Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
林田教授

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 私はもしかしたら世界をひっくり返せるようなとんでもない力を手に入れてしまったのかもしれない。いや、もしかしたらなんて曖昧な表現では追いつかない。間違いようもなく、疑いようもなく、私にはそんな力が備わってしまったのだ。
 やろうとする意志さえあれば、私は競馬で一山当てて億万長者になることができるだろう。凄腕の経済評論家になれるだろう。預言者にすらなれるだろう。力を持つものが世界を制した時代はとうの昔に終わりを告げていて、情報を持つものが取って代わった現代において、もっとも価値のある情報は未来の情報。そんなセリフをマンガで読んだ気がする。
 しかし実際にそうできる力が手に入ったところで、私のような小市民にはなにが出来るわけでもなかった。考えてもみてほしい。あなたに今世界中の軍隊を意のままに操れる力が備わったとしたら、あなたはそれをどのように使うだろうか。あなたがガンジーのような平和主義者なら、すべての軍隊を解体するかもしれない。過激なカルト宗教の教祖なら、自分の力を世界に示すためにことさらその力を行使するかもしれない。しかし、常識的に考えてあなたがそのどちらかである可能性はそんなに高くはないだろう。
 私もまたそのいずれでもなかった。F1カーにくくりつけられた蟻のように、その大きすぎる力にただただ面食らっていた。誰が近所のスーパーに買物に行くのにF1カーで乗り付けるだろうか。私の極めて一般的な日常には、こんな力を使わなければ解決できないようなことはそうそう転がっていなかった。
 せいぜい遅れそうなレポートの提出の前にちょっと時間を遡るくらい。それも15分ずつ小刻みに。浦島太郎のように周りより早く年を取るなんて真っ平御免である。
 私が京都から戻って二ヶ月が過ぎようとしていた。京都に行く前と違うのは、せいぜい温かいコーヒーが美味しく感じられるような季節になってきたことくらいだ。あれから一度として空色オヤジが私の前に姿を現したことはない。
 いつものように研究室のデスクに浅く腰掛けて、頭の後ろに両手をやってぼんやり虚空を眺める。今日は林田教授は別のキャンパスに講義をしに行っているために、そんなふうに多少だらけた様子を見せても頭に教科書が振り下ろされることはない。鬼のいぬ間になんとやらだ。予定では教授は夕方まで戻ってこないことになっている。私は時計を眺めて、後2時間はゆっくり洗濯し続けてもいいことを確認した。
 私は最近ひたすら考え続けている議題を脳内会議に提出する。
 時間遡行能力を使って、私にはなにができるのか。議会は今日も紛糾するだろう。
 紛糾するだけして、私の脳内会議は結局なんの収穫も得られないまま閉会する。結論はいつも同じだ。
『私ごときが世界を救おうなんておこがましい』
 仮に私がこの力を使って努力を重ねて、世界をおびやかしている巨悪を打ち倒したとしよう。断言しても構わないが、私は調子に乗るに違いない。
 神の如き力で、人間の所業をする。考えうる限り最悪のシナリオだ。核弾頭のスイッチを握らされた幼児は、いつ好奇心でそれを押してしまうだろうか。
 だったら最初から危うきには近寄らずだ。世界を救おうとして、その力に依存して逆に世界をぶっ壊すくらいなら、最初からなにもしないほうがいいに決まってる。
 私がなにもしなくても、世界はこうして回ってきたのだから。
 単なる一般人の私にそんな価値なんか無いさ。そう思って自分の怠惰なよどみにフタをする。それが正しいことなのかどうかもわからずに。
 議会の出席者が全員帰宅し、私の意識は心地良いまどろみに溶けこんでいく。教授が帰ってくるまでには起きなきゃなぁ……。それが意識が溶けきる前の最後の思考だった。
 その次に私の意識が感じたのは、外界からの刺激に脊髄が反射したという事後報告だった。
 簡単にいえば、なんらかの強烈な刺激が脳天に走り痙攣した私の身体が椅子から転げ落ちた。状況は分かっていただけるだろう。私はどうやらタイムリミットを寝過ごしてしまったようだ。
 恐る恐る顔をあげると、仮説が確信に変わる。果たしてそこには、無表情の仮面の下からすら吹出す怒りをたたえた林田教授の姿があった。
「研究室で居眠りとはなにを考えてる。お前はなんのためにここにいるんだ。反省しろ」
 伝えたい事だけを淡々と伝えて、林田教授は自分のデスクへと戻ろうとした。
 思えば、この時の私の行動が始まりだったのだろう。ドミノ倒しの最初の一ピース。世界記録を狙ったそのドミノを健気に立てたのは、おそらく私自身。プロデュースは空色オヤジ。
 寝る前にした深い思考のせいで判断力を欠いていたに違いない。いつもならただ一言謝罪して、自分の仕事に戻るだけだった。それなのに、何故か私の口からはボソリと別の言葉が飛び出したのだった。
「……自分でもわからないですよ。自分がなぜここにいるのか。……私なんかが……なんでこんなコトに……」
 京都から帰ってきて、なにも変わっていないと思っていた。だが私は確実に、悩んでいたのだ。
 誰かに相談したって、ただ病院に連れいかれるだけだろう。突然降って湧いた大きな大きな悩みは、私の中で行き場を失っていたのだ。
 私の言葉に、林田教授はその場でピタリと足を止めた。止めただけで振り返らない。その背中は私になにも語りかけなかった。
 聞きようによってはこの研究室を選択したことを後悔しているようにも取れる発言を、教授は一体どんなふうに受け止めただろうか。私は自分の両目がじんわりと湿っていくのを感じながら教授が振り返るのを待った。
 それはおそらく一瞬あとのこと。それは変な能力とは関係なしに、私には数時間のようにも感じられた。教授の首がゆっくり回って私の方を向く。
 教授は今まで私が見たことのない顔をしていた。
 憤りではない。侮蔑でもない。諦観でもない。
 そこにあったのは深い悲しみだった。

     

 振り向いた林田教授の顔に浮かんでいた悲しみは、ほんの一瞬の間にわずかの余韻も残さずに消えてしまった。教授はいまや悲哀など微塵も感じさせない憤怒の形相でそこに立っていた。
 私は身体をビクっと硬直させてその場で動けなくなってしまう。完全に蛇に睨まれたなんとやら状態である。
 ほんの数瞬の間に、私は自分の失言を数十回に渡って悔いた。と、とりあえず謝らないといけない、動転している頭の出した結論はそれだった。
「あ、あの……申し訳ありません! 別に研究室に不満があるとか、そういったことではないので……お気になさらないでください……!」
 私は地に頭をこすりつけるくらいの勢いで精一杯謝罪する。先ほど教授に頭を叩かれたときに椅子から落ちて床に膝をついていたので、ほとんど土下座に近い格好になってしまった。
 少しの間教授は何も言わなかった。私の視界を床だけが埋め尽くして数十秒後、ようやく教授は口を開いた。
「……さっき言ったことを、もう一度言ってみろ」
「さ、さっき……ですか。え、えーと……」
 私は教授の突然の命令に困惑する。さっき言ったこととは、教授を激昂させてしまったこのセリフのことだろう。
「『自分がなぜここにいるのか、わからない』、ですか?」
 私がそれを口にすると、教授はつかつかと私の方に近づいてきた。
 やはりこのセリフはまずかったのだろうか……私はまた叩かれると思い、目の前で足を止めた教授を見上げる形で震えていた。
 案の定教授は手にしていた丸めた教科書を高く振り上げた。その高さは私がこの研究室に配属されてからの新記録をマークするレベルだった。当然振り下ろしたときの痛みも新記録に違いない。位置エネルギーは高さに比例するのだ。
 私がそんな見当違いなことを考えていると、いよいよ教授の腕が私に向かって落ちてくるところまで来ていた。
 私は自分の頭を襲うであろう激痛に備え、目を固くつぶり全身に力を込める。
 目の前に火花が……なかなか走らなかった。
 自分の耳に響くはずだった轟音の代わりに、ぱすっ、というような間の抜けた音だけが広がった。
 恐る恐る開いた私の目にまず入ってきたのは、私の頭にあてがわれた教科書だった。それは高速で振り下ろせばなかなかの衝撃をもたらすが、今回はゆっくりと私の額に添えるような速度で振り下ろされたためになんの撃力も生まなかったようだ。
 私の視線は教科書からそれを支える手、腕、そして教授の身体に移動する。
 最後に私の目に入ってきたのは、教授の顔だった。
 その表情は先程までの厳しものと変わらないようには見えたが、食いしばった歯も、眉間に寄った皺も、先ほどとは違った印象を私に与えた。
 それは教授の目尻に涙が滲んでいたからだろう。
 思わず私はきょとんとした顔で教授を見つめてしまう。いい大人が二人して涙目で見つめ合っている姿はなかなかに滑稽だったのではないかと思う。
 私のそんな視線にようやく気がついた教授は、心持ち顔を赤くして素早く教科書を振り上げると、今度こそ私の頭に高速でそれを叩き落とす。
 今までにない痛みに私が戦慄している間に、教授はさっさと自分の席に戻ってしまった。
 そしてしばらく騒がしかった研究室に残ったのは、教授が定期的に論文のページを捲る音だけになった。
 結局のところ、なぜあそこまで教授が激昂したのか、あの涙の意味はなんだったのか。私にはわからずじまいだった。
 気まずい夕方の時間を切り上げるために、私はさっさと身支度をすると逃げるように研究室のドアに手をかける。
「……お先に失礼します」
 聞こえるか聞こえないかくらいの音量の、形だけの挨拶を教授に送る。
 返事を待たないまま私がドアを開いた瞬間だった。暗い廊下を目の前に、後ろの明るい部屋から声がかけられた。
「……待て」
 この部屋に私以外の喋れる生命体は一人しかいない。
 その生命体はさらに言葉を続ける。
「今晩は、時間はあるか?」
 これまでにかけられたことのないセリフは、私に頭に滲み込むのに少し時間を必要とした。

     

 私は居酒屋というものが少し苦手だ。いや、お酒は大好きなのだが居酒屋が苦手なのだ。
 個室のないお店だったりすると、テーブルをいくつかくっつけた若者たちが周りもはばからずに馬鹿騒ぎしている時があったりするので、特に苦手意識がある。
 だから居酒屋に来るのはどうしても避けられない時だけということにしている。お酒が飲みたいときは自分のアパートで飲めばいいのだ。
 そんな私が今こうして居酒屋に足を踏み入れたというのは、教授のお誘いという避けようにも避けられない打診があったからである。
「……飲みに行くぞ」
 教授の誘いの言葉は通常男性が女性にするそれとはかなりかけ離れていた。林田研究室に所属してからそんな言葉を聞くのは初めてだった私は、思わず首を縦に振ってしまったというわけだ。
 手早く帰り支度を済ませた教授は「ついて来い」とだけ言って、大学の色のついた門をくぐり、最寄りの地下鉄の駅へと向かう下り坂をずんずんと歩いて行ってしまった。
 たどり着いたのは駅前の古びたビルの二階にある、チェーン店の居酒屋だった。こういった店に先陣を切って入るのはなんとなく気後れをしてしまうのだが、今日に限っては同伴者がなんの躊躇もなくドアを引いてくれたため気軽なものである。
「……二人だ。禁煙で頼む」
 私たちが店内に入って間もなく小走りで駆けつけてくれた背の低い女性の店員に向かって、教授はそのように告げた。
 教授はタバコを吸わない。見た目だけではカタギと判断しかねるようなその風貌からはちょっと意外だ。前に昼食をご一緒したときに、沈黙に耐えかねてタバコを吸わないのか聞いてみたことがある。
「昔は吸っていたが、やめた」
 そんな感じで結局大した時間稼ぎにもならなかったのだが、禁煙家というのは私が知る教授の数少ないパーソナリティの一つである。
 パーティションで区切られた二人掛けの席に案内される。席に着き目の前でおしぼりに手をかける教授を見て、ようやくこれから教授と二人きりでお酒を飲むのだと実感した。おそらく数時間は一緒にいることになるだろうが、果たしてうまく過ごせるだろうか……。
 先ほど案内してくれた店員が、お通しを持ってくるついでにドリンクの注文を取りに来る。それに対して教授はおしぼりで手を几帳面に拭きながら、顔も上げずに次のように言った。
「生一つと、あとカシスオレンジを一つ」
「あ、先生。私も生で大丈夫ですけど……」
 最初の一杯からカクテルを頼むような若者が最近多い、というのはよく聞く年寄りの愚痴である。それに迎合するわけではないが、私も最初の一杯くらいはビールを飲みたいと思う。お疲れ様、と言いながら乾杯するのだから、同じ飲み物でお互いに疲れを労いたいではないか。
 私のそんな言葉に、教授はまだ一杯も飲んでいないのに顔を少し赤くして、
「……カシスオレンジが俺のだ」
と言った。
 私は店員のお姉さんが小さく吹き出したのを見逃さなかった。あぁわかるよ。こんな風に照れられたらそりゃあ笑いたくもなるだろうさ。
「し、失礼しました! とりあえず注文は以上で大丈夫です……」
 私が慌てながらそう言うと、お姉さんも気まずかったのかそそくさと退散してしまった。その背中が厨房らしきカーテンの向こうに消えるまで、教授は腕を組んで口を真一文字にしていた。不機嫌を装っているのかも知れないが、薄暗い店内でもわかるくらいに頬が紅潮している。
「……ビールは、あまり好かんのだ。あまり酒に強い方ではないし、そもそも味がな」
 最初のドリンクが来るまでの間に教授はそんなことを言った。禁煙とは違って、教授が下戸というのは初耳である。考えてみれば私は教授とお酒の席に同席したことがあっただろうか。
 林田研究室は歓迎会すら校内のカフェで済ますような研究室である。おかげで歓迎会と言っても、私と教授が無言で紅茶をすするだけのなんとも小規模な会合になってしまった。
 会話が途切れる。なんとなく気まずい沈黙に、私は早くドリンクが来て欲しいと切に願った。とりあえずアルコールが入ってしまえば砕けた雰囲気にはなってくれるだろう。
 そうすれば、教授がこんならしくない誘いをした理由もきっと分かるに違いない。
 結果から言えば、アルコールは確かに場の空気を砕けたものにはしてくれた。到着した各自のドリンクを手に取り、教授の相変わらずのテンションでの乾杯の音頭に合わせて、私たちはお互いのジョッキをぶつけ合う。
 私はジョッキの半分くらいを、教授はそのさらに半分くらいを一口で飲んだ。
 身体を駆け巡るエタノールを感じて、私は少し熱い息を吐いて体の力を抜く。
 そんな私以上に力の抜けた声が、ふと目の前から聞こえた。
「ふぅ……酒ってうまいな。いや、本当にうまいな! おい、お前! 今日なんで俺がお前を酒に誘ったかわかるか!?」
 えぇ。いきなり本題に入っていただけて、非常に光栄です。
 そこまで下戸だったのか……。
 私は顔を押さえて、いつもより心持ち高い声で喋る教授の言葉に耳を傾けるのだった。

     

「いいか。人間がこの世に生まれて、意味が無いなんてことはないんだ。たとえお前のようなあまり出来の良くない、担当教官に迷惑ばかりかけてしまうような人間でもな」
 居酒屋のボックス席に、普段研究室で聞くよりもかなりボリュームの大きな声が広がった。
 席についてから約一時間半。それなりに長い時間飲み会を続けているのに、私たちが空にしたジョッキはわずか4杯で、しかもそのうち3杯は私が飲んだものだった。
 『なんで俺がお前を酒に誘ったかわかるか!?』飲み会の冒頭にそう言った教授だったが、その答えは未だに聞けていない。たった一杯のカクテルで完全に出来上がってしまった教授は、先程から同じ話を堂々巡りで続けている。その要約が先の「いいか。人間が〜」のセリフというわけだ。
 他の人間から聞けば嫌味に聞こえるかも知れないが、こと林田教授が私に告げる分にはこのセリフにはなんの嫌味もない。
 私が今まで教授に散々迷惑をかけてしまっているのは一切の誇張のない事実である。
「去年の卒論も、なんだあれは。全く研究を進めないで、提出ギリギリになって泣きついてくるとはな……もっとしっかりしてくれないと困る」
 その節は本当にお世話になりました。
 大学院入試が終わったのが大学四年の9月。それから卒論提出の2月まで、私は受験疲れを言い訳にひたすら研究もせずデスクでYouTubeを見続けていたのだった。
 結局その間私が学んだのは、いかにして自分の背中で教授からパソコンの画面を隠すかというコトだけ。提出が近づいた一月の半ばになって、私はようやくYouTubeでは卒業論文は書けないという当たり前の結論に至ったのだった。
「本当に手間のかかる生徒だよお前は……」
 そう言って教授は自分のジョッキをあおる。八割方溶けてしまった氷が、僅かな水滴だけを教授の口に運んだ。さっきから何度かドリンクのおかわりを尋ねてみたが、これ以上アルコールを飲む意志は無いらしい。
 結局教授が私を居酒屋に誘ったのは、これまでの溜まりに溜まった私への愚痴を吐き出したかっただけなのだろうか。確かにこうして眼の前で愚痴ってもらった方が私としても反省につながるが、教授が不平を漏らすためだけにわざわざ私を酒の席に誘うとは考え難かった。私の不甲斐なさに対しては、頭をひっぱたくという幼児でもわかるボディーランゲージでしっかりと吐き出していると思うし。
 私が帰りの電車の時間を気にし始めた時、腕時計からふと目の前に目線をやると、そこには俯き加減で何かを思案している様子の教授がいた。
 かなり酔っていたようだから、気分がすぐれないのかも知れない。教授が思いつめたように口を開いたのは、私がそんなことを考えた時だった。
「……確かにお前は出来があまりよくないし、しかもそれを丁寧にフォローするだけの面倒見の良さも俺にはないかも知れん。しかし、しかしだな。『自分がなぜここにいるのかわからない』なんて、そんなことは言わないでくれ」
 かつて聞いたことのない、優しく諭すような声が教授の口からこぼれ出た。私は身体を硬くして、その声に耳を傾ける。
「そういうことで思いつめて、しかも気づけばいなくなっていて、そんなのは俺は、もうたくさんなんだ」
 そう言って教授はおしぼりで目頭を抑えた。そんな教授に何を言ったらいいかわからず、ただただうつむいてしまう私に、おしぼりの向こうからさらに教授の声が届く。
「お前を見ていると昔を思い出すんだ。まだあいつがいた頃のことをな」
 その言葉にふと私が顔を上げると、教授は、言い過ぎた、とでも言いたそうな気まずい表情でおしぼりを握っていた。
 私は踏み込んでいいのか迷いつつも、教授が一瞬さらけ出した本心へと足を踏み出していく。
「あいつと言うのは、どなたのことですか」
 教授は数瞬の間躊躇するような素振りを見せてから、短く答えた。
「俺の、妻のことだ」
 私のジョッキに入った氷が、からん、と音をたてた。

     

「今はあまり珍しくないかも知れないが、俺は父子家庭で育ったんだ。親父も俺と同じような仕事人間で……、俺は小学生低学年から鍵っ子だった。……鍵っ子っていうのはもう死語か?」
 私は小さく「いえ」と答えて、教授に先を促す。
 教授の人差し指と親指が、枝豆の腹を潰して中身を押し出す。そのまま口に吸い込まれていく枝豆は、鮮やかな緑色をしていた。
「小さい時に、家に帰って誰もいないのがさみしくてなぁ。親父は料理なんかできなかったから、自分で夕飯を用意して、親父の帰りを家でひとりで待ったよ」
 割合ヘビーな教授の少年時代に、私は口角を下げる。私の知らない教授のパーソナリティが次々と泡のように浮かび上がっては、順番に消えていくようだった。
 教授の始めた独白に、私は気付かれない程度に頭を振って酔いを覚ます。
「それでも親父のことは尊敬していた。子供心に親父が大きな仕事をしていたのは分かっていたし、機嫌のいい時に話してくれる研究の話はいつだって刺激的で、わくわくしたもんだ……」
 覆水を盆に返そうとするような、もう戻らない日々を懐かしむ様子が教授から滲んでいた。
 教授のお父さんが健在なのかどうかは分からないが、なんとなくすでに亡くなっているように感じられた。
 自分が教授くらいの年になったときに、私は時分の親に何を感じるのだろうか。
「親父に聞いた話に興味を持って、だんだんと自分で調べるようになっていった。考えてみれば、研究活動に興味を持ったのもやっぱりおやじの影響なんだろうな」
 しみじみ、という言葉が世界一似合いそうな、熟成しきった人間だからこそ醸し出せる風合いがあった。
 教授はそこでふと目を泳がせる。
「おっと、話がそれたな……妻の話だった。まぁ、ある意味じゃまともな家庭に育っていない俺が家庭を持つとなっちゃあ、それは戸惑ったもんだ……」
 教授の話は問題の奥さんの話へとシフトしていく。
 その表情もまた、先程までとは毛色の違う色合いへと移り変わっていった。
「俺には過ぎた妻だった。何でも如才なくこなしていたし、全く自分を省みないで研究に打ち込む俺にもなんの文句も言わなかった」
 教授は空のグラスを持ち上げて目を細めながら言った。
 私としては出会いの部分がすごく気になったのだが、そこに関しては拝聴することはできないらしい。
「……研究がうまくいかずに何日も家に帰れない時も、それをようやく終えて家に帰れば必ず飯を作って待っていてくれた。『おかえりなさい。おつかれでしょう』と、嫌そうな顔一つせずに言うんだ」
 そう言って頬を緩める教授の顔は、普段研究室で見るそれとは違う人間のようだった。厳格さも、剛健さも、寡黙さもない、心が弛緩しきった安らかな表情をしていた。
「おかえりなさい、って言葉は言われ慣れていない人間が聞くと心底嬉しいもんだ。自分の居所を保証する言葉だからな」
 現在一人暮らしをしている私にも、その気持ちはなんとなくわかるような気がした。地元を離れて都会でひとりで暮らすというのは、自分の居場所を探し続ける旅に出るようなものだ。
 それが早く見つかる人にはわからないかも知れないが、人間というものは寂しさで死ねるのだ。ウサギではないにしても。
 私は自分の思考内に登場した「死」という言葉に、ふと強い印象を受けた。
 教授の奥さんとの話は非常に心温まる。それは一応幸せな家庭に育って来た私にも十分に訴えかけるものがあった。
 だが、教授は意味のない自慢話を語るためにわざわざ生徒を酒に誘ったりはしない。
 そこには必ず何らかの私に伝えるメッセージがあるはずだ。だからこの話の、この後の展開はなんとなく分かってしまっていた。
 教授が繰り返す過去形の言葉たち。
 きっと、ハッピーエンドではないのだ。
「素晴らしい奥さんですね。……私もお会いしてみたいです」
 私は「その後の展開」を促すために、こんな言葉を教授に投げかける。
 残酷な言葉だ。
 だが、それでも今ここで聞かなければいけない話だと私の中の何かが告げていた。
「……そうか。ありがとう」
 短くそう答えた教授は、さらに言葉を継ぐ。
「だが、もうお盆は過ぎてしまったから、彼岸まで待ってくれないか」
 その返答は、なんとなく分かっていた。

     

 教授は伝えたい内容をどう言ったものか迷っているかのように、グラスに右手をかけてじっと自分の手首のあたりを見つめていた。
 一つ前の発言から時間が経つこと2分と少しくらい。教授は酒のせいか話す内容への気の進まなさのせいか、すっかり動きの鈍くなった唇を動かし始めた。
「……当時俺は、今の大学で助手をやっていたんだ。今は助手ではなく、助教と言うけどな」
 その話は聞いたことがあった。今でこそ工学系研究科の教授職として教鞭を取っているが、それまでは理学部で助教をやっていたということだったはずだ。
「そう、理学部の物理学科だ。専門は今も昔も時間遡行学だけどな。当時は今ほど注目されていない分野だったから、予算も今より少なくてがむしゃらに働いていたよ」
 今の林田研究室も決して裕福な研究室ではないことを考えると、当時の予算はさぞかし限られていたのだろう。資金的に豊かではない研究室は、実験器具を他の研究室に借りたり共同研究を行える相手を探したりと、仕事の量が増えような何らかの工夫をして何とかする場合が多い。
 その意味で、当時の教授は今よりもはるかに忙しかったのだろう。
「そんな状態だったから家にもあまり帰れなくてな、っとこれはさっきも話したか。そんな時には妻が大学に荷物や弁当を持ってきてくれていたんだ。さすがに研究室で会うわけにもいかないから、校舎の屋上で会っていたんだが……」
 教授が奥様と仲睦まじく屋上で語らっている光景を想像して、私は自然と頬が緩んでしまった。奥さんの顔は知らなかったが、なんとなく教授の奥さんは大人な感じの日本美人なんじゃないかな、と思った。
「そんな風に、忙しかったが充実した毎日を送れていた時だった。何かの仕事に追われて、しばらく帰宅できない日が続いて、そしてようやく仕事を片付けて、帰宅できた日のことだったな。俺が玄関の戸を開けたら、目の前で妻が正座していたんだ」
 教授は長台詞をそこで一旦区切った。ごくりと鳴った喉から、次のセリフが吐き出される。
「旅館の女将じゃあるまいし、それまでにそんなことは一度もなかったら、俺は驚いた。しかも妻は俺が帰宅しても一言も口を聞かずにただ俺の方をじっと見ていたんだ。何事かと思ったよ」
 先程までグラスを握っていた教授の右手は、今は左手と組まれていた。教授は相変わらず俯き加減で、まるで親指の付け根に乗っかった小人に話しかけているかのようだった。
「とにかく妻を立たせて玄関から居間に連れて入った。その間も妻は終始無言で、目もどこか虚ろだった。どうしたら良いかわからなかったよ」
 そう言う教授の口元はわずかに震えているように見えた。読み返したくない本のページを恐る恐るめくっているような、そんなペースで教授は話を続ける。
「『どうした、何があった』と俺は聞いた。それに対して妻はこう言ったんだ」
「『なんのために生きているのか、分からなくなった』とな」

     

「ここからの話はそんなに面白いものじゃない。妻の言い分は、ありふれた専業主婦の小言を100人分集めて煮染めたような、そんな内容だったよ」
 教授は手にしたお冷のグラスの縁で唇を擦りながら、自嘲したようにそう言った。ちなみにお冷はさっき私が教授の酔いを覚ますために注文したものだ。
「仕事でなかなか帰らない俺と、子供のいない我が家でひたすら家事をする生活への嫌気。『なんのために生きているかわからなくなった』なんて大それた言葉を吐く原因にしては、俺にはどうにもちっぽけすぎるように感じられた」
 専業主婦の働きは年収1000万円に相当する、なんてことを堂々と胸を張って言えてしまう主婦がいる。個人的には少々主張が強すぎやしないかと思うが、専業主婦をやったことのない私には彼女たちの苦労や苦悩は決してわからない。そしてそれは私だけではなく、教授にも同じことが言えたのだろう。
「話し合い……というか喧嘩は一晩続いたよ。結婚してからそれまで、派手な言い争いなんて一度もしたことがなかったから、お互いにやり方もよく知らなかったんだな。次の日の朝になって『一晩ぶっ続けで喧嘩するとしんどい』ということがようやく二人ともわかったんだ」
 そこまで言って、教授は今更夫婦の痴話喧嘩を暴露していることが恥ずかしくなったのか気持ち顔を赤くした。それがわかるくらいには、酒が原因の頬の赤みは引いていた。
 口をつぐみそうになる教授に先を促すために、私はラストオーダーを取りに来た店員を追い返しながら、教授に声をかける。
「一晩話されて、お互いに納得はされたんですか?」
「少なくとも俺はそう思っていた」
 教授は、俺は、の部分にアクセントを置いた。それが導く答えは一つだ。理系の私でもそれくらいの行間は読み取れる。
「だが、妻は違っていたようだ」
 時計の針が歩く音が、にぎやかな居酒屋の一画で妙にはっきりと聞こえた。まるで教授の話がクライマックスに向かうのを知っているかのように、その針の音は着々と音量を上げて私に迫った。
 そんな音を一刀両断にしたのは、教授の一言だった。
「でなければ、あんな死に方はしないだろう」
 バラバラになった音が、私の足元に散らばった気がした。



 結局私たちは、居酒屋の閉店に伴ってボックス席を追い立てられた。
 レジに映しだされた合計金額は予想以上に安く、そのことは私たちがろくにお酒を飲まないで席に陣取る嫌な客であったことを表していた。
 財布を取り出した私を片手で制して、教授は会計を済ませてくれた。『誘ったのは俺だから』。そう言っていた。
 入り口のドアを開くと、季節が移り変わりつつあることを主張するような冷たい風が吹き込んできた。今年の秋風の出番も千秋楽を迎えようとしているらしい。
「今日は付きあわせてすまなかったな。こういった機会はほとんど設けてこなかったが、また希望があればやってもいいかもしれん」
 教授は気温差で鼻の頭を少し赤くしながら言った。今日帰宅したら、きっと冬用のコートをクリーニングに出すに違いない。
「いえ、とても勉強になりました。私のためにわざわざこんな機会を設けていただいて、その……すごく嬉しかったです! また是非、よろしくお願いします」
 私がそう言うと、教授は満足そうににんまりと笑った。先ほどまでのお酒の力を借りただらしのない笑みではなく、見ていて気持ちの良くなる笑顔だった。
 私がどんなSFチックな力を持っていようと、教授にこんな表情をさせることは簡単ではあるまい。
「それじゃあまた明日、研究室でな。遅刻するんじゃないぞ」
 教授はそう言って、手を振りながら地下鉄の改札に吸い込まれていった。
 私はそれを見送りながら教授の姿が見えなくなるまで何度も改札口に向かって会釈し続けるのだった。
 
 ※

 教授を見送ってから、私は自分の乗る、教授とは違った地下鉄の駅を目指して歩き始めた。所要時間は大体15分くらいだ。大学の名前に「前」とつけただけの簡素なネーミングの駅である。
 酔いを覚ますためにゆっくりと歩きながら、私は今日教授に言われたことを反芻していた。
 奥さんとの生活のこと、助教時代のこと、そして奥さんとの喧嘩のこと。
 そしてその後に聞いた、奥さんの死のこと。
 奥さんは教授と喧嘩して一夜を明かしたその日に、教授の大学の屋上から転落死したそうだ。
 事故なのか、自殺なのか、それすらもわからない。警察にはそう言われたらしい。
 ただわかるのは、奥さんは教授にお弁当を届けに来たということだけ。
 一夜を話し合いに費やした奥さんは、その朝お弁当を用意することができなかったのだ。だから、一睡もしていないのに定時に出勤する夫を見送ってから急いで用意して、急いで届けに行った。いつも待ち合わせをした、大学の屋上へ。
 教授が待ち合わせ場所に着いた時には、奥さんはもうそこにはいなかった。
 変わり果てた姿で、教授の足元よりもはるかに下にいた。
 このことを語ったときの教授の様子が、その凄惨さを表していた。
 
 結局この一連の出来事を私に伝えた教授の真意は、居酒屋を出る直前に教授の口から聞くことができた。
『お前の口から妻と同じセリフが出て、これは、今度こそは、どうにかして止めなくてはならない、と思ったんだ。あの時俺は、激しく悔いた。後悔した。妻の気持ちを汲んでやれなかった自分をな。自ら命を絶ってしまうほどにあいつを追い詰めていたのにも関わらず、のんきに問題は解決したと思い込んでいた自分を、殴ってでもあいつを止めなかった自分を、俺は殺してやりたかった。こうしてお前にこのことを話したのは、お前のためじゃなく、自分自身を満足させたかっただけなのかも知れないな』
 事故か自殺かわからない、というのはあくまで警察の言い分で、教授としては自殺したということを確信しているように感じられた。教授はまるで自分自身が奥さんを殺したかのように、それを語ったのだから。
 教授のそんな大演説は、真摯で、実直で、切実で、聞いていて少し顔が赤くなるほどだった。
 教授が事あるごとに私をひっぱたくのも、奥さんの真意を無理にでも聞き出して説得すべきだった、という教授の後悔の表れなのかも知れない。
 私は、自分自身に突然降って湧いた力の使い道がまるでわからなかった。そうして一人で悩んで、それに気がついた教授が私を元気づけようと、苦手な酒に誘ってまで励ましてくれた。
 私は自分の中で、心がカチリと決まるのを感じた。
 私に突然降って湧いた力は、こんな風に私のことを考えてくれていた人のために使うべきなんじゃないだろうか。
 今日聞いた話はまだまだ咀嚼されておらず、私の頭の中にむき出しで転がっている。教授の気遣いはある意味で的はずれだし、やり方も不器用で決してうまいとは言えない。
 それでも、私は嬉しかった。この恩を返したいと思った。
 林田教授のために。
 奥さんの死の真相を知るために。
 できることなら止めるために。
 私は、時をかける。

       

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