Neetel Inside ニートノベル
表紙

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「心配ご無用」キャス子が指をちっちっちと振って見せた。
「そういううっかりさんのために、ちゃんと救済策が用意してあるよ。よかったね」
 何が救済だ、決着が簡単に着いたらおまえらが退屈だからだろう――と思いはしたが、黙っておいた。キャス子は顎でいづるの背後をしゃくる。
「ほら、あそこに箱があるでしょ。千両箱。わかる?」
 見ると、キャス子の言うとおり、グラウンドに半ば埋もれるようにしてゴキブリの背中みたいにてかてかとした箱があった。
「その中に回復用の魂貨が入ってるからさ、そこで補充しなよ。腕を突っ込んで、なくなった部分が『あるんだ』って思い込めばいいからさ。得意でしょ、現実逃避」
「まあね――うわっ?」
 いづるはプールに飛び込むように横に跳ねた。かすめるようにしてバットが宙を回転して飛んでいき、客席へ続く壁にぶつかってカァンといい音を立てた。ちっ、と誰かが舌打ちする。
「くそっ」
 ころころと転がるバットが止まるより早く、いづるは駆け出し、千両箱に飛びついた。フタを蹴り上げて開けると、中には赤い硬貨がどっさり詰め込まれていた。フタを開けた途端に何枚か地すべりを起こしてグラウンドに零れ落ちるほどのフィーヴァー具合。まさに守銭奴が目にしたら瞳まで硬貨に変わってしまうような光景だった。だが、ここから生きて(生きて?)帰らない限り、これはメダルゲームのそれと何も違わない。パンも買えなければ何かに張ることもできないのだ。
 いづるは切断部を合わせて硬貨の流出を防いでいた両腕を千両箱の中に突っ込んだ。そして仮面の奥で目を閉じて念じる。自分の掌を。毎朝毎日見続けてきた節くれだった手を。冬になると必ずあかぎれして血を滲ませた指を。強く、強く。そうしているうちに、なんだか掌の感覚が戻ってきた、ような気がした。この感覚こそが大事なのだと瞬時に判断、より強く、あるというよりもないなら生やすという気概で念じる。そしてその念が至高に達したと悟ったとき、いづるは硬貨の山から手を引き抜いた。そこには、元通りになった自分の両手が、
 なかった。
「……キャス子?」
 ごめんごめん、と上の方から聞こえてきたので顔を上げると、キャス子が片手拝みして他の観客たちの前を通っていた。
「おいキャス子これはどういう……?」
「才能ないんじゃん?」キャス子は落下防止用の手すりに頬杖をついて、つまらなそうに言った。
「あたしに文句言われたって困るわ。――ていうか、ちょっと興ざめなんですけど。手も戻せないって何? 普通できるんだけど。あーあ、あたしあんたに張ってたのに。損したなあ、大穴すぎたか。せっかくあたしがお膳立てしてあげたのにさ、なにこれ?」
「キャス子」
 いづるは切断されたままの両腕を、キャス子と、そのうしろにある、被造物を見下ろす神の目のような照明に向けた。
「僕は負けるのか?」
「手がないんじゃね、掴めないし」
「そっか」
 いづるはひとつ頷いて、背後からこっそり掴みかかろうとしていたいがぐり頭のみぞおちに思い切り肘鉄を叩き込んだ。さっきから、キャス子のそばのトカゲ男とカエル男がにやにやしていたのでそんなことだろうと思っていたのだ。うめき声をあげて後ずさるいがぐり頭を振り返る。
「汚いね、勝負はなかば決してるんだろ? だったらせめて最後くらいフェアにいこうって気持ちはないのかな。スポーツマンなんだろ、一応?」
「うるせ……よ。俺は、俺は」
 いがぐり頭はもう二度と伸びることのない髪を両手で押さえて、
「俺は向こうに帰らなきゃいけないんだ……試合があるんだ、試合に出て、勝って、そしたら、俺、告白するんだ。告白したいやつがいるんだ。ずっと言いたかった、初めて同じクラスになれて、高校二年生の春なんだ、レギュラーなんだ、まだまだやりたいことがたくさんあるんだ、だから」



 ――死んでくれよ。


 いがぐり頭の右手がいづるに迫る。対するいづるは素手ですらない。絶対唯一の攻撃手段がすでに消失している。歓声さえあがらなかった。
 ああやっと終わるのか、誰もがそう思っている中、
 いづるはその場で身をひねった。伸びてきた右の二の腕の下に、自分の右肘を差し込んだ。力は入れなかった。ただ、持ち上げるように少し上向きの力を加えた。殴ることに気を取られていたいがぐり頭は反応ができない。そのままいがぐり頭の身体が軽く浮く。まだつま先は地面に触れていた。それで充分だった。いがぐり頭のたくましい胸板と腹筋に、自分の薄い背中を合わせる。そのときにいがぐり頭の伸びきった右腕の、手首より少し前に左肘をやや斜めに差し込む。すっと死神の鎌のように、とどめの右足をいがぐり頭のそれの前に置いて、自分の膝にいがぐり頭の重心がすべてかかった瞬間に、全身のバネを使っていがぐり頭をハネ飛ばした。
 ひあっ!? と女の子みたいな悲鳴をあげたいがぐり頭は一回転してグラウンドに背中から叩きつけられ、今度はカエルのように呻き声をあげた。いくら死んでいても数秒は動けない。
「体育の柔道は得意だったんだ、これでも」
 いがぐり頭が身悶えしている隙に、いづるは走った。
 苦悶するいがぐり頭に、ではない。
 グラウンドを囲む壁めがけて、である。
 いづるが何をしようとしているのかを悟って、観客席からブーイングの声があがった。いづるは気にせず走り続ける。中身の残ったポップコーンの容器やジュース類が飛んできていづるをべたべたにした。いづるは気にせず走り続ける。そしてゴミが散乱したグラウンドを振り返りもせず、マラソン上等のスニーカーで地面を親の仇のように踏みしめ、高さ五メートル強の垂直の壁めがけて、跳んだ。

「いっ――けええええええええええええええええっ!!」

 いづるのスニーカーが、壁を垂直に踏みしめた。一瞬、そのまま、駆け上がっていきそうに見えた。おお、と誰かが呟いて、
 そして、
「うおわあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……へぶぁっ」
 無論、無理なものは無理である。
 いづるのスニーカーは一瞬の夢を見たあとすぐに我に返ってつるっと空すべりし、いづるは頭から地面に激突した。そのままべしゃっと倒れ伏す。
 笑っていいものかどうか迷っているような、沈黙が降りた。
「うう……」立ち上がりざまに首をぶるっと振る。「だめか」
「当たり前だろ……馬鹿か、おまえ」
 いがぐり頭が腹を押さえながら、マウンドの盛り土を越えてやってきた。
「イカれてんのか? 壁なんか、登ってあがりきれるわけねえだろ」
「わからないぜ。そのうちできるようになるかもしれない」
「ならねえよ、できもしなければ意味もな。それにお前には死んでもらう。ここで、絶対に――」
 だからもう死んでるって、といういづるの切り返しを無視して、いがぐり頭はぐっと腰を落として構えた。
「俺はやり直すんだ――今度はもっといい条件で」
「どういうこと? やり直すって、何?」
「もういい、もうわかった。これはチャンスなんだ。そうなんだろ? 俺が俺を超えるための、機会。そう思うことにした。おまえを見てたら吹っ切れた。そうとも、世の中おまえみたいな馬鹿がまだまだたくさんいるんだ。俺が死ぬ道理はねえ。向こうに戻ったら、おまえみたいなのを狙うよ」
「何を言ってる?」
「俺はやり直す――たとえ誰かの尊厳を盗むことになっても、だ!」
「聞けよ、人の話――」
「聞かねえっ!!」
 いがぐり頭が雄たけびをあげて突進してくる。
 いづるはその場を動かない。逃げ出したくなるほどの『敵意』を一身に浴びて、幻の脳がびりびりしびれた。このまま突っ立っていたら、自分は間違いなくやられてしまうだろう。
 確かに、自分は罰当たりなことばかり言ったりやったりしてきた。死後の世界も幽霊もありはしないし、そんなの弱い人間の慰め道具に過ぎず、自分は墓もいらなきゃ来世もいらない。そううそぶいては弱い人間の心を傷つけてきた。誰がそれをどう信じていてもよかったはずなのに、そんな夢まで一つ残らず踏みにじってきた。それが正しいと思ったから。夢を壊すことが、ではなく、あの世なんてないんだ、ということが。
 これが正しい、と思ってしまったら。
 それなら信じられる、とわかってしまったら。
 そうする以外にやり方を思いつけなかった。そうしないことは許容できなかった。要領よく誤魔化しごますり生きていくのは嫌だしできなかった。
 神にも唾吐く生き方をしてきた。それはわかっている。
 それでも、いい加減、限界だ。思い返せども数え切れない。自分の不遇、ツイてなさ、都合の悪さ。あんまり言いたくないが、それでも今だけは言わせて欲しい。
 なんだこれ。
 痛い目、つらい目、イヤな目、ひどい目に遭って遭って遭い続けて。
 それでこんなところまで落とされて。それでもまだ状況は悪くなり続けて、ゆっくり考える時間さえ与えてはもらえない。急かされるように「ほら次だ」と嫌がらせのように続く苦境苦難困難試練の乱れ打ち。
 いい加減、むかっ腹のひとつぐらい立ててもいいだろう。
 それぐらいの権利も許されないなら、もういい。わかった。
 えこひいきばかりする神様なんかに、もうかける言葉はなにもない。
 ――――完全に、
        怒った。



 地面を足蹴にして駆け出した。腕を振るたびに魂がこぼれる。そのたびにむかつきがひどくなる。キャス子は言った、普通ならできる、と。そうかなるほどこんなところに堕ちてまで、僕は人並み以下で空気の読めないごく潰しのろくでなしか。
 いいよ、それで。
 『手』があればいいんだろ?
 用意してもらわなくっても結構だ。
 僕を嫌った母上と顔も知らない父上からもらった立派な手がねじ切られたまますぐそこにまだ転がっているから。
 その位置取りのために、壁蹴りなんてまぬけな真似をする羽目になったのだ。


 ○


 いがぐり頭が一間の距離を越えてきた。もう数瞬もしないうちにその両手はいづるを引き裂くだろう。だが、いづるの右足も、しっかりと、自分の掌を蹴り上げるコースにすでに乗っていた。スニーカーに、自分の掌を蹴る世にも奇妙な感覚が伝わってきた。
 いがぐり頭が両手を振り下ろそうとしていて、その爪の間のどす黒い汚れが見えた。それはきっと、野球の練習のしすぎで魂にまでこびりついて取れなくなった汚れなんだろうな、といづるは頭のどこかで考えた。
 右掌が弾道ミサイルのように、いがぐり頭の顔面めがけて吹っ飛んだ。いづるの蹴り上げた右足は限界いっぱいまで跳ね上がった。
 勝った。
 いづるがそう思ったそのとき、蹴り上げた右掌が砕けた。
「あ――」
 おそらく、観客席からはよく見えなかったであろう。
 夏のスイカみたいに割れて赤い魂貨の塊になったそれは、もういづるの『掌』ではなかった。
 ――手がないと勝てないよ。
 聞いたかどうかも定かではないキャス子の声が聞こえた。
 ほんの一瞬。
 ほんの数秒。
 それを手に入れられなくて、自分は負ける。
 そう思っとき、いづるの脳裏には何もよぎらなかった。消滅を目前にして、あるのは空白だけだった。恨みも嘆きも怒りも悲しみも、全部まるごといづる自身にもわからないどこかへと吹っ飛んで消えたしまった。
 魂貨が炸裂した散弾のように、狙いだけはいまだに正確にいがぐり頭の白仮面へと向かっていく。ちらっとジャージの胸元に刺繍された名前がいまさらになって目に入る。このいがぐり頭は吉田という名前らしかった。
 もっと他人に興味を持とうと思った。もしも来世が、あるなら――










                              ――ねえよそんなの。







 最後の最後に身をよじった。腰がみりみりと嫌なきしみ方をしたが知ったことではなかった。吉田の爪が、いづるの髪を数本千切っていった。そのときに少しだけこめかみもひっかかれて数枚の魂貨が剥がれ落ちたが、そんなこと、どうでもよかった。
 吉田は、右腕を突っ張らせ、指を伸ばしきった姿勢のまま、空気にセメント漬けされたように、その場を動かなかった。だがそれも振り返ってみれば一瞬、吉田の身体はゆっくりと、傾いていって、そのまま慣れ親しんでいたであろう土のにおいのなかに倒れこんだ。
 その首から上は、なにもなくなっていた。
 魂貨に砕かれた白仮面の破片が、思い出したように、吉田の身体に降り注いだ。そして吉田の身体はその緑のジャージごと、魂貨の塊になった。
 夢から覚めたように、吉田を吉田たらしめていたものすべてが消えた。
 いづるは、グラウンドに大の字になって、耳で聞いて、それを知った。呼吸する必要なんてないのに、息が上がっていた。身体の芯がジン、と熱かった。これも幻覚なのだろうか、と思い、誰かに聞いてみたくなった。無性に誰かと話したかった。責め立てるように輝く照明が鬱陶しかった。誰かに抱きしめて欲しかった。その胸に顔を埋めて、この光から隠れたかった。
 いつ、立ち上がったのか、覚えていない。
 いづるは煌々と照らし出された野球場のど真ん中、ピッチャーマウンドの上に立っていた。猫背なのが自分でもわかった。魂貨がこぼれないように、ポケットに両手を突っ込んでいた。
 光の向こうに、自分と吉田の争いを見物していたやつらがいるのが、わかった。
「――くっ」
 歯の隙間から噴き出すような笑いが漏れた。それはどんどん大きくなって、こらえがたくなった。くくくくくと笑っていたのがもう辛抱たまらなくなってハハハハハハと大声で笑い始めた。観客たちに奇妙な目で見られているのがわかるが気にならない。
 背筋を伸ばして、声を張って、
 言った。








 ざまあみろ、オケラ共








 地獄の裁判官さえ逃げ出しそうな大ブーイングの集中砲火を浴びながら、
 掌から先ののない腕を高々と掲げて、
 門倉いづるは、闘技場を後にした。



(つづく)

       

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