Neetel Inside ニートノベル
表紙

くすんだレモネードを手にとって
亜里沙

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九 亜里沙

深々と頭を下げたまま、亜里沙は顔を上げようとしない。
「本当に申し訳ありません。お父さんの言いなりになってこんなこと……」
「亜里沙ちゃん、もう終わったことなんだからそんなに気にしなくてもいいですよ。ももちゃんはちゃんと助かりましたし。それに、亜里沙ちゃんのお父さんがこんなことになったのは何か理由があると私は思うんです。それを聞かせてくれませんか?」
 れもんが言ってからも、しばらく亜里沙は顔を上げなかった。
静かな夜の中に、彼女のすすり泣く声だけが聞こえてきただけだった。
 れもんは別にせかすこともないだろうと思い、待つことにした。
五分もすると、泣き声の中に亜里沙の言葉が混じってくる。
「お父さんは……お母さんが死んでから……あんなことになってしまったんです。お母さんとお父さんは本当に……仲がよくて……だから、お父さん諦めきれなくて……自分の研究を放り投げてお母さんが……生き返る方法を探してあんなことを……」
父に悪気は無かった。元々研究熱心で、研究のことになると周りが見えなくなる性格が相まってあんなことになってしまったんだろう、と亜里沙は言う。
周りが見えなくなる、それは日常に潜む最も忌むべき恐ろしさかもしれない。
れもんは軽く相槌を打っていたが、一区切りついたところで質問を一つ投げかけた。
「お母さんは、どうして死んでしまったんですか?」
 間を置いて、亜里沙は答える。
「……自殺です。私のせいで、人が死んで……責任を感じて……」
「なるほど。そういうことだったんですね」
「……え?」
 れもんの言葉に、亜里沙は思わず顔を上げた。
 それを待ち構えて、れもんはヤマトもとい柔斗を抱き上げる。
「これが、死んでしまったあなたの大切な人ですよ」
「ど、どういうことなんですか?」
「光田柔斗――先輩。あ、そういえば亜里沙ちゃんも本当は先輩でしたね」
 これからはアリー先輩って呼びます、とれもんはケタケタと笑う。
 本気なのか冗談なのか分からないその言葉は、もう亜里沙の耳には入っていなかった。
「にゅ、柔斗君なの……!?」
(か、顔が近いよ亜里沙……)
柔斗の鼻先にまでジリジリと顔を近づける亜里沙を、れもんが一旦静止した。
「私が言っても信じられないと思いますから、本人にちゃんと語ってもらいましょう。アリー先輩、携帯とか持ってますか? 私持ってないんですよ」
「あ、うん……」
 亜里沙が取り出した携帯をれもんは確認する。
「何か文字が打てる状態にして、地面に携帯を置いてもらっていいですか?」
 亜里沙は無言でこくりとうなずくと、携帯のボタンを数回押してから、言われたとおりそれを地面に置いた。
 れもんが柔斗をその横に降ろす。
(なるほど、これで文字を打てばいいってことか)
 肉球をたくみに使いながら、柔斗は携帯に文字を打ち込んでいく。
(一応、何て言おうか考えてはいたけど……いざやってみると結構緊張するよな……)
 ゆっくりとだが、どうしても伝えたい言葉だけを打ち込んだ。
 それは、とてもあっさりとした言葉だった。

『亜里沙、久しぶり。俺のこと、覚えてたか?』

しゃがみ込んで携帯の画面を覗き込んだ亜里沙は、そのまま泣き崩れてしまった。
自分のせいで死んでしまった柔斗が、この猫の中にいるだなんて――
何か言葉を出そうとするが、そのたびに代わりの嗚咽が口からあふれ出てしまう。
泣くことしか出来ない自分を責めながら、亜里沙は心の中で何度もつぶやいた。
(ありがとう……ありがとう柔斗君……)
 優しい顔をした猫が、倒れこむ亜里沙の背中をやさしく叩いた。
 その小さな手で、彼女の心を優しく包み込むかのように。

 柔斗と亜里沙の一年振りの再開が、そこにはあった。
 
そんな二人から少し離れて、れもんは腕を組んで様子を見守っていた。
なんだか近づいてはいけない気が、なんとなくするのだ。
(それにしても、さっきからちょっと泣き過ぎだと思うんですよね……ま、キョンシーには流す涙もありませんけど)
なぜだろう、あの二人の中に入って行きたい自分がどこかにいるように感じた。
そんな気持ちを悔しいとも思う。けれど、これでよかったとも思う。
柔斗を助けてこうなることは分かっていたし、きっと自分は部外者のままだ。

     


だけど、こういう立ち位置も悪くない――
「やれやれ、ですね」
言って、れもんは見慣れた煌々と光る満月を仰いだ。
その光に照らされた彼女の顔は、いつのまにやら笑顔で満ちあふれている。
(でも、諦めません。私、いつかニュート先輩をこの手の中にしっかりと収めてやります!)
 れもんは固い決心の杭を心の中に打ち立てた。
 そして、ぎゅっと握ったにぎりこぶしを月にかざしていたら、亜里沙が後ろから声をかけてきた。
「あの、れもんちゃん」
「あっ、はいはい」
 慌てて振り向く。亜里沙は柔斗を抱きかかたまま、小さな頭をそっとなでていた。
 今の姿が見られていないだろうか。ちょっと心配が残る。
「本当にありがとう。なんてお礼したらいいか……」
「いや、いいですよ。私別にこれが職業とかじゃないんで。あれです、今流行のボランティアですよ。ボランティア」
「でも……」
「アリー先輩、元気出してください。いつまでもくよくよしててもしょうがないです。いいですか、悲しいときは寝ればいいんです。寝て覚めたら、もう全部忘れちゃってますよ」
おぼつかい足取りで亜里沙に近づくと、れもんは柔斗の顔をつついた。
「ほら、ニュート先輩だってこんなに生き生きとしてるんですから。私と会ったばかりの時なんて、そりゃもうヒドい顔してたんですよ。なんか、しなびたはくさいみたいに」
「真っ白ってことかよ」
「そうそう」
「まぁ、死んでるから無理もないけどな……」
柔斗が苦笑いを浮かべるのをれもんは軽くスルーする。
「ま、とりあえず明日から頑張って生きていきましょうよ。私はとりあえずぐでぐでライフをこの町で引き続き楽しみます」
「……?」
 柔斗の声は亜里沙にはただの鳴き声としか聞き取れない。
 置いてけぼりを食らった彼女はただ二人の様子を見守るしかなかった。
「ニュート先輩はこれからどうするんですか? 私はおうちに帰りますけど」
「えーと、どうしようかな」
 柔斗は悩む。
 亜里沙との過去の記憶を思い出せたのはいい。
どうして亜里沙との記憶を忘れていたのかは分からないが、思い出せればそれでいいとは思う。だが、これからどうすればいいのだろう。
家族の元へ帰ったとしも、こんな猫の状態で「俺だよ俺」と言ったとしても、混乱を招くだけではないだろうか。
「……」
 けれど、やっぱり家族と会いたいという気持ちも無くはない。
(ちょっと見るだけなら……)
 もう一年以上会っていないのだ。せめて元気な顔だけでも見れればそれでいいとは思う。
 この町で猫として暮らしながら、静かに家族を見守る。そんな人生も悪くは無いだろう。
 だが、彼の中で心の中の決心がまとまりかけてきた時、亜里沙がとんでもないことを言った。
「あ、柔斗君。れもんちゃんのおうちで思い出したんだけど……私言わなくちゃいけないことがあったの」
「えっ?」
 柔斗の表情を見て間をとってから、亜里沙は続ける。

「柔斗君の家族はね、もうこの町にはいないの」

 瞬間、柔斗は目の前が真っ暗になった。
(家族が、いない?)
 言葉の文字面を頭の中で浮かべて何度も追う。
 聞き間違いではない。亜里沙は確かに「この町にはいない」と言った。
 柔斗は弱々しくヒゲが垂れ下がっていくのを、止めることが出来ない。
「……私のせいだと思う。あの事故の後、柔斗君のお葬式を終えてからすぐ引っ越しちゃったから」
「それは、本当なんですか?」
 れもんもまた、驚きを隠せないでいた。
「ええ。もう家は無くて、ただの空き地になってるの。ごめんね柔斗君。私のせいで……」
顔を手で覆い、亜里沙は再び泣き出した。
自分が忘れていたことを、自責するように。
「私が、私が柔斗君の家族の人生まで台無しにしちゃったんだよね……」
 せっかく亜里沙が立ち直ったのに、これではまずい。
 れもんは意識的に声色を明るくして、亜里沙を励ますように言った。
「アリー先輩、はっきりとした理由が分からないのに自分を責めないでください。もしかしたら別な理由があるかもしれませんし――」
 だが、れもんが言い終わらないうちに、突然亜里沙がわめきだした。
「他にどんな理由があるっていうの!? 私のせいだわ! お母さんが死んで、お父さんもおかしくなって、私だけがのこのこと生きていくなんて……そんなことできない!」
 亜里沙は語気を荒くしながら、頭を抱えてふらふらと後ずさる。
 柔斗は先に地面に降り、亜里沙を心配そうに見上げた。
「亜里沙、俺はお前のことは何も恨んでないから」
が、その言葉が通じるはずもなく、亜里沙は研究所の中に駆け込んでいった。
精神的に不安定になっているのが目に見えて分かる。
これでは何をしでかすか分からない。もしかしたら自殺してしまうかもしれない。
「マズイですね……」
 れもんが亜里沙の後を追う。柔斗もそれに続いた。
「待ってください! 落ち着いて!」
「放っておいてよ! その猫だって――わからないわ! 私、何もわからない!」
 粉々になったビーカーの辺りまで走って行くと、亜里沙は散らばったガラス破片の一つを手にとった。大きさは三センチほどで、窓から差し込んだ月の光を乱反射しながら不気味に光っている。
「お母さん、柔斗君。今、そっちに行くから……」
「いけませんっ!!」
 れもんは咄嗟に足元の小石を拾い上げると、それを亜里沙に向かって投げた。
 小石はガラス破片を持って震えている亜里沙の右手に直撃し、破片は落ちた。
 そのスキをついて、れもんは亜里沙を後ろからおさえつける。
「や、やめて! 私を死なせて!」
「それはこっちのセリフです! どうしてそんな簡単に死ぬ死ぬって言うんですか!?」
 呆気にとられて動くことすら出来ない柔斗は、初めて見る見るれもんの激昂の表情に、毛が逆立ってしまった。
「死にたくたって死ねない輩だっているんです! 今のアリー先輩は逃げてるだけです!」
 ほとんど怒鳴るような声量で、つたない言葉使いで、れもんは言い続ける。
「大体、今アリー先輩は何をしようとしているのか自分でかわかってるんですか? あなたを助けるためにやってきくれたニュート先輩の前で死のうとしてるんですよ!? 残酷すぎます! ひどすぎます! アリー先輩がそれでよくても、私が許さないです!」
 亜里沙は必死に体をよじるが、れもんの怪力の前では無意味だった。ぴくりともしない。
 しばらくは抵抗していたが、ついにうつむいて沈黙した。れもんはそれを確認して、亜里沙の拘束を解いた。
「……私、人間のこういう所が嫌なんです。どうしてこんな簡単に命を投げ出すんでしょうか。かたや永遠の命を求めて私達を狙ってくる。理解できません。私って、やっぱりお馬鹿さんですかね? ニュート先輩」
 突然名前を呼ばれ、柔斗は固まってしまった。
 れもんの悲痛な問いかけに、柔斗は答えることが出来ない。
 それは、れもんが見せた怒りの形相におびえているからではない。
 れもんの、あまりにやりきれない悲痛な面持ちに対して、返す言葉が見つからなかったからであった。
「ごめん……なさい……」
 れもんに拘束を解かれ、亜里沙は力無く地面に崩れ落ちた。
 それとほぼ同時に救急車のサイレンが遠くから聞こえ始め、次第にその音が近づいてくる。亜里沙は顔をわずかに上げると、倒れたままの明と桃子を横目に小さくつぶやいた。
「……二人は、私に任せてください」
 ゆっくりと立ち上がると、亜里沙は道路に停車した救急車に向かってここだと手を振り始めた。
「大丈夫……かな」
 心配そうに言う柔斗に、れもんは力無く答える。
「心配なら、手伝ってあげればいいんじゃないんですか?」
「いやでも、俺猫だし……」
 小さな体躯を動かし、申し訳なさそうに答える柔斗。
 れもんは「ふひー」と鼻息を吐き出すと、やれやれとでも言いたげに首を振った。
「……わかりました。行きましょう」
 倒れている二人をそれぞれ右腕と左腕で軽々と持ち上げると、れもんは亜里沙の方へと近付いていった。
亜里沙はれもんに気付くと一瞬目を丸くしたが、それっきり黙ってしまう。
 別にそれを咎めることも無く、れもんもまた、黙り込んだままだった。

――研究所の長い長い夜が、こうしてようやく終わりを告げたのである。

       

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