Neetel Inside ニートノベル
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「調子はどうだ」
「……あ、世中先生」
 練習を始めて数日。柳さんは毎日、ここに来てくれていた。てっきり、私の様子を見るのは彼女になっているものだと思い込んでいたけれど、今日来たのは先生だった。
「本当はすぐに顔を出そうと思ってたんだけどな……やることもあって」
 彼の目は私の手にしているバイオリンに向いている。
「大学を休んでる間、楽器は」
「ほとんど触ってなくて、手入れだけ。まあ、音さえ合わせてませんでしたけど……」
「曲は?」
「決めてあります」
「楽しいか?」
「……何のために練習しているのかを考えなければ、楽しいです」
「――正直だな」
 先生はシルエットの細いパンツを履き、そのポケットに手を突っ込んだままでいる。
「好きですからね、バイオリン……ちょっと久しぶりすぎて、肩とか顎が痛くはなりましたけど」
 先生は私の顔を見て、バイオリンを見て、もう一度、私の顔を見た。
「――さっき言った『やること』のうちのひとつなんだけどな。君の母親に話をしてきた」
「え……」
「いやいや、このことは何も言ってない。ただ、この依頼が終わったらうちで働くんだろう? 急な話だからな。君を預かるなら、きちんとあいさつをした方がいいと思って」
「そういうことですか……どんな話をしたんですか?」
 まさか、依頼のことをすべて漏らされてしまったのかと思った。依頼自体は別にお母さんに対して後ろめたいことでもないけれど、やっぱり借金のことを知られるのだけは抵抗がある。
「弁護士バッジを見せて、『お宅の娘さんをうちで雇うことになりました』って。弁護士だからかな、『あなたたちの抱える事情は存じてます』、『娘さんにこれからの身の振り方を相談されたので、いっそうちで雇ってしまえば、私たちが社会との間の風除けくらいにはなれるでしょう』……とか言っておいたら、やっぱり素直に信じてもらえたよ」
「そう、ですか……」
 母親がこの人に丸め込まれる様子が想像できてしまうのが、なんとなく嫌だった。
「それと、昔のことも少しだけ聞いた」
「何を、ですか」
「……バイオリンを始めたきっかけ、もう一度だけ話してくれないか」
 先生は私の質問に答えなかった。……きっと、問い直しても無駄なんだろうな。
「最初にお話ししませんでしたっけ……」
「だから、もう一度って言ってるじゃないか」

 幼いころの記憶。それは、ほんのひとかけらにも満たない単なる粒でしかない。
「――伊織、楽器に興味はないか」
 今よりずっと、優しかったはずの父親の声。それでも表情は硬いままで、セリフはどこか投げやりな響きだった。
「がっき?」
「自分の好きな歌とかを自分で弾けるようになる……そんな練習をする気はないか? ってことだ」
「うた、かあ……それってたのしい?」
「さあ、俺はそういうこととは無縁だったからな……」
 父らしい、ぶっきらぼうな返事だった。
「たのしいなら、わたしやってみたい」
 そのあと、彼は「そうか」とかなんとか言ったような気がしたけれど、声が小さくて聞き取れなかった。


「……かなり小さいころの話ですから、あんまり正確には覚えてないですけど……」
「いや、十分だ。十分」
 先生は、私の肩を優しく叩いた。
「感謝してるのか?」
「楽器については。……それだけですけどね」
 親が子どもに楽器を勧める。それって、きっと素敵なことに違いない。少なくとも、世の中の人たちはそう思ってるんだ。

       

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