をバンバン叩いている。幽が笑うたびに首もとの鈴が揺れていた。
「ふうん、あれが歌方幽」
「ああ――って、なんでおまえがいるんだよ?」
 どこから湧いて出てきたのか、夜鳥は中腰になった夏臣のつむじに顎を乗せて、教室の中を睥睨している。
「付き添い。――ふいん。微笑ましいねえ竜宮クン。一緒のクラスじゃないからせめてこっそり覗き見しようだなんて、マジメだねえ」
「うっせーなー。おまえには関係ねーだろ。とっとと帰れ」
「あ、そういうこと言う? 寂しいだろうと思って一緒にいてあげてるのにさ。そーやって邪険にしてっと、あたしも仕舞いにゃ怒るからね」
「やめろ。つむじをぐりぐりするな。おまえ顎かたい」
「はいアウトー」
 は? と言う間もなく夜鳥は教室の戸を引き放った。音を立てて開かれた戸は反動で三回ほど開いたり閉まったりを繰り返してようやく止まり、夜鳥は突然の騒音に唖然とする教室の中を夏臣の腕を引いてグングン進み、歌方幽の座っている座席の前に仁王立ちした。幽はくんくん鼻を二度ほど引くつかせて顔をしかめた。夏臣のにおいがわかるらしい。
 夜鳥は幽の前に夏臣を引きずり出して、


「どーもこんにちは。こいつ、あんたともっと仲良くなりたいんだって」


 そういって、思い切り夏臣の背中をバーンとひっぱたいた。なにか恨みがあるとしか思えない威力だった。
 耳が痛くなるような沈黙が降りた。幽はうっすらと眼を開けて、言った。
「やだ」
「やだじゃなくって。そう素っ気なくすることないじゃん。ねえ竜宮、あんたもお願いしなって。もうそろそろ新しい人間関係を築いていかないとあんたの高校生活終わるよマジで」
 無論、夏臣は腹も心もくくる前に喰らった拒絶に精も根も尽きて灰色になっている。夜鳥が胸倉を掴んで揺さぶってもまるで反応がない。
「ちょっとなにタコみたいになってんのよ気持ち悪いなあシャキっとしなさいシャキッと! おらぁー! せっかく人が手助けしてやってんのにその態度はなに?」
 その手助けが夏臣を再起不能にしているのだが夜鳥はお構いなしである。ひそひそと白ブレザーたちが囁き合う。彼女たちにしてみれば正真正銘なにがなんだかわからないわけで、怒るわけにも笑うわけにもいかず気まずい雰囲気が流れた。
「あのさ」と幽が言った。
 夜鳥は夏臣の首を絞めるのをいったんやめて振り返る。
「なによ。あんたが冷たくするから竜宮死んだじゃん」
「まあ、それはいいとして」
 いいんだ、と白ブレザーのひとりが呟いた。
「さっきからうるさいんだけど。迷惑だから出てってくれる? ここ、君たちの学級じゃないから」
「なんでよ。ここはうちらの学校でもあるんだし、別にいたっていいじゃん」
 幽の碧い眼と夜鳥のハニーアイが空中で火花を散らした。夜鳥は、ん、と何かに気づいたように、
「綺麗な眼……。あんた、虹彩変色?」と、碧い瞳を見つめた。
「どうでもいいでしょ。それより、あと五分で授業始まるんだけど」
「ふん。あっそ。なにさ、スカしちゃってさ、そんなんじゃ友達なんてできないんだからね、ばあか!」
「…………」
「ほら帰るよ竜宮。こんなんやめてあたしにしときな」
 締めが見事に決まって意識を失っていた夏臣は夜鳥に頭をスパンと叩かれて覚醒した。まだあの世とこの世をいったりきたりしながら、わけもわからず夜鳥にくっついて出て行った。
 幽の碧い瞳に教室を出て行く二人の姿が映っている。しかし、それが彼女の視神経に届くことはない。
 幽は打って変わって明るい顔になって、前の席の女子に何事もなかったかのように話しかけた。日常が波紋のように広がって、なにもかも元通りになった。
 ように見えた。



 ○



 むっかつく。階段から落っこちて迷子になって泣き叫べ。
 夜鳥は吐き捨てるようにそう言った。
 それはいい、気持ちはわからないでもない。幽の態度にも問題があったとは思う。
 だが、そんなことをいくら愚痴られたところで夏臣にはどうしようもないし、泣きたいのもへこみたいのも夏臣の方である。
 ただでさえデリケートになっていた幽との交友がこれでまた妙な方向へねじれてしまった。
 さっきのやり取りで幽の機嫌がすっかりよくなって、わだかまりもなくなり、次の練習ではなんとスポーツドリンクの一本二本用意してくれる。そんな妄想を抱けるやつがいたらそいつは絶対頭がおかしい。
 どっから見たって考えたって、あれでは夏臣と夜鳥は朝っぱらから若さを持て余してバカ騒ぎした、ただのアホである。幽の立場になってみればみるほど夏臣は時間を巻き戻したくなる。
 元はといえばいらないおせっかいをしてきた夜鳥がすべての元凶なのだが、そんなことを指摘すれば今度こそ夏臣のケイツイは真っ二つに叩き折られる羽目になるだろう。
 夜鳥はテスト目前貫徹三日目みたいな顔をしてぶつぶつぶつぶつと口元から黒ずんだ呪詛を垂れ流している。相当お気に召さなかったらしい。来る文化祭を目前にして廊下に散らばっている小道具を蹴り飛ばして歩いていく。そろそろ注意しよう、と夏臣が思ったとき、くるりとこっちを振り返った。
「帰る」
 夜鳥はそのまま下駄箱の方へ歩いていってしまった。鞄はどうするのか、そんな自由でいいのか、そもそもなにがそんなに気に入らないのか。そんなことお構いなしに霧ヶ峰夜鳥は校舎から姿を消した。
 夏臣には夜鳥の考えがまったくわからなかった。よくよく現状を見直してみると夏臣は幽のこともわからない。
 女は謎だ、とぼそっと呟いた。誰にも聞かれていないと思っていたから言えた強気な発言だった。
 まさか聞かれているとは思わなかった。
「そうだね。でもいまのはさすがに二人が悪いと思うよ」
 慌てて振り向くと、白いブレザーを着た女の子が立っていた。ボブカットに防弾仕様としか思えない分厚いレンズの眼鏡をかけている。知らない女子だった。
「え、なに?」
「あ、ごめんね。私、さっきのクラスの三島楓っていいます。竜宮夏臣クン、だよね?」
「はあ……なんで知ってんの」
「あなたの噂は聞いてるもの」
 訝しそうにひるんだ夏臣に、三島楓は小首を傾げて微笑んだ。
「歌方さんの防人なんでしょ?」



 ○


 見鬼にはおおよそ二通りのタイプがある。烈しい気をまとう龍のような幻獣しか視えないか、吹けば飛ぶような小さな小さな霊魂の欠片まで視通せるか。前者は夏臣や波雲いずみ、真鍵釘矢が分類される。
 あのクラスには、弱視と全盲の見鬼が集められた神職養成学級であり、あの場にいた全員が霊まで視通す見鬼なのだった。霊まで視えてしまうタイプは往々にして通常の視力に障害を持っていることが多い。
 無論、視力が弱くても霊視能力もないタイプもいる。その見比べ方は簡単だ。一目でわかる。
 見鬼の眼球の虹彩は、邪馬都の民に潜む遺伝子的に決してありえない色に染まるのだ。
 それはたとえば、血のような赤、空のような青、森のような緑。
 一般には、虹彩変色と呼ばれていて、ただの遺伝子異常だと思われている。力の弱いタイプの見鬼は、龍を視るときしか変色しないので、夏臣も最近になって自分が虹彩変色だと知ったのだった。
 三島楓の分厚い眼鏡越しに覗く細い瞳は、オレンジだった。
「さっきは災難だったね。でも、あの怖そうな子も竜宮くんのことを想ってやってくれたんだと思うよ」
「さすがにありがた迷惑と言わせてもらいたい」
「まァ、そだよねぇ……あ、そこ」
「え?」
「女の子の首が転がってるから避けて通った方がいいよ」
 夏臣は一発で青ざめて、ひょいっと視えない首をまたぎ超えた。夏臣にはなにもないようにしか視えない。だが、きっとそこには恨みつらみを抱えたまま死んだ女子生徒の首が確かにあるのだろう。三島楓の橙色の瞳の中には、ちゃんとその首の姿が映っているのだろう。
「ありがとよ。でも、霊に触れるとなんか悪いことあんの?」
「あんまりない。けどイヤじゃない? 私はイヤ」
 ぐっと夏臣は手の平で胸を押さえた。もうここ最近イヤだイヤだという拒絶の言葉に苦しめられるあまり、自分に関係のないセリフでも心臓に負担がかかる。夏臣の繊細な苦悩を察した三島がごめんねごめんねと夏臣の背中をさすった。
「あのね、あのね、誤解しないでほしいの」
「うん。いいよ、人に嫌われるのは慣れてる。これで好かれてるなんて勘違いしないから安心してくれ」
「へ? ――ちちち、ちがうよ! わたっ私じゃなくて! 歌方さんの方!」
 夏臣は眉をひそめた。幽の顔が脳裏に浮かび、また胸の痛みが強くなる。
「あいつが、なんだっての。いくらなんでもあの態度を好意的には受け取れないぞ」
「うん、それはそうなんだけど」
 こいつ実は俺のこと煽ってるんじゃないか。夏臣はぎろっと睨んだが、三島は気づかない。
「私、あの子が事故で視力をなくしてからずっと一緒のクラスなんだけどね、歌方さん一度も泣いたことがないの」
「はあ? べつに普通じゃねえの。泣くようなことがなかったら泣かないだろ」
「それはそうだけど、でもね、一度あったの。三年くらい前、あの子、階段から落ちて腕を折ったことがあるんだけど――」

     



 三島楓は生まれながらの弱視で、祖父はかつての陸軍参謀で、父親もまた軍人だった。父は先の戦争で武功を立て、いまは退役し、恩給をもらって生活している。武官としてのつとめを終えた彼は毎日ふらっと散歩にでかけては二、三枚の絵を描いて戻ってきて、妻に見せてはへたくそと罵られて喜んでいる。少々みっともない頭髪の薄まり方をしているものの、朴訥で温和な人だ。
 この世ならざるものを視る眼を持って生まれてきたおのが末裔を三島家の人々は、手厚く歓迎した。尽きることなど考えられない、愛と豊かさがそこにはあった。赤ん坊だった三島楓はよく泣き、よくあやされ、よく笑って育った。
 師範学校に付随する未来の巫女を育成する学校に入学するまで、三島楓は、この世には暖かくて柔らかいものしかなく、冷たいものは時々ふいに降ってくるだけのささやかなものだと思っていた。
 雨のように、風のように。
 違っていた。


 ○


 現世を視る力を無くせば、見鬼の才が発芽する。そういうケースも稀にあった。しかし、大抵は彼岸とのチャンネルが合わずに光を失うだけ。
 そんなこともわからない大人がびっくりするほどこの世界には多くいた。
 滲んで丸みを帯びた三島楓の視界のなかで、ある日突然やってくる転校生たちの顔は光を吸い込むように暗く、痛々しかった。
 人には決して理解されず、評価されない才能がこの世界にはある。へたくそな絵を飽きもせずに一日中描き続けたり、大人の言うことを聞かずにひょいひょいと木を登ってしまったり。
 そんな奔放な子どもたちが、学校にもいかずに親の元で1ダースの家庭教師に囲まれて、ペンを投げないことがあるだろうか。なかった。
 子どもたちは泣き、叫び、ものを壊し、精一杯にその身体で悲しみを訴えながら、ペンを床に打ちつけ、この世界で絶対の味方である両親を見上げた。
 この世界には、他人からどう思われるかでしか、自分の存在を認められないものたちが、びっくりするほど多くいた。
 三島楓はひとつ残らず覚えている。
 愛する両親に視力を潰され、巫女候補生として最後の『公職』に就くという一家の希望を背負ってやってきた、転校生たちのすすり泣く声を。
 中には最後の最後まで見鬼の才を得られずに、またどこかへ転校していく子もあった。
 その子たちに送った点字の手紙の返事は、びっくりするほど早く戻ってきた。宛て先不明の判子を捺されて。
 だから、三島楓は覚えている。
「――――えっと、好きな教科は体育で、好きな給食はハヤシライス。好きな漫画は文字が小さくないやつで、好きなタイプはまだわかんない」
 たった一人だけいた、泣かなかった転校生を。
 歌方幽の笑顔は、いつも、怖いくらいに完璧だった。


 ○


 歌方幽のそういう態度が気に入らない子は、たくさんいた。子どもの心からしてみれば、歌方幽のそういうどこか澄ました態度は、強がりに思えたのだろう。だから歌方幽は転校初日の最初の休み時間に誰にも話かけてもらえずに、点字の教科書をただ指でいったりきたりとなでていた。
 数日経って、ようやく楓たちのグループにそろそろと幽は引き揚げられた。難破した宇宙船がサルベージされるように、静かに誰の気も荒らさないよう丁寧に、幽は楓たちの輪の中に取り込まれていった。
 いまでも誰がやったのかはわからない。幽は知りたいとも言わなかったし、探そうともしなかった。興味がないようでもあったし、なにもかも察していたようでもあった。
 ある日、正門前の階段を降りようとした幽が何者かに突き飛ばされた。
 幽は足をもつれさせ、六段下のコンクリートにどうっと倒れこんだ。動転していた楓は見なかったのだが、一緒にいた子が走り去っていく女子の背中を見た。ただ、眼鏡をかけても0.1を切る視力ではそれが誰なのかはわからなかった。
「歌方さんっ!」
 膝をついてへたりこみ、俯いた幽の顔はわからなかった。見なくてよかったと後々になって楓は思った。
 幽は右腕を持ち上げて、そこにいた全員に見せた。
 ひっと誰かが短い悲鳴をあげた。
 幽は顔をあげて、転校初日のあの日と少しも変わらない笑顔を見せた。
「曲がっちゃった――――」
 右腕は、ぶらんと垂れ下がって揺れていた。楓は声も出せなかった。
 全盲の子がなぜみんなが黙っているのかわからず、なに、なに、と尋ねる声が、楓の耳には遠く聞こえた。
 腕が折れたらどれくらい痛いのか、大切に傷一つなく育てられてきた三島楓にはわからない。それでも、その腕は、見ているだけで痛かった。内出血と痛みの波動に誘われて、小さな小さな黒い羽虫に似た霊子がそのまわりをアブのように飛んでいた。
 痛いと言っていいはずなのに。誰も責めたりしないのに。
 まるでそんな感情は知らないとばかりに。誰も助けてはくれないとばかりに。
 彼女は楽しそうに笑うだけ。アイスを口に零してしまっただけみたいに。
 そのとき、楓の曇った眼に、
 歌方幽の笑顔は、ひどく歪んで視えたのだ。


 ○


「ごめんね、急にヘンな話しちゃって」
「いや……」
「でもね、覚えておいて欲しいの。あの子が、あんな不機嫌そうな顔を見せたのは、あなたが最初だってこと。まあ、さっきの怖い子にもだけど」
 そういって三島楓は眩しそうに笑った。それがなぜか、夏臣の胸を締め付ける。気づいた時には言うはずじゃなかったセリフを口走っていた。
「……俺は」
「ん?」
「俺は、あいつのことがよくわからない。初めて会ったときのあいつは、明るくて、へらへらしてて、なにも悩みなんてなさそうだった。正直言ってバカっぽいな、って思ったくらいだったよ」
 あの夏の日は、いまでも夏臣の瞼の裏に焼きついたまま剥がれないままだ。
「なのに、あいつのことを知れば知るほど、俺にはあいつがわからなくなる。あんたの話を聞いて、結構複雑だ。やっとあいつの尻尾を掴んだ気もするし、やっぱりするりと逃げられちまった、気もする」
「うん……わかるよ」
「俺は……どうしたらいいんだろうな。あいつのために何かしてやりたいって思うんだ。こんな気持ちは初めてで……」
 その場にへなへなと膝をついてしまいたかった。思っていたよりも蓄積しているダメージは深かったらしい。なにもかもが変わったこの夏の記憶の断片が脳みそのなかでちろちろと燃えている。夏の河原、銀の龍、和服の男、濁った血、砕けた歯の欠片。
 耳に残っているのは、冷たい言葉と顔ばかり。
「竜宮くん」
 三島楓が、心配そうに顔を寄せてくる。夏臣はふと気恥ずかしくなって、顔を背けた。
「あー、悪い。忘れてくれ。なんか、ヘンなこと口走った気がする」
「ううん、いいの。タイヘンな仕事だもん、防人は。辛いことがあったら、いつでも言ってね。相談ぐらいなら乗るから」
「……へへっ。なんか、久しぶりだわ」
「え?」
 きょとんとする楓に、夏臣の頬が自然とゆるむ。
「まともなやつと会話したの。まったくさァ、部長はチンピラだし、代表は怖いし、幽はあれだしさァ」
「あはは。そんなこと言ったらみんなに悪いよ。――あっ!」
 急に三島楓が大きな声をあげたので、夏臣はびくっと飛び上がった。
「な、なんだよ?」
「いま何分? あああ、なんてこと、ごめん竜宮くん、わたし授業に出なきゃ、わきゃっ!?」
 床に伸びていたボール紙を踏んで足をとられながら、ぱたぱたと走り出した三島楓は、去り際に、何か思い出したようにぴたっと立ち止まった。
 その背中が言う。
「竜宮くんは優しいから慰めてくれるけど、私にはわかるの。私とあの子の間には、柔らかくてあったかいけど、決して破れない空気の膜みたいなものがあるって。でも、」
 振り返った三島楓の瞳に、夕暮れのような橙色が宿っている。
「あなたは特別、なのかもしれない。だから、あの子と仲良くしてあげてね、竜宮くん」
「……それはあいつに言ってくれ。毛嫌いされてンのはこっちだぜ?」
 そうだったね、と三島楓はころころと笑った。
 じゃあまた、と小さく手を振り駆け去っていく。夏臣はその背中を見送りながら、いまの会話を反芻する。三島楓の言っていたことはただの気休めか勘違いなのか。
 それとも。
 夏臣はポケットに手を突っ込んで、リノリウムの床を見つめる。
 真実は知りたい。でも、なにも傷つけたくない。虫が好すぎると自分でも思うが、それが本音だ。
 いっそ幽に聞いてしまおうか。
 あの脳みそお花畑の元気娘が素顔なのか、それともその本性は、痛いも辛いもわからずに機械のようにレースに執着する狂人なのか。どっちが本当でも、夏臣は納得してしまえる気がした。
 けれど夏臣は、どんなに悩んでも、結局はそんな質問をすることはないだろう。ただ黙って、いままで通り、いやいままで以上に、彼女の背中を守るだけ。
 本当のことを知って、それでいまの駆人と防人の関係さえ壊れてしまうのが怖かった。まさかこんなことでそこまでは、と思う気持ちもある。けれど不安は理屈ではなかなか消えない。
 このシュレディンガーに、猫を殺す勇気はないのだ。
 けれど、それでいい、とも夏臣は思う。
 生きていれば糞も垂れるし小便も漏らす。機嫌のいい日、悪い日があって当たり前だし、たまたま最初に出会った頃の、「あの日」の幽を求めるのは、「いま」の幽に対してとても失礼なのかもしれない。いや、きっとそうだ。誰だって、勝手な期待を押しつけられてはたまらない。
 結局、どっちだっていいのだ。
 自分は歌方幽を守る。彼女の本質が正であろうと負であろうと、同じこと。
 それが防人のつとめであると同時に、竜宮夏臣の中に湧き起こった望みであることだけは、たしかなのだから。
 こんな気持ちになることは、生涯通じてそう多くはないだろう。だから、いまは、この熱を感じていられるだけで、充分だ。
 夏臣は廊下の窓を開け放って、窓枠から身を乗り出し、中庭を見つめた。熱波がよじれてアスファルトから煙のように立ち昇っている。熟れすぎた樹木が青臭いにおいを振り撒き、茶色い樹皮に張りついたセミどもの合唱祭はますます賑やかで、夏臣の髪から滴った汗の雫が、生い茂った雑草の中にぽつんと落ちた。
 夏はまだまだ、終わりそうにない。

       

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