Neetel Inside 文芸新都
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文芸秋の三題噺企画
お題③/翔べ!ボルト/ねこせ

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 ふう…………。
 高く透き通る蒼穹を仰向きになって眺めながら、ボルトは深くため息をついた。
「フライング、か……」
 そう、彼は大舞台で先走ってしまった。いや、下の方のことじゃなくて、下の方は下の方なんだけど下の方よりもっと下の地面に一番近いところが……。
「なんだ、こんなところにいたのか、ボルト!」
 ボルトと空のあいだを遮るように、ボルトの視界に顔がひとつひょっこり現れる。ボルトの親友、ワッシャーであった。
「なんだ、探していたのか」
「当たり前さ。あの後、姿をくらやましやがって。心配してたんだぞ」
「別にいいだろ。ひとりにさせてくれ」
「なに言ってるんだ、彼女がお前を待ってるぞ」
「……ホーガンのことか。きっと彼女だって、俺には幻滅したさ」
「顔も見ていないのによくわかるな」
「わかるさ、一番近くにいたんだから」
「彼女だってお前が早漏野郎なことくらい知っているさ。ただ足の方もだった、というだけだろ?」
「……」
 青い空に白いラインが生まれる。精子じゃない。飛行機雲だ。
 ボルトは昔一度だけ吸ったことのある煙草を思い出すように、もう一度息を吐いた。不思議とあのとき味わった苦みは、記憶のなかから消えていた。
「なあ、ボルト。“えんがわ”って知ってるか?」
「さあ、知らないな」
 ワッシャーが大きく鼻息を鳴らし、胸を張った。ボルトは少しのあいだ彼の話を聞かされることを覚悟した。
「えんがわっていうのは、いわゆるスシのネタのひとつだ。スシ、わかるよな?」
「ああ、俺もスシは好きさ」
「まあ、このえんがわも要は魚なわけだが、普通はヒラメやカレイの部位のことを指す。しかし、えんがわとして切られちまったら、そいつらはもうヒラメでもカレイでもない、えんがわになるってわけさ」
「……ああ、それはわかったが、いきなりどうしてそんな話をするんだ」
「お前はフライングをした。しかし、お前はボルトであり、いまだに陸上選手であることに変わりはないだろ?」
「ワッシャー……」
「彼女の心もまたえんがわのようなものさ。コリコリしてて美味だ。しかし、スシのように誰もがむしゃぶりつけるわけではない。……ボルト、お前を除いてな」
 その言葉を聞いて、ボルトは勢いよく立ち上がった。
 正直、えんがわの下りはさっぱりわからなかったし、ワッシャーの言ってることは意味不明だったし、俺のフライングを見たせいで頭がいかれちまったんじゃないだろうかとさえ心配したが、とにかくいまはホーガンの元へ行ってあげなければならない。その意図だけはたしかに受け取った。
「ワッシャー、俺行くよ!」
「ああ、その俊足でいますぐ駆けつけてやりな!」
 そうして、ボルトはクラウチングスタートを取ったが、そんな必要はなかった。
 彼女――ホーガンの方からボルトの元へとやって来たのだった。
「ボルト!」
「ホーガン……その姿はいったい……」
 しかし、彼女の姿は、ボルトの知っているものとは少し変わっていった。
 ホーガンの頭にはちいさな鉄の輪がとりつけられ、まるで散歩される猛犬かのようにそこから鉄の紐が伸びていた。
「ボルト、わたし改名したの」
「改名? どういうことだ」
「これからはわたし、ハンマーとして生きて行くわ」
「な、なんだってー」
 ボルトはクランチングスタートのポーズから「考える人」のポーズへと変えた。いったい彼女はなにを言っているのだろう。えんがわ以上にボルトはわけがわからなかった。

「僕のハンマーちゃん、いったい誰と話しているんだい?」

 すると彼女の後ろからひとりの男が姿を現した。
 筋肉隆々な完璧ボディー、その体つきと立派な髭から一見ヨーロッパ人のように思えたが、よく見るとその顔立ちにはアジアの面影があった。
「貴様……誰だ?」
「ふむ、紳士ならまずは自分から名乗りべきじゃないかい?」
「……ウサイン・ボルト。短距離選手だ」
「うむ、僕は室伏広治。ハンマー投げ選手さ」
 ふたりがいま、対峙する。
 別々の世界の頂点に君臨する彼らが向きあおうとは、誰が予想できたであろうか。
「貴様のその手に握っているものはなんだ?」
 ボルトは室伏の手を指して尋ねた。
 彼の大きな手にはいま、ホーガンから伸びるワイヤーの先端が固く握りしめられていたのであった。
 ――これではまるで、奴隷ではないか。
 自分の女にそのような行為をされて、ボルトも黙ってられるわけがなかった。短距離選手である前に、彼も一人の男なのであった。
「ん? 見ればわかるだろ? ハンマーさ。僕はハンマー投げ選手だからね」
「なぜホーガンがそのような姿になっている……ッ!」
「短距離選手である君が彼女を持っていたところでどうなると言うんだい? 彼女だって世界一をその身で味わいたいのさ。ハンマーにさえなってくれれば、僕はそれを叶えることができる」
「ごめんなさい……ボルト……」
 彼女の謝罪の言葉を聞いて、再びボルトはクランチングスタートを取った。
 ――やはり、すべてあのフライングのせいか。
 しかし、俺はこれからあのミスを取り戻す。なんたって俺はえんがわじゃないからな。何度でも蘇ってみせるさ。
 ――だから、その鎖を断ち切って、彼女を砲丸に戻してみせる。
 その瞬間、ボルトの姿は消えた。
 しかし、本当に消えたのではない。目では捉えられないほどにボルトが加速したのであった。
「なにっ」
 室伏も短距離に関しては自信がないわけではなかったが、やはりそのスピードの差は圧倒的だった。
 室伏はどこから来るかわからないボルトの攻撃をかわすでもなく、受け止めるでもなく、近づけさせまいとする。
「フンッ!」
 その、ハンマーで。
 しばらくしてハンマーが加速すると、室伏を中心にクレーターが地面に描かれた。そして周囲に吹き荒れる爆風。
「くそっ、なんて威力だ!」
 思わずその状況に、ボルトも足を止めた。
 競技とは違い、ラインに収まらない現在の室伏には、誰も近づけそうもなかった。まるでヘリコプターのプロペラだ。いや、これはそれ以上かもしれない。
「僕の射程圏内で、足を止めていいのかいっ!」
 その声とともに砂塵のなかからハンマーが一直線に止まっていたボルトに向かってきた。
 ――はやいっ!
 咄嗟に足のバネを伸ばし、反射的になんとかボルトはハンマーを避けたが、ボルトが避けたいま、ハンマーが向かう先は……。
「ッ! ワッシャー!」
 彼には避けられないと、ボルトは半ば諦めた。
 しかし、ハンマーを目の前にして、にやりと笑みを浮かべたワッシャーの表情を、ボルトは見逃さなかった。
「フンッ!!」
 直撃の直前、ワッシャーは驚くことにハンマーを両手で挟んだ。
 そのままワッシャーの体ごと後方へと押されていったが、しばらくしてハンマーの勢いは完全に静止した。
「ワッシャー……お前……」
「ふむ、僕のハンマーを素手で止めるとは……。いったい何者かね」
「ふふふ、俺の本当の名前を教えてやろう」
 ボルトと室伏は息を呑んだ。
 ただのデブかと思っていたワッシャーの巨漢は、そのほとんどが筋肉であった。

「ランディー・バーンズ、砲丸投げ選手さ!」

 そのとき、ボルトと室伏に電流走る。
 また彼に止められたホーガンも、自分がハンマーになっていることを忘れて、その世界一の手の中で濡れた。
 この場にもうひとり、世界の頂点に立つ男が現れたのだ。
「悪いが、このワイヤーはちぎらせてもらうぜ!」
「あぁんっ」
 卑猥な声をあげて、ハンマーがホーガンへと戻る。
 そして、それを右手に持つとゆっくりとランディーは回転を始める。彼の投擲方法、回転投法である。
「返すぜ! 若造!」
 室伏が放ったハンマーが、砲丸となって帰ってくる。
 しかし、その鉄塊を、室伏もまた素手で受けとめた。
「うおおおおおおお!!」
 このままではさきほどのハンマー同様、砲丸は、間違いなく勢いを失うはずだった。

 しかし、そこに新しい力が加わる。

 ボルトが、翔んだのだ。
 その走りの勢いのまま走り高跳びのように空中へと翔び、室伏の手元にある砲丸目指して右足を伸ばした。
「喰らえッ! ボルトキック!」
 ボルトの鋭いスパイクが、砲丸に食い込む。そして、ヒビを入れる。鉄塊はそのまま炸裂し、崩れ落ちた。
 同時に、二人の男の顔も崩れ落ちた。
「俺のハンマー!!」
「俺の砲丸!!」
 ボルトはそれを見て、笑った。
 所詮、彼は短距離選手なのだ。
 それはえんがわのようには変わらない。





       

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Neetsha