Neetel Inside ニートノベル
表紙

あなたの願い、金の力で叶えます
1-4 : それで、おしまい

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 音は空気の振動が波になって伝わる現象らしい。「らしい」というか本当にその通りなのだけれど、私は空気が実際に震えるところを見たことがない。だから「らしい」……そう言うしかない。「波」と聞くと、私は青い海を思い浮かべる。砂浜に寄せては返す波の音。それがいちばんわかりやすい例だからだろう、きっと。そう考えると、音を操れるのはひょっとしてすごいことなのかもしれない。声を出したり、手を鳴らしたり、楽器を弾いたりして音の波を作れること。そして、その波を重ねて音楽を奏でられること。……うん、すごいのかも。
 大切なものの素晴らしさは離れるまでわからない。……実際、わからなかった。こうして一人きりの空間でバイオリンを手に取って、音を出して、その音が重なって音楽になって。……涙が出そうになるのはどうしてだろう。

 私の父親は犯罪者だった。「だった」というのは、今は違うという意味じゃない。死刑囚になるずっと前からそうだった、ということだ。お父さんは、私が生まれる前からずーっとクスリをさばいて収入を得ていたらしい。お母さんがどうしてそんな人と結婚したのかはわからない。ただ、お父さん側の大恋愛だったと聞いた。お父さんの方がお母さんにすっかり惚れこんで、何回も何回もアタックして、お母さんが折れた。お母さんはいつか、その過程を「それだけのこと」だと言っていた。結婚というのは「それだけのこと」程度でできてしまうのかどうか、よくわからない。恋愛経験さえも浅い私にとってはなおさらだ。
 仕事が仕事だからか、それとももともとの性分なのか、お父さんはあまり家に帰ってこなかった。家にお金だけは入ってきた。お父さんのことはよく知らなかった。ただ、健全な暮らしをしている人じゃないってことだけがわかっていた。だから、クスリのことや結婚の経緯を聞いたのは、一年ちょっと前。お父さんが事件を起こしたからいろんな事実が漏れてきた。「それだけのこと」だ。
 お父さんはクスリを売っているだけじゃなく使ってもいたらしい。そもそも、お父さんの商売は暴力団の下請けだった、とニュースで聞いた。事件を起こすちょっと前、売るはずのクスリから自分が使う分をくすねていたことがバレて、その代金と莫大な「追徴金」を払うように脅されたらしい。もちろん、払えなければ文字通り首が飛ぶ。イメージしたくもないけれど、父親が住んでいたのはそういう世界だった。とうてい払えないような額を突きつけられて、自暴自棄になって、またクスリを打って……狂乱状態だったと聞く。お父さんはその状態のまま、たまたま通りがかった小学校に侵入した。「スクールシューティング」……ワイドショーに出ていた専門家はこの事件をそう呼んでいた。犯罪学だかなんだか知らないけれど、分類なんてどうでもいい。最近の報道は、あの人は「控訴をしなかった」と伝えた。それが当たり前だと思った。押し入って、殺して、捕まった。だから、死んで償う。つまりはそういうことだ。
 あの人が事件を起こしたとき、私は音大に入った直後だった。お父さんがああやって稼いだお金で、バイオリンを弾こうとしていたことになる。でも、今さらどうしようもない。お父さんの仕事のことは知らなかったし、他に教育を受ける方法もなかったから。バイオリンで食べていけたらいい、なんて淡い夢を描いていたりもした。けど、それは本当に夢。ほとんど可能性はないって、ちゃんと自覚していた。音大で頑張って、それでダメなら音楽教師にでもなるつもりだったし、自分の中では納得もできていた。――結局、あの人に与えられた私の夢は、あの人に奪われることになったのだけれど。
 近所や同級生の目は今でも厳しい。「弓之辺」だなんて珍しい苗字をごまかせるはずもなかった。事件が起きて報道されて、すぐに居場所はなくなった。そこにあるはずの地面が、一瞬で消えたような感じだった。自分が落ちていることさえ、しばらくしないと自覚できない。つまずいて坂を転がり落ちていくのとはわけが違う。何にも触れることなくまっすぐ下に落ちていく、垂直落下だった。
 それ以来、バイオリンを見るのは辛くなった。もうどうせ、弾いたって仕方がない。そう思いながらも、あの人のお金で買ったバイオリンを一週間に一度だけケースから出して、乾いた布で拭った。我ながら不可解だと思う。何が楽しくて、もう使わないもの……それも辛い記憶の詰まったものを手入れしなければいけないのか。艶のある木目の上に落ちた涙も、ホコリを拭うための乾いた布に吸わせた。

 ……真空中では音も伝わらないらしい。「らしい」というのは、私は真空中で音を出したりしたことがないから。もちろん、震える空気がなければ音が伝わるはずもない。だから、私が心を空っぽにしなかったのはよかったと思う。何もかも放り出して、頭の中身をすべてまっさらにしたまま逃げることだってできたはずだ。……でも、心に震えるものが詰まってなかったら、音楽の良さがわからなくなってしまう。悲しみでも後悔でもなんでもいいから、無理やりにでも詰め込んで、それで音楽を聴く。そうすれば何かが起こるに違いない――音楽好きのせめてもの抵抗だった。
 ――そういえば、光も波なんだっけ。
 どこかでそういう話を聞いたことがある。……それじゃ、この世はどこもかしこも波だらけなんだなあ。なんとなく、壁、床、天井をぐるりと見回した。この防音室全体が波に満ちてゆらゆら、ゆらゆら……照明の光も、私の出す音も優しくゆらめいている……そんな気がした。きっと、気がしただけ。「それだけのこと」、そうに違いない。



 二週間なんてあっという間だった。演奏をする会場に向かう車の中、私は練習のときのことを思い返していた。スタジオには世中先生と柳さんが入れ代わり立ち代わりやってきて、私と話をした。話題はたいてい私と家族についてだったけれど、少しだけ二人のことも聞いた。「世中法律事務所」の設立からは六年が経っていること。先生の資金源は、彼のおじいさんがビジネスで大成功して得た資産に依っているってこと。柳さんは最初から事務所にいたわけじゃなくて、途中で雇われたということ。どうでもいいようなことに思えて、意外と大切なことをたくさん聞いたのかもしれない。
「好奇心旺盛……知りたがりなんだな、伊織は」
 先生はいつの間にか私を名前で呼ぶようになった。それはこのわずかな時間で親しくなったことの表れかもしれないし、彼が私の性格や考え方を掌握したという宣言だったのかもしれない。
「こんな不思議なお仕事をされている二人のこと、気にならない方が変ですよ」
 確かに私はたくさん質問をした。当たり障りのない話題から、ちょっと聞きづらい個人的なことまで。失礼になるかもしれないことをあえて尋ねた。それくらいじゃないと、癖の強い二人についていくことはできないと思ったから。私より一枚も二枚も上手な二人に、私が腹の探り合いを挑めるわけもない。でも、二人は答えたくない質問を避けるのがうまい。そういう質問をした後、私はいつの間にか質問される側に回ってしまうのが常だ。そんな調子の会話を終えて私が練習を再開すると、先生は決まって、バイオリンを持って立つ私に不思議な視線を投げかけた。私にはその眼差しが先生の哀れみのように感じられて、なんとなく嫌だった。



 車を降りてから発表の準備をするまでのことはよく覚えていない。緊張していたんだと思う。スタジオでの練習中、希望の衣装を柳さんに尋ねられたとき、私はモノトーンのワンピースを頼んだ。やり方はともかく、私はこんな舞台を調えてくれた二人に感謝している。先生が黒で柳さんは白。それは象徴だ。袖を通す。普通の発表会で着るような衣装とは違って、飾り気なんてほとんどない。まるで喪服。それでちょうどいい。これは出棺の前倒しだから。あの人は棺桶の中にいるのとたいして変わらない。
「……はあ」
 小さく息を吐いた。自分の中で渦巻く緊張を体の外へと押し出したくて。手に持った愛器をこの目で確かめる。薄暗いステージの袖にいても、艶やかなボディが淡く光を放つ。調弦もしっかりした。問題はない。この子は頼れる相棒でいてくれるはずだ。
 ゆっくりとステージに上がって、客席の方を見渡した。……たぶん、だいたい三百人。それくらいが入れば満員になるホール……ホールと呼べるほど大きいかどうかも怪しい。大学の大きい教室程度だ。でも、それで十分。聴かせる相手はただ一人しかいない。
 ……前から、いち、に、さん、し、ご、ろく……六列目に彼はいた。久しぶりに見るその人は、すっかり痩せこけていた。もともと細かった体には、今や骨と皮しか残っていないように見える。短い髪だけが妙に健康的で、どこかアンバランスだった。お父さんは何かに怯えているかのように小さくなって座っている。拘置所からいきなり連れ出されて、気がつけばここにいる。先生たちが事情を説明してくれているのかもしれないけれど、あまりに突然のことでわけがわからないに違いない。しかも、実の娘がバイオリンを携えて壇上に立った光景を目の当たりにすればなおさらだ。
 最後列の端っこには、先生と柳さんが二人並んで座っている。なんだかこっちの方がよっぽど親みたいだ、と思った。実の親は目の前に一人でいるのに。
 ステージ中央へ進んで正面を向く。深く礼をして構える。肩に重さを、顎に硬さを。そして、弦には弓を。合図してくれる人も、しなきゃいけない人もいない。すべては私のタイミングで始まる。
「……はあ」
 もう一度だけ息を吐いた。体が軽くなる。……ああ、そうだ……この感じだ。あとは軽くなった体に任せて、ただ弓を引けばいい。

       

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