Neetel Inside 文芸新都
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あたしはマイ
−一話/イライダとピョートル

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 マイが怪物となる前――

 ロシア。
 広大な土地と比例して、気象・地理的条件も多彩な大国である。
 イライダと、その弟ピョートルの住んでいた地域は、常に深く重い雪に包まれていた。
 二人の母親は、女手一つで二人の幼い子供を育て上げた。一日の半分以上、男に混じって坑道に
潜っていた母親。姉弟はいつも一緒にいた。
 ある年、大寒波の年。母は肺炎であっさりと逝った。この時、イライダ十四、ピョートル十二。
 そして、母親が死んだ夜、二人は契りを結んだ。

 それから八年間、二人は来る日も来る日も交わった。
 イライダは、弟の子を己が内に宿すことを何より望んでいた。しかしそれは、八年間交わってい
たにも関わらず、叶わないままだった。
「禁忌を犯しているから、主が認めて下さらないんだ」弟は、時たまそう呟いた。
「もし本当にそうなら、私は主を殺しに行くわ」姉の狂気が混じった笑顔に、弟は戦慄した。
 一度道を誤った姉弟の結びつきは、肉体的にも精神的にも強い。血縁関係があるという背徳感、
赤子の時から知る間柄ゆえの、肉体的特徴の完全把握。他人との性交とは比較にならない、あまり
にも強大な性的快感。心のシンクロ――
 一度嵌りこむと、逃れるのは極めて困難な、近親相姦という禁忌。
 はじまりは、ほんの他愛もない触り合いだった。それが深化し、遂には、もはや後戻りができな
いところまでずるずると続いた。
 イライダは、はじめて交わった八年前からここまで、一度たりとも己の思いに疑念を向けはしな
かった。
 しかし、ピョートルは――

 業を煮やしたイライダは、ある日雪深き森に潜った。
“エレウテロコック”――滋養強壮、精力増進の効果があるとされるこの植物。オリンピック選手
も愛用したこの強力なハーブに、イライダは賭けた。
 やっとの思いで家に戻ると、中には誰もいなかった。テーブル上の、書き置き。
“主にこれ以上背くことは、僕にとっては耐え難いんです、姉さん”
 イライダは、猟銃を携え、猛烈な勢いで再び外へ飛び出した。豪雪で弟の足跡が消える前に、と。
“姉さんは、何も悪くありません。ずっと、このままではいけないと思っていました。しかし、そ
れを強く言えなかった。僕自身、姉さんとの甘い快感にずっと溺れていたかったのかもしれない。
どうしようもなく意志薄弱な僕が、いけなかった”
「イヤだ! イヤだ! ピョートル!! イヤだイヤだイヤだ!!」
“だから、僕は家を出ることにしました。街に行きます。どこに行くかは決めていないけど、とに
かくここから遠くへ。二度と姉さんを目にすることのないところに。もう一度見たら、今度こそ、
二度と抜け出せなくなりそうだから……姉さん、僕は今でもあなたのことが――”
「イヤだイヤだイヤだイヤだ! 好きだというなら、傍にいてよ! 誰に咎められることもない!
 主なんて、見て見ぬ振りすればいいじゃない!! お前がいない世界なんて、色も匂いも味もな
い、ただの……」
 遮二無二走り、叫び続けたイライダは、雪の絨毯に体を埋めた。いつしか、足跡が途切れていた
のだ。体中から急速に力が、生命が抜け出て行く感覚を、この時イライダは感じていた。
「…白い地獄だ…………」
 それでも、イライダは、前を見た。
 小さな点が、そこに見えた。白に染まった世界の中で、明らかに異彩を放つ黄色い点。
「…黄色……」 
 最後の力を振り絞り、イライダは立ち上がった。
 ピョートルの防寒服が、黄色だったからだ。
「…赤……!」
 イライダは、真上から、黄色と赤が入り混じった、鮮やかな亡骸を眺めた。
「ああ……? ピョートル? どうしたことなの、これは。まだ暖かい……でも、お前の体の音が
聞こえない……」
 飲んだ。
 イライダは、ピョートルの体から漏れ出る鮮血を、手に塗りたくり、とにかく舐めた。それを数
分は続けた。
 ピョートルの体が、完全に冷たくなった時、イライダは初めて空を見た。
 木々が自然形成した、リング状に覗く空。その中央に、雪より白い羽の生えた怪物が、その醜い
面をおぞましく歪ませて、イライダをじっと視ていた。
 刹那、弾けたようにイライダは猟銃の照準を怪物に向けた。引鉄を引く。イライダは嗤っていた。
泣きながら、嗤っていた。声にならない声を上げ、叫びにならない叫びをその心中で発していた。
声はとっくの昔に嗄れていた。
 怪物は俊敏な動きで銃弾をかわし、イライダを体に圧し掛かった。
 怪物に言葉はなかった。押さえ付けただけで、他は何もせずに、空のリングから彼方へ飛び去っ
ていった怪物。イライダは、何故自分が生かされたのか分からなかった。

 
 ヤツは、満腹だったのだ。
 だから、私を殺しはしなかった。ヤツにとって殺しとは、食事と同義だったのだろう。
 さぞや、美味だったことだろう。
 …月の鬱陶しい夜だ。昔のことばかり思いだしてしまう。
 ピョートルの血は、私の最後の食事だった。
 それからの食事は、ただ生きるためだけのものだ。それ以上でも以下でもない。
 色も、匂いも、味もない。
 二度と感覚が取り戻される日はこない。
 奴は南へ向かって行った。
 そして彼の大国を食い散らかし、次はここしかない。
 日本。狭き島に蠢く、人の形をした人形の国。
 ここなら食料にも、困るまい。祖国や彼の国とは、怪物の数が桁違いだ。
 全てを、殺す。
 だが、願わくば――白き悪魔が、最後の標的となることを。
 この国は、夜でも暖かい。

       

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