Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
01.あの世横丁

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 ハッと我に返るともう、門倉いづるはそこにいた。
 夕暮れだった。横殴りの斜光が、いづるの視界を真っ赤に染め上げている。むき出しの土の冷たさが靴下を通して伝わってきて、足元を見下ろすと靴を履いていなかった。トラックに跳ね飛ばされたときに、二度といづるの手の届かないところまで吹っ飛んでいってしまったのだろう。ブレザーの制服の下に着込んだ白いパーカーは、ありありと鮮血の跡を残したまま。あちこちに血や砂、擦り傷にまみれたその姿は喧嘩帰りのようでもあったが、そんな細かいことを気にするいづるでもない。
 いづるは、真っ白い仮面の裏で、眼を見開いて眼前の光景に見入っていた。
 まっすぐ伸びた道が果てしなく続いている。アスファルトで化粧されていない、風が吹けば土埃が舞い雨が降ればぬかるむ土の道。
 そこを闊歩するのは学生でもサラリーマンでも主婦でも教師でもない。
 着流しの和服に懐手した狸が爪楊枝をくわえながら二本足でのっしのっし歩き、一本足を生やした唐傘がぴょんぴょんと跳ね、薄い和紙が、その上に寝そべった天狗をすいすい運んで頭上を通り過ぎていった。
 道の左右は、残骸から作り直したような、木造のバラック小屋や古い民家。どこの電力会社のものかまったく不明の電信柱は残らずへし折れて瓦屋根の中に突っ込んでおり、電線がぶらりぶらりと垂れ下がる。遠くに見えるビルはどれもこれも焼け焦げて黒く煤けていた。
 青白い鬼火が無軌道に飛び回り、人面犬がくわえ煙草をしながらいづるをひょいと見上げ、女子高生が猫耳をぴょこぴょこさせながら手鏡を覗いて前髪を気にしている。
 どん、と背中を叩かれると、赤い戦装束の妖怪が、にかっと歯を見せていた。
「ようこそ」
 ぴっと頭上を示した親指に誘われ、顎に釣り針を喰らった魚のようにいづるは上向いた。
 商店街の入り口のように、そこにはアーチがかかっていた。掠れた文字で、そこには、
「あの世横丁」
 と刻まれている。
 永遠に変わらない彼岸の国。死者が闊歩し妖魔が嗤う。
 三途の川を渡った覚えは無いけれど、門倉いづるは確かに今、あの世の土を踏みしめているのだった。
「どうだい、あの世にやってきた感想は?」
 うきうきした表情で少女に尋ねられ、いづるはふむふむと辺りを見回した。どこかで誰かが読経している。どうにも辛気臭い。
「もうすぐ夜だねェ」
「おまえってヘンなことばっか言う死人だなァ。――ここに昼も夜もないよ」
 いづるは首を傾げた。
「ない――?」
「夕暮れでもあるし、夜明け前でもあるんだ。ここでは太陽は地平線からちょこっと浮いたり、沈んだりするだけ。だから朝も夜も来ない」
「試験も学校も朝も夜もないなんて――」
「なんて?」
「なんて、自由……」
 呆けたように呟くいづるに、少女は「おまえ面白いなァ」と言ってけらけら笑った。
「ま、あとたった七日間だけどよ。せいぜい未練少なく往生してくれよ」
 じゃな、と手を振って立ち去りかけた妖の首根っこをいづるは「ちょっと待った」ぐいと引き寄せた。がぼっと少女の息が詰まる。
「な、何しやがる!」
「それはこっちのセリフだ。右も左もわからない可哀想な僕を置いていくのか?」
「いや、七日目に魂だけになったらもらいに来ようと思って。ダメ?」
「ひどいな、少しはアフターケアしてくれてもいいだろ」
「うっせえ。どうせおまえ、メシもいらないし眠っても意味ないし放っておいたっていいんだ。だからあたしはトンズラぐえー」
「だから待ってったら」
 ぐいっと引き寄せまた少女は顔を青くする。
「僕はこう見えて――」いづるはどんどんと自分の胸を叩いた。
「怖いのはニガテなんだ。ひとりにしないでくれ」
「はあ? あのな、あたしが見てきた限りでも、特A級でふてぶてしい死人だぞ、おまえ」
「そりゃきみがガキで経験不足なせいだろ」
「がっ……」
 なぜか傷ついたように少女は髪をぐしぐしと手の平でかき回した。
「こう見えても、おまえよか年上だぞ」
「じゃあいくつなんだよ。言ってみなよ」
 いづるは悪びれもせずにそういうことを聞く。
「……十八」
「聞き間違いかな。バケモノにしてはケタが足りない気がするよ」
「うるさいなッ! あ、あたしは末っ子なんだよ」
「あー、うん、なんかそんな気がした。きみ甘やかされてる感じがするし」
「なんなのおまえのその余裕は……?」
 がくっと肩を落とした少女を尻目にいづるがきょろきょろと百鬼夜行を眺めていると、
「――おい、飛縁魔《ひのえんま》」
 少女が仏頂面を上げたので、それが彼女への呼び声だったのだといづるは悟った。
 飛縁魔と呼ばれた少女が顔を上げて大儀そうに振り返ると、学生服の少年がにへらっと笑って立っていた。おかしなところはひとつだけ。その学生には目玉がひとつしかなかった。
 いづるは、顔面の中央に大きなひとつの目玉を埋め込まれた者が笑うところを今まで見たことがなかったので、それが笑顔なのか激怒なのかいくらか迷った。
 鼻がなく、ひとつきりの大切な目玉は唇の真上から額にまで及んでいる。ぬらぬらと輝く虹彩は、赤い夕闇のなかで泡のように揺らめいている。
「なんだよ、一つ目小僧」と飛縁魔がぶっきらぼうに言う。
「へへへ」
 一つ目小僧は見かけによらず明るい笑い声を立てた。
「見慣れねえのっぺらぼう連れてるからよ、気になったのさ」
「用もないのに?」
「用もないのに、さ」
 一つ目のずぶとい視線がいづるを捉えた。
「やあ、人間。これから七日間、あの世をせいぜい楽しんでおいきよ」
 いづるは押し黙ったまま、無遠慮に一つ目のなりを見ている。
「お化けのくせに学校があるのか?」
「へっ? ああ、これ」
 バシン、と自分の制服の胸を両手の平で叩き、一つ目はどこか嬉しそうにその太く長い舌でべろりと己の顔をなでた。それを見て、飛縁魔が嫌そうに眉をひそめる。
「前に俺が案内してやった死人が着ていたもんでね……くれたんだ。どうだい、似合うかな。お化けだって格好にゃあ気ィ遣うんだぜ」
「せっかくあの世までやってきたってのに、走れば疲れるし、服は選ばなきゃならないのか。なんだかガッカリだ」
「何、水が合わんでも清められちまえばたった七日間ぽっちの辛抱さ」
「そういうものか」
「そういうものだ。――なるほどね、飛縁魔とウマが合いそうな魂してやがら」
「さっきから気になってるんだけど、飛縁魔って……」といづるが言うと、
「あたしのことだよ」と少女が答えた。腕を組んで、なにやら意気投合しつつある死者と妖に仏頂面をさらしている。
「飛縁魔って……妖怪の名前? そういえば、どういう妖怪なんだ、きみ?」
「どうでもいいだろ、気にすんな」
「白黒はハッキリさせたいタチなんだ」
「ふん、おまえの性格なんぞ知るかハゲ」
「おかげさまでハゲる前に死ねたよ」
 先ほどから、どうも少女の機嫌が芳しくない。いづるが小首を傾げて斜に構えると、一つ目小僧が馴れ馴れしく首に腕を絡ませてきた。
「人間、こいつはね、自分のことが嫌いなのさ」
「へえ」
「おい、一つ目――」
 飛縁魔の三白眼を一つ目小僧は涼しい顔でかわす。
「いいじゃないか、どうせ七日後には消える――まァ人間、おまえが飛縁魔を知らんのも無理はない。マイナーなレアキャラだからな。簡単に言うと、えらい美人の女妖怪なんだが、それに惹かれてひょいひょい近づくと血やら精やらを吸われてしまう――つまり男の敵だな」
 ひゅんっ、と何かが閃いた。飛縁魔が腰の太刀を抜き放ったのだ。
 銀色の刀身に蓬髪が数本絡みついていたが、一つ目は軽く身を逸らせて話を続ける。
「昔ッから、優れた王様とかが見目麗しい女に惑わされて国をダメにしちまう話ってのは多いが、そんなときは飛縁魔が関わってるとされてるのさ。本当はそんな太刀なんぞ佩いてるような妖怪じゃねえんだがな」
「うるさい。あたしの勝手だろうが」
「――ってわけよ。ま、こいつは妖怪ん中でもとびっきりのはぐれ者だからな。刀は振り回す口は悪い可愛げはねえ――」
「ようしわかった一つ目。そんなに悪口が言いたきゃ目玉斬ッ飛ばして喋りやすくしてやらァ」
 袈裟切りに飛縁魔は太刀を振り下ろしたが、一つ目小僧は身を翻して跳躍し、電信柱のてっぺんにしゃがみ込んだ。それを見上げて飛縁魔はペッと唾を地面に吐き捨て、いづるは仮面のなかでふわふわとあくびした。
 一つ目小僧は大きな一つ目で二人を見下ろしてにやにやと笑う。
「おまえの太刀筋なんぞ、お見通しよ」
 飛縁魔《ひのえんま》がキッと睨んだときにはもう、学生服がはためく影さえ残さずに一つ目はどこかへ消えていた。いづるは一つ目小僧を飲み込んだ通りの雑踏に目を凝らした。退屈するには、目を引くものが多すぎた。

     


 雲か煙か、とにかく白くてふわふわしたものの柔らかそうな手がいづるの袖を掴んでいた。くいくいっと引っ張ってくる。
 振り返ると、大きな目と目が合った――といっても、いづるは無地の仮面を被っている。なので向こうの丸くて黒目がやたらと大きい双眸は、いづるの隠された目から少しずつ視線をずらしていって、額のあたりを見つめた。
「やあ」と雲の塊は言う。
「やあ」といづるは答える。
「買っていかない?」
 雲の塊は、串に刺さった自分そっくりの雲を突き出す。焼けた砂糖のにおいがした。昔なつかしの綿菓子だ。
 いづるはポケットから長財布を取り出して、五百円玉を雲の目玉の前にかざしてみたが、むくむくと雲が大きくなり始めてしまったので、どういうことかと飛縁魔のわき腹を小突いてみる。
「そりゃあおまえ、人間の金なんかで綿菓子喰おうなんざ煙々羅《えんえんら》も怒るさ」
「煙々羅?」
「こいつのことだよ」と煙と目玉と腕でできた、子どもの落書きみたいな妖怪を飛縁魔は指差した。
「人間の金なんかみんな捨てちゃえよ。ここじゃ鼻ッ紙にもならないぜ」
「うん、言われてみればそれもそうだね。ここには通貨を発行する銀行なんかないもんな」
「金貸しは人間の仕事」
 と煙々羅がどこからともなく煙草を取り出して、すぱすぱ吸い始めた。
「妖怪はそんなことしない」
「悪かったね」いづるは素直に頭を下げた。「じゃ、何で支払えばいい?」
「そうだね、うちは綿菓子ひと串、五十炎だね」
「円?」
「妖怪はね、金のやり取りをしない代わりに、魂をやり取りするんだ。見てごらん」
 親切な煙妖怪は、白い脂肪の塊みたいな手の平に赤色の硬貨を乗せていづるの前に突き出した。
 硬貨は、人の親指より少し大きく、角と牙を生やした憂鬱そうな男が描かれており、裏ッ返してみると、舌先が二つに分かれた陽気な女が刻まれていた。妖艶に笑っているが、その頭には鉄の環に三本の足がついた鉄輪が被せられている。
 どちらの面にも、一、と刻まれていた。
「お化けの国らしい金だな」
「これはね、正しくは金じゃない、魂の破片なんだよ人間くん」
「魂の――? じゃあ、僕も七日後にはこうなるのかな」
 いづるは人差し指で、ちっぽけで退屈な自分の未来をちょんちょんと小突いた。
「ああ。人間ひとりでだいたい、一万炎くらいかな。そこからは一魂って数えるんだ。ありがたいことだよ。この硬貨を食べなければ我々は消えてしまうんだ」
「じゃあ、綿菓子なんて買ってる場合じゃないじゃないか」
「なら君は、靴下に穴が開いてても買い換えないのか?」
「うーん」といづるは首をひねった。そして自分の疑問は、彼らにとって失礼だったのかもしれないと考えた。
「だろうよ。――――ねえ飛縁魔、あんたいい魂をとっ捕まえたね。彼なら一魂どころか、五、六魂になるんじゃないか。不思議な男だ。拾いものだね」
「ふふん、そうだろ? あたしは日頃の行いがいいんだ」
 飛縁魔はご機嫌でがま口財布から一枚の硬貨を親指で弾いた。弾丸のように放たれたそれは煙々羅の身体に突っ込み煙の飛沫をあげ、煙々羅《えんえんら》は満足げに瞼を開閉させる。こうして彼らは魂を喰うわけだ、といづるはじっとそのさまを記憶に焼きつけた。
「毎度あり」
「ねえ、僕もわたがし」
「いくぞ、人間」
 飛縁魔は綿菓子に顔を突っ込んでむしゃむしゃ食べ始めた。いづるの分は買ってもらえなかった。いづるは名残惜しそうに煙々羅の屋台を振り返りながら、ぼそりと、
「働かざるものは喰うべからず、か」とぼやいた。「あの世も世知辛いや」



 妖怪たちは、煙々羅のように屋台をやっていたり、何をするでもなくうろついていたり、バラック小屋の屋根で寝ていたり、物陰からいづるをじっと見つめていたりした。
 いづるにとっては物珍しい異国に来たようなもので、きょろきょろと首を振り回し、なにかを見つけては「おや?」っと伸ばし、すぐに「うおっ!」と仰天し縮こまる。
「まるで子どもだな」
 呆れてため息をつく飛縁魔に、
「おもしろいなあ。おもしろいよ。うわあ、すごい」といづるは大樹のような足が通り過ぎていくのを見送りながら答えた。
「ふうん」と飛縁魔は喰い終わった綿菓子の串を唇でぴょこぴょこ動かして、
「あたしは生まれたときからここにいッから、何が珍しいのかわかんねえや」
「そういうものかもね」
「そういうものなんだろうね。ちぇっ、あたしも人間に生まれれば、もうちっとメリハリのある暮らしができたのかな」
「退屈かい、あの世は?」
「つまらねえよ――正直、耐え切れそうにない。あたしはね」
「人間もそう変わらないよ。何をして死ぬまで過ごせばいいのかわからない」
「おまえは最期までわからなかったか?」
「ああ、だから、いまでも本当は退屈なんだ」
「あたしと同じだな――」
 飛縁魔はぺっと串を吐いた。
「よし、じゃあ憂さ晴らしにいこう」
「博打は僕も好きだよ」
 先手を打たれた飛縁魔は、二の句が継げなくなって息をのんだ。
「どうせ、そんなことだろうと思ってたんだ」

     


 ぱっと見た感じでは、その河童《かっぱ》は、冴えない印象だった。
 くたびれた背広を着て、安い腕時計を巻いて、黄色く濁った目を遠くの方に向けている。背骨が折れそうなくらいに背中を丸めて、おそらくお手製だろう、木で作った粗末な椅子に腰かけている。
 もし普通の感性の持ち主が彼を見たら、気の毒に思っただろうし、外国だったらその足元の山高帽に小銭を放り込む紳士がいてもおかしくはなかったろう。
 ただ、残念ながら、門倉いづるに親切心とか同情心なんてものはなかった。彼は、自分がそんな風にされたり思われたりしたらとてもいやなので、他人もそうなのだと思っている。そんなことはないんだ、ということに気づく前に残念ながら死んでしまったので、その考え方が改まることはもはやない。
 真っ白い仮面は波紋ひとつ立てずに、哀れな河童に照準を合わせている。その脇腹を飛縁魔がやいやいと小突いた。
「人間、おまえも話がわかるな。空気読めてるよ。ガキのくせに博打が好きなんてイナセとこあるじゃん。よっ、この人でなし!」
「好きじゃないよ。ほかにやることがなかっただけって感じ」
 同じ穴のムジナを見つけて喜ぶ飛縁魔に対して、いづるは気のない返事をした。飛縁魔は笑って取り合わない。
「澄ました顔しちゃってさァ、ホントはウキウキしてんだろ? ――おまえ、妖怪に生まれればよかったのになぁ。ここじゃずっと博打三昧できるのに」
「体力が続かないよ。ぞっとするね、こわいこわい」
「ホントかァ?」

 ○

 二人の細長い影が、河童の黄色い嘴に映った。河童は大儀そうに顔をあげて誰が来たのか認めると、頭の上に見えない重しでも乗っているかのように、うなだれた。
「よっ」
 と飛縁魔が気さくに声をかける。河童はそれには答えずに、無造作に置いてあったミネラルウォーターのボトルを頭の皿にぶっかけた。ばしゃっと冷たい水があたりにはねて、皿にうすい膜が張った。
「あははっ、河童よぅ、その顔だとまた負けたのか? サムイねえ」
「うるせえ。おまえな、飛縁魔な、落ち目のやつを追い込むような真似するなよな」
「悪い悪い」
 片手拝みに飛縁魔は笑う。そのさまはなんだか猫に似ている。まったく反省しなさそうなところが。
「怒るなって。なぁ、ゲン直しにあたしと遊ぼうよ」
「遊ぶって?」河童が眉をひそめた。
 飛縁魔は両手で印を組んで、
「今宵は拙者、チンチロリンがやりたい気分でござる。ニンニン」
 河童はごきごきと首を鳴らして盛大なため息をつく。磯くさい臭いがあたりに立ち込めた。
「サイコロはもういやだ。絶対にいやだ。なんと言われても、二度とサイコロだけは振りたくない」
「そういうなってば」
「おまえはいいよ。運勢だか神様だかに愛されてるから。俺は違う」
「そんなことないって」
「こんなもんはな」
 河童は小さな立方体を指先で弄んだ。いづるからは、五つポチと六つポチが見える。なんの変哲もないサイコロだ。
「見てるだけでムカムカしてきやがる。ちくしょう、いまだに噛み砕いてやりてえ気分だよ。歯が欠けたら困るからしないけどよ。ああもう負けた額を思うと成仏しそうだ」
「サイコロなんかどうせ美味くねえから噛むなよ。だから、なっ、遊ぼうって。ね? あそぼ」
 ――――あの河童はカモなんだよ。なにやっても勝てるから楽しいぜ。見ててみな。
 そう言って河童に近寄っていった飛縁魔のあくどい顔つきを思い出し、いづるは身震いした。
 女子はこういうところが怖いと思う。いまの飛縁魔はただ退屈しのぎに友達とふざけて金をやり取りしてみたいだけに見える。とても無邪気だ、でも本当は違う。
 あれは妖怪の女子なのか、それとも女子こそ妖怪なのか。いづるにはわからない。ただ震えるばかりである。怖い怖い、とひとり呟いた。
「そんなに言うなら――」と河童が決意をにぶらせた。
「でもサイコロだけは振らないからな。だから代わりの遊びをしよう」
「代わり?」
「うん」
 河童はごそごそとうしろの方から、小さな四足の卓を取り出して自分と飛縁魔の間に置いた。そこに三つの紙コップを逆さに伏せる。
「簡単だよ。ガキでもできる。こいつを」サイコロをひとつのコップに放り込み、ひょいひょいっと素早く入れ替えた。
「さ、どれだ。――これだけ」
「なんだ、簡単そうだな」
 飛縁魔が手甲に覆われた指をばきばきと鳴らした。あたりがだんだん暗くなってきたこともあって、チンピラ然とした態度に迫力が増してきている。
「覚悟決めとけよ? スッテンテンにしちゃうぞ?」
「さすがにそろそろ俺のツキも戻るさ。戻るよな? まァいい、一口五百炎だぜ」
 さてやるか、と河童はサイコロを新たに取り出して、顔を近づけるようにして伏せたサイコロの中に指をいれ、出したときにはもう何もつまんでいない。ひょいひょいっと入れ替わっていく紙コップ。やる気のなさそうな河童の顔と、食い入るようにコップの行方を追いかける飛縁魔の眼差し。いづるは首をぐるぐる回してぼきぼき鳴らした。見ているだけではつまらない。
 河童が手を止め、三つの紙コップはものも言わず均等に並んでいる。
 飛縁魔がううんと唸った。
「これだな」
 一番左のコップを指で示し、河童が身じろぎした。どことなくきまりが悪そうである。もしや、アタリなのか。
「本当にそれでいいのか?」と下からすくい上げるように飛縁魔をうかがった。
「ああ、いいよ」
「いまならまだ変えてもいいぞ? どうする?」
「いいったら。さっさとしろよ、もう、しつこいな!」
 業を煮やして太刀に手を伸ばしかねた飛縁魔にたまりかね、そおっと河童は、コップの縁に鼻を近づけるようにして中をうかがった。
 ふう――と息を呑む。そして、ひょいとコップを持ち上げると、木の台には何も乗っていなかった。
「あッ――」と飛縁魔は身体のどこかが痛んだように顔をしかめた。現世の鉄火場でもよく見かける表情だ。
「ほうら、はっはっは、おじさんをなめるからそういうことになるんだ。正解はこっちよ」
 反対側の紙コップを持ち上げると、こてんとサイコロが四の目を出していた。
 すると、奇妙なことが起こった。
 飛縁魔の懐から突如がま口財布が命を浴びたように飛び出して、勝手に開き、中から五枚の硬貨がくるくる螺旋を描いて飛び出した。いづるは首を動かしてその無秩序な動きを追いかけた。なにかが面白おかしくて仕方ない、そんな風に硬貨はあたりを暴れ回り、飛縁魔の機嫌がどんどん悪くなった。
 硬貨は最終的に河童のくすんだ背広のポケットに吸い込まれていった。がま口財布がケタケタ笑うと中の小銭がかちゃかちゃと鳴り響き、頬を赤くした飛縁魔が拳骨で殴りつけると、地面に激突してから急にシュンとして懐に戻っていった。反省したらしい。
 飛縁魔が深く息を吸った。
 こいつ、やっぱりかなり短気だ、逆らうのはよそう、といづるはこっそり腹に決めた。
 飛縁魔が言った。
「よし、もう一回だ」
「やめとけよ――」といづるは諭したが、飛縁魔は前しか向いておらず、いづるの助言などなにひとつ聞いてはいない。鼻からさっきの煙々羅でも吹きそうな勢いだった。
 河童と額を付き合わせるようにして、睨み合う。
「さァ来い!」

     



 四回連続で外すといくらバカでもへこむらしい。
 それまでの陽気さはどこへいったのか、飛縁魔はむっつり押し黙ってしまった。あれほど軽やかだった口は真一文字に引き結ばれ、そうしていると顔が余計に幼く見えて、まるで父母にコテンパンに叱られた子どものようだった。
「むしっといて俺が言うのもなんだがね、飛縁魔よ」
 河童は少し膨らんだ懐を叩いて言う。
「やめといたら? 今日はツカないんだろ」
「何言ってんだ。これから取り戻す。よーし、なめやがって、一気に五千いくぜ。まさか、断らないだろ?」
「お、おい――ヤケクソかよ、勘弁してくれ、おっかねえ」
 かえって河童の方がたじろいでしまっているが、水かきのついた手の平はちゃっかりしっかりサイコロをつまんでいるのをいづるはしっかり目撃した。
「ねェ飛縁魔の姉さん」
 返事がない。
「ねェったら」
「なんだよ、女みたいな声出すな。いま大事なトコなんだ!」
「僕にやらせてくれないか」
 飛縁魔は断固として簡潔に首を振った。
「調子にのんな、子どもの出る幕じゃない」
「ひとつ違いじゃないか……。それとも僕に任せてみる勇気もないのか?」
「あァ――?」
「うおっ!」
 飛縁魔は勢いよく立ち上がった拍子に台と河童をひっくり返し、それにも気づかぬ様子でいづると真正面から向き合った。いまにも火が点きそうな赤い眼がいづるを睨む。
「勇気ってなんだよ。おまえ何様のつもりだ? 賭けてんのはあたしだろ。黙ってみてろ」
「返す言葉もないけど、まァいいじゃないか。タネ銭、貸してくれよ。ちょっとでいいから。どうせこのまま続けたって、きみは負けるし」
 太刀の柄に置かれた飛縁魔の手が、ぴくぴくと痙攣していた。ちょっとした衝撃でもあれば、その手は稲妻のように閃いて門倉いづるの首をハネるだろう。
 二度死ぬと人はどうなるのだろう。なんとかなると考えるのは虫がいささか好すぎるかもしれない。それでも、いづるは押し黙ったり、謝罪するつもりはなかった。
「べつに、きみが僕より博打が上手だと思っているならそれはきみの自由だし、僕もそれで異論はない」
「へえ、じゃあ、引っ込んでろよ。ヘタクソなんだろ?」
「ヘタでも勝てるさ。賭けてもいいよ」
「じゃあ賭けようぜ? でかい口叩くからには証明してくれるんだろうな?」
「いいよ。じゃ、それをいまから確かめるから金貸してくれ」
「わかった」
 飛縁魔はがま口財布からくしゃくしゃになった札をいづるに渡した。そしてカラになった自分の手の平をにぎにぎして、
「――あれ?」
 なにか釈然としないものを感じた。そのときにはもう、いづるは受け取った札をくしゃくしゃに丸めて潰し、手の平に握りこんでいた。


 ○


 飛縁魔とのっぺら坊のいさかいを見物していた妖怪たちが、三々五々に散らばっていった。
 飛縁魔はいづるの肩をドンと押す。
「負けたら許さないからな」
「うん」
 尻についた汚れを叩いて台を元通りに立てた河童の前に、いづるはドサッとあぐらをかいた。
「よろしく、おじさん」
「――ホントにいいのかよ、兄ちゃん。妖怪に斬られたらな、ちゃんとお清めされないんだぞ。最悪、鬼っ子になるか、魂のカスを喰うだけの悪霊になっちまうかもしれねえんだぞ?」
 河童はずず、と大きな鼻の穴の奥で鼻水をすすった。あまり心地のよくない想像をして、背筋が冷えたのかもしれない。
 いづるは声音だけで笑った。
「大丈夫、大丈夫。僕はおじさんがちゃんと負け分を払ってくれれば、それでいいから」
「兄ちゃん、その歳にしちゃ面の皮が厚いね――心配するな、人間と違って妖怪は、負けたら自分の魂で払う。自動的に、だ。足りなくなったらこっちが消えちまうがね」
 河童が、サイコロを持ち上げた。
「やろうか」
「うん」
 河童は手馴れた手つきで、逆さになった三つの紙コップのうち、ひとつをわずかに持ち上げて、サイコロをつまんだ指を押し込み、コップの縁から空になった指だけが戻ってきた。
 ひょいひょいひょい、と三つの紙コップがテーブルの上を右往左往する。飛縁魔がいづるのつむじに細い顎を乗せて、ごくりと生唾を飲み込んだ。いづるはそれを嫌がることさえ忘れて、コップの動きを注視した。
 コップから手を離し、河童が、ぱん、とスラックスの膝頭を手で叩いた。にやっと嘴をひん曲げて笑う。
「さァさァ、勝っても負けても恨みっこなしだぜ、坊主。ひとつ教えてやるよ。世の中にはどんなに勝たなきゃいけないときでも、あっさり負けるときがあるもんさ。そっちの方が多いくらいだ。神様ってのは意地悪なんだよ、どうしようもなく」
「ありがとう、参考になるよ。でも、心配しないでいいよ」
 そういっていづるは両手をかざして、
「たぶん勝つさ」
 三つの紙コップ、すべてを持ち上げた。
 夕闇のなか、いくら眼を凝らしても、あちこち傷がついたテーブルの上にサイコロなんてどこにもなかった。

     


 ○


 波を凍らせたように煌く刃が、ぬめぬめした緑色の喉仏すれすれに押し当てられている。あとほんのちょっと押し込むだけで、匕首は首に深々と切れ込みを入れるだろう。
 河童は身動きできずに、空を仰いだまま、黄色く濁った目でいづるを見ていた。腰に差していた三寸ばかりの匕首を突きつける飛縁魔の顔色は一線を越えた激怒のあまり蒼白だ。
 紙コップを三つどかしてサイコロがなかった。もちろんそんなことはありえない、イカサマでもしない限りは。
 台の真ん中のコップがあったあたりに、白い粒が散らばっていた。飛縁魔はそれを指ですくって、ぺろりとなめる。
「甘っ。砂糖じゃん、これ」
「ここは――」
 いづるも河童にならって空を仰ぐ。ただしその首元で刃が煌くことはなかったが。
 毒々しい群青色の闇がべったりと広がっている。綺麗な羅紗でも敷いたみたいに。
「とても暗いね。だからサイコロとポッチをつけた角砂糖も、ちょっと見た程度じゃなかなか見分けられない。というか、角砂糖自体がよくサイコロに似せられていたと言うべきかな?」
「うう……」と河童は呻く。飛縁魔はいづるを睨んで、説明を促した。いづるは肩をすくめて、台のカップを手に取り振りながら喋った。
「最初に言っておく。そのおじさんはすごいよ。水かきがある厄介な手なのに、とても器用だ」
「いいから説明しろったら!」
「わかったよ……。まず、角砂糖をつまんで、対面の僕たちからは見えないようにコップに入れる。で、中でぎゅっと潰してしまう。当然、中にはバラバラになった砂糖が残って、サイコロではなくなるよね。それを外にこぼさないように素早くコップを動かし、お客さんに選ばせる。その中には砂糖の破片があるかもしれないし、ないかもしれない。もしあったら、河童さんはそれを目でそっと、中にサイコロを入れたときのようにして覗き込んで――息を呑むんだ。そのときに、砕けた角砂糖を一気に吸い込んでしまったんだよ」
「えへへ」と河童は苦し紛れに笑ってみせたが、ちゃきんと飛縁魔の匕首が鳴るとまた借りてきた猫のように神妙にした。
「お客さんが驚いている隙に、ああ正解はこっちだよ残念ッ、と別の紙コップを開けてみせる。新しいサイコロを忍ばせてね。外したショックで客は細かいところなんて見ちゃいない」
 そのときになっていづるは、周囲を妖怪たちが取り囲んでいることに気づいた。ぱちぱちと拍手が湧き起こり、おひねりが足元に散らばった。
「やるじゃん」
「人間が河童をカモにしたぞ」
「飛縁魔はなにやってんだ? カツアゲか?」
 飛縁魔は、匕首を河童に突きつけたまま、ぶすっとして何も言わなかった。
 いづるは「どうもどうも」と両手を上げて観衆を静め、足元の小銭を拾い集めながら、飛縁魔を振り返った。なにか気の利いたことを言うつもりだったが、それは叶わなかった。
 河童の懐から飛び出した一炎玉が、土砂降りとなっていづるに降り注いだ。口を開けると硬貨が飛び込んできてしまうので、いづるはしばらく、その心地いい硬い雨に打たれるに任せた。鈴が立て続けになるような音のなかで、いづるはしばし、勝利の余韻を味わった。

       

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Neetsha