Neetel Inside 文芸新都
表紙

文芸秋の三題噺企画
お題②/彼の日常/硬質アルマイト

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お題②:「ジーザス」「くぱぁ」「卵」


 朝が来た。
 当たり前のことなのに、彼は必ず決まって起きるとそう言うのだ。それから当たり前のように冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンの上に落とす。耳当たりの良い音と共に黄色い丸を囲む半透明色が白く濁っていき、香ばしい匂いを放つ。
「ほら、朝が来たよ」
 そうやってベッドの上で丸まっている私から布団をはぎ取ると、すぐ傍の薄紫色のカーテンを左右に開く。まだ覚醒していない私には辛い陽光に顔をしかめながら、私は起きると一度大きく伸びをした。
 彼はその様子を見てから嬉しそうに一度頷くと、再びキッチンに戻って朝食の支度に戻っていった。
「下着と服はシャワールームに用意してあるよ」
 彼は何の恥ずかしげもなくそう言い残し、それから私は自身の体を見て、ああとうとう羞恥心も底を尽きたか、とシーツの感触を直に感じながら立ち上がり、脱衣所へと向かう。
「ああ、それから一つ言っておくことがあった」
 私は首だけ出してきた彼をまだ半開きでぼやけた視界で見る。今更秘部を隠そうという気は起きなかった。
「なによ」
 私の問いに対し、彼はまるでそれが日常のワンシーンを切り取った出来事であるかのように、にっこりと笑って、言ったのだ。
「別れよう。もう荷物はまとめてあるから、夕方くらいに出て行くつもりだ」

   ―彼の日常―

 彼と付き合い始めたのは二、三か月くらい前。人数合わせで連れて行かれた合コンの席でのことだった。
その時私はこの人数合わせとして呼ばれた状況と、やけに血走った目で、獲物を探している周囲の者たちにうんざりしていて、三千円で飲み放題ならどうにか元を取りたいものだと酒と食事に躍起になっていた。
 結果元はとれたかといえば、頭は痛い、腹は膨れている、おまけに吐き気が何度も胃と喉元を行き来して苦しむだけという最悪の事態を招いただけとなった。もう二度と元を取ろうという考えで飲み放題食べ放題には行くものか。そんな考えを刻み込まされただけだったのだ。
 二次会やら、連絡先やら、酷い者だと抜け出す準備をする中にこんな吐き気と胃のもたれを感じて苦しんでいる女性が一人だけいる。よく考えれば非常に異様な光景だ。これが合コンという獲物探しの場で一人その行為を怠った結果か、ジーザスと呻きながら、誰もいない建物の隅で、一人胃袋に詰め込んでいた“それら”を吐き出す。
 それから目元が熱を帯び始めたことに気づき、私は必死に目をこする。くぱぁ、と口を開いては嘔吐し、それから溢れ出る涙を拭う。それも薄汚いビルの隅っこでだ。
 果たしてこの涙は合コンにすら参加する気が起きなかった自分の惨めさからくるのか、逆噴射し鼻にまで吐瀉物が詰まって死にそうだ、いやこれはきっと死ぬだろう。ああいまいちな人生だったという自責の念からきているのか、そのどれもが当てはまるのか。
 そんなことを疑問として思い浮かべるのだが、このぐるりと世界が回り続けている感覚と、思考が逆回転している状況では答えはとても出せず、答えの代りにまたぐるんと回転した胃袋に従い、口を思い切り開いて地面に手をつき、身を乗り出した。
「大丈夫ですか」
 彼はそう言って私の背中に手を添えると、何度も暖かい言葉を私に向けた。
 意識がある程度あることを確認すると、すぐそこの自販機で買ってきたであろうミネラルウォーターのキャップを開け、私の口に突っ込む。よく冷えた水が喉を通ると幾分か胃が落ち着き、まだ私の胃が受け入れるという選択があることに心底安堵感を抱いた。
 暫く彼に支えてもらうことで、視界や頭はまだぼやけていて、感覚もぼんやりとしているが立てるくらいにまで落ち着くことができた。
「ありがとうございます。もう、なんとか……」
 そう、と彼はにっこりとほほ笑むと、それから吐瀉物をちらりと見てから、私をじっと見つめ、それから――
「僕ら、付き合いませんか?」
 その言葉と、胃に流し込まれていたミネラルウォーターが盛大に逆噴射したのは、多分ほぼ同時だったと思う。

 そこで視界が飛んだかと思うと、気づいた時私はベッドの上で衣服を引ん?かれた状態で横になっていた。
彼はそこそこ肉のついた身体と、くっきりと浮き出た鎖骨をこちらに向け、力を入れられたらきっと骨の一本や二本は持って行かれるであろう腕を、私の“要らない部分にだけ”よく肉のついた身体に回して微笑んでいた。
「おはよう、朝が来たよ」
 思考が追い付かない。何度も目を瞬かせ、それから周囲を見回し、優しく微笑む彼と陽光の漏れ出る窓を見て、なんだかほっとした私は枕に身を委ね、なるようになれと、横になる彼に低い声で、小さく呟いたのだ。
「私なんかでよければ、どうぞ……」

 彼は曰く、突発性恋愛症候群という病気なのだという。ふとした瞬間に好意を向ける人物がかちりと切り替わり、そしてもうその人物のことしか考えられなくなるという、それはそれは女性からしたら非常にはた迷惑な病気だった。
 私に惚れた理由もよく分からない。けれども彼の中ではもう私という人物は命をかけてでも守らなくてはならない人物となっているそうで、合コンの次の日には同棲をしたいと私自身の住居に大荷物を抱えてやってくると、毎日のように彼と共に生活を過ごすこととなっていた。
 かといって彼が捕縛的であったり、過保護であるかといえばそうでもなく、仕事から帰ってくれば普通におかえりと声をかけられ、料理を振る舞われ、それから家事を全て行ったのち、三日に一度くらい身体を求められるという生活で、私個人としては奇妙ではあるけれども、それほど不自由はないし、身体的にも満足感が得られるのでとまあこの生活をどこか許容していた。
 寝る時に彼は必ず、いつ君を失うか、君が僕の恋人でなくなってしまうかがとても怖いと涙を流し、そのたびに私を抱きしめ、もうどこにも行きたくないと言った。その言葉に私は黙って抱き返し、それから彼にただ応じていた。
 仕方ないことだと、そう自分自身に言い聞かせながら、出来うることなら私が彼の中で最も長く続けばいいと感じていた。

   ―――――

 玄関先で彼は靴紐を結び、立ち上がる。
「私はもういいの?」
「ごめん、君をもう愛することは、できない」
 彼は振り返らずにそう言うと、ただ一度静かに涙を流しながら、荷物を手にした。
「君には本当に……悪いことをした」
 そう言って一度深くお辞儀をすると、彼はぴったり四時に、玄関の扉を開けて出て行ってしまった。硬質的な音と共に扉が閉まり、私は無言のまま扉の鍵を閉めると、一度深く目を閉じ、それから部屋を見舞わす。
 彼という痕跡はすっかり消え去ってしまった。タンスに詰め込まれていた衣類は奇麗に全て回収されていたし、ごみ箱の中にあった筈の昨夜使ったゴムさえも奇麗に持ち去られている。
 これで終わりか、と思うと私は少し寂しくなる。こんな私でも、愛してくれる男性はいるのだなと、こんな後ろ向きな自分を許容してくれる人間がいるものなのだと。
 一度深くため息を吐いて、それからこの数か月を思い出し、ふとしたことに気づく。
 それから、ああ、と大きく叫び、笑う。部屋中に高音の不快な笑い声が響き渡る。こんな声、私出せるんだと、驚きを覚えながら、それでもひたすらに笑った。
 数分笑ってから、私はキッチンへと向かう。いつも彼が卵を割り、目玉焼きを作っていた。彼の作る料理はすべてがおいしかった。まるでレストランで料理を食べているような気分になれた。いや、まあ実際レストランで食べていたようなものなのだが。
 奇麗に片付けられたキッチンの扉を開けると私は、奇麗に研がれた包丁を一つ取り出し、じっと見つめる。歪んだ私の姿をじっと見つめ、一言つぶやいた。
「ジーザス……」
 それからその包丁で空を切ると、クロックスを履いて扉を思い切り開けた。
 きっとここまでが彼の当たり前なのだろう。日常なのだろう。なら私もそれに従おうじゃないか。
 数か月間を共にした彼は、私を見ると優しく微笑み、それから全力で駆けだした。
 私は満面の笑みを浮かべて、その後ろ姿に包丁を突き立てるべく、地面を蹴り上げた。

――浮気症のヒモ野郎に、死の制裁を。


  完

       

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