Neetel Inside ニートノベル
表紙

かすかなる風、ドラゴンの夏
05.つらいしごと

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 握った手綱から神経が広がっていく。延焼する炎のように、傾斜を滑る水のように、ソーダ色の糸が伸びていって、自分が龍と同化していくのを、風を切って飛ぶ鱗をなでる大気の流れを、あぶみを踏むブーツが癒着していくのを、黄金色のたてがみが逆立ち、チョコレート色の二本の角に痺れるような衝撃を――――感じる。
 青い夜のなかを、死んだ街の上を、飛んでいる。生命の光は、弱々しく降りしきる雨のなかに混じるばかり。一粒一粒に物語を秘めた雫が、街と龍を優しく洗う。ビー玉のような水滴が、龍の航跡を一瞬だけ浮かび上がらせる。
 鋼色のビルディングの森を銀色の龍は縫うようにして飛び去っていく。カーブのたびに一枚の鱗がわずかに剥がれ、龍孔が口を出す。いまならそのパイプ状の筒のなかを通り抜けていく圧縮空気さえ感じ取れる。やっぱり想像通りすうすうした。圧縮空気をぶつけられたビルの外壁はパラパラと欠片をはるか遠い地上へとばら撒く。峡谷の底は薄明の空を溶かし込んだような青い闇。けれど少しも怖くはない。このまま塵と散れるなら、なんて素晴らしい死に様だろう。私の死骸はあの美しい闇に溶けて一抹の泡となり、そこにあるのはただ充足。
 わたしが望んでいたもの。
 わたしが焦がれていたもの。
 ここにはなにひとつとして余分なものはなく、
 ここにはだれひとりとして愚鈍なものはない。
 闇色の海が競りあがって来る。身体が霊水に没する。冷たい。痛いくらいに、冷たい。けれどその痛みが、苦しみだけが、全身を覚醒させ燃え上がらせる。絶対零度の夜の水が、炎のようにわたしを抱きしめてくれる。冷えた熱が神経をちろちろとなめる。
 眼を凝らす。
 記憶の水に沈没し、想いの葉をつけた樹木に身を委ね、終わった都市が安らかに眠っている。そこは静かでなめらかな墓地。
 骨のように丸みを帯びた建物を壊してしまわないように気をつけて飛んでいく。過ぎ去った建物は一秒ごとに色をなくし、黒いシルエットと化して後方へ消えていく。
 摩天楼はどこまでも続いている。
 どこへいくのでもいい、どこへ連れ去られてもいい。
 このままでいたい。
 ふいに、あたりが暗くなった。いつまで経っても光は戻らない。
 途方もない時間が過ぎて、ようやく歌方幽は、自分が夢から醒めたことを知った。


 ○


 光は見えないけれど、暖かさは感じる。
 歌方幽はベッドの上に朝日が射していることを、頬に当たる熱で知った。かけ布団を足で蹴飛ばして跳ね除け、しばらくそのまま一瞬前まで浸っていた夢の余韻に浸った。けれど思い出そうと記憶の皿をかけばかくほど、手の平から夢の破片は零れ落ちていってしまうだけだった。幽にはそれが残念でならない。
 身体を起こして、枕から右前方四十度、高さ頭のちょっと上に手を伸ばして制服を掴んだ。ゆさゆさ振ってハンガーからブレザーとスカートを奪い取り、昨夜用意していたブラウスと靴下を左手でまさぐって回収し、ベッドの上でてきぱきと着替える。ぐずぐずしてはいられない。とっととメシのにおいをさせなければ、親父が餓えた犬みたいに唸りだす。テーブルの上に置いてある鈴を手に取ると、りん、と硬い音がした。首に巻く。
 これでよし。
 鬱陶しい暑さを遮断してくれる快適な制服に腕を通しながら、幽は台所にいった。
 料理は苦手だった。たぶん視力があったとしてもそうだったろう。元々、幽はいい加減で大雑把な性格である。冷蔵庫の中にはレンジでチンで済む冷凍食品がぎっちり詰まっているし、調味料入れにはウィダーインゼリーが誇らしげにずらりと並んでいる。幽は十秒チャージで騒々しい朝のなかに突っ込んでいけるパワーを持っているけれど、父はそうはいかない。一応、努力した風なスタンスだけは見せてやらねば。
 父はバカ舌なので冷凍食品でも手作りといえば嬉々として食べる。正直、ちょろい。家事は女の役目で目が見えなかろうと関係ない、料理は毎朝手作りで、とかなんとかいっていたって味の違いがわからないのではおンなじだ。そもそも軍からの恩給でガッツリ気合の入ったニートライフを送っているくせによくもまァ洗濯のひとつもしないものである。呆れて文句も出ない。
 ハンバーグがチンできた。それを皿によそって、最初から千切りになっているキャベツをまぶして、シリコンカップに入ったエビグラタンを気の利く新妻風に添えておく。魚類は缶詰から引きずり出したものを別の容器に入れ直して、あとはご飯を茶碗によそって完了。膳の上に立派な朝食が完成した。色気もくそもないが、喰って泡を吹かないだけ感謝するといいのだ。世の中には食べたくても食べられない人がたくさんいるのだし、時間は有限なのだし、歌方幽は料理が嫌いなのだし、だからこれでいいのだ。
 膳を持って、足で引き戸や襖を乱暴に開けながら屋敷を闊歩し、父親の寝間兼居間の襖を開けると、三十六度三分くらいの熱を持った生き物があぐらをかいてこっちを見ている気配がした。
「おはよう、父さん。朝ごはんできたよ」
「ああ」
 衣擦れの音がして、親父が座りなおしたのがわかった。慎重に歩き、なにか昨日までの自分の知らない障害物がないことを確認しながら、ちゃぶ台のあるはずの位置に膳を置く。今日もちゃぶ台は同じ場所にあった。
「どうぞ、召し上がれ」
「ああ。幽、リモコンとってくれ」
 とても目の見えない娘を気遣っていたら出てこないセリフである。幽は内心でため息をつき、父の寝間の構造を頭に思い浮かべた。基本的に万年床にごろついているので、その範囲内にあるはずである。とってくれ、であって、探してくれ、ではないので父から見えている範囲だ。そして父はこっちを向いているので、父の背中に朝の天気を伝えているテレビの周辺はシロ。そもそもテレビ側なら父の方が幽よりも近いので自分で取るはずだ。
 最後にリモコンを使ったとき、父はどういう姿勢で見ていたのかを考えてみる。浴衣の袂をぼりぼりかいて、適当にチャンネルを変えて、ポイしたと思われる。そのとき、ひょっとすると両手をうしろについて、その勢いでいつもよりリモコンが遠く吹っ飛んだのかも。とすると、
 幽は爪先で、その場に「の」の字を書いてみた。こつん、と硬い感触。
 アタリだ。
 しゃがんでリモコンを拾って、父に手渡した。手からリモコンの感触が消えた。父は礼も言わずに箸を手にとって咀嚼音を立て始めた。尻をずらす音。テレビを見やすい姿勢に変えたのだろう。寝間の最奥、壁際から女性アナウンサーの声が、春先から各地に出没している放火魔がいまだに捕まっていないことを告げている。コメンテーターはなんでもかんでも春の陽気と終わらない夏のせいにしている。
 父はごくん、と口にあったものを飲み込んで、
「そうなのか、たいへんだなァ、母さん」とぼそっと呟いた。
 その朝一番の嫌悪感を幽は覚えた。母はもちろんテレビ局でアナウンサーなどしていないし、かといってちゃぶ台に無口な母がすで座っていたわけでもない。
 母は、幽を産んですぐに亡くなった。タイヘンな難産だったという。
 父は、十七年前から現実に目を逸らし続けている。責めるつもりはない。おかしいとも思わない。
 だってそれが歌方家の日常だから。
 ただ、少しだけ、むなしいだけ。
 父に背を向けて、ウィダーインゼリー飲んで学校いこう、と思った。時刻はおそらく七時四十三分から七分の間。うかうかしていると遅刻してしまう。遅刻しても怒られることはないけれど、だからといって優しく穏やかな安藤先生に心配をかけるわけにもいかない。彼女は学校の先生としても、巫女の先輩としても尊敬できる人なのだ。結婚四十年、いまだに毎朝愛妻弁当を旦那に作ってやっているというのだから頭が下がる。自分だったら三日も経てば夫のカバンに納豆を入れても不思議ではない。
「幽」
 いつの間にか、テレビの音声が途絶えていた。父が消したのだ。幽は声のした方に顔を向けた。
「なに?」
「仕事だ」
 父の声から、惚けたような響きが消えている。きっと軍隊にいた頃も、こんな風にハキハキしていたのだろうな、と幽は思った。
「昨夜、葬儀屋から電話があった。このあたりでまた霊障物件が増えているらしい。どうせ連中の根城はくだんのあすこだろう。おまえ、今夜いって祓ってこい」
「わかりました」
「――――おまえ、防人をつけたらしいな」
「はい」
「呼吸を合わせておきなさい。もうすぐ、嵐が来るそうだ」
 幽はなにも答えずに出て行った。鈴の音が遠ざかっていく。
 父親だけが残された広い屋敷には、ただテレビの雑多な音がこだまする。

     


 幽霊退治に、掃除機はいらない。




 放課後、三島楓からの手伝いの申し出を辞退して、幽は教室を後にした。踊り場の角を曲がるまで、背中に三島楓から気遣わしげな視線が送られてくるのを感じていた。悪い気はしない。べつに彼女に悪意があるとか、気に入らないとかいうことではない。仕事は一人でやった方が効率がいい。そう思っただけのことだ。
 事務室にいって鍵を借りた。色気も味気もない直方体のキーホルダーを握って階段を降りる。周囲の空気はバースデーケーキの側面みたいに凪いでいる。誰もいない。どこかの教室から、楽しげな笑い声が響いてくる。それもすぐに聞こえなくなった。
 百八段ほど降りると、ぼう、と階段が浮かび上がった。さらに潜行する。どんどん周囲に色が復活する。といっても、灰色ばかりだ。他の色といえば、せいぜい手すりが赤錆びている程度。まだ夢の方が鮮やかだ。<死>の世界に近づけば近づくほどに幽の眼は視力を復活させる。ここから先はカーボン紙の一番下だ。こんな場所でモノが見えるよりも、龍がいる<異界>での視界の方が欲しかった。あそこでは<死>がまだ薄くて視力が戻らない。
 こんな沈鬱な仕事は早く終わらせて布団に潜りこみたい。あくびのしすぎで口が痛かった。
 五十段ほども下っただろうか。そこから先は水没していた。青い水が境目を作っている。幽は躊躇なく入水した。水は刺すように冷たかった。アタマの先まで浸かってしまうと、もうなにも気にならなくなった。硬い水のなかを進んでいく。
 また五十段ほど降りると、踊り場に窓が現れた。街を飲み込もうとしているかのような巨大な夕陽が、幽の眼を焼く。逆光で黒ずむ街は、迫り来る一日の終わりを前にして、まどろんでいるようだった。幽はしばらく、窓の前に斜に構えて、外を睨んだ。誰もそばにいないとき、幽はたいてい目つきが悪い。
 夕陽の見える窓を振り切って、階段を降り続けた。そして、終着階に上履きをつけた。
 青い水のなかに夕陽の赤が混じって織り成す夕闇が、幽の胸の奥をぎゅっと締めつけた。痛いくらいに切ない赤。終末の色に染められて、果てのない廊下が左右に伸びている。幽がぼけっと立っていると、水が揺れて幽の身体をそっと右に押した。幽は逆らわずに、手すりに手を置いて、爪先を軽く床にこすらせ、廊下を滑った。どこかでブラスバンドが演奏し続け、バスケットシューズが体育館をきゅっきゅっと踏みつけ、机と机がぶつかる。誰かいるみたいに。
 誰もいないくせに。
 この、溶けてしまいそうな夕闇の学校にいると虫唾が走ってたまらない。一分一秒そこにいるだけで、何かおぞましい穢れが自分の中を犯していく気がする。ひょっとするとそれは逆なのかもしれない。が、幽にはどうでもいいことだ。どちらにせよ、自分の役目は変わらない。やることが同じなら、考えることになんの意味がある? 無駄なこと。
 いまから自分が始末をつけてやる連中も、無駄な足掻きに希望色のペンキを塗って誤魔化している。取り戻すことなんて絶対にできないのに、やり直しなんてありはしないのに、留まり続けて迷い続ければいつか救いがやってくると信じている。いや、本当は信じてすらいないのだ。わかっているのだ。わかっているくせに、やめられない。そういうのが、一番、タチが悪い。
 人を猫に変えることができても、人を乗せる龍がいても、一度終わった生命は戻ってこない。消えた火が、もう一度点けたところで、別々の火であるように。
 いくつもの教室を通り過ぎた。そして幽は、ひとつだけ、隙間の空いている戸を見つけた。手すりを強く掴んで、その場に漂う。引き戸の上を見ると、『八月』と札が斜めに下がっていた。鎖が片方外れて、取れかかっている。きっと誰も直さないまま、永遠にそのままなのだろう。
 引き戸を開けた。
 普通の教室だった。ぎっしりと机と椅子が詰め込まれ、教壇があり、ロッカーには鍵がかけっぱなしにされ、掃除用具箱は誰かがケリを入れてへこんだ跡があった。いまの時期は役立たずのストーブには、誰かが忘れていったのか、充電器つきの携帯電話が置きっぱなしになっている。
 普通の教室だった。夕闇に水没していることと、いくつかの机に妙なモノが映っている以外は。
 幽は縫うように机の海を進んで、その中のひとつに近づいた。
 傷ひとつない優等生然とした机に映像が映し出されていた。それは8ミリカメラで撮影したような粗い画質で、過ぎ去っていく電車と、線路の周りに散らばった何かがうごめく姿のモノクロの映像だった。
 何かがごろり、と動いた。幽の顔にぎゅっと険が走る。
 それは、OLと思しき女の上半身だった。五体で残っているのは頭と左腕だけだ。伸ばした指がぶるぶると震えて、灰色に輝く指輪の光がフワフワと揺れた。その指輪は薬指にはまっていた。
 女の損なわれたほかの部位はバラバラになって、凄惨な断面をこちらに向けて転がっている。女は何かパクパクと口を動かしていた。が、声は机を透過することなく、虚空に呑みこまれるばかりだった。
 幽はなめらかな机の表面を指で触れる。いくらこすっても、その残酷な映像が消えることはなかった。椅子を引いて、腰かける。そうして誰もいない教室のなかにいると、居眠りでもして教室移動に置き去りにされたような気分になった。けれど、ここであまりセンチメンタルな感傷に浸るべきではない。幽は口を真一文字に結び直して、机の横のフックに手を伸ばした。そこには体操着袋の代わりに、ヘッドフォンがかかっていた。コードはどこにもなかった。
 映像を直視したまま、着ける。途端に、鼓膜に洪水のような音が怒涛となって流れ込んできた。
 目を逸らすことも、耳を塞ぐことも許されなかった。それが鎮魂の巫女の義務で、この世に生を受け、とうとう最後まで報われることなくくたばった魂を鎮める者のつとめだから。
 時間は夕陽が溶かしてしまった。いったいどれくらい経ったのか。
 映像が途絶え、机はただ赤に染められ、幽の顔は何事もなかったかのように静かだった。
 ――――ただ、男に捨てられて、それでも忘れられなくて、死んだ女の声を聞いてやっただけ。
 もう耳元から怨嗟の声は聞こえてこない。ヘッドフォンを外す。
 その手は、いまにも手に持ったそれを取り落としてしまいそうなほど、震えていた。けれど幽が一度、ぎゅっと強く拳を握ってからほどくと、震えは綺麗さっぱりなくなっていた。
 元通りにフックにヘッドフォンをかけ直し、教室を見回す。
 机の中の映像のなかで、まだいくつもの魂が、報われず救われず、沈殿したままだ。深緑の瞳を嫌悪に染めて、胸の内で毒づく。
 ほんとうに、悪趣味な展覧会。

     




 教室を端から端まで泳ぎ、神へ届かぬ祈りを順番に聞いてやる。生命の火が燃えていたときでさえ、誰にも届くことのなかった嘆きの声を。
 器用に背泳ぎして次の映像へ向かいながら、これはクレーム処理だ、と幽は思った。報われなかった。救われなかった。届かなかった。たしかに無念だろう。でも、そんなこと、誰に言ったって仕方ない。生き返れやしないんだから。だったら大人しく成仏してしまえばいいのに、生きていたときでさえ無益だったくせに、死んでからでさえこっちに八つ当たりをしてくるなんて、自分だったら惨めすぎて我慢ができない。
 どうしようもない不運、受け入れるしかない性質。期待した? 馬鹿を見た? そんなのフツーだ。傷つきたくないなら期待なんてしてはいけない。生きていることさえ苦痛なら、とっとと死んでくたばるのが素直なやり方だ。どれほどうぬぼれていれば幸せになれるなんて思えるのだろう。
 どいつもこいつも。
 幽は頬杖をついて夕陽を見ながら、絶叫と呪詛の音楽に耳を傾ける。時折、痛むように顔をしかめながら。聞き流したくても、死者たちの無念は重油のように重くべたついて、耳に残って離れない。それでも幽は、次の座席へ泳ぎきるまでに、心に決着をつけてしまった。いちいち一人ひとりの事情なんて、覚え切れない。忘れるしかない。
 この仕事は三島楓の方が死者を深く安らかに鎮められるだろう。彼女なら、死者に自分の心をすべて感情移入させてしまえるだろう。でも、だからこそ鎮魂の巫女には致命的に向いていない。一日にこの街でいったい何人死ぬと思っているのか。そのうち、どれほど多くの人間が妄執に駆られて己の最悪の記憶に縛られたまま動けなくなっていると思うのか。そのすべてに心を預けてしまえば、次に死ぬのは三島楓になる。だから、幽は誰にもこの仕事を渡さない。


 ○


 ここで、歌方幽の記憶と経験から一人の死者の笑い話を引きずり出そう。本人は決して誰にも話そうとはしないだろうから。
 まだ父が軍人として働いていた頃、幽は幼少の頃は普通の子どもと同じように幼稚園に通っていた。学芸会では映画『大脱走』を子ども向けにデフォルメしたシナリオでダンボール製の飛行機を駆り海を越え、見事にソ連の収容所から逃げおおせたし、お遊戯会のフルーツバスケットでは並み居る男子連中を跳ね飛ばして勝利を収め、中学校の校庭を借りて行われた運動会の五十メートル走では脇目も振らずに駆け抜けてブッちぎりのトップをもぎ取った。
 いつも、父が褒めてくれたからよく覚えている。おまえは足が速いな、と大きな手でアタマをなでてくれたから。思えばそれが原風景。最初はそんな理由だった。
 古谷幸治、通称ふるやんは、そんな未熟な栄光に浸った幽に、いつもくっついている腰巾着だった。くしゃみをするたびに飛沫が盛大に飛び散るので嫌われていたが、衛生観念がだいぶ後になるまで発達しなかった幽とは気が合った。二人は幼稚園が終わるとチャイムが鳴るまで公園に繰り出し、年上の子どもたちに突撃していって無理やり遊びに加わった。というよりも幽が男子連中を千切っては投げ千切っては投げして屈服させ出来上がった屍山血河をふるやんが後始末していた、と言った方が正しい。そのため近所のおばさん方からは「ばんそうこうの子」とか「ナイチンゲール」とか呼ばれていた。ふるやんはそう言われるのが嬉しくって、どこにいくにも救急箱を携えるようになった。のっそのっそと鈍重に歩くたびに、腰の横で箱が揺れて賑やかな音を立てた。
 しかし、どんな黄金時代にも幕は下りる。後に歌方幽は父親の手によって失明し、そのときにはもう疎遠だったふるやんとは完全に縁が立たれてしまった。歌方幽が最後に明るい日の元で見たふるやんの姿は、地元の野球チームに入っている小野と遠藤に連れられていくときの小さな背中だった。ふるやんは野球なんて大嫌いなはずだった。
 穏やかで物静かだったふるやんに、現実世界は過酷すぎた。そして月日は流れて、歌方幽と古谷幸治は再会を果たした。
 この夕闇の教室で。
 机の上の映像のなかで、ふるやんは首を吊ったまま、幽に向かって何かを早口にまくし立てていた。モノクロの唾と鼻水を飛ばしているふるやんになにがあったのか、幽は知りたくなかった。それでも、ヘッドフォンから届く彼の叫びを聞いてやらないわけにはいかなかった。でなければ、一生、古谷幸治はその闇に囚われ続ける。
 ふるやんは、幽が聞いたこともないような大きな声で、自分の不幸と無念を身振りを交えて喚き散らし、時々狂ったように笑って、また猛然と激怒した。幽は椅子の上で身を縮こまらせたまま、微動だにさえできなかった。ただ、その呪詛を受け止め続けた。これが本当に自分の知っているふるやんなのか、嘘であって欲しいと祈りながら。だが、どれほど待っても夢が醒めないので、幽はようやく映像のなかの変わり果てた少年を、古谷幸治なのだと心から認めた。認めざるを得なかった。
 死者となり、憎悪に満ちた怨念を撒き散らす存在となって、彼はようやく他者に己の心を打ち明けられるようになった。死んで、ようやく本音が言えて、かえって生き生きできたというわけだ。
 悲しいし、虚しいし、辛すぎる。
 だから――――忘れた。
 映像が消え、ヘッドフォンが沈黙してからも、歌方幽には、古谷幸治の怒りと悲しみが癒えたとは思えなかった。叫び疲れたその隙に誰かが、圧倒的な誰かが、その叛逆を許さない大きな掌で、彼の魂をどこかへ掻っ攫っていってしまったのだと思った。
 その気持ちはいまでも変わらない。本当に死者たちが安らかに眠りに就けたとは、思えない。だからこれは、三島楓には、似合わない仕事なのだ。
 死者からの呼び声を跳ね返せる精神を持っていなければ勤まらない。マニュアルもセオリーも糞喰らえだ。まったく同じ人生も、呪いも、いままで一個もなかった。この世界には悲劇が多すぎて、いまではもう歌方幽は、どんな目に遭ったって、どんな声を聞いたって、笑って忘れられる。でも、三島楓にそんなマネはできないだろう。そして、して欲しくもない。
 そんな余計なことを考えていたのがまずかった。
 ハッと我に返ったときにはもう、机の映像から飛び出した石灰色の冷たい手が幽の腕を掴んでいた。濡れた手から滴る水が、幽の皮膚に浸透していき、背筋に怖気が走る。抵抗する間もなく引きずり込まれた。
 暗転。


 ○


 誰かに髪を掴まれている。うしろを振り向けない。熱い吐息が首筋にかかる。前を向いていることしかできない。
 列車に乗っていた。
 車窓から見えるのは景色ではなかった。それは断片的でぼやけた世界だった。灰色の記憶だ。走馬灯のようにバラバラな記憶が窓の向こうを流れ去っていく。子どもの頃の記憶。父が求めてくる理想の娘像を演じていた自分。見てもいない自分の顔が、なぜだか記憶にしっかりと映像として残っている。父が目を逸らすと泡のように溶けてなくなるチープな笑顔。改めて見ると虫唾が走る。でも、それが家族の証明ならばそれでいい、と歌方幽は思ったのだ。たとえ嘘でも、他人が納得するならそれは真実だし、誰も困らない。むしろ喜ぶ。だから演じてきた。終わることのない、他者が自分に求める理想の偶像を、ひたすらに……。
 列車がトンネルに入った、ように見えた。ゼロから記憶を高速で再生していく列車が、幽が視力を失った時点を越したのだ。それから先の記憶は音だけの再生になる。
 真鍵釘矢の声がした。初めて会って、初めて龍に乗って、ぶっちぎりで負けたときの声が。
 ――――なあ、どうして笑ってるんだ? 悔しくないのか?
 幽の声はしない。笑って見せたのだ。
 ――――なんか、造りモノくせえぞ、おまえ。
 立ち去っていく足音が、だんだん小さくなっていって聞こえなくなった。そのときもまだ、幽は微笑を消していなかったはずだ。造りモノ。結構。それですべてが丸く納まるなら、喜んで自分なんか殺してやるよ。父のために生きてきた。父のために明るく振る舞って、それを他人に応用してトラブル少なく生きてきた。多少のもめごとは仕方ないにしても充分うまくやってきたはずだ。なんの問題もない。ようやく龍騎手として<出走>する機会も得た。あとは<嵐>が来るのを待つだけだ。造りモノだろうとなんだろうと、父のために走って、父のために死ぬのだ。それが歌方幽が生まれたときから課せられた義務だし、そういう契約できっと自分はこの世に生を受けたのだと思う。約束は果たす。それが後腐れしない生き方のはずだ。
 ――――先輩って不思議な人ですよね。時々、怖いくらいに。
 波雲いずみの声。勝手に怖がっていればいい。アタマがいいくせに、そういうことを平気で言えるそっちの方がこっちは怖い。普通にしているつもりなのに、それがどこかでひどく歪曲してしまう逸れ者の気持ちが、お嬢様にはわからないんだろう。怖い? それはこっちだっておンなじだ。いつ、歌方幽という鎧が壊れるか。砕けたガードの残骸から這い出てくるのは、無力な虫けらか、それともなにもかも破壊する鬼か。そんなことさえ自分ではわからないのに。
 だから、歌方幽は、自分を探ろうとするものを決して許さない。そいつが自分の鎧の兜を剥いで、なにもかも暴き立てて、真実を発見したときどんな顔をするのか知るのが恐ろしいから。軽蔑されるのも、恐怖されるのも、ごめんだ。いやだ。考えたくない。
 だから。
 だから、あいつだけは許せない。あいつさえいなければ、心を探られる心配もなく、バカのフリをして最期の時まで過ごせたのに。あいつさえいなければ、盲目のままレースに出て、うっかり死んでしまうこともできたのに。あいつさえいなければ、本気の勝負で、本気の誰かに始末されることができるはずだったのに……。
 あいつが、いるから。
 自分の鞍に運命共同者を乗せてしまった。べつに死んでも構わないはずだったのに。死ぬには後味が悪くなってしまった。後味? 違う、そんなのまやかしだ。怖くなったのだ。死ぬのが嫌になったのだ。それまで、そんなことは決してなかったのに。ヘラヘラ笑って、ヘラヘラ死ぬつもりだったのに。それがちゃんとできる状態のはずだったのに。
 できなくなった。
 あいつのせいだ。あいつのせい。全部あいつが悪いんだ。あいつが、おかしくしてしまったんだ。
 わたしを!

 ○

 もう暗闇になんの音もしはしない。自分の髪を掴んでいる冷たい手を、幽は掴んだ。握り締める。苦しげな呻きが耳元で聞こえた。知るもんか。
 爪を立てて、相手の腕を握り潰した。ここでは腕力も筋力も関係ない。精神力がモノを言う。イメージする力。幻想の未来を過去から投射できるヤツが他者を圧倒する権利を持つ。その焦点が、死に損ないの亡霊よりも歌方幽の方が正確無比だった。
 背後を振り向く。
 暗闇に、敵の乾いた眼球だけが浮かんでいた。血走った白目は、長い間、野ざらしにされて汚れてしまったように黄ばんでいる。身体は視えない。だが、ある。その不可視の首を掴んで一気に締め上げる。敵の乾いた瞳のなかに、別の惑星みたいに、碧い自分の眼が映りこんでいる。念じる。
 消えろ。
 手が空を切った。
 幽は夕暮れの教室に一人立っていて、なにもない中空に両手をかざしていた。それだけだった。もうどこにも、幽を脅かす影はなかった。


 ○


 最後の呪いを聞き届け終えた。そこにはもう、誰の声もしない。また、誰かが呪詛を吐きながらくたばるような目に遭うまでは。水没した夕暮れの教室を水泡が昇っていく。窓を開けてやると、泡たちはふわふわと空を目指して飛んでいった。幽はそれが見えなくなるまで見送るのをやめなかった。それが終わると、窓を閉めて、黒髪をたなびかせるようにして、その場を去った。感じることはなにもない。これがいつものことなのだ。
 事務室で鍵を返し、手当てをもらって、体育倉庫にいくと竜宮夏臣がいた……。

       

表紙

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