Neetel Inside 文芸新都
表紙

黒い子短篇蒐
兎と狐は夜もすがら。

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 夜、十時頃。マンションのある一室の玄関の前で、男と女がうずくまっていた。
「どうしよう」
 女が、囁くようにそう口にした。
「どうしようと言ったって」
 男はそれを受け、やはりごく小さな声量でそれに答えた。部屋の中からは微かに女性の艶やかな声。時折、何かを打ち付けるような音が聞こえる。中で何が行われているのかは、想像に難くなかった。
「こんなことになるなら、来るんじゃなかった」
 女がぽつりと、今度は独白のように言った。
「いや、でも知らないなら知らないでつらいというかさ」
「もうやだ」
 女は俯いてしまった。長い、茶色みがかった柔らかそうな髪が顔にかかり、その表情はまったくわからない。
「とりあえず、帰ろうか」
 男がそう声をかけるも、女は首をふるふると横に振るばかりだ。ちょっと立ち上がりかけた男も、困ったような顔でまた隣に座った。
「こっそり遊びに来てみただけだったのに、どうしてこんな思いしないといけないのよ」
 二人は今夜、女の恋人の家に連絡なしで遊びに来たのだった。とくに祝い事ではないが、驚かせてやろうという趣旨だったはずだが、どうやら逆に驚かされる結果となったらしい。
「今日が初めてでは、ないよねきっと」
 女とその恋人の関係が始まってから、もう三か月経つ。その間、恋人は自分以外の人間と何度交わったのだろう。女の嫌な想像は加速度をつけて大きくなっていく。女は大きくため息をついた。
「きっと、あたしのせいだ」
「なんでそう思うの」
「だって、付き合ってから一回もしたこと、ないし」
「いや、それは。うーん……」
 恋人の家を訪れたことは数回あったが、それにはいつも男が一緒だった。何度か一人で誘われたことはあったが、なんとなくまだ体を重ねるには早いような気がして、部屋に二人きりになるのを避けていたのだ。
「こんなことになるなら、さくっとやっておけばよかった」
「さくっと」
「さくっとよ」
 男はそれを聞いてちょっと笑いそうになったが、また何か打ち付けるような音が聞こえ始めたので、ただため息をついた。
 
 
 
 時刻は十一時半を越えていた。
「ああ、もうやめやめ。ここで飲もう」
 しばらくだんまりを決め込んでいた女が突然持ってきたビニール袋に手を入れた。変わらず声は小さいが、ビニールのかさかさとした音がやけに耳に障る。男は内心びくびくとしながら聞き耳を立てた。部屋の中からは微かに、ほんの微かに水の流れる音が聞こえる。シャワーだろうか。それを聞いていると、だんだん男も腹が立ってきた。
「そうしよう」
 しかし声は小さいままにそういうと、男もまたビニールに手を入れて酒の缶を取り出した。無表情のままささやかな乾杯をして、勢いよく缶を喉に向かって傾ける。
「どんな気分で飲んだって、お酒は美味しいのね」
「本当にね」
 それきり二人はしばらく無言のまま、酒をあおった。やがて十分もしない内に、ほぼ同時に一本目の缶が空く。
「さくっと、ねえ」
 男がぼやく。
「さくっとよ、さくっと」
 女がそれに応えた。
「でもさ、結局セックスすれば浮気しないってことには、ならないんじゃないの」
「どういうことよ」
「それは、あいつは君とセックス出来ないから性欲を持て余していたろうとは思うけれど、あいつはほら、ああいうやつだから。寂しかったんじゃないのかな」
 女は、そこに少し思い当たる節があった。もともと彼女は連絡がまめな方ではない。少人数より多人数の方が楽しいと思うタイプだ。だから、こうして男と恋人と三人で遊びに出ることも多かったし、そこに何の窮屈も感じなかった。対して、女の恋人はどちらかというと二人の時間を求めた。連絡だって毎日くれる。口にこそしなかったものの、恋人がそういった部分、つまり恋人としての関係の在り方に不満を持っていたであろうことは、女もわかっていた。恋人がなんでも受け容れてくれるのをいいことに、自分のやりたいようにしてきたのは女の方だった。だが、
「それじゃ、あたしが悪いって言うの」
「そういう訳ではないのだけれども」
 これではまるで女が悪いから恋人が浮気したと言うようなものだ。浮気は浮気で、それはつまり絶対悪であると、女は頑として思っていた。
「しかし、あれだね」
 男はプルタブに手をかけながら言う。
「近頃は、急に寒くなってきたね」
「本当にそうね。どっか、行っちゃおうか。温かいところへ」
 女もまた、二本目の缶に手を伸ばす。男はふふふ、と笑ってみせた。
「そんな気なんてないくせに」
「まあね。ないわよ、そんな気なんて。ないわ」
 それきり、二人は黙って酒を飲み続けた。
 
 
 
 三本ずつ飲み干して女が酔ってきた頃、缶がなくなった。後はワインの瓶が二本あるきりである。グラスがないので、飲むに飲めない。そもそもコルクで栓がしてあるので、開けることさえできない。時刻は一時に届かない頃だった。部屋の中は静まり返っているようで、音の一つも聞こえない。
「買いに行こうか、お酒」
 男が誘うが、女は首を横に振って「ここから動きたくない」と言ったきり黙ってしまった。
「なら、僕一人で行ってくるよ」
「だめだよ。ここにいて」
「君、酔っているね」
「酔わずにいられるかってんだ」
 妙な口調だ、と思って男がにやりと笑うと、女は一瞬何かを閃いたような顔をしてさっとワインの瓶に手を伸ばした。長い、赤い爪で器用にラベルを剥がし、コルクを押し込み始める。
「何してるの」
「引き抜けないなら押しこめばいいのよ。ねえ、爪が邪魔でうまくできないから代わりにやってくれない」
 半分呆れながら、男は瓶を受け取った。中で水の揺れる音がする。ぐっと力を込めて、コルクを押し込む。少しずつ、しかし確実にコルクは押し込まれていき、やがて小さく音を立ててコルクは瓶の中に完全に落ちた。
「開いたよ」
「ありがとう、こっちもお願いしていいかな」
 男の目の前に、未開封の瓶がずいと差し出された。
 
 
 
 時刻はとうとう一時を回る。この夜は月が綺麗だった。廊下の柵越しに見る空は雲一つなく、男と女の姿を月の光がはっきりしたコントラストで照らしている。
「あたしたち、どうなるのかな、これから」
「どうって、別れるんじゃないの」
「そうかも知れないけれど、あたしはそれでもあの子が好きな訳で」
「君たちって本当によくわからないよね」
「あたしもそう思う」
「君自身はどうしたいの」
 男の口調は終始穏やかだった。女にはそれが心地よくもあり、同時に少々腹立たしい。何故この男はあたしがこんな現実に直面しているにも関わらずこんなにも穏やかなのだろうか、と。
「どうしていいかはわからないけど、とにかく別れたくはないのよ。だってあたしたちなんていうか、そうでしょう。ね、わかるでしょう」
「言わんとしていることはわかるけれども」
「こんな形で一人にされたら、あたしどうしたらいいのよ」
 男はただ黙って首を振った。それを見て、女は瓶をぐいとあおって、少しむせる。口の端から垂れたワインが、男にはまるで鮮血のように見えた。男が思わず目が離せなくなっていると、女は気怠そうに口を開く。
「舐めとってよ」
 男の口元が、ぴくりと震える。
「舐めとって」
 女が、もう一度言った。その姿は普段の子供っぽい振る舞いからは想像も出来ないほどに艶めかしい。
「どうして今日は、そんなことばかり言うの」
 顔色一つ変えずに、男が言い返す。
「あてつけなら、僕を使うのはよした方がいいよ」
「そう、そうだけど」
 今や口元から垂れたワインの滴は女の鎖骨の辺りの布に染み込み、歪な紫色のシミを作っている。
「あたしだって寂しいよ。別に浮気しようなんて思ってないけど、あの子に棄てられたらこの先、どうしていいかわからない。でも、どうしようもないのよ」
 恋人と行為に及ぶことは、女にとって嫌なことではなかった。だが、女は怖かったのだ。それは彼女にとって未知の領域だった。恋人のことは好いていたが、肉体関係を持つには、精神的にも肉体的にも勇気の要ることだったのだ。だからこそ、女はそこに踏み込めないでいた。恋人は、それに対する不満や焦燥を口にも態度にも出すことはなかったが、こんな風に示されるのなら、いっそなじってくれた方がましだったなぁと、酔った頭で女は思った。男はただ黙って、女の頭を撫でた。
 
 
 
 その後、女は泣いた。押し殺した声のままで、ぼろぼろと泣いた。涙が落ちた先のワンピースの生地は、涙の部分だけまだらにその色を濃くする。二本のワインの瓶は半分ほど残して放置されている。
「好きだったんだよね、僕」
 ぽつりと、男が呟いた。
「好きって、何が」
「僕が」
「誰を」
「あいつを」
 時刻は、既に二時を過ぎていた。何かの独白にはあつらえ向きの時間かも知れない。女は呆気にとられた様子で口を大きく開けていたが、やがてふと真顔に戻ってただ一言、「まあ、わからないではないけれど」と言って黙った。女の涙は、どうやらすっかり引いたらしい。
「望みのないことだってわかってはいたけれど、それでも気持ちを抑えることが出来なかった。もちろん、あいつに僕の気持ちを伝えたことはなかったけれど、ひょっとすると気づいていたかも知れないね」
 女が黙っていると、男は自嘲気味に笑った。
「駄目だね、酔うと。言わなくていいことまで口走ってしまう」
 女はそれでも、何も言わない。代わりに彼女は再びワインの瓶に手を伸ばした。男もまた、それにならう。
「何やってるんだろうね、あたしたち。」
「本当にね」
 ドアの向こうは相変わらず静まり返っている。先ほどまでの情交の音が嘘のようだ。
「僕らが知らないところで、あいつは苦しんだりよがったりしてたんだよね、きっと僕らと出会う前からずっと」
「そうだね」
「別にそれを僕がどうこう言う権利はないのだけどさ」
「うん」
「結局のところ、君はどうしたいの」
 女は、またしばし黙った。それからその口を重そうに、ひどく重そうに開けて話し出す。
「どう、というか。なんか君と話してたらよくわからなくなってきた。あの子のことは好きだし出来れば一緒にいたいけれど、こんなことになっちゃったし。あの子があたしに求めるものなんて正直よくわかんないし、そもそもあたしはあの子に何を求めてたのかなって」
「うん、それで」
「今日朝が来て、多分そうしたら浮気相手が出てくるから、そいつをひっぱたく。それで、あの子とちゃんと話をして、決める」
「それが良さそうだね。そうなったら、頑張って起きていないと」
「そうね」
 
 
 
 男が目を覚ましたのは、空が明るんできた四時半頃のことであった。ぼやけた頭で男が最初に頭に浮かんだのは、藍色の空が綺麗だということで、次に浮かんだのが今何時だろうということだった。それは、ブルーモーメント。青の一瞬。五分も経てば、空は白や薄桃色にその色を変えるだろう。
「ねえ、起きて。起きてってば」
 男は、自分の肩に寄りかかるようにして眠っている女を揺さぶった。女は気怠そうに目を開き、次の瞬間弾かれたように立ち上がる。
「今、何時」
 女が男に問う。やってしまった。いつ眠ったかも覚えていない。
「四時半過ぎかな。さすがに誰も出てきていないと思うけれど」
 男の言葉を受けて、女はすとんとその場に座った。
「寒いし眠いしつらいし、もう嫌」
「浮気相手の顔、ひっぱたくんでしょう」
「うん。全部夢だったらよかったのにな」
「そうだね。寝ちゃったわけだしね」
「そうだよ、寝ちゃったわけだし」
 刻々と空は明るくなっていくのに、女の心は依然として暗いままだった。起きたばかりだとい言うのに目は冴え冴えとしていて、それがなんだか余計に惨めったらしく感じる。
「そういえば」
 何かに気づいたように、男は口を開いた。
「そういえば今日は日曜日だ。朝になっても浮気相手が出てこなかったら、どうしよう」
「た、たしかに……」
「相手が学生か社会人かもわからないけれど、休みの日となると一日出てこないかも知れないよね。そもそもあいつが外出るの、あんまり好きじゃないし」
「どうしよう、あたし二人を相手に啖呵切れる自信ないよ」
「取り敢えず、浮気相手は追い出すしかないね」
 男は相変わらず落ち着き払っている。それを見ていると、狼狽していた女も落ち着きを取り戻してきた。同時に、なんだか腹が立ってきた。
「ねえ、一晩中話してたけどさ、なんでそんなに落ち着いていられるの」
「なんで、と言われても。僕はいつだって落ち着いているじゃない」
「それがなんでって聞いてるのよ。あたしがこんなにつらい思いをしているのに」
「それは仕方ないよ。君のつらさは君のつらさであって、僕の物ではないから。完全には理解出来ない。あいつにしたって、僕はあいつの気持ちを本当には理解できないから、一方的に悪者だとは決めつけられない。もちろん悪い事は悪い事なんだろうけれどさ」
「なら、やっぱりあたしが悪いんじゃない」
「それをこれから確かめるのでしょうに」
 あっけらかんと男は言う。女はなんだか拍子抜けしてしまった。
「もう、いいか」
 男が、表情一つ変えずに言った。
「いい、って何が」
「突入しよう」
「突入って、まだ五時前でしょう」
「いいんじゃないかな。僕らにとってはまだ夜の延長なのだし」
 女はしばらく口をもごもごと動かしていたが、やがて大きなため息をつくと諦めたように頷いた。
「どっちにしたって、その時は来るのだものね」
「そうだよ。さくっと終わらせよう」
「さくっと」
「さくっとだよ」
 そうして二人は少し笑って、部屋のチャイムを鳴らしたのだった。
 
 
 
 いや、鳴らそうとしたのだった。突然、がちゃがちゃと騒々しく鍵の開く音が、朝の静けさを追い払った。立ち上がりかけた二人は慌ててまた座り込んだ。間もなくドアが開き、スーツ姿の男性が一人で出てきた。玄関口に人がいる気配はない。男性はドアを閉めると鍵をかけ、それを郵便受けに入れた。ここで初めて、彼は二人の存在に気づく。怪訝な表情を浮かべながらも、彼は軽く会釈をして去って行った。革靴のソールと地面がぶつかって出す小気味良い音が遠ざかってから、男はようやく口を開いた。
「ひっぱたくんじゃなかったの」
「いや、びっくりして、なんか動けず」
「いい人そうだったね」
「いい人なわけないでしょ、浮気の片棒担いでるんだから」
「知らなそうだけどね、彼」
「知らなきゃいいってものでも」
「知らず知らずのうちに浮気相手に……浮気相手。いや、うん」
「なによ」
「今までまったく考えなかったことだけれど、こっちが浮気だった可能性もあるんじゃないのかと思って」
「……あ」
 大きく口を開けて固まる女。
「いや、でも。普通に恋人がいるのに、女の子に手を出したりしないでしょ、普通」
「だって普通じゃないでしょう、あいつ」
 女の恋人は、女性であった。女が自分のセクシュアリティに気づいたのは高校生の頃で、かと言ってそれを矢鱈に吹聴はしない程度の分別もあって、それを初めて人に言ったのは彼女が二十歳の頃だ。二十六歳となった今までに、交際した女性は二人。その二人との性的な体験と言えば接吻くらいしかなく、それもごく淡いものだった。女としては、別に肉体的な快楽を求めてはいなかった。一緒に居て精神が安らげばそれでよかったのだ。恋人は、それまでの二人とは違い何かぎらぎらしたものを内に秘めているように思えた。女にはそれが魅力的でもあり、同時に恐ろしくもあった。
「そう言えばあの男の人、どうもぱっとしない雰囲気だったね」
「ああ、うん。確かに」
 スーツ姿の男性は、男の言うとおりあまりぱっとしない印象の男だった。不細工ではないが、美形という訳でもなく、背も高すぎず低すぎず。髪は黒かった。これと言って特徴がない。強いて言うなら優しそうな雰囲気だったように、女は感じた。
「ああいうのがいいのかな」
 女がぼそりとごちた。
「まあ、結婚するならああいう人なのかもね。無害そうというか、なんというか。
 そこそこの会社で働いて、わりと決まった時間に帰ってきて、子供が生まれたらそれなりに子供の世話もしてくれそうで」
「なに、あの人友達なの」
「いや、まったく知らないけど」
「なにそれ」
 二人はそれからちょっと笑いあう。時刻は六時の少し手前。空が完全に明るくなるには、まだ少し届かない。よく晴れた朝だった。
「なんかいろいろ、どうでも良くなっちゃったな」
 大きく伸びをしながら女は言った。カバンから携帯電話を取り出し、電話をかけ始める。間もなく、部屋の中から微かに電話の鳴る音が聞こえだした。しばらく電話は鳴って、女が話し出すと同時にその音は途切れた。
「じゃあ、あたしは行ってくるから、ここで待ってて」
「え、帰っては駄目かな」
「ダメ」
 がちゃがちゃとまた騒々しい音を立てて、鍵が開く音がした。程なくしてドアが開き、女の恋人が驚いた顔で出てこようとするのが見えた。しかし、女は強引にそれを押しとどめ、一緒に部屋へと入っていった。
 残された男はその様子がなんだか滑稽に見えて、一人渇いた笑いをもらした。ずっと放置されていたカバンに手を伸ばすと、中からタバコを取り出す。とうとう言えなかったな、と、男は思った。男は一度、女の恋人と交わったことがあった。お互い酔っていたとは言え、あれはよくなかった。翌日からも別段交わったからと言って二人の関係は変わらなかったし、女に対しても男、恋人それぞれそれまで通りの付き合いに徹していた。それまで女の恋人への恋愛感情もあったが、なんだかその日を境にふっつりと途切れてしまっている。だから今回の件も、別段不思議ではなかったし、いつか起こり得ることだろうと思っていた。もちろんそれが今日だとまでは予想していなかったが。ただ、女が今回の件で大きく傷ついたろうということだけが気がかりだった。
 部屋の中からは、声は聞こえない。男はタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。長く、細く息を吐き出して、煙を吐く。晴れ空に、煙が溶けて消えていった。

       

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