Neetel Inside ニートノベル
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 その天狗は鴉の顔をしていたが、鴉天狗とは呼ばないらしい。木葉天狗というのだという。もっとも天狗たちはたいていそんなことは気にしない。彼らにとって鼻が高いか赤いか、嘴があるかないか黒いか白いかなんていうのは我々にとって何世代前の人間のことのように、自分にとって関連はあるが関係のない事柄なのである。
 絵馬堂に音を立てて入ってきた木葉天狗は、息を呑んで固まった一座をぐるりとねめつけた。ハッと思い出したように瞬烈天が挨拶する。
「これは、これは……ええ、絶炎天(ぜつろうてん)さま、ええ、ずいぶんご無沙汰で……」
「ふん」絶炎天と呼ばれた天狗は黒い嘴から湯気のように熱い鼻息を吐いた。
「もうコロされたと思ったか? けっ! そうはいくかい、俺を誰だと思ってやがる。てめえらなんざになめられてたまるかい」
「いえ、そんなことは露ほども……ハハハ」
 もう絶炎天は瞬烈天を睨んではいなかった。その濁った小さな両目は、手の中の張り札にぼんやり仮面を向けている志馬と、そのうしろで怪訝そうにしている火澄を見ていた。沙羅門天が慌てて絶炎天に膝でずりよった。
「絶ちゃん、絶ちゃん、違うんだよ。こいつは志馬坊っていうんだけどね、まあ死人にしちゃあデキる男で、なかなか面白い張り方をするから絶ちゃんが来なくなってから仲間に入れたんだけどもし気に入らないなら残念だけどでも追い出すのもあれだからそこは二人で穏便にどうか相談して」
 べちゃくちゃとまくし立てる長老株を絶炎天がぎろっと睨んで黙らせた。
「知ってる。――おい、小僧。おまえ、陽闇寺のせがれだろ?」
 志馬はなんとも言わない。絶炎天は忌々しそうに舌打ちした。
「――知り合いか?」と火澄が志馬に耳打ちする。
「さあな。まあ、世間は狭いからなァ。――おっさん、ここ座ンなよ」
 絶炎天は不愉快そうに鳥顔をしかめたが、黙って志馬の右隣に腰を下ろした。ぶわさァと得体の知れない獣の毛皮がはためいて、絵馬堂に積もったホコリを舞い上がらせた。
「おい瞬、札ァよこせ」
「は――?」
「張り札だよ! とっととよこさねえかっ!」
 ひゃあ、と瞬烈天が泡を食って張り札を盆ゴザに滑らせた。札が来たのだからそれでよしとすればいいのに、絶炎天はまだ不服げにぶつくさ呟いている。場の空気が加速度的に悪くなっていった。そのことを知ってか知らずか、絶炎天はきょろきょろ左右に広がった張り手の天狗たちを見回して、
「で、次の親は誰だい。さっさと胴座についてくんな。時間が無駄に潰れていってしようがねえや」
「それは悪いことしたね、絶の字――」
 苦笑いしながら、次の親、ノッポの樹芳天が立ち上がった。さっと盆ゴザの前に正座し、一同に重ねた札をざっと見せた。
「入ります」
 僧服の袂に手を突っ込んで、憂鬱そうに赤鼻をうつむけさせる。さすがに年季が入っているもので、中で札を繰っているというのに腕はびくりとも動かない。静かに、懐から抜いた手と札をかみしたに入れた。
「さ、入りました。張っておくんなさい。どうぞどうぞ――」
 モクオキは銅目天から引き続き、そのままだが、親が代わったためにこれはほとんど意味をなさない。わずかに、銅目天が直前に出した目に色がついている程度。天狗たちは低く唸りながら、それでも初目(ショナ)ということでチョキチョキして少額を張っているものが多い。
 絶炎天はチョキチョキせずに、しばらく親を睨んだかと思うと、迷うことなく張り札から三枚を選んで任意に三点張った。ヤマト張り、ヤマポン張りなどと呼ばれる張り方で、一枚を上に、二枚を下につけた三点張りで、一番上が当たると配当は大きく2.8倍。だが下が当たると賭け金返りという一か八かの張り方だ。
 志馬がへええ、と感心したように絶炎天を見やった。
「ヤマポンか。初目(ショナ)でよく出せるねえ」
「悪いか。俺ァ当たると思えばスイチ(一点張り)だってやるぜ」
「ははは、立派、立派だよ、絶のおっさん。どれ、参考までに見切り札を見せてもらってもいいかい?」
 テホンビキは親対子の博打なので、張り手同士の相談はよく見られる光景だ。絶炎天は若干嫌そうな顔をしたが、しぶしぶ手に残した札を見せた。二三六。ということは、ヤマポンは一四五ということになる。志馬は手をパンと叩いた。
「ははァ! なるほどなるほど、いや渋いねおっさん。渋いよそりゃあ」
「そうか?」まんざらでもないらしく、絶炎天の目尻がほころんだ。
「まァ俺も素人じゃないからな。年季というやつさ。見てな、俺の札はきっと開くぜ――」
 うん、うん、と志馬は感服したとばかりに頷いて、自分もヤマポンで札をゴザにおろし、重なった札束を叩きつけるようにして張った。瞬烈天のはしっこい目がそれを捉えて、
「よろしいか? よろしいか? はい、それじゃあ手ぇ切って――」
 ふいに絶炎天は、握られたままの志馬の見切り札が気になった。
「ところで、おまえは何を見切ったんだ?」
「あ、俺?」
 瞬烈天が「勝負ッ!」と叫ぶのと、志馬がなんでもなさそうに見切り札を見せたのが同時だった。
 志馬の手に残っていた札は一四五だった。
 瞬間、絶炎天の目玉に、赤い蜘蛛の巣が張った。
「貴様ッ――」
「六ッ!」遮るように瞬烈天が叫んだ。
「胴の目は六です。はい、はずれた方は札を下げてくださァい――」
 絶炎天は聞いちゃいなかった。握り締めた拳を高々と振り上げて、最高級の侮辱をぶつけてきた小童めがけて振り下ろそうとした。が、固められた鉄拳は志馬の額を砕く前に、匕首の刃で止められた。
「邪魔する気かッ、誰だ貴様ッ――!」
「飛縁魔」それから思い出したように「の火澄」
 火澄は、冷えた鋼のような瞳で刃と拳越しに絶炎天を睨んだ。
「鉄火場で鉄拳振るっちゃいけねえよ、おっさん――そりゃあご法度だ。退けねえってんならちょっと血を見ることになるな。でもよぅく考えた方がいいぜ、揉め事始末すんのァあたしの家業なんだ」
 絶炎天は息を呑んだ。火澄に威圧されたからではなく、必死に荒れ狂う怒りを堪忍袋に詰め込もうとしているのだろう。黒い嘴が意味もなくカチカチと触れ合った。志馬はそ知らぬ風にもう札をチョキチョキし始めている。
「――くそっ! ガキが、のぼせるなよ、このトンチキ、ごくつぶし、役立たず、蛆虫野郎――ッ!」
 それだけ一息に言い終えると、ドサッと絶炎天は座りなおし、はあああああああああ、と長い長い息を吐いて、ぎりっと隣の志馬を睨んだ。志馬は顔も向けずに言った。
「狙う相手が違うぜ、おっさん。胴を見ておけよ。ルール知ってる? 子と子は争えないんだぞ、この遊びは」
「いや、おまえだ――」絶炎天も札をチョキチョキしながら言った。
「俺はおまえをコロす。いま決めた。こんな雑魚の親などどうでもいい。覚悟しろよ、小僧。次はてめえの胴だぜ。まさか退かねえだろうな」
 確かに、ホンビキは廻り胴なので次は志馬の親だ。だが、拒否することもできる。
「やめとけよ、志馬」火澄が匕首に手を添えたまま囁いた。
「ばくちで相手の気合を受ける手はないって、親父が言ってた。ここはパスしとけって。出直したっていいだろ、おっさんだっていつまでもいるわけじゃあるまいし――」
「飛の」
「なんだよ。あとその呼び方は――」
「ありがとな」
 その一言で火澄の口がぴたりと止まった。志馬は繰った札を足の上で扇状に広げ持って、言った。
「心配なんてされたのは、もうどれくらいぶりだろうなあ」
「志馬――」
「まあ、見ててくれよ。これでもまだ、格好つけて帰るつもりなんだぜ?」
 すっかり蚊帳の外にされて苦笑しっぱなしの樹芳天は、それから三番親を続けて、結果は出ず入らず。若者には敵いませんな、お年よりは素直に引っ込みますよ、と冗談まじりに言い残して明るく胴座を去った。
 志馬は真っ赤なブレザーの裾を翻らせて、天狗の一座と、そしてその向こうの暗がりから正座してこっちをじっと見ている火澄を見渡した。膝前に散らばった札を拾って、一座に見回した。
「――入ります」
 上着の裏に右手を突っ込む。
 天狗たちが息を呑んで、親の一挙一動にすべての神経を注ぎ込む。
 志馬は、指の腹で硬い札の感触を確かめながら、目にも止まらぬ速さで札を繰って初ツナを入れた。
 あちらこちらで、十や二十では効かない魂が造作もなく積み重ねられていく。
 座した膝の上で作った拳に、ぎゅっと力がこもった。
 絶炎天は噛み付きそうな顔で、札束を二つ、ヤマポン張りの上に置いている。
「みなさんよござんすか、よござんすね、さァ手ェ切ってェ――勝負ッ!」
 志馬は手をモクオキに伸ばした。
 三――
 これはあまりよくなかった。あちらこちらでパラパラと札が開く。絶炎天まで札に手を伸ばしたので、そのすぐそばで観戦していた飛縁魔は心臓を掴まれたような心地がした。が、
「ちっ」
 絶炎天が開けたのは下二枚の一枚。これは保障なので賭け魂しか戻ってこない。落としもしなかったが当たりもしない、引き分けといったところだ。火澄はちらっと胴座の志馬を見やる。
「やれやれ、ひどいなァみんな。素人には手加減をするものだぞ」
「誰が素人だよ」と沙羅門天が笑う。「そんなこと言ったって誰も油断なんかしないぞ、志馬坊」
「ちぇっ」
 志馬は懐に手を突っ込んで、釣った魚でも逃がすように配当魂を天狗たちにつけて回った。天狗たちのごつごつした大きな掌が膝元に集まった札束をかき寄せる。
「いつも思うんだが、人間のくせによく魂が持つよなァ、志馬坊は」
「ほんとうだよ。死人がもともと持ってる自分の分の一万炎なんざ、ここではミニマム(最低張り金)だってのに、あいつときたら親まで引くんだからな。あくどいやつだ」
「しねっ。志馬坊」
「もう死んでら」
 どっと笑いが起こる。志馬も肩を揺すっている。火澄には理解できない世界だった。煙草銭を賭けているのではないのだ。人間が一人、一生を懸けて蓄えた魂がミニマムの博打を打っているのだ。それなのに、緊張するどころか、逆に相手の固まりきったガードを崩そうと冗談のひとつやふたつ平気で飛ばす。所詮、街中博打で遊んでいるだけだった自分とは身を置いている世界が違うのだ。ここは鬼神の世界。
 火澄は思う。
 あたしは鬼にはなれっこない。
 だから、あたしは、ここでは賭けない――
 などと感慨にふけっていると、絶炎天が助平親父のようにずりよってきた。
「おい、火澄とかいうの」
「飛のだよ」と訂正を飛ばしてきたのは手を懐に入れて二番ツナを繰っている志馬だ。初ツナを悪くして挽回を図らねばならないというのに、余裕もいいところである。
「どっちでもいいよ、おい飛の」
「なんだよ」もう訂正するのもめんどうくさい。
 志馬が入りました、と札をかみしたに入れた。天狗たちが札をばら撒き始めるが、絶炎天は周りに構わず火澄に顔を近づけた。
「なあ、おまえはあのガキの連れなんだろ。そんでもって、あいつのことは好きじゃない。違うか?」
「そうかも」
「じゃ、あいつの癖を教えてくれ。俺が悪い虫を駆除してやる」
「なっ――」思わず腰を浮かす志馬。が、すぐに瞬烈天が声を飛ばす。
「志馬坊、もう札入れたんだから動いちゃ駄目だよ。あと喋るのもやめてくんな」
「うっ……で、でも俺は悪い虫じゃないよ! 瞬ちゃんからも言ってくれよぉ!」
「そこかい……」
 火澄は慌てふためく志馬を無感動に眺めていたが、やがて懐に手を突っ込んだ。素肌に指を食い込ませて、そこから一万炎札を抜き取るとき、ああ、馬鹿なことしてる――と思いはした。思いはしたが、抜き取ってしまっていた。
 それを膝前に置き、瞬烈天が放ってきた張り札を墓石にして張った。そわそわしている志馬から視線をそらさずに、
「あたしはあいつが何を出すとか、どんな癖があるとか、そんなこと知らない。興味もない。ただ、あたしはあたしで勝手に張る。それにあんたが乗っかってくるのは止めないよ」
 絶炎天は不満そうに鼻をひくつかせたが、「まァ、いいよ、いいよ」と一応の納得を見せた。
「見切りは何? それだけ教えてくれればいいや」
 火澄は三と六を見せた。――三はいま出したばかりの『引きずり根っこ』で、出すには危険が大きすぎる目。そして六は、絶炎天とのいさかいの原因になった目だ。この二つは目立ちすぎる。だから外した。が、わざわざそんなこと絶炎天には言わなかった。
「――ふうん。まァ、ふつうだな。目立つからな。じゃ、俺もそれを見切ってチョキチョキにしよう。ふふふ、飛の字よ、おまえさんは俺の勝利の女神になれそうか?」
「人を祭り上げるのもたいがいにしてくれよ」
 火澄はうんざりして言った。
「あたしは、あんたたちが思ってるような都合のいいモンじゃない」
「そう言うなって。――よし、これでいい。さ、勝負といこうぜ、瞬の字」
 べつに絶炎天の掛け声が鶴の一声だったわけではないが、ちょうどタイミングが合わさり、瞬烈天が勝負ッと気合の声をあげた。志馬の手がモクオキに伸びる。
 一。
 あッと声をあげるものが何人かいた。一番最初の銅目天のとき、麻雀の筋で四一四と続き、なんとなく一はその後押さえに回らざるを得ないツナだった。それを時間差で出してきたのだ――
 火澄は、自分でも、耳まで真っ赤になっているのがわかった。唇を軽く噛んで大を開けた。
 第一本命的中。
 誰につけるよりも早く、火澄の膝元に三枚の紙幣が飛んできた。顔をあげると、のっぺらぼうがこっちを見ていた。
「おまえには勝てねえよ、飛の。……さ、気を取り直して続行するか! 親ってのは稼ぐためにあるんだからな。――入ります!」
 火澄はなんだかぼうっとして、自分の手元の新しい一万六千炎を、さっきまで志馬の身体の中にあったのだろう札を掴んだ。心のどこかで、錆びついていた鍵が音を立ててはずれた。

(そうだ、あたしは、前にもここに来たことがある)
(もう十年も前)
(おやじといっしょに、この絵馬堂で――)
(それで、あたしは、意地になっておやじの胴を潰そうとして、張って――)
(勝った)

 その手の中にある一万六千炎は、十五年ぶりにさわる、同じ道を辿って火澄の手元にたどり着いた一万六千炎だった。懐かしさで胸がふさがった。きっとあのとき、おやじは胴座で、あたしの張りをかわすことじゃなく、他の誰のツナをはずすことでもなく、ただひとつ、あたしがどのツナに張るかを考えていた。そして、当ててくれたのだ。
(父さん)
「――入りました」
 父の声に似た、しゃがれた低い声。ひょっとすると、父と同じように、自分から負けてくれたかもしれない男の子。
 志馬の大きな掌が、かみしたから抜き取られた。腕を組む。
「さあ、飛の字よ、やつは何を入れた? ああ、言わなくていい。見切りもいない。俺はおまえに乗るから」
「張らない」
「――あ?」
「あたしは、張らない。もういい。やめた」
「張らない。何故」
「いやになった。こんな遊び、おもしろくない」
 途端、絶炎天が前触れさえなく激昂した。奇声をあげながら、持っていた張り札を火澄の顔に投げつけたのだ。一から六の札が火澄の頬に当たって散らばった。
 沙羅門天が慌てて「ぜっちゃん! ぜっちゃんやめな、ぜっ、ぜっちゃんってば!」とうしろから羽交い絞めにする。が、絶炎天のかんしゃくは留まるところを知らない。
「出て行きやがれ!」絶炎天は声の限りに叫んだ。
「女だから甘い顔してりゃあ調子に乗りやァがって! 張りもしねえで見てるだけなら外で糞でも垂れてろ油袋が! 瞬烈天、スケなんぞ二度とここに入れるなよ、空気が濁ってたまらねえや!」
「絶炎天さま、あんた――!」と腰を浮かしかけた瞬烈天を、火澄が手で制した。黙って首を振る。
「火澄さん――?」
「いいんだ、あたしが出て行けばいいんだろ? それで済むならいいよ。――なんか、あたしらのせいで天狗のみんなに迷惑かけちまったみたいで、うん、ごめんな。あたしはここのレートにはついていけないけど、麻雀とかでよかったらいつでも相手になるからさ。そのときは、よろしく頼むよ」
 火澄はすっと立ち上がって、胴座にいる志馬をちらっと見た。
「志馬、あたし、先にどくろ亭で待っ――」
「いくな」
 志馬は胴座で正座したまま、微動だにせず、重い声音で言った。
「でも――」
「ふざけんなよ。まだ見てないだろ、俺の格好いいとこ。……おい、カラス野郎、てめえにいいことを教えてやる」
 まだ息を荒くして、小便を漏らした餓鬼のように足を広げて沙羅門天に押さえ込まれた絶炎天はいまにも燃え上がりそうな双眸を志馬に向けた。
「いいことだァ……?」
「ああ。俺はいま、このかみしたに一(ピン)を入れたよ」
 かみしたを、軽く叩く。
 だが、絶炎天は鼻を鳴らした。
「誰が信じるもんかよ――」
「違ったらチョンボでいいよ。どうした、親切に教えてやったんだぜ。張れよ。男らしく」
 沙羅門天の腕を振り払って、絶炎天は盆ゴザの前に座りなおした。
「もし、その札、一じゃなかったらタダじゃ済まさんぜ。――そうだな、そん時ァ、てめえのこの連れの女、俺のモンにさせてもらおうか?」
「そんな、勝手に――! 火澄さん、いいんですか!?」
 瞬烈天の問いかけに、火澄は頷いた。
「いいよ」
「そうですよね駄目ですよね――って、ええ? ちょっ、駄目ですよそんな、嫁入り前なんだから!」
「嫁入り前でも後でも駄目だと思うけどさ――あいつが一だっていうなら、一なんだろうって思うし。それに、見てみようかなって思うんだよね」
「な、なにを?」
「あいつの格好いいとこ」
 呆気に取られる瞬烈天を尻目に、火澄もその場に腰を下ろした。他の天狗たちは自分たちの札をおろさずに、ただ情勢を見守っている。場の緊張が最高潮に高まった。だが、絶炎天はかえってその熱気に疑問を持ったようだった。
「怪しいな――」
 絶炎天はぺろりと赤く太い舌で嘴をなめ、独り言を続ける。
「怪しい――すごく怪しい。ひょっとすると、やつは飛の字のことなぞどうでもいいと思っているから、こんな提案を吹っかけてきたのかもしんねえ――俺が一に張って外したら、その分の魂はノーカウントにはならねえんだからな。怪しい。怪しいぜ」
「ウダウダ言ってねえでとっとと張れよ、ケツに火ぃつけてやろうか鳥野郎……!」
 絶炎天は鼻で笑い、
「もうその手には乗らねえぞ――怒ったりしねえ。俺はもう怒らねえ。だから、こうする」
 絶炎天は一人でくすくす笑いながら、札を下ろした。最初から表にして向ける。
 ヤマポン張りで、一を本命に、保険に二と六。
 その上に、正真正銘、百万炎をどさっと乗せた。
「はっはっは! どうだ、ええ、ぐうの音も出まい! これで貴様が一を出していなかった場合でも、五分の二の確率で俺の百万は賭け魂返り――わかるか、チャンスを活かし、リスクを殺す、これが博打打ちの張り方なのだ!」
 志馬はすうっと息を吸って、言葉にして吐き出した。
「信じられん――」
「ふふっ、予想外だったか、まあ心配するな、まだおまえにも勝ち目はある――もっとも、おそらくこの女は俺のものになるんだろうがね」
 志馬はゆっくり首を振った。
「最悪の張り方だ」
 絶炎天はよく聞き取れなかったらしい。
「――何? なんだって?」
 志馬は耐え難いとばかりに顔を背けた。
「ヤマポンだと? せめて二点張りなら、まだおまえにも勝負師としての気概ってやつがあると思ってやってもよかった。まだかろうじてな。それを、あろうことか、ヤマポン――」
「ウダウダうるさいぜ、とっとと札を開けて見せろ!」
「だから言ったじゃないか」
 志馬は吐き捨てるように言って、かみしたをポンと叩いた。
「根だよ。ひきずり根っこ。一だよ。そのまま」
 絶炎天は最初、思い切り高笑いしかけたが、やがてその声はだんだん萎んでいった。
「おっさん、何故スイチ(一点張り)にしなかったんだ? 俺は親切に教えてやったし、俺がその女に拘泥していることもあんたわかってたはずだ。どうしてヤマポンなんかにしたんだ? あんたはいま、二百万近くをドブに捨てたんだぜ、天狗のおっさん」
「黙れ」
 いまにも飛び掛っていって食いつきそうな顔で絶炎天が手を差し出した。
「さっさと配当をつけな」
「言われなくても」
 志馬は胸元に手を突っ込み、いくらか身体に気合を入れて、二百八十万炎の札束を取り出した。その手は冷え切ったように小刻みに震えていた。
「やるよ、受け取れ、この畜生野郎」
「なんとでも言え。カネはカネだ」
「そうとも。――じゃ、これで洗わせてもらいます。悪いことしました」
 そう言って、あっさり志馬は立ち上がった。沙羅門天があんぐり口を開けて、
「志馬坊、ど、どうしたんだ? もうやめるのか? 親だぞ、親――」
「いいんだ。それにさ」
 ふらつきながら一座に戻ってきた志馬は、あぐらをかいている一匹の天狗を顎でしゃくって、
「次は、こいつの親だろ? 弱虫は胴座で殺してやるさ」
 と言った。
「ほざけ」
 絶炎天はすっくと立ち上がり、そのまま盆ゴザをまたいで胴座についた。無礼どころの話ではない、本場の賭場でやらかせば天狗だろうと指をツメる羽目になる所作だった。
「――大丈夫か?」
 ふらつく志馬の背中を、火澄が支えた。志馬はそれを見て、ふっと安堵したように息をつく。
「おまえ、そうやって女っぽくしてるのが似合ってるよ、やっぱ」
「うるさい――」火澄は目を逸らし、口をすぼめた。
「……ぞ」
「え?」よく聞こえなかった。
「だから」苛立たしげに髪をかきむしって、火澄は本当に嫌そうに言った。
「格好よかった、いまの。わりと。そんだけ。……忘れろ。馬鹿」
「……へへ」
 なんだ、と志馬は思った。
 いまのが見せ場だと思われたのか。わざわざ出し目を教えたことが? 男らしく見えた?
 なめてもらっちゃ困る。
 張り札を取って、手の中で切り返す。一瞬のうちに一が五になり四へ落ち六へ上がり二へと飛ぶ。
 胴座に座った絶炎天が「入ります」と呟いて右手を懐へ突っ込んだ。それを仮面の奥から捉えながら、志馬は唇を捻じ曲げる。
 そう、なめてもらっちゃ困る。
 この程度の男気で、こんなぬるい矜持で、許してたまるか。
 俺はほとんどなにも愛せない。生まれて死ぬまでずっとそうだった。
 だからせめて、愛せるものだけは。
 愛せると思えた数少ないものだけは、絶対に手放したくない。
 だから必ず、消えてもらう。
 その障害になる可能性が0.000001%でもあるなら、すぐにでも。

(糞天狗よ)
(てめえの投げた札で、俺はあんたを殺すよ)




 ○



 だが、志馬はそれから、絶炎天の親を三番続けて「見」した。黙って見ていたのだ。
「――入ります」
 絶炎天の手がかみしたに入り、空手になって出てきた。親の四番ツナ、入れた目は何か。
 ここにいたって、志馬がようやく張り札を盆ゴザにおろした。
 親のモクオキは二四一三五六。とくに変わった出目というわけでもないし、魂も出ず入らずの平凡な親。だが、もう志馬は見に回るつもりはないようだった。
 墓石張りに四点札を散らせた志馬は、おもむろに赤ブレザーの制服に手を突っ込み、銀色のジッポを取り出した。その所作だけで彼のやろうとしたことを見抜いた天狗たちが、お、と声をあげる。
 墓石の土台、トマリ(三番本命)とツノ(四番本命)の間にジッポを置く。
 俗に言うヨンゴのゴ、と呼ばれる賭け方である。手本引きは基本的に複数賭けが認められており、たとえば三点張りに加えて一点張りを添えておくこともできる。それを応用した複合型が『ヨンゴのゴ』である。
 通常の墓石張り(四点張り)にヤマポン(三点張り)を合体させる。墓石に四十五万、ヤマポンに五万賭ける。こうすると、大が当たっても中が当たっても壊滅的な高配当が期待できるのだ。ヤマポンのてっぺんを墓石の中に、大とトマリを保険にかぶせているので、仮に大とトマリが当たってもヤマポンに当てた五万は賭け魂戻りで返ってくる。
 第一本命的中で45万の1.2倍=54万
 第二本命的中で45万×0.6+5万×2.8=41万
 ちなみに、通常の墓石張りで45万の中が開いた場合は27万の配当、ヨンゴのゴでトマリが当たれば45万×0.2+賭け魂戻りで9万の浮きになる。
 手本引きでは、親は六枚の札から必ず一枚を引かなければならない。
 そしてこのヨンゴのゴなら、目盲滅法に張っても六分の二で相手に壊滅級のダメージを与えることが可能になる。ジャンケンで言えばあいこは駄目だがそれでも勝てばいい――ということ。
 志馬が懐から、三百万炎の束をぶっこ抜いて墓石の奥、盆ゴザの上にぶちまけると、さすがに絶炎天の鳥頭にも玉の汗が光った。
「潰してやるぞ、糞餓鬼め」
「欲しけりゃやるよ、さっさと喰えばいい」
「ぬかせよ――」と絶炎天は吐き捨て、中空をぎゅっと睨んだ。
 好奇心を押さえきれずに、火澄が志馬の袖を引いた。志馬は無言で見切り札を見せる。一と六。
 よろしいか、と瞬烈天が志馬にだけ念を押すように尋ね、勝負ッと気合をこめて叫んだ。
 絶炎天の指先が、よどみなくモクオキに伸びて、掴んだのは――二。
 火澄は思わず歓声をあげそうになった。志馬の横顔を振り仰ぐ。だが志馬は動かない。
(え?)
 志馬は、動かなかった。
 黙って、札を下げる。残した三百万炎の札束が見えない糸で繰られているかのように親の膝前に滑っていった。
「志馬――?」
 どうして、と問いかける己を、火澄は辛うじて抑制した。三週間、行動を共にして、わかったこともある。いまがそのときで、志馬は、微動だにしない全身を持って、火澄に何も言うなと伝えていた。そして、そうしてくれると信じているようだった。そうでなければ、最初から見切り札を見せたりはしなかったはずだ。
 志馬は俯いていた。天狗たちも、皆痛ましげな顔をして、場の趨勢を見守っていた。もはや絵馬堂の中は、完全に志馬と絶炎天のサシ勝負のていをなしていた。
「絶炎天さま――」瞬烈天が胴座の天狗に声をかけた。
「どうなさいますか。胴を洗いますか。それとも続行なさいますか」
 いまの一撃で、絶炎天の膝前にはちょっとした集落一つを根絶やしにしたのと同じほどの魂が集まっている。普通ならこれで充分、洗い時だ。志馬も声が出ないほどに衰弱しているのが見て取れる。赤いブレザーの肩は小刻みに震えていた。悪寒を感じているのだろう。ひょっとすると、もう魂がそれほど残っていないのかもしれない。あと一押しで、消滅してしまうほどに衰弱しているのかも。
 絶炎天の目が、嗜虐の色に染まった。
「続ける。続行だ。俺は退かない。無論、子方に俺に挑むやつがまだいれば、だがね。いなけりゃ帰るさ。小僧、俺はおまえに言ってんだぜ」
 志馬は黙っていた。火澄がその肩を揺さぶった。
「おい、志馬――なんか言われてるぞ」
「ん? ああ――」
 志馬はけだるげに首を動かして、白仮面を天狗に向けた。
「いいよ、俺は張る――目の前でそんなに札束が唸ってたら、張りたくなるもんな」
「でもさ志馬、おまえ、もう魂ひょっとして残ってないんじゃ――」
「ああ」志馬の声は笑っていた。
「次に張ったら何も残らねえよ。そうなったら、火澄、おまえともお別れだな。寂しいだろ?」
 火澄は一瞬、言葉を詰まらせて、唇を軽く噛み、言った。
「こんなことして欲しくない……けど、それでも、おまえは退かないんだろ、志馬」
「――らしい、な」
 志馬はくくっと諦めたように笑った。
 絶炎天が重ねた札を、まっすぐ志馬に突きつけた。その目はぎらぎらと輝き、ひとつの運命を破壊しうるこの瞬間に泥酔しきっていた。
「――入ります!」
 そうして絶炎天が懐に手を突っ込むのと、志馬がすばやく札を張ったのが同時だった。志馬のしなやかな指先はぴっぴと札を墓石に張り、ジッポをその上に投げた。ヨンゴのゴ。あとは賭け魂を張るだけ。
 志馬の手が、懐に伸び、しかし、それを素通りして、顔にはめた仮面を掴み、それをゆっくりと引き剥がして、張り札の上に置いた。
 それを見た天狗たちがどよめき、胴座の絶炎天もまた、その目をカッと見開いた。
 仮面から手を放すとき、志馬はもう震えてなんかいなかった。
「そう、これを外したら俺は消える」
 晒した端整な素顔を、ニィッと歪ませて、
「オールインだ、糞天狗。てめえこのトンチキ野郎、飛のに恥をかかせた以上は、なにがなんでも死んでもらうぞ!」
「う、受け、受けられるか、そんな――」
「受けるさ! 受けなくちゃな、だっててめえの手はもう懐で札を繰ってるんだものな? 言質だってとったぜ、瞬ちゃん、この野郎は確かに言ったよな? 親は続行だ――と。なあ言ったよな、違ってたら教えてくれよ」
 瞬烈天ははっきりと頷いた。その視線は盆ゴザの上に静かに注がれていた。
「瞬坊――」絶炎天の呆然とした表情。まさか身内と思っていた天狗に背かれるとは想像だにしていなかったのだ。
「そういうわけだ。さあ、最期の慈悲で、おまえが札を決める前に入れてやったぜ。入れ替えたりしねえから安心して考えな。この四点から逃げ切れれば、この鬼ごっこはあんたの勝ち――だが、大か中が開けば、そんときゃ俺の一撃が、あんたを殺す。異存はないな? あるわけないよな、好きでそこに座ったんだもんな、絶のおっさんよ」
「貴様――貴様ッ」
「ガタガタ言うなよ。もうサイは投げられたんだ。さァさァお楽しみの瞬間だ。こういうのがやりたかったんだろ? わかるよ、わかる。どうしようもねえよな、お互いこんな博打なんぞに溺れてさ――でも、こういう刹那を味わえるのは悪くない。ああ、ちっとも悪くない――さァ、来い!」
 絶炎天は志馬の切ったタンカに気おされて、ぐっと喉を詰まらせた。だが、志馬の言うとおりなのだ。もう懐に札を入れてしまった。この指に繰られる六枚の札が消え失せてくれれば逃げようもあるが、いくら天狗でもそんなことはできないし、またするべきでもない。そんなことをすれば、できたとしても、もう絶炎天は誰からも相手にされなくなるだろう。ギャンブルというのは、結局は顔でするものであって、信用をなくせば誰に勝つことも負けることもできなくなる。絶炎天はそれを死よりも恐れていた。
 幸運なのは、まだ札を入れていないことだ。まだ未来は少しも確定してはいない。あの四点、志馬が張った四点から逃げ切ればいいだけ。ヨンゴのゴとはいえ、トマリとツノは的中には数えないから、実質二点、大と中さえ見切れればよい。それだけのことだ。あいこでも勝てるジャンケン。自分は優位に立っている。
 一、二、三、四、五、六。この六点から一点、敵が張っていない二点を見極めて選ぶ。
 そもそも、と絶炎天は札を繰る手を止めて静かに考える。オールインされたからといって、本当に、絶炎天は破滅するのだろうか。相手はただの死人である。素性はわからず、この絵馬堂の花会に列席しているということは相当の魂を溜め込んではいるのだろうが、それが天狗のオールインに匹敵する残高だということには限るまい。むしろ、すでに三百万を吐き出しているやつのオールインは、ひょっとすると、さっきの張りよりも薄いのではないか? いや、その疑問は必要ない。もしそうならなんの心配もいらないが、そうではなかったときに考えていませんでしたで死ぬのはごめんだ。考える。考えなければならない。たとえどれほど悩んだところで、確証など得られなくても――。
 四点張りとヤマポンの複合系、ヨンゴのゴは大と中でそれぞれレートの違う賭け金を乗せ、大と中どちらが当たっても高配当にする一か八かの張り方だが、二点で喰うならもっといい張り方がある。二点張りだ。これなら大が当たれば2.6倍。中が当たれば倍。墓石張りよりもずっといい。そうしないのは、トマリとツノで保険をかけておくためだ。保険。
 絶炎天の神経がピィンと張った。じろっと、志馬を見て、その表情の裏側にあるものを透かし見る。
 そう、これはオールインであってオールインじゃない。六点のうち、四点までが、やつの消滅しない目なのだ。考えを改めねばならない。やつがこれこそ我が運命、と思って賭けて来るであろう札をこちらは悟ってはいけないのだ。やつはそれを大か中に置いているだろう。認識の齟齬。片方は保険を弁えて手をおろし、もう片方はしくじれば死、と肩肘に窮屈な力を詰め込んで手をおろす。どちらが不利かは明白だ。そうはいくか。
 丸落ちは狙わない。おそらく狙えば、返り討ちに遭うだろう。だから、その裏をいく。
 当ててやろう、志馬の張り札を。ただし、トマリかツノ、低配当の二枚をだ。まさかやつもこちらが保険を当ててくるとは思うまい。
 べつに絶炎天は志馬が憎いわけではない。いや、憎いが、己のすべてを賭してまで絶滅させたいとは思わない。どうでもいいのだ、広く大きな大局を見通す者の視点からすれば、そんなことは。死人など放っておいても直に揮発して消え往くさだめだ。永遠を生きられない哀れなやつらだ。そんなやつらの道づれにされてたまるか。
 己のモクオキに目を落とす。二四一三五六。志馬から三百万を奪った二は引きずり根っこ(直前と同じ出目)だったので、一番から四番までの正確な引きツナは二四二二。少しくどすぎる目だ。すでに二つ、二と四が光りすぎている。
 志馬は二と四をどこに置いているだろう。まさか見切ってはいないだろう。が、こちらがそう考えると見抜いて見切っている可能性もある。わからない。ないが、それでも考えを止めてはいけない。
 一三五六、これはどれも絶炎天が引いていないツナで、ここから選ぶ場合、志馬がこの四点を張っていれば、ツノ以外は親の負けだ。
 志馬の立場に立ってみれば、親は急遽のオールインを挑まれて焦っている、だから目立ちすぎる二と四は入れられまい――と思って、見切っているか、大か中に入れているか、どちらかだろう。つまり、二と四は保険にはしないということ。トマリとツノに二と四はない。ならば、なにも蛮勇を奮って二と四を入れる必要はない、ということだ。この二点は除外。
 残りの一、三、五、六。このうち六は志馬がわざと絶炎天の張り目と逆をいったヤマポンで当てた目だ。これは向こうも忘れてはいないだろうし、絶炎天も思い出すだけで腸煮えくり返る。返るが、それでも、勝つためなら六を入れることもやぶさかではない。
 これは、おそらく、二と四を大と中に突っ込んできたときに、志馬が見切る札ではないだろうか。逆に言えば、二と四を見切ったときに、大か中に入れられるおそれのある光り札だ。ということは、やはり、トマリとツノには入れまい。六も除外。
 残るは、一、三、五。三と五はそれほど印象の強い目ではないが、それがかえって死に目の相を濃くしている。ルーレットではないが、赤赤赤赤赤と続いたらそろそろ黒にも気を持ちたくなるのが人情というもの。かえってこの目立たなさが、軽やかな身のこなしとなって子方の力任せの張りをさばいてくれそうな気もする――と絶炎天が考えるであろうと志馬が思えば、それがそのままそっくり大と中に三と五を入れる理由になるのだ。死に目はひよった親が入れやすい目。そして今はオールイン勝負。これも大と中、ないしは見切りに選ばれる目ではなかろうか。
 となると、もう一しかない、ということになる。
 この一は、飛縁魔が一度だけ張ったときに的中させ、その次に志馬がみずから入れたことを教えてきた目だ。そういう点では光っていないとも言えないが、それでも、他の目に比べればいささか地味で、かつ、死に目という印象もない。
 志馬が抑えに張るならこの目ではなかろうか。因縁があるわけでもなく、ないわけでもない、中途半端な目。
 魂すべてを賭すには確固たる理に欠け、まるきり見切るには色がつきすぎている。
 こういう目こそを、ツノに伏せておくものだ。いや、この際、トマリでもいい。もちろん丸落ちだっていい。いずれにせよ、この親はここで洗う。そしてまたしばらく、この絵馬堂に顔を出すのはよそう。時間をかければ、もう二度とこの小憎らしい面を見ることもなくなるのだ。
 闘わずして勝てるのだ、なにを争うことがある――。
 絶炎天は懐の中で札を素早く繰り、一の目を出して白布の中にさっと隠した。
「さァ、入ったぜ――」と志馬と、取り巻く一座を見回したとき、一瞬、おそろしい考えが鳥頭の中を駆け巡った。――ひょっとして、志馬はスケープ・ゴートに過ぎなかったのではないだろうか? わざと志馬との勝負を引き立たせ、絶炎天の出す目を限定させ、そこを資金潤沢な天狗たちがこぞって大魂を突っ込んできて、自分を破産させる、これはそういう筋書きの罠だったのではなかろうか――だが、それは杞憂だった。天狗たちの誰一人として、自分の魂をまとめた札束に手を伸ばそうとしたものはいなかった。
 盆ゴザを越して、志馬と目が合う。四隅に立てかけられた燭台で燃える静かな炎の光が、その浅黒い肌と、金色の髪と、うすく歪めた桜色の唇にいわく言いがたい陰影を与えていた。そのうしろで、飛縁魔が、ごくっと生唾を飲み込んだのを合図にしたように、瞬烈天が志馬に直接問うた。
「――よろしいか、志馬坊」
「ああ」志馬は目を逸らさない。ただ薄く笑っているだけ。とてもこれからすべてが終わるかもしれない人間の顔とは思えない、と瞬烈天は思い、そして考え直した。終わるもなにもないのだ。
 彼はもう、死んでいるのだから。
 すぅっと息を吸って、おそらく最後のかけ声をあげた。
「――勝負ッ!」
 ぐっと場が張り詰めて、誰もがそれに押しつぶされまいとするかのように身を固め、絶炎天を見た。絶炎天は最後の意地で、震えるような無様は晒さずにモクオキから一を抜き取り、二の隣に置き、白布をはぐった。
 一。
「志馬――」と火澄が、心配そうに赤ブレザーに包まれた背中を見上げる。志馬は笑みを消していた。その表情は、どうして星が巡るのか、なぜ空が青いのか考えているような、静かで物憂げな様子だった。とても勝った男の顔には見えなかった。
「一、か」
 札を開けずに、二枚の見切り札を握り締めたまま、志馬がぼそっと呟いた。
「やっぱり、俺の丸落ちは狙ってこなかったというわけか、絶のおっさん」
「ああ。俺は、おまえなんかとくだらん勝負をする気はねえんだ。野良犬は追い払うに限るよ。放っておいたってすぐに老いさらばえて餓死しちまうんだからな、どうせ」
「なるほどね――トマリとツノを狙う。オールインをさばいて帰ろうっていうなら、これほどいい案はないな。狙いやすいものな、丸落ちよりかはいくらか。大当たりと大はずれ、その中間を狙えばいいだけだ」
「ぐちゃぐちゃ言ってねえで、札を下げるか開けるかしねえ! その様子じゃ本命が当たったわけじゃあるまい?」
「ああ、そうだな」
 志馬がまっすぐに、ツノに手を伸ばした。めくる。
 一。
 絶炎天の顔が、醜悪に引きつった。それが彼流の笑顔だと気づいたものは、とうとう志馬のほかにはいなかった。
「そんなものさ」格上ぶって、絶炎天が言った。
「死人にしちゃあ、上出来だがね」
「へええ、褒めてくれるのかい」
「ああ、褒めてやるよ。たかが人間のくせによく頑張ったな。いい冥土の土産話になったろう。もっとも、おまえはこれから消えてしまうわけだが、なに、それまでゆっくり、心ゆくまで誰かに自慢したらいい。俺は勝たなかったが、負けもしなかった――ってな」
「いや」
 ニィッと笑って、
「土産話は、まだ終わってないよ」
 そう言って、伏せられたままの三枚とめくった一を重ねて、ばらっとその場に開けた。誰もが息をするのを忘れて、絶炎天さえも笑顔を消し損ねたまま、白痴のようにその並べられた札の見下ろした。
 一、一、一、一。
 四枚の一が、ずらっと開かれて、絶炎天は喉を掴まれたように低く呻いた。
「俺さ、カード類はあまり人のものを信用しないタチでね、いつも自分のを持ち歩いてる。もちろん予備も――カードはすぐに傷がつきやすいし、ガンがついたらそれが致命傷になるものだからな。それは、トランプや花札だけじゃなく、ホンビキの札だって同じこと――」
 段差上に重なっていた四枚を手ですくってトン、とひとつの山にして、盆ゴザに置き直す。一の字が優しい炎の光の中で、眠った子どものように輝いている。
「馬鹿な……馬鹿な……こんな……馬鹿な……」
 呆けたように馬鹿なこんなと繰り返す木葉天狗を、志馬が満足そうに目を細めて眺める。
「押さえを見切る、か。なめられたもんだな。俺がオールインといったら、それはオールインなんだよ。自分を四十五だの五だのに分けたりしやしねえ。そんな風に自分を分割して、力を調整し、要領よく生きられるほど、俺は器用じゃない――器用じゃなかった。俺は、いつだってこうすることで自分が誰なのか、何がしたいのか、確かめてた。勝つことだけが俺がそこにいられる理屈だった。そのためなら、心のひとつやふたつ読めなくっちゃあな――」
「つまり、俺は」絶炎天の血走った目が、細かく震えていた。「おまえに踊らされたということか……? 押さえがあると思わせて、その実は、ただの一点張り……俺の弱気を見越して、俺が保険を当てて逃げを打つとわかって、最初から、おまえは、最初から札を置いたのか? 俺が、俺が札を繰る前に――?」
「ああ、だってそうしなきゃ、俺が欲しがってる札をあんたは入れてくれないだろう」
「おまえは……」
 絶炎天の身体は、由緒の不確かな畏怖と絶望に震え上がっていた。
「おまえは……おまえは、なんなのだ? おまえはいったい、誰なのだ?」
 おそらく心の底から漏れたであろう絶炎天の問いかけに、志馬は照れくさそうに頭をかいて、答えた。
「知らねえ、が――あんたの敵だってことは、たぶん確かだ」
 絶炎天がまだ何か言おうと嘴をパクパクさせた。しかし、声はもう出ず、代わりに「パンッ」という乾いた軽い音がしたかと思うと、絶炎天の身体を引き裂いて、赤い魂貨が堰を切ったようにあふれ出し、その場にいた全員を絵馬堂の外まで一気に押し流した。魂の土石流は絵馬堂の柱をも押し倒し、絵馬堂は本堂と同じように、やはり半分溶けたかまくら状態になってしまった。違うのは、天井と板の間の間にぎっしりと魂貨が詰まっていることだけだ。
 しばらく、赤い砂丘にはなんの動きもなかった。
 が、突然、魂貨が一点盛り上がり、そこからぷはっと火澄が顔を出した。きょろきょろとあたりを見回し、情けなく小銭の砂丘から飛び出している人間の右手を見つけ、それを引っ張り出してやる。ずるずると志馬が赤い砂丘から引きずり出されてきた。
「いやーびっくりした。すげー急だった。いやー……もっかいやりたいな」
「ばかやろーっ! むやみやたらに妖怪を減らすな! ぶっ飛ばすぞ」
「は、はんせいしてまーす」
 志馬は魂貨の海に手を突っ込んで、自分の白仮面を探し出して、それを縁日の子どものように斜めにかぶった。きょろきょろと索敵兵のように周囲を見回し、
「瞬ちゃんたちはまだ埋もれてっかな? あ、なんか声がするわ」
「ほんとだ。助けなくっちゃな。あたしらのとばっちりに遭ったんだし」
「マジかよ? めんどくせー。飛のやっといてくれよ。俺は疲れたから嫌だ」
「…………」
 火澄が軽蔑の視線を向けると志馬はにゃははと笑って、手をぶんぶん振った。
「冗談、冗談っすよ飛縁魔さん。やだなーもう。ははは。この勝ち魂を俺が回収しないわけないだろ? もーいつから委員長気質になったんすか? やめてくださいよー」
 なんで敬語、と突っ込む気も起こらずに、火澄はため息ひとつ吐いてせっせと魂貨を集め始めた。喰っちゃってもいいのだが一応志馬のものなので、手に持った魂貨をぐにゃぐにゃっと手の中でまとめて紙幣に両替する。絶炎天の鳥頭め、地味な置き土産をしていきやがったものだ。
「おい飛の、ちょっといまから俺がんばるから見てて」
「ふうんあっそーへーすごいねーわーりっぱりっぱー」
「そ、それぐらいで俺がめげると思うなよ? 見てくれなくても勝手にやっちゃうんだからね……!」
 志馬は唸る魂の山に下半身を埋めたまま掌をかざし、……オン、と呟いた。すると志馬の掌めがけて、魂貨がひとりでに飛んでいき、掃除機に吸い込まれるように掌と同化していってしまった。火澄が目を丸くしている。志馬は調子に乗って気合の雄たけびをあげて(うおりゃーっ!)あっという間に魂貨を吸い尽くしてしまった。地面には気絶した天狗たちが転がっている。おそらく絵馬堂の壁を魂貨に押されて突き破ったときに軒並み後頭部を打ったものと思われる。
「頭だけは守れって柔道の先生が言ってたろうが、おらっ、このへっぽこ!」志馬が気絶した瞬烈天のわき腹を冗談まじりにつま先で蹴ったが、それを見る火澄の視線に冗談が混ざっていなかったのですぐに掌で蹴った部分をぱっぱと払った。女の子に怒られるのはいいが、ドスで斬られるのはちょっとまだ抵抗感がある。
「あのさ、聞いて欲しいんだろうし、聞かないとしつこいから聞くけど」
「うん」
「いまのってなに? 手品じゃないよな?」
「あ、聞く? それ聞いちゃう? じゃあ教えてあげよう。実は俺、むかし陰陽師の友達がいたんだよね。そいつにいろいろ教えてもらってさ、この吸魂術もそのひとつってわけよ。へへへ、こう見えて式神なら一体ぐらいは使役できるんだぜ? すごくね? すごいよねーわかるよその尊敬の気持ちーわかるなー俺もちょっと自分のこと尊敬してるもんー」
「楽しい?」
「わりと」
 急に素面に戻った二人は、同時にうーんと伸びをした。
「何時間ぐらいいた?」と火澄。
「わかんねえ。でもそんなじゃねえだろ。いま現世は昼時ぐれえかな、たぶん……あー腹減った。なんか喰いにいこうぜ」
 うん、と火澄が頷いたとき、どこか遠くで鐘の鳴るのが聞こえた。競神の鐘ではない、もっと暗く、陰鬱な音色の鐘だ。その鐘が四回鳴り終えると、火澄と志馬、そして転がっている天狗たちの身体から、虫の卵が孵化したようにぶわあっと魂貨が剥がれ、北東の空へと飛んでいった。
「うおわっ、くそっ、そういえばそろそろだっけか、税魂の回収。くそー牛頭天王の野郎め、ラクして俺たちから魂むしりやがって、何様のつもりなんだ、ええ飛の、ちょっとやっつけてきてくんない? ……飛の?」
 火澄は飛び去ってく魂の欠片をぼんやり見上げていた。
「あ――何か言った?」
「いや、いいんだ。そうか、そういえば、やつはおまえの親父の仇なんだっけか」
「うん――」
「仇ね。そんなに憎いか」
「憎い? 憎いのかな。ちょっとわかんない。親父のこと、あたし、嫌いだった――」
「どうして」
「わからない……振り向くといつも親父がいた。でもあたしは、親父に、放っておいて欲しかった。……わがままだったかな?」
「わがままかもしれねえが、生きている時点でわがままを通しているんだ。そんなことはない自分は聖人だってツラしてる方が間違ってんだよ。おまえがそうしたいと思ったことはそうするべきだし、そのせいで不幸になったらそれはおまえの責任ってやつだ」
「……じゃ、あたしはどうすべきだったんだ? 親父が欲しがってた、従順でおとなしい箱入り娘でいればよかったのかな? あの座敷にちょこんと座ったまま、動かない方がよかったのかな」
「それはおまえが決めることだな。でも、なにも動き回ることだけが人生じゃないよ。俺は思うけどね、二人いたら、役割分担ってのがあってしかるべきなんだ。それが社会的ってやつだな。おまえは七転八倒こそ意義ある人生、みたいに思っているのかもしれないが、それはそれでつらいことなんだぜ。箱入り娘になりてえって思ってるやつは多いと思うよ」
「……でも、あたしは、あたしはさ」
「うん、おまえにはおまえの意見があるだろうよ、そうじゃなくちゃ人形だもんな。でも、おまえに今日みたいな勝ち方ができるか。勝つってことは相手を破滅させることだよ。相手が破滅した分、生きていくってことだよ。それができるほど、おまえは強いか、飛の」
「…………強くない、かな」
「親父さんがそう思って不思議じゃないくらいには、おまえは俺から見ても弱く見える。腕っ節は関係ない、心の真底の部分でな。でも弱いことは決して悪いことじゃない。俺みたいになってみろ、おまえはきっと、笑わなくなる」
 火澄は心細げに志馬を見上げた。
「――志馬はもう、笑わないのか?」
「笑うよ。――でも、表向きだけだ。心はいつも呪われてる。いつもだ。いつも、何かが痛烈に欲しくて、でも手に入らないから、勝とうが負けようが苦しい。でも勝たないと潰されちまうから、是が非でも勝つが、勝ったからどうってこともねえんだ。また苦痛の時間が引き延ばされるだけだ。俺はもう何年も、そうしてる」
「おまえが欲しいよ」志馬は言った。
「俺はもう呪われたくない。おまえがそばにいたら、いるだけで、俺は少しはまともになれる気がする。ちゃんとした人間ってやつに――なあ、俺が稼いで、おまえが守る、それはそんなに悪いことか? 拒絶されなくちゃならないような、ひどいことか? 教えてくれよ、飛の」
 向かい合う二人の遥か向こうで、夕陽がぐずぐずになって燃えていた。停まった時間の赤が、二人をそこに縛りつけ、身動きできなくし、そしてその答えを黙秘する選択肢を無言のうちに奪い去った。
「おまえのことは、嫌い、だった。大嫌いだった、はずなのに」
「うん」
「どうしてかな。おまえを見てると、悲しくなるよ、志馬」
 火澄の眼から、その瞳が溶け出したかのように、一滴の涙が伝った。志馬は無意識に、本当に無意識に、それを指で拭おうと手を持ち上げた。
 その手を、火澄が目を逸らさずに、止めた。
「それでも、あたしは、あいつの弱さを知ってるから。
 いづるの弱さを、あいつの悲しさをもう見たから。見ちゃったから。
 だから、おまえとは一緒には、いられない。
 ――ごめんな」
 ごめん。
 その言葉は志馬の魂に、流れる血のように感電していった。ごめん? ごめんってなんだ。許して欲しいってことか。何を? 俺と一緒にいられないことを。何故?
 いづるがいるから。
 どうして?
 どうして俺じゃいけないことがある?
 俺とあいつは似たようなものだ。大して違いなんてないんだ。なのにどうして、俺じゃいけない? 弱さ、弱さなら俺にだってある。強さゆえに一人ぼっちでいなくちゃならないなら、俺は初めから強さなんか欲しくなかった――。
 飛縁魔が背中を向ける。俺から離れていく。そんなことがあっていいのか? わかっている、すべては自由意志で、それが世界の面白さというやつで、受け入れなければならない。ならないが、そんなのは絶対、無理な相談というやつだった。
 肩を掴んで、こちらを振り向かせた。抵抗しないでいてくれたことさえも、いまの俺には胸に染みる。そう、わかって欲しい。俺はわかって欲しいんだよ、この俺が冷血ではないってことを。俺の心にはまだ、おまえに伝えたい熱があるんだってことを、わかって欲しい。
 俺の動機は、それだけなんだ。
 志馬は己の仮面をはぐって、それを火澄の顔にあてがった。息を呑む彼女を抱き締める。強く、強く。そして袖から繰った一枚の白札を、
 そのうなじに、そっと差し込んだ。

 おまえが往くと言っても、
 それでも俺は、おまえが欲しい。

 そう、
 彼女を呪った。


 ○


 むくりと瞬烈天が起き上がり、ぱちぱちと瞬きをして、すぐそばに志馬が立っていることに気づいた。
「――あれ、志馬坊、火澄さんは?」
「ん? ああ、飛のなら先に帰ったよ」
「そうか。ところで志馬、おまえは正気かい?」
「うーん、どうだろうな。ひょっとすると俺は元々、狂っているのかもしれないな! どうしてそんなことを聞くんだ?」
「いや、おまえの額から、鬼の角が生えてるからさあ。おまえ、仮面をなくしたろ? 天狗としては、おまえを始末しなければならないんだが――そうか、元々気狂いなら、鬼になっても平気なのか。ふむ、目の色も――いや色は赤いが、おまえの知性の輝きというものは、なるほどそれほど変わっていないようだね」
「いや、変わったよ」
「ほお。そうなのかい」
「ああ。……俺は、サイコロを蹴飛ばしたことはなかったんだ、これでも。どんなに悪い目が出ても、それだけはしなかった。でも、俺はいま、――そうしたんだ」
 志馬は手の中の、一枚の札を見おろした。
 そこには、池のほとりの蓮の花に座って、水の上を跳ねるカエルを寂しそうに見つめる少女が描かれていた。
「それ、花札かい? 見たことのない札だな」
「そう。俺だけの札だよ。俺だけの、花だ」
 その札を懐に仕舞うと、志馬はもうなんと言われても答えを返さずに、夕陽に向かって歩き出した。けれど、廃寺を出て、坂道を下りていると、急に空しさがこみ上げてきて、空を見上げた。乾いた風に金髪がなびいて、かすれた砂嵐色の角が、まっすぐに天を突いていた。
 空はやはり、ちょっと隣町で戦争でも起きていそうな赤さで、そこにあった。

       

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Neetsha