Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◇07:光る雨の記憶③

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 目を覚ますと、理衣子の姿は見当たらなかった。
 壁にもたれかかっていたはずがいつのまにか床に寝そべっていた。薄いタオルケットがかけられている。身体のあちこちが痛い。制服が皺になってしまっていた。蝋燭は消えている。外はまだ薄暗いけれど、鳥のさえずりが近くで聞こえる。朝だ。
 古びた和室の中、見覚えのない光景にしばらくぼんやりと座っていた。やがて意識が現実に追いついてくる。
 理衣子はどこに居るのだろう?
 不安に思ったとき、和室の入り口から声がした。
「起きた?」
 理衣子は昨日のままの服装でそこに立っていた。私はほっとため息をつく。
 彼女に促されるまま台所に行くと、洗面器に水が汲まれている。それで顔を洗ってから、台所のテーブルで理衣子と一緒に朝食を食べた。乾パンとか、缶詰とか、そういうものがある程度この家に保管されているらしい。考えてみれば昨日のお昼から何も食べていない。ひどくお腹が空いていた。
「こういうのを食べるのも久しぶり」
 理衣子はそう言って笑う。まるでキャンプの朝みたい、と。私もつられて笑った。
 やがて食べ終わってしまうと、お互いの間に沈黙が下りた。
 理衣子は少し首をかしげて、テーブルを見つめていた。そして随分経ってから呟いた。
「帰ろう」

 私たちは来たときと同じように電車に乗って帰った。昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていて、朝日が眩しい。電車の座席で、理衣子は昨日と同じようにほとんど身じろぎせずに座っていた。まだ朝早い時間の電車は随分空いている。通勤の人の姿も余り見えない。そういえば今日は土曜日なのだ、と思い出す。
 母親はどうしているのだろう。これから理衣子はどうするのだろう。たくさんの不安があっても、それを口には出来なかった。昨日までと同じ場所に帰る。それ以外に方法があるはずもない。それが何を意味するかわかっていても。
 学校近くの駅で電車を降りる。改札を通ると、理衣子はまっすぐ学校の方へ歩いていく。私はすぐ後ろを黙ってついていった。
 学校にはほとんど人の気配がなかった。正門も開いていない。裏門から入って玄関を通り、図書室に向かう。鍵は閉まっていた。まだ司書の先生が来ていないのだ。
 理衣子は黙って鞄から鍵を取り出して、鍵を開けた。私が驚いて見ていると、こちらに向かって秘密めいた微笑を浮かべた。このくらいのこと簡単なのよ、という感じに。
 薄暗い図書室には古い本の匂いが夏の湿気に膨らんで漂っていた。理衣子は電気を点けないまままっすぐ奥へ進んで、窓から外を眺めた。
 窓辺には朝の太陽の光が眩しく漂っている。私は少し離れたところから理衣子を見ていた。
「あ、雨」
 理衣子が呟いた。私はつられて窓の外を見る。
「天気雨」
 理衣子がこちらを振り向いた。逆光のせいで表情が見えない。輪郭が淡く光り、長く黒い髪が光をたたえている。彼女の後ろで、眩しく晴れた空と、瞬くようにきらきら光る細かな無数の雨粒が見えた。
「知ってる? こういうの、涙雨とも呼ぶんだって」
 理衣子が呟いた。私は声を出さずに頷く。
 涙雨。
 しばらく、きらきら光る雨粒を見つめていた。
「……父もね、叔父とほとんど同じ死に方をしたの」
 唐突に理衣子が言った。それはとても静かな口調で、朝の空気にそっと馴染んだ。
「癌であっという間にいなくなってしまった。私はまだ小さかったから記憶はないけれど。そういうのって血統的な問題なのかしら? たとえば体質とか生活習慣とかそういうものだけじゃなくて、血の中に、そうならざるを得ないような別の要因が潜んでいたりするのかしら」
 私は黙っていた。たぶんそれは質問じゃない。
「『細雪』の話を覚えてる?」
 理衣子が呟いた。私は頷く。
「読み終わった?」
 もう一度頷く。
 雪子と妹の妙子。ひどく保守的な三女と、あまりにも奔放な四女。
「きっと、あの二人は二人で一人なのよ。私はそう思った」
 理衣子が俯くと、長い髪が顔を隠す。顔の影はますます濃くなった。
「雪子が保守的になるほど妙子は奔放になるし、妙子が奔放になるほど雪子は保守的になる。家族ってそういうシステムなの。ほとんど無意識的にバランスを取るように出来ている。時にそれは人の命を奪うくらいの大きな力を持つ。そして父と叔父も、何かのバランスをとるために死んだ。―― そういう考えって荒唐無稽だと思う? 現実離れして被害妄想的だって。でも私にはそんな風に思えてならない。そこに巻き込まれている当事者の一人として」
 なにか手応えを確かめるような、短い沈黙。
「確かに、私がしていることは人としてまともなことじゃない。間違った在り方だと思う。でも私という人間の成り立ちは、既にそう振舞うように作り上げられてしまったの」
 逆光の中で理衣子の輪郭は少しの身じろぎもしなかった。バランス、と私は心の中で呟く。「理衣子は、なんのバランスをとっているの」
 気がつくと口から言葉が滑り出ていた。それは随分頼りない声に聞こえた。
 理衣子はその質問にゆっくり時間を置いてから答えた。
「きっと私は妙子で、あの女が雪子なのよ」
『あの女』。
 その言葉の強さに驚く。母親のことなのだとすぐにわかった。そこには冷たく硬い、確かな憎しみの気配がこもっていた。理衣子がこれだけ話をするのも、強い感情を露にするのも、ほとんど初めてのことだった。態度にはいつも超然としていると言っていいくらいの余裕があったから。これだけのものを理衣子は今までどこかに抱え込んでいたのだ。
「本当は沙紀の知らないうちにこっそりいなくなりたかった。でもどうしてもできなかったの」理衣子が静かに呟いた。
「もう二度と戻ってくることはないってわかっていたから」
 その言葉の決定的な響きに、全身から文字通り血の気が引いた。
 手が震える。背筋がすっと冷えて、めまいがした。足元がふらつくのをなんとか踏みとどまる。
「どうして?」
 気がつくと、そう呟いていた。
 あまりに唐突にやってきた終わりを、受け入れきれない。認めたくない。
「行かないで。ここにいて。私を選んで。私はもう理衣子がいないとどうしていいのかわからない。理衣子に傍にいてほしい。一緒にいたい。もっとたくさん話をしたい」
 せめて、自分もそうなんだって、言ってほしい。
「選択肢は、ないの」
 落ち着いた理衣子の声。
 それが揺るがないことはわかっているのに。
「……私はどこにも居られない気がする」
 理衣子が静かにそう言った。
「どこにも居場所なんかない。逃げようがない。誰と触れ合っても、ただ通り抜けていくだけみたいに思える。みんな客のようなものなの。誰かがやって来て、ほんの少しのあいだ居場所を共有する。留まり続けることはできない。それは必ず終わってしまう」
 ――客。
「私も、客の一人?」
 反射的に訊いた。理衣子は首を傾げる。少し微笑んだかもしれない。表情は見えないけれど、そんな気配がした。
「わからない」
 それはきっと正しい言葉だった。私が望んでいるものではなかったとしても。
「一緒ならどこかに行けるかもしれないと思った。それは嘘じゃないの。昨日、一緒に来てくれて嬉しかった。本当に」
 理衣子は窓辺を離れる。逆光のつくる影から抜け出してきた彼女は、もういつもの落ち着いた様子を取り戻していた。そして小さな鍵をすぐ傍の机に置く。図書室の合鍵。
 私は何も言えなかった。こんなに圧倒的な感情をどう扱えばいいのか知らない。
 私たちはお互いに俯いたまま、ずっと長い間黙っていた。
 ずっと遠くで、誰かが誰かを呼ぶ声がした。微かなざわめき。人の気配が濃くなっていく。運動部の生徒が朝練を始めたのかもしれない。静かな透明さを保っていた夏の朝の太陽が、少しずつ色味を帯びていく。これから気温も上がり始めるだろう。時間は滞りなく進み、一日が容赦なく始まっていく。
「――ねえ、賭けをしない?」
 やがて、彼女が言った。そして小さく首を傾げるように、私を覗き込む。どこか愉快そうな瞳で。
 その時、私はもう知っていた。それがどんなに無謀な賭けだったとしても、私は無条件に受け入れるのだろう。たとえ何の見返りがないかたちだけのものに過ぎなくても、それがほんの僅かでも理衣子との繋がりを意味するものならば、きっと。


 そして理衣子は私の世界から姿を消した。


 夏休み明けの学校に理衣子はいなかった。彼女の言葉通り、真田先生の姿もなかった。「急ではあるが、止むを得ない家庭の都合で」学校を移ったのだと説明があった。生徒の間で真田先生に関しては随分色々な噂が流れたけれど、理衣子との関係を疑う人はいないみたいだった。
 むしろ、理衣子の転校に関してはほとんど話題に上らなかった。奇妙に思えるほどあっけなく理衣子は忘れられていった。かなり目立つ存在であったにも関わらず。
 理衣子がいなくなってから一週間、私はほとんど何も食べなかった。食欲そのものが完全に消失してしまったのだ。ぽっかりと抜け落ちたみたいに。食べ物を無理に口に入れてみても異物感があるだけで、気持ち悪くて吐き出しさえした。
 夜が来て機械的に横になっても、すんなりと眠りがやって来ることはなかった。真っ暗な部屋の中で私は何時間でも目を空けたまま天井を見つめていた。それでも朝が来ればちゃんと起きて、日常をなんの滞りもなく過ごしていた。やがて学校も始まった。
 私はそれまでよりもずっと本を読んで過ごすようになった。そして人との間に更に距離を置くようになった。孤立するという程でもなく、それでもある一定以上に人と親しくならないように。
 違う。親しくなろうとしたって、できなかった。
 私はもう知っていたから。誰かとどうしようもなく深く繋がる喜びのことを。特別な繋がり方をする特別な相手。他のどんなものも、それに比べればつまらなく色あせたものにしか見えない。
 容赦なく切断された魂の先っぽが、いつも風に揺られて頼りなくさまよっている。そこは激しく飢え渇き、繋がる先を虚しく求め続けていた。私はどうしようもなく孤独だった。以前よりもずっと深く孤独になった。時々、夜中に目を覚まして泣いた。自分がたった一人きりであることに耐え切れなくて。こんなにも孤独であることに気がつきたくはなかった。でもそれは理衣子との時間の代償のようなもので、だとすれば決して避けようのないことだったのだ。
 深い孤独と隣りあわせでしか存在しないものごとがこの世界にはある。そしてそんなに圧倒的なものが、誰の人生にも訪れるとは限らない。だから私は幸せなのだと思った。それを手にしていたのがたったひと夏の間だったとしても。
 孤独はあまりに甘美で、酩酊しそうなほど香り高く、陶酔的に私を支配した。そこに閉じこもっていれば私はいつでも理衣子を鮮やかに思い出すことが出来た。街の人波の中で、私はよくそこに「引きずり込まれた」。私の手を握る理衣子の、小さく華奢であたたかい手を思い出した。私たちは二人でその波を彷徨っていた。いつでも。いつまでも。


 私がミフジさんに出会うのは、それから数年後。十九歳の時のことだ。


     




 激しい夕立が降っている日だった。いつもの本屋を出て、軒先で傘を広げようとしている時だった。誰かに名前を呼ばれた気がして、振り向いた。
 そこにいたのは見知らぬ男の人だった。三十代半ばくらいだろうか。服装や少し伸びた無精ひげにどこか身を持ち崩したような雰囲気があって、反射的に警戒してしまう。
「椎森さんだろ。違う?」
 男が確認する。名前を知っているということは、おそらく知り合いなのだ。私は躊躇いがちに頷く。誰だろう?
「俺のことわからない?」
 男はそう言って、少しだけ笑みを浮かべる。どこか卑屈な、決まり悪そうな笑い方。
 その顔をじっと見ていて、はっと思い当たった。
「真田先生……?」
 当時とは随分印象が違う。けれどそれは確かに、かつての高校教師だった。
「不思議だよな。三年くらい経つけどすぐに椎森さんだってわかったよ。見た目は結構変わったけど、雰囲気が変わってないから」
 そう言って彼は店の出入り口を避けるように少し移動する。なんとなく私と話したがっているのだとわかって、私も傘をたたみ、距離を開けて相手の隣に立った。
 今はどこの大学に行っているのか、クラスの誰それはどうしたのか……そんなとりとめもない話が次々に相手の口から零れ出る。それに答えながら、私はどうしようもない居心地の悪さを感じていた。高校の頃、特に深く関わったことはなかった。この人は何がしたいのだろう。理衣子と関係のあった人。
「今は俺はもう教師じゃないんだよ。もともと教師って仕事に大した執着もなかったけどな」
 そう言って彼は笑った。けれど笑みは不自然に顔に張り付いているだけの、薄ら寒いものだった。私は曖昧に誤魔化して、もう行きますね、と言おうと傘を持ち上げた。その時だった。
「川原理衣子はどうしてる?」
 冷たい声が投げかけられた。
 私ははっとして思わず顔を上げる。相手の顔には表情がなく、ひどく虚ろな目をしていた。
「椎森、川原と一緒によく図書室に居たよな。あいつはあれから転校したんだろ? どこに行ったんだ? 俺は何も教えてもらえなかったんだ」
 動悸が不自然に上がる。傘を持っている手が震えるのがわかった。
「……私も、知らないんです。教えてもらえなかったから」
「嘘だ」
「本当です。理衣子は何も教えてくれなかった」
「隠すなよ」
 その、妙にくだけた物言いが神経に障る。
「何も隠してなんかいません」
 少し強い口調になる。理衣子は何も言わずに去った。仮に知っていたとしても、この人に教えることなんて何もない。
「あいつは俺のことを軽蔑しつくしてた。つまらない男だって心から見下してたのがよくわかった。川原は言ってたよ、いつも、一番大事なものには手をつけずに残しておくんだって。自分が関わると台無しになるから。でもそれは俺のことじゃないよなぁ。俺はむしろ台無しにされた側の人間だ。職も社会的信用も失くした。あれから何をやってもうまくいかないんだよ」
 組んだ腕の指先を落ち着きなく動かしながら、相手は喋り続ける。
「最後の時、俺は客ですらない、とも言ってたな。寄り添う気にもならないって。そう言うくせになんで俺なんかと関わったのか。それは、あいつが何かを台無しにしてないと駄目な種類の人間だからだよ。何かを大事にすればするほど、もう片方の手で、まるで反対のことをしてないと気が済まない。そして俺がそのことをわかっているからだ」
 真田先生は――もう彼は教師ではないのだけれど――そう言って、にやりと笑う。その笑みで理衣子を語られることが不快だと思った。それは心の底からの嫌悪感だった。
「失礼します」
 私は傘を差して軒先から出ようとする。
「待てよ、椎森」
 相手は傘を持っていなかった。そのまま私の傘に割り込もうとするみたいに近づいてくる。
「教えてくれよ。川原のこと。別に復讐しようってわけじゃない。ただ知りたいんだよ。あいつがどうしてるのか」
「私も何も知らないので、」
「なんでもいいんだよ。些細なことでもさ」
「本当に知らないんです」
 衝動的に泣きそうになっている自分に気がついた。急ぎ足で離れようとすると、急に手をつかまれた。
「やめて下さい!」
 反射で大きな声が出た。周囲が振り向く気配がする。でも私は構わずに手を振りほどいた。勢いで傘が地面に落ちる。相手が驚いた隙に私は走り出した。
「待てよ! 椎森!」
 声が追いかけてくる。人波を必死にかきわけて私は走った。激しい夕立が髪や服を濡らしていく。
 理衣子の記憶を汚されたくない。不用意に掘り返されたくない。どうして理衣子はあんな男と関わったのだろう。私と一緒じゃないとき、あの男とどんな風に時間を過ごしていたんだろう。知りたくない。想像したくない。考えたくない。
 相手を振り切ろうとして横道に入る。薄暗く細い路地だ。雨に打たれて必死に走りながら、後ろを振り向いた。誰かがついてきている気配はない。でも足は止まらなかった。鼓動が上がり息が切れても私は構わず走り続ける。
 頭の中に、過去の記憶がとめどなく蘇ってくる。三年経っても忘れられない。何度も繰り返し飽きることなく再生された記憶は、細部が曖昧になっていくのに、その印象だけは強く、深くなっていく。
 あれから私は誰とも繋がれないでいる。
 理衣子は誰とでも一緒に居られるのに、私だけがいつまでも一人きりだ。

 俯きがちに走っていたせいで前が見えていなかった。
 突然衝撃を感じて、私は反動ですぐ隣の壁にぶつかった。コンクリートの塀で肘が擦れる。思わず小さくうめく。
 呼吸が上がりぼんやりした頭で何が起きたのか理解したのは少しあとだ。
 私がぶつかった相手も同じようによろめいていた。背の高い男の人だ。傘が地面に落ちて、スーツに雨の染みが出来始めていた。
「すみません」
 事態を理解して、私は急いで謝る。傘を拾おうと手を伸ばすと、相手が先に拾い上げて私に差し出す。
「大丈夫です。少し驚いたけど」
 柔和な印象の人だった。清潔そうで、身なりがいい。額が広くて鼻筋が通った、俳優のような顔立ちだ。三十代半ばくらいだろうか。
「血が出てる」
 相手の言葉で、初めて自分が怪我をしていることに気がつく。肘から血が流れていた。意識した途端、皮膚が熱を持って鼓動にあわせてずきずきと痛み始める。
「大丈夫です、軽い怪我なので」
 それよりすみません、と言って私は傘を押し返そうとする。相手の高そうなスーツが濡れていくのが気になった。相手はそれを感じ取ったらしく、軽く微笑む。
「私の方なら本当に大丈夫なので、気にしないで下さい。それよりもあなたの方がそのままでは風邪を引く。車に戻ればタオルがあるので、よろしければ」
「いえ、そんな」
 過剰な親切に思えて反射的に首を振る。それに早くここから離れたかった。
「あの、本当にすみませんでした。失礼します」
「待って下さい。警戒されるのはわかりますが、タオルだけでも使った方がいい。怪我も、そのままでは服を汚します」
 相手はそう言って、立ち去ろうとする私の肩に手を伸ばす。思わずそれを払いのけるように振り返った。
「ああ、失礼。でもそのままでは、電車にも乗れないでしょう」
 確かに相手の言うとおりだった。
 悪い人には見えない、と思う。特に何か裏があるとも思えない。でもそれは単なる直感だ。見ず知らずの相手の車に乗るほどの信頼感には繋がらない。どんな扱いをされたっておかしくない。
 そう考えたところで、ふと思い至る。
 それで何の問題があるのだろう?
 私は冷たい雨に濡れきって震えている。怪我をして血を流している。人に追われている。そしてたった一人きりだ。今更私が傷つこうが、どんな目に遭おうが、気にする人なんてこの世のどこにも、誰一人居ない。
「じゃあ、お言葉に甘えて、タオルだけお借りします」
 私は小さな声で言った。

 男の後についていく。路地を抜けた大通り沿いに車が止まっていた。シルバーグレーの大きな車だ。一目で高級車とわかる。男がドアを開けて私を促す。
「どうぞ」
「でも」
 革張りのシートが汚れてしまう。
「気にしなくても大丈夫です」
 そう言われて、遠慮がちに車に乗り込む。中は随分広く、薄い透明なプラスチックで運転席と後部座席が区切られていた。男がトランクから荷物を取り出してきて、スーツの上着を脱いで隣の座席に乗り込む。私からはきちんと距離を開けて座り、タオルを差し出した。私は会釈してそれを受け取る。
 肘の怪我はそれほどの痛みは無いのに、出血が多いせいで実際よりもずっとひどく見えた。タオルが血で汚れてしまう。
「洗ってお返しします」
「いえ、差し上げますよ」
 男が軽く笑う。
 傷口を圧迫しながら、私は改めて相手を認めた。高そうなスーツ。清潔な身なり。穏やかな物腰。お金には困っていないだろうし、乱暴なことをする相手にも見えない。勿論それは表層的な印象に過ぎないし、自分が正しいことをしようとしているなんてとても思えない。
 ただ、漠然とした予感だけがあった。
「ありがとうございました」
 礼を言ってタオルを差し出す。
「いえ、こちらこそ不注意で失礼しました」
 相手が車のドアを開けようと手を伸ばす。私はそれを留めるように声を出す。
「あの」
 彼は私を見る。
 少し息を止めてから、小さな声で言った。
「私のこと、買って下さい」



 頭の奥で、記憶の塊がひらめいている。
 朝の図書室。天気雨。黒く長い髪の理衣子。
「賭けをしない?」
 そう言われたとき、私はなんの抵抗も無く頷いた。
「もしも次に偶然会うときまで、沙紀が今のまま変わらずにいてくれたのなら」
 理衣子はそこで短く言葉を切り、微笑む。
「私はもうこんな風に振舞うのをやめる」
 嘘だ、と思う。
 偶然に出会うなんてほとんど望みがない。あったとして、どのくらい先になるかわからない。そして理衣子が変わるなんて思えない。理衣子は理衣子だ。私には触れられないところにいる存在なのだ。そんなの初めからわかっていた。でもわかっていても、一緒にいたかった。
 今のまま、変わらずにいる。その意味を考える。
「わかった」
 私は小さく言った。
「私は変わらない。誰とも、何もしない。きっとできないから」
 ああ、私は雪子だ。
 理衣子が奔放であるほど、私は孤独を選ばざるを得ない。
 それは賭けなんかじゃなかった。私にとっては約束であり、誓いでさえあった。理衣子にとってはなんでもない言葉の応酬だ。現実的に考えて、実る可能性がほとんどない仮初めの約束。別れの痛みを麻痺させるための言葉。
 わかっていても信じたかった。
 孤独を引き受けることで可能性が手に入るのなら、構わないと思った。
 本当にそう思ったのだ。私はまだ十五だったから。
「そう」
 理衣子は穏やかに答えただけで、他に何も言ってはくれなかった。



 男はしばらく息を止めて私を見ていた。痛いくらいの沈黙がそこに流れていた。
 やがて小さくため息をついて、男が訊ねる。
「どうしてそんなことを?」
「そうすることが今、私には必要なんです」
「君はそういう職業の人なんだろうか? そんな風には見えないけれど」
 私は首を振る。
「君の名前は?」
 問われて反射的に答えた。
「川原理衣子」
 あとからいくら考えても、そのときなぜ自分がそう名乗ったのかわからなかった。でもその名前を口にすると、不思議なくらいに落ち着いた。そう名乗るべきだったのだと、確信に近い気持ちさえ覚えた。
「いい名前だ」
 男が言う。私は頷く。
「私が君を買うことはできない」男が簡潔に答える。「でももし君が望むのなら、そういう仕事を紹介してあげることはできる。それは君の求めているものとは少し違う性質のものかもしれないけれど」
「違う性質のもの」
「そう。一般的な売春行為とは違う。でもたぶん、『娼婦』と言っていい。君にならできるかもしれない」
 男はそう言って、中立的な視線で私を眺めた。値踏みされているという感じはなかった。詳細に観察されている、というのが近い。
「物事はふさわしい場所にあるべきだと思う」
 彼は言った。まるで何かの啓示みたいに。
「あるべきものをあるべき場所に届けること。それが私の仕事です。娼婦の斡旋をした経験はないけれど、きっとうまくやれるでしょう。君が本当にそれを必要としているのなら」
 その言葉の正しい意味を汲み取りかねながらも、私は短く頷く。
 何でもいい。誰でもいい。仮初めでいいから繋がりたい。違う。仮初めの繋がりこそが欲しいのだ。自分の全部を支配されるような、致命的なものはもう要らない。一度きりでいい。自分がこの世で一人きりではないと一瞬でも錯覚できるもの。
 もう何もかもが限界だった。
 たった一人で生きられるほど私は強くない。理衣子はきっと、それを知っていた。賭けは終わる。私は私を捨てる。まるで別の生き物になる。
 そういえば今の私の髪は、あの頃の理衣子とちょうど同じくらいの長さなのだと、ふと思った。理衣子のまっすぐで長い黒髪。密かに憧れていたそれに、私はいつの間にか追いついていたのだ。
 似た立場に身を置けば、私にも見えるのだろうか。
 彼女がいつも見ていたものが。

――そうして私は『娼婦』になった。





 薄暗い夕暮れの部屋に、携帯電話が鋭く震える音が響いた。
 ディスプレイに表示されたその番号を私はしばらく見つめていた。
 ミフジさんが電話をしてくることはほとんどない。少しだけ迷ってから、通話ボタンを押す。そして、
「――もしもし」
 そこから聞こえてきた声に言葉を失った。
 何を言えばいいのかわからず、そして電話を切ってしまうこともできずに、私は黙り続けていた。相手の言葉だけが躊躇いがちに並べられ、私はそれを沈黙で受け止め続けた。そして通話が終了し、等間隔で電子音が流れ続けるのをぼんやりと聴いていた。
 長い夢から覚めようとしている。
 ふと、そんな予感がした。浅野君はそうやっていつも、私の中の何かを揺さぶり、目を覚まさせようとするのだ。


       

表紙

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Neetsha