Neetel Inside 文芸新都
表紙

月夜の天気は化物、ところにより異世界人
第二話 昼食と再開と

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専門家くらいしか読むことのできない古文書など、紐解く必要はない。
世界最大のベストセラーを開けば事は足りる。
旧約聖書、創世記。
その4日目の記述とこの現実世界との比較をなせば、すぐあることにに気づくはずである。
月の記述がどこにもないことに。
聖書の文脈から察するに、夜の象徴となったのは星である。
では――月は?
人間の創作物に過ぎない以上、神話は常に現実を反映する。誰が創世記を著したかは未だ特定
されていないが、書いた人物はなぜ、夜天に浮かぶ白い天体を無視し、遠い彼方の星々に夜の
象徴の役を担わせたのか。
答えは言うまでもない。

月など、元々は存在しなかったのだ。

更に、世界に残る古文書を拾っていけば、月という天体が紀元2世紀の半ばほどに、ある日突然
現れたことが分かるはずだ。
いかなる理由によって、地球を見下ろす衛星が生まれたのか――
人は未だ、その解を持たない。


     

目覚めを促したのは、チャイムの音だった。
ゆったりとした鐘の音が、空いた腹にじっくりと響いていく。
「ふぁ……」
協は欠伸をかみ殺しつつ、身体を伸ばした。
ざわめきが各教室から生まれ、校舎中に伝播していた。
昼休みだ。ひと時の憩いが約束される時間である。
気の合うクラスメート同士が、弁当箱を片手にいくつものグループを生んでいく。机を寄せ合い、
椅子を運んで、彼らが即席の食卓を作っていくのを視界に収めつつ、協はひとり、目をこすって
意識の覚醒につとめた。
そんな協を注視するクラスメートは一人としていない。
そもそも存在を認識してすらいないようである。
実際、協はクラスの中にあっては空気、それもわずかに含有されるアルゴンのような存在だった。
いじめ、という訳ではない。彼らの行動に悪意や敵意はほとんどない。
ただ単純に――疎外されているのである。
恐怖、あるいは歪んだ畏怖によって。
協は席を立つと、弁当を持って教室を出た。
渡り廊下、北棟と移動し、階段を下りて、プールの脇にある部室棟へ歩いていく。ふと空に目を
やると、朝に上空を埋め尽くしていた薄い雲はどこかに消えていて、すとんと抜けた青空だけが
どこまでも広がっていた。
だから、『オカルト研究会』というプレートのついた部室の扉に『今日はあそこでごはん!』と、
書いた人間の人格をそのままに反映した、闊達な文字が踊る紙が貼り付いていても驚くことは
なかった。こんな良い天気にナナミがこういうことを言い出さないようなら、それはウソだ。
北棟に戻り、今度は逆に階段を上る。三階に着いてもさらに上へ。
屋上へ通じるドアが目前に立ちはだかる。生徒が入らないよう、普段は施錠されているはずだ。
だが協がノブをひねって押すと、軽い音ともにドアは開いた。
視界が青一色で染まる。11月の冷たい風も、今日は穏やかなものだ。
「よー! キョーちん、こっちこっちぃ!」
無駄に陽性の生命力にあふれた声が飛んできた。そちらに目をやれば、声から想像されるだろう
姿そのままの少女がいる。
純度100%の笑顔でぶんぶん手を振る、背の低い少女。ショートカットの髪は跳ねるように
揺れ、小柄な身体はブレザーでゆったり包まれ、小動物めいたクリクリした目は若さの正の面
だけが詰め込まれたかのように、きらきらと輝いている。
来栖ナナミ。協と同じく二年生の女子である。
「おはよさん、ナナミ」
「うーい! おっはよお!」
何がそんなに嬉しいのか、と協はナナミと言葉を交わすたびに思う。ナナミの泣いた顔なんて、
想像すらできない。
「さあ座りたまえい! いいとこ取っとかないと損ですぜダンナっ!」
ナナミは腰を下ろしたレジャーシートをばしばし叩いた。屋上のど真ん中に敷かれたそれは、
いつものもの(リスさんとクマさんのダンスしている柄だ)より、少し大きいようだった。
「四人分にしちゃでかくないか?」シートに上がりつつ協は言った。「おまえが重箱でも作って
きてくれたっつーなら別だけど」
「やだなあキョーちんてば! お母さんにそんな手間かけさせちゃ悪いし、かといってあたしが
作ったら大惨事じゃん!」
「発言内容を恥じろ。ちょっとは料理やれ」
「たはは、でもキョーちんだって桜佳ちんの作ってくれたやつじゃん! おあいこおあいこ!」
「え、そういう問題?」
話題が壮大にずれたことに気づき、協は首を振る。
「お前の料理の腕がかわいそうなのは良いんだ。もしかして、月研にメンバー加わるのか?」
「さりげなくひどいよね、色々……まあそうなのだよ。ルーキーさ!」
純度100%の嬉しさを放散させつつ、ナナミは笑んだ。
どうしたらこんな笑顔ができるんだろう、と協は思う。
時々、ナナミを物凄く遠くに感じるのは、こういう理解不能な部分によるものなのだろう。
と、その時、ドアが開いた。
思わず協は振り返り、ナナミは顔を輝かせる。
ドアの裏から、人影が現れる。
「……うぃーす」
果てしなくだるそうな、金髪兄ちゃんが。
「なんだつまんね」
「ロー先輩のキングオブ期待外れっぷりに五大陸沈没だね」
「お前らマジ死ね」
がりがりと頭を掻きながら、テンション最低で彼は突っ込んだ。
古沢士朗。どう見ても堅気ではない目つきの悪さと、人間を刺殺できそうなほどに磨き上げられ
たツンツンの金髪頭がチャームポイントの、見た目どおりに不良な三年生である。
彼はごろりとシートに寝転がった。凶相と痩躯があいまって、狩り疲れのコヨーテといった風情
である。この歳にして、すでに不惑の男やもめを思わせるやさぐれ具合。協は時々、この上級生
の将来が心配なような、楽しみなような妙な気分になる。
「くそくそくそダリい……徹マンなんてするもんじゃねーな」
「また避難所でやってたんですか。迷惑だからやめましょうよ」
「うるっせえ。夜更けで騒音公害だからって屋上に放り出されたんだぞ。同情しろよ後輩として」
「11月の夜に屋上で麻雀続けられるなんて、温度感覚が壊れてるんですね」
「誰がンなとこに同情しろって言ったァ!」
グーで殴られた。腹をさすりつつ、協は、
「そんな面白ストーリーはいいんですけど先輩、知ってますか? 新入部員が来るみたいですよ」
あん? と協を上目遣いに睨みつけると、士朗はナナミに目を移した。
「マジか、ナナ坊」
「でじま!」
「古ッ! ……まあいい。はー、新入部員ねえ。久しぶりだな、部員増えるのはよ。どんなやつ
なんだ?」
「あ、それは俺も知りたい」
男ふたりの視線を向けられて、ナナミはアメリカ人っぽく大げさに首を振った。
「だめだめ、それは見てのお楽しみだよ。前情報なんて無粋の極み! そろそろウーちんが連れて
来てくれるはずだね!」
不在の現部員の名前が出る。士朗はぐっと身を起こして、扉を横目に見る。
「そういう段取りなのかよ?」
「いやー、こういう時にウーちんが居ないってことは、何かみんなのためになることをしてるもの
だからねー。ほら、何て言うのかな、統計的に?」
「また手前は適当なことをステキな笑顔で言うんだな。雨月のやつは、確かにそういうことがよく
あるけどよ」
ふいに、沈黙が落ちる。自然と会話が途切れたのだ。
ナナミはいつも通りのスマイル0円状態で、士朗は手元の弁当に目をやって、主賓が来る前に
食っていいものかどうか、礼儀と本能の間で激しく葛藤しているようだ。
平和だ、と協は思う。
太陽は空のてっぺんで、夏よりもずっと優しい光をふりまいている。
校舎内の喧騒は屋上に来るまでに形を失くし、ただの遠い音のかたまりとなって鼓膜を震わせる。
そして、ここに集っているのは『月の子』だけ。教室のクラスメートたちのように、遠巻きにして、
自分の存在を黙殺する人間はいない。自分と同じ境遇の人間を、誰が邪険にするだろう。
新入部員と聞いて、不安がないではない。
願わくば、この穏やかな場を引き裂かない、そういう人物であってほしい。
そう思っていると――
「遅れました。しかし私の気配りのことを勘案すると謝罪する必要はまったくなく、むしろ感謝
されるべきだと思います。さあ、媚びへつらいなさい。犬のように」
無造作に扉を開いて、むちゃくちゃなことを言い出す女が入ってきた。お嬢様然とした品のよさ
を全身に漂わせているが、能面のように無表情な少女だ。
「おはようウーちん! そしてあなたにサンクスソーマッチ!」
どんな気配りがなされたかを問う前に、ナナミがぐっと親指を立てる。
ウーちんこと藤野雨月は軽く頷いて、親指を立てて返した。
「おはようございますナナミさん。あなたしかこの部に常識人はいないみたいですね。津和田君と
古沢先輩ときたら、思わず目を背けたくなるくらいの人間失格ぶりです。あ、一句思い浮かび
ました。『死んでくれ 死ね死ね殺す マジで死ね』親愛なる同級生と先輩にささげます。どう
ですか?」
協は脳のCPUが藤野の言葉を処理し切れていないのを自覚しつつ、口を開いた。
「藤野……もっとギア落とせよ。お前、もう半ば会話放棄してるだろ……」
「なんたるヘタレ。この程度で音を上げるとは、知性の貧困さを露呈しているのをを自覚すべき
です」
散々言いたい放題したくせに、そんなことはどうでもいいのですけど、と実際に心底どうでも
よさそうな声で藤野は話題を切り替えた。無表情が塑像のように固定されたままなのが怖い。
藤野は扉から三歩横にずれた。すっ、と折り目正しいエレベーターガールのように、手を肩の
あたりまで上げ、手のひらを上向けて扉を示す。
「つまり私の気配りというのは、転入生である彼女が迷うことを見越して、わざわざまで迎えに
いったことです。どうぞ、新入部員さん」
おおう、と士朗が扉の向こうを凝視した。特に雨月の言葉に突っ込みを入れてなかったのは、
きっと色々悟っているんだろうと協は思った。
よく晴れた日なので、屋内は相対的に暗く見える。だから協もその人物が陽光の下に踏み出す
まで、そいつがシルエットから女子であろうことくらいしか分からなかった。
けれど、そいつが屋上に歩み出た瞬間、協は心臓を止めた。
「え、えーと、ナナミ先輩と、雨月先輩以外の方は、初めまして、です」
緊張がピークに達しているのか、そいつはガチガチだった。顔は笑ってしまいそうなほどに
真っ赤。
胸の前で組んだ手は小刻みに震えている。
青い瞳は伏し目がち。
月光のように華麗な金髪まで潤いを失っているように見えるのは、さすがに先入観ゆえだろう。
見覚えは当然、ある。
デキの悪い人形みたいにがくんとお辞儀して、彼女は震える声を発した。
「ベル=サンデナックです! ええと、え、越界者です! わたしたちの母語でいうと、『輪廻の水
時計』って呼ばれてる世界から来ました! み、未熟ものですが、よろしくお願いしますっ!」
あらかじめ用意していたのだろうセリフを、つっかえながらも何とか言い切り、ベルはようやく緊張
を和らげた様子で、屋上に集合したオカルト研究会の面々を見回した。
液体窒素で瞬間冷凍したような無表情の雨月、
『幸せ』と題して展覧会に展示すれば、大賞間違いなしといった笑顔のナナミ、
普段は健全な少年少女をちびらせる三白眼をどういうわけかハートマークにした士朗と、視線は
移動し、最後に、なんとも微妙な笑顔を浮かべて軽く手を上げる協で停止した。
「やあ、……一日ぶり」
「――キョーさん!」
かくて、運命的障害も過酷な試練も盛り上がりなく、ごく普通に二人は再会したのだった。


     

『満月の日に生まれた子供は魔力を持つ』。
世界のほぼ全ての文化圏に見られる伝承である。
そして、近代科学および現代魔法学もこの伝承を支持する。
研究者によれば、月の活動が極大化する満月の日、月から溢れ出した魔力が38万4400km
の距離を越えて地球に降り注ぎ、その影響で新生児のごく一部が魔力に目覚めるのだという。
統計的に見ても、そういった特殊な子供が満月以外の生まれであったことはない。
それゆえ、異能に目覚めた人間は『月の子』と呼ばれる。
人の種と胎によって生まれた人間ではない――と暗に彼らを区別するようなこの呼称は、
月の子の境遇には皮肉なまでに相応しい。

「特別」であるということは、「普通」に溶け込めないということでもあるのだ。

彼らは時に神聖視され、時に迫害されながら歴史の一部として生きてきたが、まっとうな人間
として扱われたことは一度としてない。それは現代に至っても同じである。
むろん、建前の上では彼らはただの普通人として見なされる。日本国憲法にもしっかり、異能者
も非能力者と同様に、人権を持つと明記されている。
けれど、人の意識に変化は無い。数千年をかけて培われた価値観が、そう簡単に変わるはずが
ない。
異能に目覚めた子供が虐待によって死ぬ事件は年平均で10件は報道されるし、死までは
至らないにしても、月の子が各種虐待事件の被害者となる確率は、普通の子供の数倍である。
虐待を免れても、学校では公然といじめを受ける。理由もなく。強いて言うなら、異物だからか。
教師も事実上黙認するケースが多い。いじめがない場合でも、月の子が一般人の同級生と言葉を
かわすことはまず無い。話しかけても、よっぽどの用件でないかぎり、当然のように無視
される。
学校をどうにかパスしても、今度は想像を絶する就職難が彼らを待っている。東大を主席卒業
した月の子が、ようやく地方の中小企業に就職したという噂がまことしやかに囁かれる程度には
厳しい就職難である。月の子の99%は伐禍、チェッカーを始めとする、月害対策局絡みの
職場か、さもなくば自衛隊に行くことになる。

ことほどさように、一般人は明に暗に月の子を排斥する。
それはきっと、月の子が持つ力が、夜が来るたび人類を脅かす月をルーツとするからだろう。
ならば、なぜ人類は月の子の絶滅運動に走らないのか――
答えは実にシンプルである。
要するに、月の子が戦力として必要だからだ。
白銀に輝く次元の門から降ってくる、異世界の生命体を効率よく殺す刃として有効だからだ。
ある月の子はこう嘆いたという。
「月の子ってのはな、特異能力を持つ人間に付けられた名前なんかじゃない。武器の銘だ」
――と。

しかし、いかに人が彼らをモノのごとく扱ったところで、月の子には意思がある。
心穏やかに、幸せに生きたいという意志がある。
だから彼らは様々な共同体で、自分達の集まりを形成するのだ。
そしてその集まりは当然、協の通う不動北高校にもある。
それこそがオカルト研究会であり、通称『月研』なのである。


     


「あー……何だ、協のやつとベルちゃんは面識があったわけで、新入部員が部になじむ
取っ掛かりがあるのは喜ばしいと思う。しかし、ベルちゃんには是非、是非! 他の部員とも
親睦を深めていって欲しい。ナナ坊とか、雨月だとか、俺だとか、俺だとか! とも、良好な
関係を築いていこうじゃないか」
勝手に乾杯の音頭役を買って出た士朗は、いつものヤクザフェイスをかなぐり捨てて、朗らかな
表情を浮かべていた。普段との悪夢のようなギャップに食欲をなくしかかっている協には
構わず、滔々と言葉は垂れ流され続け、3分ほどしてようやく終わった。
「それでは乾杯!」
ぐっ、と手を空に向かって突き出す士朗。握られた缶ジュースが、陽光を軽薄に反射した。
「いえい! かんぱい!」
「あ、もう飲んでました」
「……乾杯」
「か、乾杯です」
四者四様の声とともに、とにかく昼食会は開始した。
「ハイメガウルトラめでたいっ!」
30%オレンジジュースを勢いよく飲み干してナナミは弾ける声で言った。
「なんといっても一年生! これで月研も安泰ー! そんなベルちんにはおかずあげちゃうっ!」
と、ミートボールをつまむと、ベルの弁当箱の空いたスペースに投入する。
「あ、ありがとうございますっ」
「あはは、ワイロだよワイロ! 将来的にはこの部をしょって立つお方だもの!」
真夏のヒマワリのように笑うナナミとはにかんで笑うベルの姿を見て、なぜか士朗は焦った様子だった。
割り箸を折らんばかりに握りしめて、
「くっ、ここでイニシアチブを取られたらベルちゃんがレズになっちまう……!」
「何兆回飛躍すればそういう結論に至るんですか?」
反応は期待せずに突っ込んでみたが、予想に違わず士朗は無視した。自分のノリ弁の中から
ちくわの磯辺揚げをチョイスすると、
「ベルちゃん、俺からも入部祝いさ!」
ちょうどベルがミートボールを口に運んだことで空いたスペースに投下する。
「ふぁ、ふぁひがほう、ほはひまふ」
「ははは、礼には及ばんさ!」
と、士朗は学級委員的な爽やかさでもって笑ってみせた。
「やるなロー先輩! でもそんなんじゃあ、ベルちんをもてなすのに役者不足とゆーしかない!」
次なるおかずをつまみ、ナナミが挑発的な笑いを見せる。
受けて立つとばかり、士朗はノリ弁に箸を突っ込んだ。
「なめんじゃねえぞナナ坊。手前はノリ弁の奥深さを知らねえ……!」
いっそ褒めたくなるくらい、さっさと士朗は趣旨を忘却していた。
間に挟まれたベルは不穏な気配を敏感に察したのか、自分を挟む二人の間で目を泳がせた。
青い瞳にははっきり「なんでこんなことに?」と書かれているが、あいにく誰も理由を知らない。
かくてここに、第一次で終わると信じたい弁当大戦が勃発したのだった。


そろそろこの末期的というか、幻覚だと信じたい状況に嫌気が差してきた協は、まったく周囲に
関心を示さず、淡々と手製の弁当を口に運ぶ雨月に話しかけることにした。
「なあ、先輩はどうしたんだ、あれ」
「色ボケでしょう」雨月はぽつりと言った。真っ黒に着色された言葉が続く。「恋は愚かですが、
一目ぼれは輪をかけて愚かです。これはひどい、と一緒に言ってあげましょう津和田君。せーの
で言うと声が揃っていい感じです」
「タイミングだけ合わせておいて自分は言わないつもりだろ」
「それはともかくですね」自分で提案したくせに平然と雨月は話題を変えた。「あなたは恋をした
ことがありますか?」
突拍子もなく訊かれ、戸惑うものはあったが、素直に答える。
「いや……正直ないな」
「童貞なんですね」
「…………」
失礼、と雨月は申し訳なさそうなそぶりを見せることもなく言った。
「それはどうでもいいことですね。恋をしたことがないと聞いて感心しました。賢明なことです」
錯覚といわれれば納得してしまいそうなほど微かだったが――雨月の声に、珍しく感情らしい
ものがこもっているのに、協は気づいた。
「そうか? 一度くらいはしておかなきゃ、人生に潤いがないと思うけど」
物珍しい気持ちで問うてみると、雨月はミリ単位で顔をしかめた。
「愚挙、愚行です。他人に過剰な感情移入をするなど、あまりにも浅慮といわざるを得ません。
それに感情の根底にある薄汚い欲望を知らないふりをさせる性質が気に入りませんね。恋であれ
愛であれ、無償のものなど有り得ないというのに」
ひゅう、と短く雨月は短く呼気する。思わず溢れたモノを、堰の内にまた閉じ込めようとする
かのごとく。
「まあどうせすぐに失恋するでしょうから、その時は飲みに誘ってあげましょう、津和田君」
耳を疑う。雨月が人を気遣うような発言をするなんて、明日にでも月が無くなってしまうくらいに
ありえない。何かあったのか、と思わず協が訊きそうになったとき、雨月は続けて言う。
「おごってあげると偽って、酔い潰したところで古沢先輩を放置して私達は勘定せずに帰りましょう。
怒りで失恋の痛みくらい忘れることを見越した上策です。ああ、どうして私はこんなにも先輩思い
なのでしょうか」
平然と告げる言葉は外道そのものであり、雨月そのものだった。
協は何だか、訳もなく安心した。


     

そうこうしている内に、弁当大戦は幕を下ろした。理由は簡単で、双方ともに弾切れを起こした
のである。
残ったのは弁当箱が白米だけになって打ちひしがれる二人と、自分の弁当は半分も食べて
いないのに満腹になった新入部員という痛ましい戦禍だけである。
「戦争はよくないね、ロー先輩……」
「ああ、争いから生まれるものなんて何もねえ……」
なにやら通じ合いだした二人は放っておくことにして、協はベルに視線をやった。
ベルは苦しそうにお腹を押さえていたが、表情のほうはほころんでいる。打算に裏打ちされた
種類の笑みからは最も遠い、どこまでもナチュラルな笑顔。
昨日の違和感が胸の内に再来するのを協は感じた。
「苦しくないのか?」
「あ、キョーさん……えと、やっぱりキョー先輩って呼んだ方がいいですか?」
「いいよ、キョーで。悪いな、この部は個性的なのしかいないんだ」
「悪いだなんて、そんな」首を振るベル。「たのしいですよ。すごく。こんな風に騒がしい食事は、
初めてですもん。いい部活なんですね」
あ、でも、とベルは眉をひそめた。
「わたし、最初に職員室に行ったんです。そうしたら最初にナナミ先輩を紹介されて、お前は
オカルト研究会に入りなさいって言われて……こちらに来てから学んだのでよくわからないです
けど、部活って先生に決められるものなんですか?」
「ああ――それね」
唇の端が歪むのを協は感じる。暗い情念が言葉にまとわりつくのを自覚する。
「この学校のオカルト研究会は昔っから、月の子の受け入れ先っていうポジションになってる
のさ。ベル、召喚されてどれくらいになる?」
「えと。だいたい、一ヶ月と半分くらいですね」
「へえ……。それだけでチェッカーの業務要項抑えられるなんて優秀だな」
てへへ、と照れくさそうにベルは微笑んだ。
「教官の方に恵まれただけですよ」
「そうか? いや実際、なかなかのものだと思うけど。
まあいいや、ってことは月の子がどういうポジションか知ってるでしょ。つまりは――」
「掃き溜めです」
いつの間にか弁当を片付けたらしい雨月が、会話に入ってきた。
「ゴミ箱、産廃処理場、最終処分場……どれに喩えたところで語弊は生じません」
「ま、そういうことになる」
協は肩をすくめて雨月の言葉を継いだ。
「君は越界者だから。月の子ほどじゃないにしても敬遠の対象だし、普通のグループに入れて
軋轢が生まれるのを避けたいんだろ、教師連中は」
「危険因子は遠ざけるべし。生命体の鉄則です」
最後は雨月がまとめた。
多分に毒のあるまとめ方だったので、ベルが気を悪くするのではないかと思ったが、そうでも
なかったようだ。ならば明るいかというとそんな訳もなく、ベルは少しだけ悲しそうに笑んで
みせた。
「……クラスのかたがたも遠巻きにしてて、話しかけても無理やり打ち切られちゃいましたけど。
わたしみたいな存在への敬遠は、学校というシステム内にまで根付いてるんですね」
弱々しい、かすれていく陽の光みたいな笑みには、雨月でさえ何か思うところがあったらしい。
口を開こうとする気配が生まれる。
だが言葉が放たれる前に、ベルはくるりと笑顔を明るいものにした。
「でも。……みなさんはいい人ばっかりみたいで、良かったです。色んな人と仲良くなれない
のは残念ですけど、みなさんと一緒なら、きっと楽しい生活が送れると思うんです」
何と言ったものか。
とにかく、協は例の違和感とともに、言語化できない感覚が胸をしめつける。
感じ入ったのは協だけではなかった。戦後復興の困難な弁当箱を見つめて、屋上講和条約を
締結しようとしていた二人は一気に活力を取り戻した。
「なんつー健気さ! ああベルちん、ベルちん素敵、ああベルちん!」
「きゃああああっ!?」
無駄にリズムをつけて叫ぶとナナミがベルを押し倒し、さらにその上から覆いかぶさろうとした
士朗を、雨月が本職顔負けのヤクザキックで無表情に蹴り飛ばす。
「なんつーか」
目の前で繰りひろげられる騒動から目を外し、協は空を眺めた。
冷厳な月光とは対極の、命を育む光がそこにある。
「騒がしくなるな、こりゃ……」
うんざりしたような口調とは裏腹に、口は自然と笑みの形になるのが、自分でもわかった。
響いた予鈴の音も、今は寛容な気持ちで聞いていられた。

       

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Neetsha