Neetel Inside 文芸新都
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安田清美の優雅でひそやかな生活
7.女子中学生が再び姿を消したときの捜索法(2011/4/28)

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 湯から上がった少女に、清美は一通り訊くべきことを訊こうとした。名前、身分、連絡先、そして何より家出の理由を。
 しかしその前に、とにもかくにも、結果的にはうっかり覗きをしてしまった義之の迂闊さを謝らせた。
 手首の隠れるぶかぶかのパジャマに袖を通した少女は、土下座をさせられている大人の男にちょっとだけ怯えながらも「……いいッス。別に、気にしてないッス……」と囁くように言ってから、用意されている座布団の上にちょこんと座った。

「さて一応の段落が着いた、ということにして……もしかしたら既に名乗っているかもしれないが、こちらは安田義之。私はその妻、清美だ」
 自分たちを交互に指差し自己紹介してから清美は、改めて口を開く。
「して、お前の名は? その身体中の怪我は誰の仕業だ? まさか転んで出来たものでもないだろう? おそらく家出だと思うが、それと関係があるのか?」
「…………」
 しかし少女は目を伏せたまま、唇を固く結んでいた。
「まあまあ清美、そんな怖い顔して訊いたってビビるだけだって。よっ」
 すると先ほどまで平身低頭していた情けなさはどこへやら、義之がいつも通りの愛嬌で清美の傍に寄ってから、彼女の両ほほをむにっとつまんで軽く引っ張った。
「怖い顔? していたか? 私が?」
「なんていうか、気持ちは分かるけど、真面目になり過ぎちまってるんじゃねえか?」
 そうかな、と清美は自分のほほを撫でる。
 続いて義之は同じように少女の口角を上げさせた。
「ほらほら、きみもさ」
 一瞬だけ身を引こうとした少女だが、特に抵抗も無く、されるがままにしている。
 しかしお世辞にも笑っているとは言い難い。
 この場で笑顔を浮かべているのは義之だけだ。
 逆に言えば、こんな状況でも笑っていられるのが安田義之という男である。
「とりあえずさ、先に飯食おうぜ。清美、な?」
「ふむ……それもそうだな。温め直してこよう」
 促されて清美は台所へと向かった。そして彼女が鍋を火にかけると、ふわり塩気の混じったミルクの香りが漂う。
 程なくして少女の腹が、きゅるる~と可愛く鳴った。
「ははは、やっぱり腹減ってるんだな。匂いからして旨そうだろ? 実際、旨いんだよ、清美のクリームシチューはさ。和食が得意なんだけど、洋食だって上手なんだぜ」
「…………」
 少女は恥ずかしそうに俯いた。

 丸皿によそわれたシチューは春野菜の緑色が映えていた。
 さらに味についても甘みのあるブロッコリーに、食感が独特なグリーンピース、そしてほんのり苦みをアクセントとして残す葉物が、それぞれに違った趣向で舌を飽きさせない。
 初めは遠慮してか、それとも警戒してか、舐めるようにして口に入れていた少女だったが、いつしか無心にシチューを飲み込み、ご飯を頬張っていた。
「なあ清美。旨いんだけど、旨いんだけどさ……これ何だ?」
 一方で義之は、スプーンに葉物を乗せてその正体をシェフに訊ねる。形としては獣の牙に似た曲線が特徴的。食卓の上では見慣れないが、それ以外のどこかで見たことがあるような無いような野菜であった。
「ああ、それか? それはな、蒲公英だ」
「え、お前いま、何て言った?」
 清美の何気ない返答に義之は耳を疑い、顔を青くした。彼にとってそれは道端のものであり、幼少時に立ち小便のターゲットにした思い出くらいしかないからだ。
「だから、タンポポ、と」
「マジか! お前それ、雑草じゃねえか!」
「失敬な。しかと衛生管理された食用の物を、信頼出来る筋から取り寄せているさ」
「どこだそれ。タンポポ農園でもあるのか?」
「私の実家だ。母が個人的に栽培している」
 納得しかけた義之だったが、連鎖的に別の疑問が出てきた。
「あれ、でも清美ってさ、もう実家とは縁を切ったんじゃなかったっけ?」
「縁故切り、と言うほど大仰なものではないよ。確かに父から直接譲られたもの以外は資産相続する権利を失ってはいるが、決して家族仲が険悪なわけではない。代金を払って受け取る分には問題ないし、そもそも母は、食に関してはとても……寛容だからな」
 ああそうだっけ、と彼が思ったのも束の間、少女が左目から涙をぼろぼろ流しているのを見てぎょっとする。
「お、おい、どうした? ひょっとして雑草を食わされたのが、そんなに嫌だったか?」
「わ、私のせいだとでも言うのか安田くん?」
 慌てる二人に少女は首を横に振った。そして細々と、しかし自らの意思で言葉を発した。
「……ち、違う、ッス……。ごんな、っく、あったかい、食べたの、うっ、久しぶりで……うれし、ぐって……」
 鼻声で、何度か嗚咽を漏らしながらも、少女は呟く。彼女の椀も皿も、既に空いている。
「おかわり、するか?」
 義之は清美に目配せしてから優しく訊ねた。少女は深く頷いた。


 それから彼女は、問われるままに細々と話し始めた。
 名前は「相沢ゆかり」と名乗った。
 中学三年生だと言ったが、学校がどこかまでは明かそうとしなかった。 
 また自宅の住所や電話番号などは黙したままだった。所持品を改めても小銭が入っているだけの財布以外に何も無く、学生証なども持っていなかったのだ。本当に着の身着のままで家を飛び出したことが窺えた。
 そして身体中の怪我については、言葉が断片的なために時系列こそはっきりしないが、次のように語る。

「お父さんが、殴るんッス」「お母さん、ガンで死んじゃって」「お酒ばっかり飲むように」「一年くらい前から」「仕事もクビになって」「投げたお皿が目に」「思わず逃げ出して」

 しかしここで義之が「最低な親父だな」と苦々しく漏らすと、ゆかりは返って必死になるのであった。

「でも、本当は、優しいお父さんなんッス」「お母さんが生きてた頃は、こんなことなかったんッス」「お父さんを、怒らせて、ばっかりだから」「あたしが、お母さんみたいに、頑張れば」「でもあたし、ご飯つくるのとか、掃除するのとか、全然ダメで」「だから、あたしが悪いんッス」

 そんなゆかりの擁護に対して、義之は言いたいことが沢山あった。
 奥さんが亡くなって辛いんだろうけど、子供を殴っていい理由にはならねえよ。どう見てもしつけってレベルじゃねえぞ。っていうか仕事しろよ。だいたい、ゆかりちゃんは何も悪くねえだろうが!
 いつもは余計なことまでべらべら喋る癖の義之が、そんな文句をさえ腹にしまっておいたのは、清美がそっと彼の小指をつまんで制していたからだ。
 彼女が目で訴えて曰く。
 今この場では、どんなに美辞麗句を並べたところで無意味だろう。
「相沢……私達には、今すぐにお前の悩みや苦しみを全て取り除くことは出来ない。所詮、一個人の手の届く範囲などたかが知れているからだ」
 だから清美は彼の代わりに、ゆかりの傍へとすり寄った。
「そして幸か不幸か、偶然か必然か、今お前はこうして私の腕の間合いにいる。これだけしか出来ないが、せめて、させてくれ。これは私のためでもあるのだ」
 清美の両手が非常にゆったりとした、緩急の無い動きでゆかりの肩越しにまわされた。そしてそのまま今度は、強く、ぎゅっと抱き寄せる。

 人肌の温もり。
 最も原始的にして、最も直接的な感情を伝える手段。
 彼女らは知り合ってまだ数時間も経っていない間柄ではあったが、それでも苦痛に耐え忍んでいた少女の堰を切らせるには充分だった。



 泣き疲れたゆかりを挟んで川の字になり、眠りに就く。
 この時点では清美も義之も、彼女の問題はこれからゆっくり詳細を詰めていって、時間をかけて解決するべきだと思っていた。そう出来ると思っていた。
 しかし翌明け方、それは楽観視に基づく間違いであったと知らされる。
 ゆかりが、いなくなっていたのだ。
「安田くん、安田くん、これを見てくれ」
 そして清美は義之をゆさぶり起こし、ちゃぶ台の上に置かれていた書置きを読ませた。
「ん? えっと、なになに……」

『昨日は大変お世話になりました。ご飯、おいしかったです。こんな私に優しくしてくれて、ありがとうございます。とてもうれしかったです。
 だけど二人のおかげで、よく分かりました。
 きっとお父さんも、さみしいんだと思います。それなのにあたしがいなくなったら、お父さんはもっとダメになると思います。
 だから帰ります。今度こそ、お父さんに美味しいって言ってもらえるような料理を作れるようにがんばります
 本当に、ありがとうございました』

「……って、何だこりゃあ! 全然分かってねえぞ、あの子! また殴られに戻るようなもんじゃねえかあ!」
「安田くんも、そう思うか」
 憤慨を隠さない義之に対して、清美は努めて冷静に足元を一瞥して言った。そこには、ゆかりに貸したパジャマが折りたたまれている。
「私は、不審な物音がすれば真夜中でも目を覚ます自信がある。それでも相沢が身支度までして家を出たことに気付けなかったのは、私の勘が鈍ったのでなければ、彼女が普段から物音を消して生活することに慣れていたからだ。それだけの緊張を家の中で強いられていたのだろう。それだけの酷な環境が、たったの一晩で変わるとは到底考え難い。現状、例の父親とやらには何の抑止力も働いていないのだからな」
「じゃあ探しに行こうぜ! 早くよ!」
「そうしたいのはやまやまだが、安田くん。残念ながら私達は彼女の名前しか知らない。闇雲に探したところで見つかるまい」
「だったら警察か?」
「同じことだ。名前だけでは動かないだろう。そもそも、家族でない人間が捜索願を出したとて受理されようはずもない。家出少女が家に戻ったこと自体は、何らおかしいことではないのだから」
「ならどうしろってんだよ、清美!」
「落ち着きたまえ、安田くん」
 清美は不安げに叫ぶ彼の両肩を鷲掴みにした。
「心配なのは私とて同じだ。そしてまた、このまま看過するつもりも毛頭無い。だが……私達だけでは力が及ばないのも事実なのだ」
「そんな……」
 そこで、と彼女は続ける。
「協力者を呼ぶ」
「協力者?」
「そうだ。広範囲の捜索に長けた人物、調査と追跡の専門家だ」
「なんだそれ、探偵でも雇うのか?」
「いや、技能として重なる部分は多くあるが……これまた実像をつかみ難い者でな。あいつが冗談半分に自称したところによれば……」
 少し口を濁らせてから、清美は言った。
「忍者だ」
「え、にんじゃ?」
「しかも女子高生」
「じょしこうせい?」
「町内の囲碁クラブで知り合った」
「いごくらぶ?」

 どこに突っ込みを入れるべきなのか義之には分からなかったが、少なくとも、清美の目は確かに本気であった。

       

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