背中をベッドに預けて足を投げ出した恰好のまま、アパートの自室のベッドルームの床に座っていた。あの人に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると巡っている。僕は、何故生きているのだろう。
『君は、何故生きているの』
 その会話の後、僕は大した言葉も繋げられずに自分のアパートに帰ってきた。
『君が生きているのは、どうして』
 逃げ帰るようにして、僕は彼女のマンションを後にした。眩暈が酷くて、何度も転びそうになった。
『何もないわ』
 街が、僕の知らない貌をしていた。家に着くまでに、随分遠回りをしたように思う。
『私には生きている理由も、価値も、』
 聞きたくない。
『何もないの』
 聞きたくない。
『あんたなんて』
 蔑む目。
『生きている価値はないのよ』
 違う。
『あんたなんて』
 一番嫌いな目。
『産まなければよかったのに』
「うるさいっ」
 耳を押さえ、真っ暗な部屋の中、一人叫んだ。五月蝿い。五月蝿い。吐き気がする。嘲笑。

『ごめんね。愛してるわ、愛してる……』

「うるさい、うるさい……」
 呟くように、頭を抱えた。
 この闇の中に、僕はどうしようもなく独りだ。



 あれは、母が入院する前だから、もう十年以上昔の記憶だろう。彼女は、とても優しく、素敵な母親だった。度々友人から羨まれるくらいに美人で、料理とお菓子作りが好きで、どちらもとても美味しかった。裁縫だけは苦手だった。よく針を指に刺しては、不器用なくせに裁縫だけは得意な父に笑われていた。そんな時、父は自分に恨めしげな視線を向ける母の頭を優しく撫で、彼女の手から縫いかけの体操服や雑巾なんかを取り上げる。その瞳は優しい光に満ちていて、頭を撫でられた母も目を細める。そうして彼女は僕を膝の上に抱き上げ、父の手つきを眺めるのだ。僕の幼稚園の様子や、父の仕事の話、母が作った空想の物語を、僕らは話した。母は空想が好きで、また話すのも上手かったから、僕は当時彼女の物語を聞くのが何より好きだった。
 幸せな家庭だったと思う。父が、母が、好きだった。

 あれは確か、僕が小学二年生の頃だった。父と母が、キッチンで口論をしていた。理由は知らない。聞きたいとも思わなかった。二人の剣幕は凄まじく、僕は寝室に逃げ込んで、膝を抱える事しか出来なかった。
 やがて、二人の怒鳴り声は母の啜り泣く声に変わり、お互いに謝り合う声が重なった。僕が寝室から恐る恐る顔を出すと、父は静かに笑って「ごめんな」と僕に言い、母は優しく抱きしめてくれた。大丈夫だ、と、そう思った。明日からはまた、幸せな日々に戻る。大丈夫だ。

 喧嘩の夜の次の日から、父は出張だった。父が家を出る時、僕の見ている前で二人はキスをした。毎朝のことだ。母と僕は、笑顔で手を振った。これも、いつもの通り。ドアが閉まる。ふと母を見上げ、ぞっとした。彼女の顔から、表情が消え去っていた。僕の視線に気付いたのか、母はこちらを向いた。笑顔を作る、母。
「小学校、行かないとね」
 子供ながらに、それが作り物の笑顔だと気付いていた。僕は、ただ頷くことしか出来なかった。
 父が帰るまでの三日間、母はずっと暗い貌をしていた。時折見せる繕ったような笑顔が、暗い表情よりもずっと苦しく映った。母にとって、父の存在がそれだけ大きかったのか、それとも彼女の心は既に少しずつ壊れていたのか。慰めることはしなかった。母が父許りを見て、自分の存在を無視しているように感じていた。事実、その三日間の内、僕らはほとんど口を利かずに過ごした。
 父が発って二日目、僕が小学校から帰ると彼女はキッチンで一人、琥珀色の液体を傾けていた。机に置いたウィスキーのボトルから、グラスに注いで一息に飲み、グラスに注ぎ、また一気に煽る。怪訝に思いながらも、ランドセルを置きに寝室へ行き、またキッチンに戻ると突然、母はグラスを乱暴に机に叩き付け、飛び散ったウィスキーが袖に付くのも構わずに突っ伏して泣き出した。
「お母さん、大丈夫」
 異様な雰囲気を感じ、僕は母に問うた。
「あなたに何が理解るのよっ」
 そんな僕に、机に突っ伏したままの母は叫んだ。
「あなたに、あなたなんかに……っ」
 顔を上げ、屹と僕を睨み付ける。僕は、目を見開いて固まって仕舞う。
「ごめんなさい……」
 消え入るように、僕は言った。それを聞いた母ははっとしたように目を開くと、小さく唇を噛み、すぐに笑みを作った。
「少し、飲み過ぎて仕舞ったわね。お夕飯を作らないと。何がいいかしら」
 僕は、何も答えられなかった。
 崩壊の、始まりだった。