Neetel Inside 文芸新都
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 俺は前方に居る巨熊の目を、ジッと見つめていた。彼我の距離は、五メートル前後といった所だろう。あの熊の運動能力にもよるが、この距離はあって無いようなものだ。そして、俺と熊の間に、エレナが居る。
「エレナ、ゆっくりで良い。俺の後ろまで来い」
「シオンさん、私、立てません。腰が抜けてしまって」
「良い。そのまま、這いながら来るんだ」
 俺は、会話中も熊の目から視線を外さなかった。外せば、その瞬間に殺される。
 凄まじいまでの殺気だった。しかも、本能を刺激し、恐怖や怯えをダイレクトに突いてくる。気をしっかり持っていないと、腰を抜かしてしまいそうになる。
「さっき、仔熊が、仔熊が居たのです、シオンさん」
 エレナの言葉を聞いて、あれは母熊なのだろう、と俺は思った。もしかしたら、ここはあの熊の縄張りなのかもしれない。
「喋らないでいい。とにかく、俺の後ろに」
 熊の気が、僅かに大きくなった。俺も気を前方に向けて放つが、効果は無い。丸腰なのだ。つまり、すでに放っている気は虚勢でしかない。
 ようやくエレナが俺の背後に回った。しかし、問題はこれからだ。逃げるのは無理だろう。人間の走る速さなど、たかが知れている。その上、エレナは腰を抜かしているのだ。
 この局面を打開するには、やはり熊を退けるしかない。丸腰で、俺一人で。
「エレナ、武器になるようなものは無いか? 木の枝でも何でも良い。握ることができれば、何でも良い」
「武器と言ったって、どうするのです?」
「何も言わず、俺を信じてくれ。頼む」
 尚も視線は外さない。熊の気がどんどん大きくなっていく。最初の睨み合いは、実力の測り合いのようなものだった。しかし、今は違う。すでに熊の気の方が大きい。自分の方が強いのかもしれない。熊は、そう思い始めているのか。
「シオンさん、これを」
 足元に何かが転がって来た。視線を合わせたまま、それを拾い上げる。木の棒だった。太さは槍の柄ぐらいで、長さは短槍と同程度だろう。方天画戟と比べるとかなり軽いが、丸腰よりは断然マシである。
 構えた。同時に、木の棒を方天画戟に見立てた。さらに気を放つ。
 熊が鼻をちょっと動かした。瞬間、立ち上がる。デカい。思ったのは、それだけだった。すでに殺気は、気圧される程に受けている。
「シ、シオンさん」
 来るか。ならば、来い。
 熊。吼えた。風。一気に吹き抜ける。
「来いっ」
 刹那、突進。かわした。というより、身体が横に跳躍していた。熊が踏ん張っている。地面。蹴り付けた。飛んでくる。
「エレナ、木の陰に隠れていろっ」
 言うと同時に、地面の上を転がった。起き上がると同時に、熊の腕。受け、いや、引き千切られる。紙一重で仰け反り、かわす。
 さらに腕。掻っ捌くかのような振り方。屈んで避け、地面を蹴った。横に跳躍したのだ。しかし、熊も同時に飛んでいる。駄目だ、喰い付かれる。いや。
「このぉっ」
 棒で地面を突いた。体重を移動し、跳躍の方向を変える。俺の姿を目で追いながら、熊が吼えた。また、向かってくる。
 熊の腕。目を見開く。一撃、二撃とかわし、三撃目が見えた刹那。カウンター。腕に棒を叩きつける。しかし、熊は怯まなかった。舌打ちする間もなく、熊の顎が襲ってくる。
 熊の全身は、堅い毛皮と筋肉の鎧で覆われていた。だから、鉄ならともかく、木では大して損傷は与えられない。ならば、どうすれば良い。すでに息はあがっている。一方で、熊の執拗な攻撃は、やむ気配がない。
 急所だ。急所を突くしかない。その中で確実なのは頭だろう。しかし、出来るのか。いや、やるしかない。
 後方に飛びずさった。態勢を整えるのが狙いだったが、熊はほんの少しの跳躍で、距離を詰めてくる。この接近戦でやるしかないのか。しかし、熊は素早い。攻撃をかわすだけでも、精一杯だ。さっきのカウンターも、たまたま機が来ただけに過ぎない。
 息が思うように吸えなくなっていた。苦しい。全力運動の連続なのだ。精神的にも消耗しているだろう。苦しい。どうしようもなく、苦しい。
「シオンさんっ」
 エレナの叫び声。分かっていた。分かっていたが、もう身体が限界だった。深く息をしないと、もう動けなかったのだ。それで、動作が遅れた。一秒にも満たなかっただろう。それでも、遅れた。
 熊の爪。左肩を抉られた。ちぎり飛ばされたと思ったが、僅かに肉を削ぎ落されたに留まっていた。ギリギリで、ギリギリでかわしたらしい。
 さらに腕が飛んでくる。これ以上、攻撃は貰えない。長くも戦っていられない。腕。かわす。瞬間、閃光。頭の中で走った。
 熊の咆哮。同時に、僅かな返り血を浴びる。木の棒は、熊の左眼を貫いていた。熊が牙を剥きながら、残った右眼で俺を睨みつけてくる。
「去れ。そうすれば俺達もすぐにここを退く」
 ここがお前の縄張りだとすれば、不用意に侵入した俺が悪い。しかし、死ぬ訳にはいかないのだ。襲って来られれば、俺だって抵抗する。
「去れっ」
 俺がそう吼えると、熊は後退りを始めた。俺はそれを、肩で息をしながら睨むように見続ける。
 互いの間合いから外れたと同時に、熊は尻を向けてどこかに逃げて行った。
「助かった」
 呟くように言って、俺は膝から崩れ落ちた。今になって、全身が震え出してくる。
「シオンさん、大丈夫ですかっ」
 木の陰に隠れていたエレナが飛び出し、俺の方に駆け寄って来た。
「エレナ、ここは危ない。早くここから離れた方が良い」
「でも、肩を」
「大した傷じゃない。縫えば済むだろう。とにかく、ここを離れよう」
 顔を馬の方に向けると、二頭とも無事なのが見えた。まだ興奮気味だが、抑えれば乗れるだろう。
 肩の傷を、手拭いで縛り上げた。とりあえずの応急手当である。
「早くお医者様に見せましょう」
 そう言って、エレナが手を差し出してくる。俺はその手を握って、立ち上がった。まだ、全身の震えは止まらない。
「シオンさん、ありがとうございます。私、貴方が居なかったら」
「良いんだ。惚れた女が守れて、俺は良かった」
「え?」
 自然と言えた。俺はそう思った。言うなら、もう今しかない。そうも思った。
「エレナ、俺と結婚して欲しい。俺は君の事が好きだ。どうしようもなく、好きだ。だから、結婚して欲しい」
「シ、シオンさん?」
「返事は今すぐじゃなくても良い。それに俺は、軍人なんだ。スズメバチ隊の。そしてもうすぐ、将軍になるかもしれない」
「え? あの、え? ごめんなさい、私、混乱してて」
「良いんだ。とにかく、君が無事で良かった。熊が出ると知っていれば、こんな所には連れて来なかった。すまない」
「そんな。でも、私はシオンさんと一緒に居れて、その、良かったです」
 エレナの言葉を聞いて、俺は微笑んでいた。エレナの顔は、ちょっと赤くなっている。
 馬を引いて、歩き出す。エレナは心配そうに俺を見ていたが、笑みを返すと、少し安心したようだった。
 ふと、渓流の方に目をやると、カワセミが飛んでいるのが見えた。
「カワセミ隊」
 呟き。それは、俺の部隊の名だった。

       

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