Neetel Inside ニートノベル
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 結局、釣れなかった。
 まァいい、といづるは思う。べつに魚なんか好きじゃない。ただ、酒の肴に、とも言うし、一度魚を肴にして酒を飲んでみたかった。それだけのことだ。ただまァ、悔いが残ってしまったのは、後味が悪くもあるが、それが自分らしくも思えた。
 黄泉ノ湯に帰ってくると、西日が照りつけていた。いつも夕陽はそこにあるのに、なぜかいづるには、それが本当に遊びつかれて帰って来たときに見る、本当の夕陽に思えた。
 門をくぐって庭先に入る。
 最初、何が奇妙なのかわからなかった。すぐにわかった。
 誰もいない。
 猫町が仲間になってからというものの、庭にはコロポックルたちが始終うろうろしていたし、孤后天の監督の下、ヤンと猫町は決戦に向けて何が待っているにしろ役に立たないはずはないということで竹刀を振り回させられていたし、光明はのん気にそれをスケッチして、キャス子がそれを小馬鹿にする。そういった日常が見当たらない。
 たった三日、そこにあった日常が消えただけで、いづるは心臓に穴が空いたような気持ちになった。ああ――と思う。自分もまだまだ、甘いのだ。
 暖簾をくぐる。
 半ば予期しながら、釣り道具を庭先に置いて、自分にあてがわれた座敷へ向かった。
 みんなが待っていた。
 ヤン、猫町、アリス、コロポックルたち、河童の親父、手の目、朧車、煙々羅、孤后天、光明、キャス子、電介。
 電介は、いまでは一匹の虎になって、みんなの中央で身体を横たえている。
「やあ」
 アリスが言った。
「みんなお待ちかねだよ、大将?」
「どうしたのさ」
 いづるはその場にあぐらを組んで、笑った。
「そんな畏まっちゃって」
「そりゃあもう、明日は決戦だからね。気合を入れもするよ」
 アリスは、すっと、いづるの前に茶封筒の束を差し出した。いづるの目が照準するようにそれを捉えた。
「みんなから、いづるんへの激励の手紙――」
「遺書だろう」
 いづるは間髪いれずに言った。もう笑ってはいない。その目は悲しいほどに鋭かった。
「受け取らないよ」
「いづるん――」
 アリスは苦笑している。
「あたしたちね、死なずに、生きてきたの。望めば、何百年でも、一千年でも、生きていける」
「だからといって、死ななきゃならないわけじゃない。いや、君たちこそが、生きていかなくちゃならないんだ。この優しい場所で、ずっと」
「そう言わないでってば。思ったんだ。たまには、きみらみたいに生きてみようか、って。あたしも、ヤンも、猫町もみんなも。いづるんを見てて、そう思った」
「僕がそう仕向けたのさ。僕は卑怯者だ。僕は君たちを利用したんだ。君たちは馬鹿だから扱いやすかった。だから、遺書なんて、僕によこすのはやめろ」
「あたしたちが決めたんだよ、いづるん」
「僕にはそんなものを受け取って、したり顔をする資格なんてないんだ」
「それでも、受け取って。ね、いづるん。火澄がいなくなって、寂しいのは、いづるんだけじゃないよ。みんなが火澄に戻ってきて欲しがってる。だから、いづるん。あの子のために、明日勝って。あの子のために、あたしたちは、明日死んでもいい」
「やめろよ――」
「あたし、いづるんに会えてよかった。いづるんが死んでくれて、ここにこの時いてくれて、よかったって思うんだ」
 いづるは歯を噛み締めていた。呼吸が震えていた。
 あやかしたちがひとりずつ、いづるの肩を叩いて出て行った。後には、キャス子だけが残った。
 いづるは、膝元にある九通の茶封筒を握り締めた。その姿は、小さくて、今にも崩れてしまいそうなほど、弱々しかった。
「キャス子」
 キャス子は何も言わずに、立ち上がっていづるを背中から抱き締めた。いづるの手が、キャス子の手を痛いほど握り締めた。
「どうして、こうなっちゃったんだろう……どうして、こんなこと、しなくちゃいけなかったんだろう……教えてくれよ、キャス子。僕は、僕はこんなの嫌だった、嫌だったんだよ」
「うん」
「僕は……こんな辛いなら、死んでそのまま消えたかった。あのまま、消えてしまえばよかったんだ。僕も、志馬も」
「あたしも、ね」
「キャス子はちがう」
「同じだよ。あたしも、もう死んでる」
「キャス子――」
「ちゃんと清算しよ、いづる」
 キャス子が仮面を外して、いづるの首筋に顔を埋めた。
「あたしたちわがままだったね。生きてた時のこと否定したくて、もっと何かあったはずだって足掻いてた。でも今は、あたしはそれは違うんだってわかる。どんな人生でも、どんな死に方でも、あたしにはあたしを追いかけてきてくれたやつが生きてた時からずっといたんだ。蟻塚が、いたんだ。それを無かったことにしちゃいけないんだと思う。だから、あたしは今、なんの苦しみもないよ」
「キャス子……」
「あたしが見ててあげるから。最後まで、あんたのそばにいてあげるから。だから、頑張って」
 二人は長い間、そうしていた。
 やがてキャス子の白い手が伸びて、封筒の一通一通を開けていった。子供が夜、母親に絵本を読んでもらうように、キャス子はいづるのそばで、九通の遺書を読み上げてやった。
 あの時から七発目の闇ドンが、最後の手紙を読み終わってすぐに鳴った。
 八発目は、ない。

       

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