Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
20XX年8月25日

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 右、左、上、下、前、後。そんな順番で私の身体は振り回される。まるで巨人のバーテンダーにシェイカーに放り込まれたようだ。周囲のぐにゃぐにゃとした幾何学模様もあいまって、私は少し吐き気を覚えていた。
 何しろ約10年間の時間跳躍だ。これまでにした一番長い時間跳躍はせいぜい数時間だったが、それと比べると明らかに跳躍にかかる時間が長い。私は、時間を跳躍する時間が長い、というのもよくわからない言い方だなと逡巡する。そんな風にどうでもいいことを考えていないと今にも胃液が逆流しそうだった。
 周囲のグニャグニャした模様が徐々に輪郭のはっきりとした風景へと変わっていく頃には、私は脱水機にかけられた洗濯物のようにすっかり観念して、もうどうにでもしてくれというような投げやりな気持ちになってしまっていた。
 私はヨダレの跡が残る口元を袖で拭いながらあたりの光景を見渡す。そこは私が毎日通っているT大学構内の広場だった。出発した場所ときっかり同じ場所だ。ただしあるはずのコンビニがなく、無いはずの購買部の建物がある。まるでよくできた間違い探しのようだった。10年一昔とはよく言ったもので、校舎以外の施設のほとんどが私のいた10年後とは違っていた。
 教授の奥さんの事故がいつ起こったかについては、図書館で調べればすぐに分かった。当時の学内新聞が大きく取り上げていたからだ。もちろん実名は掲載されていなかったが、「理学部物理学科の助手の妻」という肩書きの人物の事故が数年の間にそう何件もあるとは思えない。私は事故の起こった当日の校舎に来ているはずだった。
 季節は夏だった。晩秋から来た私にはかなりむしむしとして暑いように感じられる。着ていた白衣を脱いで脇に抱え、ロングTシャツの袖をまくる。肌と服の間を通り抜ける風が涼しい。最近、昔の夏はこんなに暑くなかったよな、と思うことがよくあるが、やはりこの時代の真夏は私の時代の真夏よりも少し涼しいように思えた。
 とりあえず本当に10年前に来たのか確かめるために、私は購買部に入り新聞を見てみることにした。事故が起こったのは20XX年8月26日のはずだ。私は新聞のラックから適当に一部抜き出して、記事の見出しよりも更に上に印刷された日付の欄を見る。
 並んでいる数字は2、0、X、X、8、2、5だった。
 私はひょっとして一日前の新聞を手にとってしまったかな、と他の新聞にも手を伸ばす。しかしやはり記されている日にちは同じだった。当然だ。店頭に一日前の新聞を置いている店なんてあるはずがない。もしあったとしても、あっという間に潰れるだろうし。
 私は意外な気持ちと、少しの落胆をはらんで購買部を出た。どうやら長時間の跳躍のせいで、到着時間に誤差が出てしまったらしい。私は気落ちしながらとぼとぼと構内の道をどこに行くでもなく歩いていった。
 もともとどのくらい時間を遡るのか、というのは完全にフィーリングで決まるので、ある程度の誤差があるのは当然といえば当然だったのかも知れない。数時間の跳躍ではせいぜい数十秒から数分の誤差だったそれも、10年間ともなれば一日の誤差になり得るのだろう。
 私はこのままここで一日を過ごすか、それとも人気のない場所を探してさっさと未来に飛んでしまうか、少し思案した。別にここにいても事故のことがわかるわけではないが、せっかく初めてずいぶんな過去に戻ったのだから少し見て回りたいという気もする。
 そんなことを考えて、気がそぞろになっていたからだろうか。バリアフリー化されて下り坂となった長い階段に差し掛かった時、私の足はあるはずの地面を見失って、身体は大きくバランスを崩した。
 そうだ……構内のバリアフリー化が急速に進んだのはここ数年のことだった!
 私のいた時代では下り坂だったそこは、この時代ではただの階段だった。
 私は自分が転びかけている原因に一瞬で思い当たるが、それで身体がバランスを取り戻すわけではない。
 ここが池田屋かと見まごうほどに見事な階段落ちを決めて、私は地面に派手な音を立てて硬着陸する。
 数瞬の間私は腰だけを高く上げてうつ伏せにうずくまっていたが、恐る恐る体中に神経を行き届かせて痛むところはないか確かめる。……どうやら大丈夫のようだ。あまりにひどい怪我があるようなら階段から落ちる前に戻って自分を助けてやらなければならなかったところだ。
 私が顔を上げて立ち上がろうとすると、ふと頭上から鈴を転がしたような声が投げかけられた。
「大丈夫ですか?」
 私は声の主を見上げる。ショートカット、童顔、小柄、少女、断片的な情報が頭の中で回る。
 きちんした文章で言えば、次のようになる。
 そこには心配そうな顔で私を見下ろす、可愛らしい中学生くらいの女の子が立っていた。

     

 私は痛む腰を持ち上げて、どうにか立ち上がった。声をかけてきた少女は口元に手を添えて、痛ましい私の様子を見守っている。
「うん、どうにか大丈夫そうです。心配かけてごめんね。ただ転んだだけだから……」
 私は右手を頭の後ろにやりながら、少女を安心させるために笑顔でそう言った。彼女は少しの間心配そうな面持ちで私を見つめていたが、一体何を思ったのか、急に右手を伸ばして私の胸部に触れてきた。
「うひゃっ、な、何を……」
「じっとしててください。ホントに怪我がないのかちょっと見ますから!」
 そう言った彼女の顔は真剣そのものだった。おかしな声を出してしまった自分を若干恥じながら、私は彼女の言葉に従って動きを止める。
 胸元に始まって、腕、脚と丁寧に観察をされていく。医学の心得は無いが、彼女が精一杯丁寧に診察しようとしているのはわかった。このくらいの年頃の女の子は看護師さんとかに憧れるものなのかも知れない。私がそんな風に微笑ましく思っていると、どうやら診察を終えたらしい彼女が私を上目遣いで見て口を開いた。
「大きな怪我はなさそうですね。肘だけちょっとすりむいてますから、洗って消毒でもしておきましょう。私、絆創膏持ってますから!」
 その口調は本物の看護師のようだった。先ほどまでの心配そうな表情はなりを潜め少しだけ笑顔になった少女は、私の手を握ってベンチに引っ張っていこうとする。
「あ、うん……ありがとう」
 私は素直にお礼を言って、好意に甘えてしまうことにする。よく考えてみれば、これはこの時代の人との初接近遭遇だ。時間もあるし、折角なので少しお話でもしてみよう。そんな風に考えた。

「はい! これで大丈夫だと思います!」
 夏の日差しの下で、少女の笑顔が輝く。私の肘は彼女が濡らしてきてくれたハンカチで拭われて、可愛らしい花柄の絆創膏が貼られていた。
「ありがとう。おかげで痛くなくなったよ。こういうの、結構慣れてるんだね」
 私の傷の処置をする少女の手つきは、診察の時と同様手馴れたものだった。本当に医者か看護師死亡なのかもしれない。
「そうですね。お父さんがしょっちゅう怪我をしますから、このくらいは慣れたものですよ」
 少女は子どもらしく少し照れたような、それでいて少し誇らしげなような表情で胸を張った。口調だけが妙に大人びていたが、中学生くらいにもなればこんな喋り方をする子もいるだろう。
「そっかぁ……もしかして、今日はお父さんは一緒じゃないの?」
 私は疑問に思っていたことを口にする。大学構内は、中学生くらいの女の子が一人で闊歩していて自然な場所ではない。
「そのお父さんに、お弁当を届けに来たんです。今朝、忘れて行っちゃって……」
 そう言って少女は持っていたカバンの中の包みを指さした。布で包まれているそれがお弁当なのだろう。絆創膏と同じで、その布も花柄だった。
「一人で来たんだね。えらいなぁ」
 私がそう言うと、少女は少しきょとんとした顔をした後で、とびきりの笑顔をみせてくれた。
「二人で暮らしてますから、私以外には届けられないですからね」
 そう言った彼女の表情は、純度100%の笑顔そのものだった。

     

 マズイことを聞いてしまったかも知れない。私は頭の中の血が、すっと、身体に吸い込まれるのを感じる。軽く血の気が引いた、という状態だ。
 このくらいの年頃の少女が父子家庭の身の上をどのように受け止めているのか。私には想像することしか出来なかったが、少なくとも自分ならこんな満面の笑みを浮かべることはできないだろう。
 彼女はそんな私の様子の変化をどう受け取ったのか、にわかにベンチから立ち上がると私の方へくるりと身体を向けた。
「私そろそろお父さんのところへ行かないといけませんから。もう傷の方は大丈夫ですよね」
 目を細めて慈しむようなほほ笑みをたたえて、少女はベンチの上の自分のカバンに手を伸ばす。
 私がこの時何を考えていたのか、今の私はあまり覚えていない。
 単に時間つぶしにもっと付き合って欲しかったのか。
 それとも少女の身の上に、不躾ながら興味を持ってしまったのか。
 とにかく私の手は差し出され、同じく差し出されていた彼女の手に添えられた。それは明確に、彼女を引き止める意志を示していた。
 少女は熱した鍋の持ち手に触れてしまったかのように瞬時に手を引っ込める。
「……なんでしょう」
 そう言った少女の顔は、驚き半分不信半分といった感じだった。突然赤の他人に触れられたことを考えると、当たり前の反応とも言える。
「そ、そのっ、私もお父さんのところへ着いて行ってもいいかな。実はちょうど暇ができちゃって、時間つぶしをしないといけないというか……」
 私は左手を自分の後頭部に置き、右手を眼前に差し出しながら、言い訳がましいセリフを述べる。時間つぶしをしないといけないのは嘘ではないので、必ずしも言い訳ではないかもしれなかったが。
「どうかな、無理?」
 しどろもどろになる私ではあったが、尋ねながら目線だけは彼女にまっすぐに向けていた。
 少女は口元を片手で押さえ、さらにその手をもう片方の手で押さえながら、値踏みするような視線を私に返す。
 知らない人に着いて行ってはいけません。誰でも小学校の時に習うことだ。
 今回の場合はその応用編。
 知らない人を知っている人のところに連れていっても良いのだろうか。彼女の目からはそんな考えが読み取れた。
 やがて思考が終わったのか、彼女は居住まいを正して口を開く。
「ええ。いいですよ。お弁当を渡しに行くだけですから、面白くはないと思いますけど……それでもかまわないのなら」
 また、あの笑顔だ。
 殺風景な部屋に花を飾った時のような、明るさをたたえた笑顔。
 その明るさを少しでも反射させられるように、私も精一杯の笑顔で返すのだった。



 構内のイチョウ並木の下を、私と少女は歩いていた。秋になれば道に実を落として異臭の元となるそれも、夏の日差しの下ではただ爽やかに緑色を透かすだけだった。
「無理言ってごめんね。せっかくだからもう少しお話したいなって思っちゃって……」
 私はぎこちない笑顔を少女に向けながら頬をかく。
「いいんですよ。私もいつも家に一人でいるので、女の方とお話ししたかったんです」
 少女は歩きながら、身体の向きを変えずに返事をした。ちらりと目をやると、少女の大人びた横顔が目に飛び込んできた。
 時期的に、今は夏休みなのだろう。働く父を支えるため家事などに忙殺されて、友達とも遊びにいけないのかも知れない。私は頭の中でそんな筋書きを立てた。
 私が同じ立場だったら、どうだろうか。
 中高生といえば、遊びたい盛りだ。しかも一年間で最大の休暇である夏休みである。ろくにどこにも行けない生活では、さぞかし不満もたまるだろう。思春期の思い出を作ることが人生に絶対に必要かどうかは知らないが、あって困るものでもないと思う。
 ふと、先日教授に投げつけた言葉が頭に浮かぶ。
『どうして生きているのか、わからなくなった』
 もしも私がこの少女と同じ立場だったら、それこそそう感じるのではないだろうか。
 中学生の時の私にそんな哲学的な思考があったかどうかはわからない。でも、無意識ではそう感じるのではないだろうか。
 この少女は、どうなのだろう。
 笑顔の下の、意識の底では、そのように感じているのだろうか。
「……あなたは、どうして生きているの?」
 思考が口から、ほんの僅かに漏れ出した。なんの文脈も無い、捉えようによってはとてつもなく失礼なつぶやき。おそらく彼女にも、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの音量だっただろう。

 思えばここが分岐点だったのだ。この言葉が、この少女に届くかどうか。それがドミノ倒しの最初のワンピース。
 そしてドミノ倒しは、一度倒れ始めたら止まらない。最後の一つがパタリと地面に臥すまで。
 美しい模様を描いて、その死骸をさらすのだ。

「……どうして生きているか、ですか。急に難しい質問ですね」
 突然の意味不明な質問にも関わらず、少女は律儀に返してくれた。
「えっ、あっいや、ごめんね。急に変なこと言って……。ちょっと考え事してぼんやりしてただけだから……気にしないで」
「それは、何を生きがいにして生きているか、という意味でしょうか」
 我に返った私の必死の否定も意に介さない様子で、少女は私に質問を返してくる。
「えっと、うーん、そんなとこ……かな。家にいることが多いみたいだから、趣味とかあるのかなーなんて……」
 私が適当な返答でごまかしている間、彼女はあごに手を当ててじっと考えこむような素振りを見せていた。その表情に緩んだところはなく、どこかわからない一点を見据える視線は冷たささせ感じさせる。
「……今までそんなことを、考えたこともありませんでした。ただただお父さんの世話を焼いて、それで毎日が楽しいと感じていましたから……」
「そ、そうなんだ! ははは……」
 意味のない笑いを浮かべる私をよそに、少女は考え込んだような佇まいを崩さなかった。
 肩を並べて歩いて行く私達二人の上では、ようやくイチョウ並木が途切れて青い空が顔をのぞかせていた。

     

 嫌な予感は、多少していた。
 少女が『お父さん』のもとへ行くと宣言してから、一歩歩き出した瞬間に嫌な予感はしていたのだ。
 その時それはほんの僅かな違和感として匂い立ったが、私にはその理由がわからなかった。その時は、まだ。
 雑談をしながら、少女と私の二人は歩を進めていく。
 10年前の校舎とは言え、同じ校舎には違いない。私は少女の目的地が段々と推察できてきていた。
「お父さんの働いている場所までは、あと少しです。あの坂を下れば見えてきますよ」
 眼下に横たわる下り坂を指さしながら、少女は言った。私たちの右手には、この大学を象徴する講堂が見える。
 この坂を下った先にあるのは、私も知っている建物だった。
 見上げるような階層の建物。ビルといってもいい。
 学生が勉強したり研究したりするだけのためのものとしては、いかんせん豪奢すぎるようにも思えるが、私も10年後同じ構内で勉強することになるので文句は言えない。
 それは主に理学部の生徒が利用する、理学部棟と呼ばれる建物だった。
 物理、化学、生物、地学。これらのいわゆる高校理科をさらに細分化したものを専門的に勉強する学部、それが理学部だ。
 機械や建築などの、より実地的な分野を扱う工学部とは、同じ理系の学部にしてずいぶん毛色がちがう。
「お父さんはここで助手をしているんです」
 少女はビルを仰ぎながら言う。
 理学部、助手。私の中でパズルのピースがぱちぱちとはまっていく。
 この10年前の時間軸においては、林田教授は理学部で助手を立っていたはずだ。私は実はこの少女が林田教授の娘で……という筋書きを妄想する。
 しかしパズルは最後の1ピースがどうやってもはまらない。私の知る限り林田教授に娘はいないからだ。
 少女と私の二人は、目の前で開いた自動ドアをくぐって理学部棟に足を踏み入れる。中は冷房が効いていて、外界で溜め込んだ熱気が身体から引いていくのがわかる。
「涼しいですね。この建物はいつも冷房が効いていて、助かります」
「そ、そうだね……あはは」
 少女への返答もそこそこに、私は首をくるくる回して周囲の様子を伺う。
 林田教授が、いるかも知れない。
 仮にいたとして、この時の林田教授は私のことを全く知らないはずなので特に問題は無いはずだ。だが予期せぬ状況でばったり遭遇してしまい、私が挙動不審になり怪しまれる、という事態はできれば避けたかった。
 ぎくしゃくとあちこちに視線を送る私はそれだけで十分挙動不審だったが、それに気を配る余裕は無かった。
 少女に連れられて、エレベーターに乗り込む。少女が行き先の階のボタンを押すと、6階を示すランプが頭上で光った。
 エレベーター内の壁には、各階にある研究室の案内板が貼られていた。知っている名前もあれば、知らない名前もある。
 6階には3つの研究室があった。その中の一つの名前が私の目に飛び込んでくる。
 それは、居酒屋で林田教授に聞いた研究室の名前だった。
 『俺が理学部にいた頃所属していた研究室で――』そういう説明で聞いた名前だった。
 私の頭の中で警報がますます声高に鳴り響く。
 目的階に着いたエレベーターのドアを押さえておいてくれている少女に礼を言いながら、私は何度も同じセリフを自分に言い聞かせた。
 林田教授に娘はいない。いないはずだ。
 そんな努力も虚しく、少女が足を止めたのは件の研究室のドアの前だった。ドアの横に貼られたプレートにはしっかりと記されている研究室の名前がじっとりと私を見下ろしていた。
「せっかくだから、お父さんを紹介しますね。この時間なら少しお話できると思いますから……」
 ドアの前で私の方を向いて少女は言う。背後で手を組んでいるその姿は、これから「お父さん」に会える喜びのせいかとても嬉しげだった。
 少女がドアをノックする。数瞬の後、ゆっくりとドアが向こう側に開いた。
 これだけ話を引っ張ったからには、当然だと思っていただけるだろうか。
 ドアの向こうには、林田教授がいた。いや、この時点では教授では無いので、きっちりと林田助手と呼ばせていただこう。
 林田助手は私の知る林田教授よりも、当然ながら若く見えた。髪の色はまだ白よりも黒のほうが優勢だったし、顔に刻まれた皺もずいぶん浅いように思える。
 林田助手は一瞬私に怪訝な目線をやった後、少女の姿に気づいた様子だった。
 その瞬間、林田助手の顔面の筋肉は弛緩剤でも打たれたかのような総崩れを見せた。
「京子~! よく来てくれたな。車には気をつけてきたか? 日射病にはならなかったか? 不審者に目を付けられたりしなかったか? お菓子食べるか~?」
 彼はそのままの勢いで少女の身体に腕を回すと、軽々とその体を持ち上げて頬ずりをしていた。その顔面の筋肉と同じくらい、私の中の林田教授のイメージもまた崩壊していく。
「や、やめてください、お父さん……人が見てますよ」
 そうだそうだ。私という人がちゃんと見ている。家族でなければ犯罪モノの行動を取る男の顔を両手で押し戻しながら、少女は必死で私の方に向き直った。
「あ、えーと、これが私の‘夫’の林田和希です。すいません醜態を晒しまして……」
 ……。
 ゲームなんかでよく石化、という状態異常があるが、この時の私はそれにさらに麻痺と毒の状態異常を一気にくらったような気分になった。
 私は何とか少女の言葉に応えようと唇を動かそうとするが、それらはパクパクと金魚のように閉じたり開いたりを繰り返すだけだった。
「い、いや、でも、ずっとその、お父さん、って言って……」
 やっと思いで口から出たのは、そんな途切れ途切れの言葉だけだった。
「え、あー、そうでしたね。自分の両親がお父さんお母さんって呼び合っていたもので、私もそうなっちゃって……。変ですよね、子供もいないのに」
 ああ、確かに時々いる。お互いをお父さんお母さんと呼び合うようになってしまい、そして喧嘩の度に「私はあんたのお母さんじゃないよ!」みたいな言い合いをする夫婦。
 それにしても、少女にしか見えないこの人が結婚できる年齢だったのが驚きだ。林田助手の妻ということは、私より年上ではなかろうか。
「そうだったんですか……いえ、とてもお若くみえるもので……」
 私は思ったことをそのまま口に出す。なんだかきざな男が未亡人を落とす文句のようになってしまった。
「あら嬉しい。そうね。よく言われるんですよ。夫と並ぶと親子にしか見えないって」
 口に手を当てて微笑む少女の、いや、京子さんの顔が、先ほどまでとは打って変わって妖艶に見えた。イメージというものは恐ろしい。
「京子、こちらの方はどなたなんだ」
「あ、そうね。えーと、この方は……」
 京子さんが私を林田助手に紹介している間も、私の状態異常は解けなかった。
 拝啓、10年後の未来にいる林田教授。一言だけ言わせてください。
 このロリ野郎!

     

 私は大学構内の坂道をてくてくと登っていた。先程は少女、いや、教授の奥さんの林田京子さんと一緒に登った坂道だったが、今私は一人だった。
 京子さんとは、林田助手の所属する研究室の前で別れた。夫婦の語らいに水を刺すのはあまり褒められた行いではない。バクに蹴られる前に、怪我の手当をしてもらった礼を言ってそうそうと立ち去ることにしたのだった。
 私の足取りは重かった。
 あの少女が、京子さんが、私がこの時代を訪れた理由だ。あの人が明日、8月26日にどういう目に合うのかを明らかにするために、それを止めるために、私は今ここにいる。
 だが、明日起こることがそもそも、私が京子さんと接触することで発生する事象なのではないか。そんな考えが頭を離れなかった。
『何のために生きているのかわからない』
 その言葉を聞いて、京子さんは『そんなことは考えたこともなかった』と言った。
 しかし居酒屋で聞いた教授の話が確かならば、確実に彼女は口にするのだ。
 今日、8月25日の夜。林田助手の前で。
 何のために生きているのかわからない、と。
 林田助手と京子さんとの喧嘩が、彼女の死の直接の原因かどうかは定かではない。それでも、彼らにとって何か大きな契機になっていることは間違いがなかった。
 私は京都で会った、未来から来た『私』の姿を思い出す。
 彼女は私の前になんの前触れもなく唐突に現れた。それが何を意味していたのかを、私はこの時になって初めて理解する。
 例えば、私がある日定食屋に行ったとしよう。私はラーメンを食べるかチャーハンを食べるかで非常に悩む。
 結局ラーメンを選択した私に差し出されたのは、味の薄い、麺のグダグダにゆだったとんでもない一品だったとしよう。
 食事を終えた私は『やはりチャーハンを選ぶべきだった。過去に帰ってチャーハンを選ぶように過去の私に助言しよう』と考える。それを実際に行動に移すことは可能だろうか。
 答えは、ノーなのだ。
 仮に私がそうしたとすれば、ラーメンを選んだ瞬間の私の目の前には、最初から未来から来た『私』が現れていなくてはおかしい。『ラーメンではなく、チャーハンを注文すべきだ』と助言していなくてはおかしい。
 私が誰の助言も受けずにラーメンを選択して、後悔した、というその事実は、もうすでに確定しているのだ。
 考えてみれば、これまで私に起こった事象の全ては、それと同じような法則で発生していた。
 例えがわかりにくいかも知れないので、一言で片付けよう。
 この世界には、パラレルワールドは存在しない。
 すでに確定している過去は、変えることができない。
 なぜこれまでにこの考えに至っていなかったのか、自責の念が私を苛む。これほどまでに時間遡行工学科所属という肩書きが恥ずかしくなったことはない。
 私は京子さんがなぜ死んだのかを知るために、過去に来た。そのことはいい。
 出来ればそれを止めるために、過去に来た。このことは駄目だ。
 京子さんは、明日死ぬ。
 これはすでに起こった事実なのだ。
 おぼつかない足取りで、私は歩き続ける。もうすでに、この時代にとどまるモチベーションが尽きようとしていた。
 これ以上ここにいても、無駄に事態を掻き回すだけなのではないか。
 後ろ向きな考えだけが頭の中で回る。回っては淀んでいく。
 重々しい雰囲気をまといながら、私は坂道を登りきる。そして、銀杏の木が枝を伸ばしている広場に差し掛かった時、それは起こった。
 初めは違和感。
 一瞬前まではうるさいほどだった、銀杏の木の葉ずれの音が聞こえなくなった。
 次は既視感。
 私はこんな世界を前にも体験していた。
 青々と茂る、銀杏の木の葉。後ニ三月で散ってしまうその葉が連なる木の枝。
 そのふもとに、葉の緑や木目の褐色とは明らかに違った色がぽつんと浮かんでいた。
 それは水色だ。
 水色のハット。水色のコート。
 上から下までその色で固めた紳士風の男が、そこにはいた。

     

 一見するとただ銀杏の葉が舞っているように見えた。しかし注視すればするほど、その光景の奇妙さが際立つ。銀杏の葉は一枚たりとも微動だにせず、まるで空中に張り付いているかのように静止しているのだった。
 私はあの夏の終わりの、京都での出来事を思い出す。しんと静まり返った化粧室。水のでない洗面台。そして、全身青ずくめの男。
 その時は、自分の中で彼をなんと名付けたっけ。確かその色のイメージそのままだったはずだ。
 空色オヤジ。そこにいたのは彼だった。
 彼は帽子のつばに触れて角度を整えながら、私の方に目を向ける。
「待っていたよ」
 そう言ってからこちらへと歩いてくる。そのかすれたダミ声もドラえもんのような足音も、数カ月前に聞いたのと全く同じものだった。
「若き日の林田教授、いえ、この時は助教だったね。彼とその奥さんに会ったよね」
 空色オヤジは私に問いかける。見た目と裏腹に口調が幼いのも記憶のとおりだ。
「なんでそれを……と言うよりも、なんでこの時間にあなたがいるんですか」
「その質問の答えがわからない? 君はそんなにバカじゃないはずだ。君に時間跳躍術を教えたのは一体誰だったのか、よく考えてみるといい」
 確かに、時間跳躍術を私に授けてくれたのはこの男だ。一瞬納得しそうになるが、私が尋ねたのはホワイであって、ハウではない。
「どうやってここに来たのか、じゃなくて、どうしてここにいるのか、が聞きたいんですが」
 私は思ったことをそのまま口にする。空色オヤジは口の端を少し上げて、目を細める。わかりにくいが、おそらく笑っているのだろう。
 彼は歪んだ表情を崩さずに、そのまま私に語りかける。
「ああ、君の言うとおりだ。さすがにごまかせないね。いや、ただ君に一つ質問をしようと思って、わざわざこの時間に来たのさ」
「質問?」
「そう」
 空色オヤジは止まった時の中を、なおも私に向かって歩いてくる。空中に静止した落ち葉を器用に避けながら、気がつけばもう私に触れられるくらいの距離まで近づいていた。
 空色オヤジは一瞬立ち止まってから、ばね仕掛けの人形のように唐突に私の鼻先に人差し指を突きつける。
「優秀な君のことだ。もう気がついただろう。君がこの時間をどんなに駆けずり回って努力した所で、京子さんの命を救うことはできない」
 私はその指摘に目を白ませる。
 確かにその通りだ。先程思考してたどり着いた結論。私は京子さんを自殺の運命から救うことはできない。
「私のいた未来で京子さんが死んでいるなら、それはもう事実で、変えることはできないってことですよね」
「そういう事」
 空色オヤジは手を引っ込めると、そのままコートのポケットへと突っ込んだ。なんとなくふてぶてしい態度と、人をおちょくったような態度になんとなく腹が立ってくる。
「彼女を救うことはできない。じゃあそれで君はどうするんだ? 彼女がどうやって死んだかを観察して帰るかい?」
「それは……」
 私は京子さんを死の真相を知り、出来るなら救うためにここへ来た。だが、自分の中で、その「出来るなら」が思っていた以上に重くなっていることに気がつく。
 それはもう「出来るなら」なんて枕ことばは必要のない、私の確固たる目的になっていた。
 今日ほんの少しの時間だけ、彼女と触れ合った。
 そしてそのほんの少しの時間で感じたのだ。死なせたくないと。
 だが、彼女にどれほど忠告しようとも。最悪強硬手段に出て、彼女を監禁しようとも。
 明日彼女が死ぬのは、「事実」なのだ。
 歴史を書き換えることは、誰にもできない。そして彼女の死に顔を見るだけ見て帰る、なんてこともしたくない。
 この空色オヤジに先程出会う前に、私の心はもう決まっていたのだ。
 このまま何も見ずに帰ろうと。
「それでいいのかい」
 空色オヤジは私の心を見透かしたように言う。そのつぶやきのようなボリュームの問いかけに対して、私の返答は半ば叫びだった。
「良くないっ……」
 悔しい。私はうつむいて、ぎゅっと拳を握り締める。
 悔しい。歯を食いしばる。
「助けたいに決まってるっ……でも、無理なものは、なにやったって絶対無理だよっ」
 私の叫びは、止まった時間に吸い込まれていった。空色オヤジはそんな私をじっと見ながら、やはりにやけたような不愉快な表情をしていた。
 科学に絶対はない。なんて素晴らしい響きだろう。だがそれは、現在もしくは未来の事象に限る、という但し書きのもとでしか成立しない。
 絶対はある。過去にすでにあった「事実」。これだけは絶対に揺るがない。時々揺らぐような気がするのは、事実そのものではなくその解釈が揺らいでいるに過ぎない。
 ふと、静止した時の中で風が吹いたような気がした。
「……彼女を助けられる、としたらどうする?」
 私は一瞬、彼の言った意味がわからなかった。
 しかし数瞬でその言葉を咀嚼して、その意図を確かめる。
「たすけ、られるの?」
「京都で君が習ったものはなんだったっけ」
 空色オヤジのもったいつけた言い回しにイライラしつつも、私は記憶を巡ってその答えを探す。
 果たして、その答えは見つかった。
「『時間遡行術』……『・初級』……だ」
 私は無意識にそれを口にする。確かにそう言った。私にこの力をくれた未来の私は、たしかにそう言ったのだ。初級、と。
「何度も言うようだけど、頭のいい君のことだ。次に僕が何を言うか、もうわかったよね」
 空色オヤジはポケットに突っ込んでいた手を引きぬいて、その手に握っていたモノを私につきつける。
「時間遡行術・中級。君に教えよう」
 その手に握られていたのは、栄養ドリンクの小瓶。
 この前の京都でのものとはメーカーの違う、赤と黄色のなんとかCという名前のものだった。

     

「この間のリポDと同じだよ。これ自体はただのオロナミンCドリンクだから、怪しまないで飲んじゃってくれ。1965年発売の由緒正しき栄養ドリンクだ」
 私は空色オヤジから茶色い瓶を受け取りながら、京都で飲んだリポDを思い出していた。わざわざ正式名称であるオロナミンCドリンクと言ったのが少し気になる。
「前のと同じで……『意識を変えるお薬』、そういう認識でいいの?」
 私は空色オヤジに確認を取る。あの時のリポDはそう説明されたはずだ。
「そんなところだね。時間遡行術は頭の中での認識をちょっと変えるだけでできるお手軽なものだから」
 簡単に言ってくれるものだ。こいつがいつの時代から来たかは知らないが、時間遡行工学科に在学する学生はそれができなくて毎日ひーひー言いながら研究にいそしんでいるというのに。
 この私もその一人なのは言うまでもない。
「わかったよ。嘘だとしても確かめるすべもないしね」
 そう言って私は瓶の蓋に手をかける。気持ちのいい音とともにそれを引き剥がすと、腰に手を当てて一気に喉へと流し込んだ。
「ふぅ……これでいい?」
「もちろん。ふふふ、林田助手の奥さんを助けたいというのは、どうやら本気みたいだね」
 口角を釣り上げて微笑む空色オヤジの顔には一片の可愛らしさもない。私は睨み返すことでその言葉に返事をする。
「さて、それじゃあ時間遡行術・中級の講義を始めようか」
 返事をしない私をどう思ったのか、空色オヤジは居住まいを正して語りだす。
「基本からおさらいしよう。時間というものは3つの要素からできている。何と何と何だったかな」
「幅、奥行き、高さ」
 私は即答する。時間遡行工学の基本だ。
「その通り。君が以前に教わった時間遡行術・初級では、そのうちのどれを扱ったか覚えているかい?」
「……時間に奥行きがあることを意識しろ、って習った気がする」
 私は少し考えてからそう応えた。確かそんなことを言っていたはずだ。
「……つまり、中級では幅か高さについて教えてもらえるってこと?」
 私は空色オヤジの返答を待たずに続ける。
「うん。中級では、時間の『幅』を意識してもらおうと思う」
 オヤジはあっさりとそう言った。時間の幅、それについて学べば京子さんを助けることが出来るのだろうか。
「君は時間遡行術・初級を学んだ。それは言わば暗闇の中に一本の道を照らされたようなものだ」
 私はオヤジの方を向き直る。
「自分が道の上に立っていて、前と後ろに進むことが出来る。そう認識できたってことさ。それまでは暗闇の中手探りで前にだけ進んでいたのにね」
「わかりやすいのかわかりにくいのかわからない例えだね。奥行きがそれなら、幅はなんだって言うのさ」
「幅は、道の分岐点さ」
 もしもオヤジがタバコを持っていたならば、ここでそっと火をつけただろう。そんな印象すら覚えるほど彼はハードボイルドな雰囲気を漂わせていた。
「一本道だと思っていた道は、実はそうじゃないんだ。どこかで別れて、どこかでつながって、平行して走る道もたくさんある」
 私は言われた言葉を精一杯噛み砕こうとする。
 道は、時間の流れの例えのはずだ。
 並行する道がある。それはつまり--。
「つ、つまりその並行した道の中には……」
「そうだ。林田助手の奥さんが死なない道も、あるかも知れないってことだ」

 パラレルワールド。SFなんかでよく聞くやつだ。
 今自分がいるのとよく似た世界がどこかにあって、でもその世界はどこか違っている。世界観としてはかなり使い古されたものだ。

「つまり、パラレルワールドの中から、奥さんが死なない世界を見つけ出せばいいってわけだね……」
「うん。だいたいあってるけど、ちょっとだけ違う」
「え?」
 オヤジの言葉に私は目を白ませる。
「確かに、そういう世界を見つけることは必要だ。でもそれだけじゃ駄目だろう?」
「それだけじゃ、って……どういう……」
 私は腕を組んで考えこんでしまう。
 パラレルワールド。今私がいるのと、ほとんど変わらない世界。
 そこには教授がいるだろう。奥さんがいるだろう。そしてもちろん--。
「私が、いるっ……」
「そうなんだよ。パラレルワールドにはもう一人の君がいるのさ。そいつを何とかしない限り、君はあくまでも別の世界から来た異世界人でしかない」
 何とかする。
 何とかするって、なんだ。
「いやなに、殺せなんて物騒なことは言わないさ。君は、パラレルワールドものの小説を読んだことある?」
 ある。もちろんある。時間遡行モノは大体読んでいる。私だって一介の時間遡行工学者だ。
「あるけど……それがなんの関係があるのさっ」
「ああいう話って、冒頭はどんな感じで始まることが多いかな?」
「ぼ、冒頭?」
 私は一番好きなパラレルワールドものの小説を思い出す。
 それはたしかこんな書き出しで始まっていたはずだ。
「『一体全体どうしてこんなことになってしまったのか。ある朝目を覚ました僕は、自分が今までとは全く違う世界に迷い込んだことに気がついてしまった』」
「おお、僕も好きだよ。その小説。それで、考えて欲しいんだ。その主人公はなんでその世界に迷い込んでしまったんだろう。元々その世界にいた主人公はどこに行っちゃったのかな?」
 そんなこと、深く考えたことは無かった。これはそういう物語なのだ。たしか物語中でも言及はされていなかったはずだ。
 ここは逆から考えてみよう。元々この話になったのは、『自分がパラレルワールドに移動したい時、そのパラレルワールドにいるもう一人の自分をどうするか』という話だった。
 そいつをそこから排除したい。でも殺すなんて残酷なことはしたくない。ということはどこか別の世界に移動すれば--。
「あっ」
「うん。そういう事なんだ。あの主人公。別の世界の自分に入れ替えられてしまったのさ」
 オヤジはそこで一拍置く。
「あの主人公、パラレルワールドに飛ばされて大変な目に合うよね。アレと同じだ。君もこの悲劇的な世界を、別の世界の自分に押し付ければいい」
 夏空の元、私の背筋に寒気が走った。

       

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Neetsha