Neetel Inside ニートノベル
表紙

かすかなる風、ドラゴンの夏
06.曇る世界

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 歌方幽が首の鈴を鳴らして倉庫に入ってきたとき、夏臣は跳び箱に腰かけて漫画を読んでいた。釘矢はマットの上に寝転がって音楽を聴いている。着けたアイマスクには今日は『感動』の二文字。単語は毎日変わった。
 漫画のコマを読み進むフリをして、ちらっと幽を見やる。機嫌はよろしくなさそうだ。暗くなってきたので電灯のスイッチをつけ、ガラクタのなかに体育座りの姿勢で埋没して動かなくなった。いつも目を閉じているので眠っているのか瞑想しているのかわからない。それがかえって同じ空間にいる者としては精神的に堪える。時計を見る。早く丑三つ時になって欲しい。
 人が出入りする気配がしたためか、釘矢がむくりと起きてアイマスクを投げ捨てた。いつも起きるたびにポイポイするからモノがなくなり買いなおす羽目になるのである。それを口実に無駄使いしている節さえあるようだった。龍の模型も木彫りの熊も誰がやるのか定かではないトレーディングカードのデッキの群れも、すべて部室にある無駄なものは釘矢が持ってくる。部室に釘矢の持ち物があるのか、部室が釘矢の部屋なのか微妙な線である。
 釘矢は体中の骨をひとしきり鳴らし終えると、いま何時か虚空に尋ねた。幽は無言。なので夏臣が答える。
「七時すぎッス。起きるにはちょっと早いっすね」
「だな。もうちょい寝るわ」といって横になったが、頻繁に寝返りを打ち、一向に眠れないようだった。しばらく我慢してじっとしているようだったが、とうとうタオルケットを跳ね飛ばしてバリバリと髪をかきむしった。
「だめだ。眠れん。おい竜宮、睡眠薬もってこい」
「そんなのないッスよ」夏臣はため息をつく。「気持ちはわかりますけど」
「ちくしょー。この時間に眠らなかったらどうやって部活しろってんだよ。やってらんねー」
「部長はいいでしょ、乗らないんだし。つか左腕まだダメなんすか?」
「まだちょっとひきつる」と釘矢は左腕をぶんぶん回した。「あーあ。今日から復帰しようと思ったのによ。やる気失せたわ。帰ろうかな」
「んないい加減な……俺たち、いちおー世のため人のために働いてるんでしょーに」
「そんなの関係ねーよ」と釘矢は一蹴した。「知らないやつなんか知ったことかよ。俺は俺だけが大事なの。自分の住んでる街がブッ壊れたら俺のいきつけのサ店も本屋も床屋もなくなる。それが嫌だから乗るだけのこと」
「そんなテキトーなの部長だけっすよ」
「じゃ、おまえはなんなんだよ」寝起きの釘矢の機嫌はたいてい悪いものだったが、今日はやけに絡んでくる。
「俺は……」
「どうせ大した理由じゃないだろうが。みんなそうなんだよ。誰かのため、お国のため。そんな理由でバカなんかできるか。そんなのよっぽど狂ってるぜ。え、おい」
 夏臣は自分から話の矛を逸らした。
「ほかの人たちはどーなんスかね。その、ええと、俺たち以外のってことですけど」
「駅前で占いやってるジプシーの棚町は金のためだよ」釘矢はせせら笑った。
「洛陽寺の和尚は先祖代々の仕事だから成り行きで継いだだけだし、波雲も似たようなもんだ。本当に正義感でやってるのは、波雲ぐらいかもな」
「代表、マジメですもんね」
「おかしいよアタマ」
 釘矢はとにかくなんでもかんでも否定するつもりらしかった。
「俺はゴメンだ。誰かのために自分を犠牲にしたりなんかこの世が破滅したってヤなこった。そんなのはナルシズムに酩酊しきったバカに任せておきゃいいんだよ。勝手にがんばって勝手に死んでくれる。これほどラクなこたァないぜ」
 夏臣はだんだん腹が立ってきた。で、なにかしら釘矢が言葉を失うような反論をしようとしたが、その前に先手を打たれた。
「おい竜宮。俺をひとでなしみたいな目で見るのは構わねえけどな、俺に何か反論するなら、てめえなりの意見ってものを持ってからにしろよ。なにも考えてねえのにとりあえず間違ってると思いマス、じゃ点数はやれんぜ」
「…………」
 沈黙が降りた。釘矢は黙って、しばらく電球の白い光を見上げていた。そして、沈黙の責任を取って喋り始めた。
「俺の家は代々龍騎手の家系でな。むかしは波雲みたいに土地を任せれてたこともある。でも俺の祖父の代で没落してな」
「なにかあったんですか」
「終人(さきなし)に負けたんだよ」
「さきなし?」
「道場破りみたいなもんだ。その土地のリーダーに喧嘩を売って、レースを申し込む。負けたらなにをされても文句は言わない。だが勝てば、その土地は頂く。土地破りってとこかな。それに俺のじいちゃんは負けたんだ」
「断ることは――」
「そんな風に物事がラクな方に流れていけるんなら、この世はもっと平安だったろうよ」釘矢は鼻で笑った。夏臣を、というより、自分やそれを取り巻くすべてを嘲っているようだった。
「終人になるやつはいろいろいる。たとえば元々見鬼の才に突出し、我流で異界を開き龍に乗って、人生っていうクソゲーをひっくり返してやろうとするやつもいる。でも大抵は――負けて終人になった元管理官たちさ。俺のじいちゃんみたいにな。その土地を治めてるやつが負けてその場に留まるわけにはいかねえやな」
 釘矢の回想は続いた。
「俺のおやじは邪馬都中を練り歩いて、ようやく波雲家の下っ端として雇ってもらうことになった。俺が四、五歳の頃だ。おやじは二十年近く放浪して、この美津治で安寧を得られたわけだ。へっ、くそったれめ。おかげで俺は物心ついたときから波雲の世話さ。やってられねえよ」
「どうして……」
 釘矢は突然カッと歯をむいた。
「あいつに、どうしようもなくセンスがねえからだよ!」
「…………」
 話しているうちに怒りがますます燃え上がってきたのか、釘矢は拳を固く握って奮わせた。
「俺は自分で言うのもなんだが天才だ。龍に乗ることにかけちゃ誰にも負けはしねえ。俺からすれば歌方なんざ敵にもならんよ。あんな無茶な走りをしてタイムを落とすやつは俺からすればオナニストだ。異界くんだりまで出向いて自慰にふけってるバカなんだよ」
 夏臣は唾を飲んで幽を見やった。幽の顔は穏やかで、意識があるようには見えなかった。
「だからわかる」と釘矢は続けた。
「波雲には戦うセンスがない。弓も、龍も、あいつは心の底から没頭することができない。なぜなら、やつの行動原理は『義務感』だからだ。それが自分の役割だ、そう言い聞かせてやりたくもねえのにやってやがるからだ。あいつは戦士にはなれない。あいつの戦場は俺たちの場所じゃない……」
 そうしてまた侮蔑に満ちた笑みを唇で形作って、
「とっとと嫁にでもいって、平穏無事につまらねえ暮らしをするのがあいつには似合ってるのさ」
 夏臣と釘矢は見つめあった。奇妙なくらいお互い静かだった。
 夏臣は聞いた。
「俺はどうですか。俺は戦士になれますか」
「なる? 違うね。気づいたときにはなってしまっているんだ。そして永遠に戦士のままだ。目覚めてしまったら、後には引けない。考えるよりも先にパッと進路を決めちまってる。それが修羅の道ってやつで、たったひとつの龍に乗れる道筋だ」
 それきり、釘矢は目を閉じてマットに不貞寝した。死んだように静かになったその横顔は、病的に青白かった。一瞬、その横顔に兄の顔がダブッた。驚いて瞬きすると、その幻影はすっかり消えていた。
 夏臣は、釘矢が間違っているとは、思わなかった。だが、どうしても納得がいかない部分もある。それがなんなのかうまく言葉にはできない。
 もしかするとそのしこりは、己の昂ぶる激情を打ち明けた真鍵釘矢が、ひどく寂しげに見えたからかもしれなかった。夏臣は思う。確かに真鍵釘矢は自分や波雲いずみよりも戦士よりも人格者だ。だが、それを他人に打ち明けた時点で、その純度は劣化してしまうのではないだろうか。真鍵釘矢は自分が間違っていると心のどこかで思っているから、夏臣に対してああまでも苛烈に振る舞ったのではないだろうか。
 どこかから隙間風が吹いて、ボールラックに吊るされた風鈴がちりんちりんと鳴る。夏臣はぼおっと壁に背中を預けてその音に耳を傾けていた。


 ○


 その日の練習はひどかった。夏臣は常に心にもやがかかっている感じで、弓を張り詰めさせる手の感覚がひどく鈍かった。他人の手のような気がした。波雲いずみ駆る<森羅>にまつわりつく風船のそばを矢はかすりもせずに飛びぬけて、灰色の街のどこかに突き刺さるばかりだった。憑き物が落ちたようで、夏臣はもう二度と自分がかつての実力を、当たり前のように持っていた自分の腕を取り戻すことができないのではないかと心配した。勝負師らしい悩みだ、明日があるかどうか。今日で終わりかもしれない。
 調子が悪いのは幽も同じだった。うしろに座った夏臣には、前で手綱を握る背中がいつもよりも小さく見えた。龍の軌道は蛇と同じように波打って蛇行しながら飛んでいくものだが、いつもよりもその波形は乱れていて、一定せず、浮ついていた。正確な波、往復する振幅を龍の全体で作ろうとすればするほど、その途端になにか重大なことでも思い出したように、あるいはコンセントが抜けかかった電化製品のように、飛翔は美しさを損ない、幽は手綱を苛立たしげに何度も握りなおしていた。
 あっという間に<森羅>の上から飛来した無数の矢が、立て続けに幽たちの風船を割り、<氷菓>の銀色の鱗をかすめて飛んでいった。<森羅>はそのまま大幅なリードを得たまま走っていき、姿を消した。耳にひっかけた勾玉から釘矢の怖いくらい無感情な声が、各自テキトーに練習して終われ、と告げた。夏臣は悔しいとさえ思えなかった。なにかが欠けていた。それが資質でないことを祈りたい。
 なにかが足りなかった。それがなんなのかわからない。戦士。自分は戦士にはなれないのか。怒りや憎悪、生存することへの希求よりも強いなにかが龍神騎走には必要なのかもしれない。真鍵釘矢にはそれが視えている。自分はどうだろう。幽はどうだろう。
 幽は手綱を握ったまま、前を向いている。どこかでごろごろと、雨雲が唸っていた。なにかが足りない。足りないのだった。

     



 学園祭まであと二日という日になって、授業はすべて免除され、開催前の最後の追い込みで校舎は騒然としていた。カートに乗せられたモノや人が飛ぶようにスッ飛んでいくのを、夏臣は背中に感じて廊下の窓から空を見上げていた。いやな感じの黒雲が近づいている。
「雨になんなきゃいいね」と夜鳥が言った。
 夏臣はぽけーっと千切れた雲の散らばった空を見上げる。
「予報だと晴れるらしいけどな。でも外れるかもな」
「なんでそーゆーこと言うのかなァ。言霊って信じてないわけ?」
「信じてるわけ?」
「プラシーボ効果だってあるんだし、きっと言霊もあるっしょ」
 ふわあ、と夜鳥はアクビをして背筋を伸ばした。疲れているわけはない。夜鳥は本番で受付嬢をブッ通しでやるので、準備にはほとんど参加していない。夏臣たちのクラスの女子は高橋しのぶを除いて全員他クラスの彼氏持ちという地獄のような組で、フリーなのは夜鳥と高橋しのぶだけなのだった。高橋はいま、変わり果てた教室の河川敷でメガホン片手にぬりかべとオオカミ男と吸血鬼の演技指導をぶっている。高橋しのぶ監督いわく、ぬりかべは呼吸をしないらしい。ぬりかべ役の田口はどうやら死ぬことになりそうな気配である。
 なので、夜鳥と夏臣は退屈を持て余して、廊下を貫く熱気と喧騒が彩る文化祭前日の空気に埋没し、時間を潰しているのであった。夏臣はいまもって夜鳥が一学期から同じクラスだったことを思い出せないのだが、どうも一見ネアカなそのクラスメイトがあまり馴染めていないことをこの一月の間に悟ることはできていた。夜鳥は朝、学校に来ると元気に挨拶はする。ぼそぼそっと女子のグループあたりからお愛想笑いと聞こえにくい「おはよー」が返ってきはする。それだけだ。あとは夏臣のところにやってきてペラペラ喋る。夏臣は昨夜のドラマの脚本は戦犯だから死んだ方がいいとか、最近のジャンプはたるんでるから回収騒ぎになるような派手な漫画をイッペン載せなきゃいけない時期にきてるとか、そういう無駄話を聞いたり聞かなかったり、夜鳥の交友関係について思いを馳せたりする。どうも二学期始まって以来、夜鳥が自分に近づいてきたのは、一学期を通して、他クラスから評判のなかよし一組からさえハブられた夏臣を同胞と見なしたからのようだった。それにしても以前から友達だったような口ぶりで強引に哀れなハブられ男子を泣き落としにかかるとは交友関係における重戦車みたいな女である。台風だって夜鳥に比べればもう少し回転数を落として安全運転に励むだろう。
 男子のなかには、夜鳥とつるむ夏臣を悪く言う、というほどでもないが、理解できないと苦笑いする連中もいる。それがかえって、夏臣を意固地にさせている節もあった。たしかに面倒なやつだけど、悪いやつじゃない、と思う。どうせ信じるなら野球部のイケメンやサッカー部のジゴロよりも、へんちくりんでも自分の方がまだマシだ。自分なんだから。
 夜鳥はそんな小難しいことを目の前のバカが考えているとは思っていないらしく、ペラペラペラと今日もよく喋る。自分から話題を探すのが苦手で面倒な夏臣にとってはありがたい話し相手だった。うんうん相槌を打つだけで充分間が持つし、夜鳥が話す間に自分の意見を効率よくまとめられる。他のやつにはそれがうるさく感じるのかもしれない。でも夏臣にはそれがよかった。
 相性がいい、のかもしれない。
「――――でさァ、やっぱりあたしまた思っちゃったわけ。授業参観とか学園祭とかさ、親に見られるの恥ずかしいって思う気持ちもわかるけど、来るなはないよね来るなは。来ちゃって文句を言うならわかるけど、家出するとか、口利かないとか、やりすぎだし、なんでそんなこと許せないくらいでギスギスさせちゃうのかなって。家って最後の避難場所じゃん? そこを自分でわざわざ破壊するって理解できねーって言ってやったの。そしたらユッコ喋ってくんなくなっちゃった」
「おまえいつも言いすぎなんだよ」
「いや!」夜鳥はなぜか得意気に首を振った。「なにを言ってもユッコは怒ったね。あやつは反対意見を取り入れることができんのだよ竜宮クン。お子様ってことサ」
 夏臣はつんつんと夜鳥の脇腹を小突いた。うん? と夜鳥が教室の方を見ると、アタマにハチマキを巻いたユッコこと宮内優子がこっちを見ていた。にこっと微笑む。夜鳥もにこっと微笑み返した。ユッコは去っていった。夜鳥はもたれていた窓枠に額をガツンとぶつけた。
「またやっちゃった……ああああ」
「間が悪いやつ」そういう夏臣も妙なタイミングで変なことが起こる事態にはたびたび見舞われているので、あまり気の毒そうではない。
「これでまたおまえのクラス内評価は下がったな。ざまみろ」
「よかったね、おめでとう」夜鳥がベッと舌を出した。「これでまだ当分は独り占めじゃん」
 なにを、と言おうとして、うしろからやってきたカートが夏臣に激突した。正座で乗っていたバカとくんずほぐれつし、ようやく離れることに成功し、怒鳴り散らして暴走カートを退散させたときにはもう夏臣の脳裏にさっきまでの会話なんて残っちゃいなかった。
「なんてツイてないんだ。よりにもよって俺に当たらなくてもいいのに」
「そーゆー星の下に生まれてんでしょ。あたしのばあちゃんもわさび入りシュークリームルーレット弱かったモン」
「老体になんてことしてんだおまえン家は。おっそろしいな。俺、おまえみたいな孫、絶対にやだ」
「あたしは竜宮みたいな孫ができたら可愛がるよ。いじめると面白いし」
「道徳観念のないおばあちゃんって新しいな」
 しこたまぶっ叩かれた後に、理由もなくゲラゲラ笑って、窓の外で裏門のアーチを建造している連中を意味もなく眺めていると、夜鳥が唐突に切り出した。
「あのさ、チェーンお守りって知ってる?」
「いかがわしいものってことだけはわかる」
 夜鳥も、いちいち夏臣の引っかかる言い方に拘っていては会話が成り立たなくなることを学習していた。
「お守りってフツーは自分で持っておくもんじゃん。チェーンお守りはその名のとーり、人から人に伝っていくたびにご利益が増していくんだって」
「へえ。夢のある話だな」
「でしょ。だからあげるよ。でも、あの歌方って先輩にでもあげれば? どーせそこで行き止まりだろうけど」
 夏臣はその青いお守りの紐をしゃくって手におさめた。
「よくわからんやつ。ま、いいや。ありがとよ」
 それからしばらく夏臣と夜鳥は喋り続けた。しかし、夏臣は腹をよじって笑うときでも、それをどうやって歌方幽に渡すかしか考えていなかった。そんな夏臣を、夜鳥は笑顔で見つめていた。
「おまえといると、フツーでいられるよ」
「そ? 気のせいかもよ」
「気のせいってなんだよ」

     


 ○

 チェーンお守りを渡してみた。そのいわれもつっかえながらも最後まで説明した。幽は頷きながら聞いてくれた。夏臣がぜんぶ話し終わると、杖を振り回してゴミ箱の位置を確かめ、そのなかにぶちこんだ。夏臣は絶句した。幽は去っていった。

 ○

「竜宮くん……」
 誰もいない廊下でぼうっと突っ立っていると、波雲いずみにシャツの袖を引っ張られた。振り返ると怪訝な顔をした波雲家の当主が立っていた。
「なにをしてるんです? 顔色が優れないようですが」
「べつに」夏臣は出てもいない涙を拭った。
「人間にはいろいろいるなと思ってさ」
「そうですか」波雲は夏臣の事情になど興味はないらしかった。
「ちょっと付き合ってくれませんか」
「どこへ」
「私の家まで。早退届けはもう出してあります」
 勝手だな、と夏臣は思う。だがべつに困ることもありはしない。わかった、と答えて、カバンも持たずに下校した。校門をくぐると、ぬるい嫌な風が顔を打った。早く夏なんて終わっちまえばいい。

 ○

 波雲いずみの家は夏臣の家をビッグサイズにして混迷さで味付けしたような感じだった。玄関のタタキで靴を脱ぐといきなり壁にぶちあたる。猫しか通れなさそうな細い廊下を身体を斜めにして波雲いずみの背中についていく。人気はない。
「使用人は?」
「みんなやめました」波雲いずみは振り向かない。「私には、先代ほどの人望がなかったようです」
 それきり夏臣は口を閉ざした。やがて中庭に出た。それまで薄暗い屋内にいたため、急に開けた中庭に溢れかえった陽光が夏臣の眼を焼いた。
「ここになんかあるのか?」
「私が言うのもなんですが、自分が何をするかもわからずよくついてきましたね」
「ほかにやることなんてないからな。でも、眠れないから今日の部活はいきたくないな」
「今日はなしです」波雲いずみはこともなげにいった。
「いいのかよ、そんな適当で」
「いいんですよ、もうどうでも。どうせ私がいくら頑張っても、誰も喜びはしませんから」
「かもな」
 夏臣は中庭に降りた。狂ったようにセミが鳴いている。その鳴き声が高まるたびに、白い光も増していくように思える。
「俺はなにをすればいい」
「虫を捕まえてください。土蔵から逃げ出してしまったのです。木に蜜を塗ってあります。どこかにいるはずです」
「わかった」夏臣は立てかけてあった虫取り網を手に取った。
「みんな私のそばからいなくなってしまうのです。人も虫も。あなたもそうですか?」
 夏臣は答えずに中庭の森の中に入っていった。陽が沈みかけた頃、一本の大きな名前も知らない木にへばりついたクワガタを見つけた。ツノがねじれている。それを捕まえてカゴに入れて眺めてみた。クワガタは口をうごめかして、きしきしと鳴いた。
「そんなに自由になりたいか」
 虫は答えなかった。ただきしきしと鳴くだけだった。夏臣はちょっと迷ってから、虫を逃がしてやった。一度捕まえられたクワガタはもう二度とそんな目に遭わないように、高々と赤い空に飛んでいった。夏臣はもうそれを追いかけない。
 屋敷をあてもなく彷徨い、適当なふすまを開けまくっているうちに、浴衣を着た波雲いずみが書き物をしている部屋にでくわした。書き物机と扇風機しかない八畳間だ。ペンを走らせるのをやめて、波雲いずみが顔をあげた。
「捕まえられましたか」
「いや、いなかった。たぶんもうどっかに逃げちまったんだろう」
「そうですか」波雲いずみは書き物に戻った。
「みんなどこかへいってしまうのですね」
「そうだな」
「私に魅力がないからでしょうね。自分でもわかっているんです」波雲いずみは浴衣の袂を合わせた。
「才能がないというのは悲しいです。努力が報われないというのは」
 そんなことはない、といいかけた夏臣の足元に、波雲いずみが力なく投げてきたペンが飛んできた。ぶつかることさえない。とん、とん、と転がったペンは夏臣の親指に当たる前に止まった。
「あなたにはわからないですよ。あなたには才能がある。人並みにやっていく才能が。私にはそれがない。なにをやっても人並み以下なのです」
「俺を買いかぶってるみたいだな。俺はおまえが思ってるほど強くない」
「強いですよ」波雲いずみは病的に笑った。「私、知ってる」
 そして書き物机の上に乗っていた、額に入った賞状をまた投げてきた。今度は少し強かった。ガラスが割れて、派手な音がして、賞状の上に透明な粒が散らばった。夏臣は賞状の字を読んだ。
 むかし、夏臣も出たことがある、弓道大会の賞状だった。三位だ。自分は、確かこのとき二位だった。一位は――
「あなたは私のことさえ覚えてなかった」波雲いずみは言った。
「お兄さんのことしか見えていなかったんでしょう。彼は魔的なまでに強かった。綺麗だった。でもあなたはわかってない。あなたの足元に、数え切れないほど、あなた方の足元にも及ばなかった、屍が積み重なっているってことを……」
 夏臣はなにも言えなかった。兄以外の人間の強さも弱さも考えたことなんてなかった。いないも同じだった。それは事実だ。いまも、そうだ。自分はたったひとり、竜宮秋鷹に囚われ続けている。
「帰るよ」
 慰めることさえせずに背中を向けた夏臣に、波雲いずみの言葉がぶつかった。
「もう、龍になんて乗らない……なにもしたくない」
 それでいい、と夏臣は思う。


 ○


 玄関を出ると、すっかり暗くなっていた。下り坂の向こうに星の海のような美津治の夜景が広がっている。いまごろ両親はどうしているだろう。父は兄を忘れようとしているだろう。母は兄を思い続けているだろう。そこに自分の隙間はない。そして、波雲いずみのような人間には、呼吸する猶予さえないのだろう。至高に触れるというのはそういうことだ。まがいものには、興味が持てなくなってしまうのだ。
 ガードレールと森に挟まれた自販機が、丸い街灯の光のなかに浮かび上がっている。そこに一人の青年が立っていた。
「部長」
 真鍵釘矢は透明な眼差しをこっちに向けてきた。三秒ほど夏臣と見詰め合ってから、にやっと笑った。
「ありがとう。助かったよ」
「なにがです」
「波雲いずみが正式に管理官を降りた。たったいま、な。これでこの街は目下、歌方幽の所有になった。あいつがボスさ。おまえのおかげだ。おまえがあいつの心を砕いてくれた。おまえが人でなしでよかったよ。俺の眼に狂いはなかった……」
 夏臣はすぐに動いた。身体ごとぶつかっていくような一撃が真鍵釘矢の顎を打ちつけ、釘矢は自販機に背中から激突した。衝撃でバグった自販機が、ガラガラとカンをあたりにぶちまけた。釘矢は腕で唇から流れる血を拭った。
「若いね」
「この屑野郎……あんたが代表をもっと支えてやれば、こんなことにはならなかったんだ」
「それはねえよ。おまえもわかってるだろ。やつはまがい物だ。戦士じゃねえ。指導者でもねえ。屑さ」
「あんたもな」
「俺? 俺は違う」ぺっと釘矢は地面に赤まじりの唾を吐いた。べしゃ、と唾がアスファルトにはりついた。
「俺なら、龍に乗ったりはしない……最初から」
「なに?」
「龍に乗ると気が狂うんだよ。元々、<異界>なんてものは人間に耐えられる領域じゃないんだ。ましてやそのさらに<死界>ともなればな。そこで平気な顔してられるのは狂人だけだ……もっとも、ほとんどの神官はそんなことにも気づかず、自分が弱いせいだと信じ込むがね。波雲のようにな」
「だから俺は乗るのをやめる」と真鍵釘矢は続ける。「あの女が騎手をやめたおかげで、俺は晴れてお役ご免だ。波雲家からの違約金で俺の口座はいっぱいいっぱい夢いっぱいさァ」
「てめえ……」
「最初から肌に合わなかった……この街の空気は」くんくんと真鍵釘矢は鼻をひくつかせる。
「どうもこの街のほかの騎手どもも同意見らしくてね。まァ使えない女の統治下の次は盲目の歌方の統治だ。亡命するのが賢いやり方ってやつだな。誰だってつまらんことでひどい目には遭いたくないからな……」
「逃げるのか」
「そうだ」釘矢はそろそろと横歩きして、街灯の光のなかから、深い闇のなかに身体を滑り込ませた。
「絶対に負けるのに戦う理由がなぜある? 賢い戦士はそんなことしない……そんなことするやつは、狂ってる。――どうかしてるぜ」
 夏臣は、丸い光のなかで、周囲を覆いつくす闇に向かって、呟いた。
「だったら、俺はどうかしていていい。あんたみたいな、ゲスになるくらいなら。それが強いってことなら、俺は修羅でいい……」
 その日以降、二度と真鍵釘矢の姿を見ることはなかった。

     


 ○


 ――――敵が来るって。
 その日、初めて歌方幽から電話が来た。
 ――――いずみちゃんも釘矢くんもいなくなっちゃったね。
 そうだな、と夏臣は答える。でもべつに構わない。いつもの状態に戻っただけだ。
 ――――明日の夜、会おう。体育倉庫で。それからいつもの駅に……そこに、<嵐>と<終人>は来る。
 わかった、と言って夏臣は電話を切った。カレンダーを見る。
 明日は文化祭だ。
 うとうとっと眠気がきた。緊張のせいだろうか。夏臣はベッドに倒れこむ。昔の夢を見る。


 ○


 ちょっとした悪戯心だった。
 横断歩道に兄がいた。いつものようにぽーっとして、新しい学生服を着て、今日から高校生なのだ。どうせあの兄のことだから友達なんてできなかっただろう。だが、むかつくのは、兄がそれをちっとも気にしていないところだ。自分だけで完結しているところだ。他人なんて本当に必要としていないのだ。
 きっと兄はこれからもっと、ギャンブル色の強い世界に飛び込んでいくのだと思う。もう止まった的に狙いをすませはしまい。止まっていても動いていても同じとはいえ、動いていた方が難しいし張り合いがあるはずだ。傭兵にでもなったりして。狙撃手とか。案外あっさりこの国と敵対しているところへ従軍して、昔の家族に銃口を向ける。
 竜宮秋鷹ってのはそういうやつだ、と夏臣は思う。
 ――――おーい、兄貴ィ。
 横断歩道の向こう側の兄に呼びかける。兄がこちらに気づいた。ちょうどそのとき、二車線から青と緑のトラックが近づいていた。兄はきっとこちらに飛び出そうとして、車に気づいて慌ててのけぞり、尻餅でも着くのだろう。でも、きっと怒らないんだろうな。ヘラヘラしているに決まってる、あのバカ兄貴は。
 秋鷹は、ヘラヘラ笑って車道に飛び出した。まるでトラックなんて見えてない、みたいに。
 ブレーキ音。
 夏臣の呼吸が止まった。
 人が集まってくる。隣のおばさんが夏臣に何事かと聞いてくる。夏臣はそれどころじゃない。横転したトラックの下から血が滲み出してきている。誰かが怒鳴っている。うるさい。怖い。やめてくれ。黙ってくれ。頼むから。
 それでも、同じ腹から生まれた兄弟を助けようと血が騒いだのだろうか。夏臣の足が一歩踏み出した。なにか踏んだ。足を上げた。
 碧い潰れた眼が、
 夏臣を、


 ○


 黄昏時に眼を覚ました。びっしょりと寝汗をかいている。あちこちかきむしったらしく、爪の間に血がこびりついていた。またあの夢だ。
 時計を見る。文化祭はもう終わっている。だが、中夜祭はやっているはずだ。でもいってどうするのだろう。波雲いずみはリタイヤした。真鍵釘矢たちはこの街を捨てた。夜鳥は……夜鳥は自分を待っていてくれるだろうか。
 夏臣はベッドに腰かけて、窓の外で沈んでいく赤い夕焼けを見る。
 明日まで生きていられるだろうか。嵐が来る。<異界>に降る死者の霊魂の雨、それが氾濫を起こす日……暴発寸前にまで気で溢れかえった龍脈を鎮める日。
 鎮めるなんてきっとできない。俺だって、自分のこの気持ちを鎮められそうにないのだから。
 できることはただひとつ。夏臣はベッド脇に置いてある兄の遺影を手に取った。兄はどこか遠くを見つめている。
 俺のやるべきことは、たったひとつ。


 ○


 日付が変わる頃、校門をくぐると、まだポツポツと電気がついている教室があった。女子には帰宅命令が出されているはずだが、おそらく守られてはいないだろう。夜鳥もあの黄色い光のなかにいるのだろうか、と夏臣は真っ暗な校庭から校舎を見上げた。巨人が座り込んで、夏臣を見下ろしているように思えた。
 体育倉庫にいく。幽は跳び箱に腰かけていた。すでに守護外套を身に着けている。眼を閉じて、何かに耳を澄ましているような顔はいつものように血の気がまったくない。幽霊みたいに。夏臣は幽が震えていることに気づいた。守護外套をまとっていて寒気暑気に悩まされることはありえない。
「風邪か?」
 幽は無言で、コートの首元を引き下げた。白い鎖骨に、蛇のような青い痣が浮かんでいた。それが幽の呼吸に合わせて、熾火のように赤くなる。
「どっかで呪いに当たっちゃったみたい。ツイてないね」
 くす、と笑うと幽はふらりと倒れこんできた。夏臣は両手でその細い身体を受け止める。額に手をやる。
 熱い。
「おまえ……」
「おかしいなァ……誰にも呪われた記憶、ないのに……」
 幽は夏臣から身体を離した。りん、と首の鈴が鳴る。でも、いかなくちゃ……おぼつかない足取りで、ボールラックにかかった風鈴をひとつ外す。銀色の風鈴。そばには緑色の風鈴もかかっている。それが波雲いずみと真鍵釘矢によって取り外されることは、もうない。
「……っ」
 なにかに突き飛ばされたように、幽はその場にヒザをついた。痣が顔を侵食し始めた。
「大丈夫……朝までには治る」
「勝負はもうすぐだぞ。そんな身体じゃ……」
「大丈夫……」
 幽は微笑んだ。中身のない微笑だった。夏臣は幽を不憫に思う。いったいなぜ立ち上がらなければならないのだろう。父親には消耗品程度に扱われ、文句を言われることはあれど感謝されることなどない。波雲いずみは再起不能になり真鍵釘矢は戦線放棄。残った仲間は夏臣だけ。その夏臣だって幽は仲間と思っているかどうか。
 差し伸べた手を幽は拒否する。どこどこまでも拒否する。夏臣にはどうすることもできない。悲しいまでに、歌方幽は突き進む。
 いまにも崩れ落ちそうな身体を意志だけで動かして、前を向き、杖を突いて鈴を鳴らして龍を目指す。夏臣は弓を背負って、その後を追う。死んでからもわが子を見守り続ける父親の亡霊のように。
 ねえ夏臣、と幽は言う。夏臣は黙って言葉を待つ。
 これで勝ったら、スカッとするよ。


 ○


 終電を流し終えた駅構内は電気を落とされ静寂に包まれている。売店はシャッターを下ろされ、電光掲示板は闇を伝え、長く伸びたベンチに座る人影は皆無だ。
 そこに敵はいた。白い守護外套を着て、狼に似た仮面を被り、目深にフードを下ろしている。手には風鈴。弓は持っていない。
 終人だ。この街の管理官と一騎打ちをして、なにもかも奪い去っていくならず者のジョッキー。だが夏臣は思う。幽はこの街なんて守りたくはないだろう。どうでもいいだろう。幽は走りたいだけだ。それだけだ。
 だから自分だけは、幽の分までこの街を好きでいようと思う。
 幽と終人は、線路を挟んで向かい合う。夏臣は主人の右後方に控えて、ことの成り行きを見守っている。この一月、ずっと繰り返してきた儀式。ずっと眺めてきた光景。もし今日死ぬなら、これが最後になる。自分は死にたくない。だが独りきりで生き残るつもりもない。俺は防人だ。幽を守るのが仕事だ。
 幽と終人は風鈴をかざして、示し合わせたように声を発した。
「我は夢、そして嘘。氷塊の星屑に祝福を。我、風のごとく駆け汝を、」
「我は剣、そして影。黄金の悪夢に祝福を。我、風のごとく駆け汝を、」



『忘れん』



 二人は手首をゆすって風鈴を鳴らした。ちり――ん、と固い風のような音が響く。<異界>が開かれ、青い闇が立ち込めた。
 線路の向こうから、四つの鬼火が近づいてきた。二頭の龍の眼が燃えるように輝いているのだ。蛇行して突進してくる龍――<氷菓>と<金塊>がホームを通り過ぎるその瞬間、駆人と防人と終人は同時に跳んで、その背に乗った。
 コースの果てまで、誘うようにカンテラが揺れている。

       

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Neetsha