Neetel Inside 文芸新都
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 渋谷の街は思っていた以上にたいへんな混雑だった。センター街前の交差点には数えきれないほどの人が集まり、それらが思い思いにしゃべるものだからざわめきが絶えない。ハチ公前はそれが特に顕著で、溢れんばかりの人の渦ができていた。この一角だけで、いったいどれだけの人が待ち合わせをしているのだろうか。
 私はそこから少し離れた壁に寄りかかって時間を待っていた。落ち着かないからか、やたらと周りのことが気になってしまう。
 この日は少し暖かい日だったから、私は春物の薄着を身にまとっていた。メイクはそれほど時間をかけたわけではないけれど、スカートは少し短くヒールまで履いて、私にしては気合が入りすぎた格好。周りが気になると、自分のことまで気になってしまうものだった。
 約束の二時が迫り、私は周囲を見渡した。人が多すぎるので無意味に背伸びをしてみたりもする。ほとんどの人が携帯電話を眺めながら下を向いている中、顔を上げ、不安そうに辺りに目を配っている男の子を見つけた。彼がユウキであることはすぐに分かった。雰囲気から顔つきまで、携帯写真で見たとおりの彼だったからだ。私は、はやる気持ちを抑えながら近づいた。
「ユウキくんかな」
 私が声をかけると彼はこちらに気づいた。その視線は私の顔から足元までを上下し、すぐに信じられないというような顔に変わった。それが好意的なものであることはなんとなく分かる。彼の反応は素直で、単純だった。
「はい、あの……ショウコさんですよね?」
「ふふ、こんにちは。ひょっとしてユウキくんの想像と違ってたかな」
「いえ、その、思っていたより綺麗で、びっくりしちゃって……」
 そう話すユウキと目が合うと、彼は緊張の面持ちでうつむいた。どうやら思っていた以上にうぶな男の子のようだ。そういう子にいきなり綺麗だなんて言われると、こちらも必要以上に意識してしまいそうで困ってしまう。
「とりあえず、お茶しに行きましょう。話はそれからゆっくりしようね」
 私たちは早めにこの場所から離れることにした。ここでは人も多く、話し声がかき消されてしまう。それに私とユウキの違和感のある会話は周囲の目を誘ったようで、何人かの男の人から邪推するような目を向けられた。どうやらハチ公前は思っていたよりも待ち合わせに向いていないようだ。いい教訓になったかもしれない。
 しばらく歩き、私たちは近くのカフェに空席を見つけた。コーヒーブレイクをしながら改めて挨拶を済ませると、彼もようやく落ち着いてきたようだった。
「本当にびっくりして、まだちょっと心臓がどきどきいってます。ショウコさんは僕が思っていたイメージを思いきり美人にした感じで、なんていうか……まだ信じられません」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。ユウキくんに会えてよかった。会ってみたいって言い出したのが急だったし、もしかしたら来てくれないかもって思ってたの」
「実はちょっと迷ったんです。僕、基本的に女性と話するの苦手だから……」
 彼はそう言いながら、ちらちらと盗み見るように私の様子をうかがっていた。その視線が私の胸元に集中しているのは少し気になったけれど、それも愛嬌なのだろう。正直に言うと、若い男の視線は私をいい気持ちにさせていた。
「でも勇気を出してよかったです。ショウコさんみたいな美人とこうしてカフェで話をしてるなんて、数日前の僕には考えられないや」
「もう、さらっと口説いてくれちゃって。本当に女の人が苦手なの?」
「あっ、いや、ごめんなさい。調子に乗りすぎました……」
 少しからかっただけで彼は顔を真っ赤にして身を縮めた。そのいじらしくて愛らしい挙動に私の琴線はくすぐられてしまう。だって年下の男の子と会話をする機会なんて、この歳になると本当にゼロに近いのだから。
 カフェを出た私たちは、用もなく街を歩いた。渋谷は道幅も歩幅も広く、意外に緑も多い。今まで目に入らなかった景色が、となりに若い男の子がいるというだけで鮮やかに映る。私たちは肩を抱いてもいないし、手を繋いでもいなかった。ただ相手の歩く速さに合わせて、肩を並べているだけである。それでも何気なく交わす会話が楽しかった。目についた雑貨屋に入ってみたりすることがなにか特別なイベントのようなことに感じられて、年甲斐もなく心が踊ってしまう。ショッピングは一人よりも誰かといっしょの方が絶対に楽しいものだ。
 宇田川町から道玄坂上の辺りまで歩いた私たちは、小さな公園のベンチに並んで腰を掛けた。途中で買ったアイスクリームは舌が痺れるほど美味しい。私はすっかりデートを満喫していた。
「結構歩いたね。いろいろ付き合わせちゃって、ごめんね」
「いやあ。渋谷なんてめったに来ないから新鮮でした。それに、ショウコさんと一緒だから楽しいです」
 彼はまっすぐ私を見て言った。私は思わず照れてしまい、意味もなく足を組み直してしまう。彼の口下手はすっかり解消されたようだった。
「あの、一つ質問いいですか」
 彼は真面目な表情を崩さずに続けた。今までのユウキとは違った雰囲気に、私は少しどきっとしてしまう。
「なにかな。なんでも聞いて」
「それじゃあ。ショウコさんは、どうして出会い系なんか始めたんですか?」
「えっ。それは……」
 それは、退屈な主婦の暇つぶし。刺激が足りないから若い男の子と話がしたかった、ただそれだけのこと。チャットのときにすでに話題にしていたことで、彼はそれを知っているはずだった。
「ショウコさん。僕、お願いがあるんです。僕はまだ女の人とエッチしたことがなくて、それで……ショウコさんさえよかったら、僕の初めての人になって欲しいんです」
 アイスを握る手が、思わず緩みかけた。彼の突然の告白じみた言葉に私は思いっきり動揺してしまい、頭は回らず、言葉も出なかった。周囲に人がいないせいで、黙ったままお互い見つめ合うと時が止まったように思えた。
「えっと……それはダメよ。ごめんね。私、そういうつもりじゃなかったの」
 私は搾り出したような声で言った。
「僕は、そういうつもりでした。大学の子に声をかけられないから、出会い系で話をしてくれる女の人を探して、そういう人とできたらなって思ってたんです。僕、ショウコさんに一目惚れしました。優しくて綺麗で、だから……お願いします。ショウコさんに断られたら僕は悔やんでも悔やみきれません」
 彼の表情には、今にも私を押し倒しそうな勢いがあった。
 私だって生娘じゃない。出会い系を使う男の子がデートだけで満足するはずもなく、そういう目的を持っていることくらい分かっている。大人しいユウキも例外なく男なのだ。彼が事あるごとに私の胸やお尻を盗み見ていたのも分かっている。
 ただ、それを知っていることと受け入れることは別の問題だ。
「ごめんなさい。それだけは、どうしても……」
「……わかりました。そう、ですよね」
 彼はあっさりと身を引いた。そして先ほどの言葉を悔いるように頭を垂れた。
「いきなり失礼なことを言ってごめんなさい。僕、どうかしてました。ショウコさんとのデートがすごく楽しくて、なんか一人盛り上がっちゃって……本当にごめんなさい」
 不思議だった。ユウキが身体の関係を欲したことよりも、私は今こうして落ち込む彼を見ることのほうが辛かった。
「私もユウキくんといっしょにいて楽しかったよ。ね、顔をあげて」
「はい……」
 彼は私の言葉に素直に返事をするけれど、やましさからか、もう私の目を見ることができなくなっていた。そんな彼の態度は私の心をきつく締めつける。忘れられたアイスは彼の今を映すかのように、無様に溶けて地面に滴れていた。

 公園を離れてからの帰り道、無言のまま私は考えていた。となりを歩く彼は、男としてこれからどうなってしまうのか。
 出会い系はもうやめてしまうかもしれない。唯一まともに会話できる手段だったチャットやメールも、やめてしまうかもしれない。誰か女性の方から彼に出会いを求め、話しかけ、手を差し伸べない限り、彼はもう二度と女性と話をしない人になってしまうのではないか。そんな余計な心配をしながら、私は悪い方へ悪い方へと考えるばかりだった。
「ショウコさん」
 急に話しかけられ、私は慌てて顔を上げた。
「あの、そんなに深く考えないでくださいね。最初から無茶だって分かってましたし、正直、もう忘れて欲しいくらいで。ショウコさんが気にすることないじゃないですか」
 彼は努めて明るく振舞っていた。それが作ったものであることはすぐに分かる。デートしていたときに比べたら雲泥の差だ。
 本当は嬉しかった。若い男の子に求愛されて嬉しくないはずがなかった。それに、公園に来る前から私は彼の気持ちに気づいていた。彼の、私に対する男の視線に気づいておきながら、私はなにも知らないふりをしていた。
 私は急に、自分がとんでもなくいやらしい女のように思えた。汗ばむからと理由をつけて男を誘うような格好をし、それでそんな気はなかったなんて。おかしな話だった。
「あ、ショウコさん……この辺は歩くのやめましょう……」
 道玄坂を下って歩いていた私たちは、気づくとラブホテル街の見える位置まで来ていた。気まずそうな彼はそれを避けたいようだった。
 そうね、と答えた私は上の空だった。頭の中にラブホテルという単語だけが回り始める。歩くたびに聞こえるコツ、コツ、というヒールの音が、静まりかけた私の女を焚きつけるようだった。
 私はユウキの手を握って立ち止まった。自分でも驚くほど落ち着いているのが分かる。そのまま口を彼の耳元に近づけ、私は囁いた。
「ホテル、行きましょうか」

       

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