****************************************
* *
* 僕の塔 *
* *
* 最後に待ち受ける者 *
* *
****************************************
この塔の階段には、小さな窓が必ずつけられていた。
伊藤月子は階段を降りるたび、そこから外を覗くようにしていた。
探索を始めたときは、地上があまりに遠くてとてつもない絶望感を味わった。
モンスターに殺されるたび、バニーに強姦されたとき、クラゲに脳を改造されたとき、いずれも泣きながら窓の外を見ていた。
外を見る。
それはつまり、階段を降りるということ。
少しずつ脱出に近づいている。
それだけが、伊藤月子を突き動かしていた。
そして、どれだけ降りたことだろう。
地面がとても近い。
伊藤月子は知った。先ほどのフロアは2階。そして次は1階、最後のフロアということを。
脱出は近い。
階段を降りた先、つまり1階は、今までのフロアと比べて造りが大きく異なっていた。
これまでのフロアは程度の差はあれど入り組んだ複雑な迷路、ありありと殺意が感じられるトラップやモンスターが配置されていた。
しかし最後のフロアであるそこは、広い吹き抜け。しかも壁や床は綺麗に整備されていて、まるでホテルのエントランスホールのように思えた。
ふと、頬を撫で、髪を後ろへ流す風に気づいた。
探索を開始してから、初めて風を感じた。窓ははめ込みになっていて開けることができなかった。
風を頼りに進む、進む。この塔で風が入る、つまり外に繋がっているところ――たった1つしか考えられなかった。
「で、出口っ!」
いくつか通路を抜けた先、一際大きな部屋にあった。
重量感のある、両開きの鉄の扉。手を大きく伸ばしてもそれ以上はあるだろう。それが壁に埋まるように閉じられていた。
「えっ……?」
そんな扉の前に立つ、一人の姿。
伊藤月子はその人物を知っている。知らないはずがない、わからないはずがない。
「陽くん……!」
恋人の神道陽太。彼がそこにいたのだ。
もちろん彼女は知らない。ここでの彼の本性を。
「陽くん!」
「やあ、月子……うわ、おっとっと」
伊藤月子は走って神道陽太に飛びついた。神道陽太はその衝撃にたたらを踏むが、どうにか持ち直して恋人を抱き留める。
「会いたかった、ずっと会いたかったよ……! すごく、怖かった……!」
「うんうん」
「さっき怖い夢見たの……陽くんが、その……私を見捨てる夢……でも、陽くんはそんなことしないもん……ぎゅー!」
「ははは。ぎゅーぎゅー」
熱烈な抱擁。神道陽太が頭を撫でると、伊藤月子は嬉しそうに目を細めて彼の腕の中で微笑む。
このとき、伊藤月子は超能力を使用していない。
が、本能的なもので感じたのだろう。
彼女は静かに、彼から離れた。
変。何かが変。でも、何が変なのかはわからない。
「どうしたんだい、月子」
「陽くん……変、変だよ、陽くん、変」
「変? 僕は普通だよ?」
「そう、かなぁ……」
胸騒ぎがしていた。ざわざわと心が揺れている。
目の前にいる恋人。見た目はいつもと同じなのに、なぜだろうか。
とても恐ろしく感じられた。
「あはは、ずっと塔の中にいたから過敏になっているだけだよ」
「でも……でも……!」
「そんなことよりも月子、目を閉じて」
「え……?」
「ほら、ほらほら」
急かす恋人に、伊藤月子が抱いていた疑念、警戒は霧散してしまった。
恋人の前で目を閉じる。それはもう、ある1つの行為しか考えられなかった。
伊藤月子はそっと目を閉じ、神道陽太に向けて顔を少しだけ上げた。
そして唇をアヒルのように尖らせ、待つ。
その顔はほんのりと、赤い。
そんな伊藤月子には見えていないが、神道陽太は笑った。
とても、邪悪に。
彼は、彼女に応える。
ゴッ
「ぴゃっ」
すさまじい衝撃が鼻にぶつかった。伊藤月子の顔は前後に揺れ、驚いて目を開く。
そこにいるのは、変わらずニコニコ笑っている恋人の姿。その右手はしっかりと握られていた。
熱い。いや、冷たい。違う、やっぱり熱い。
痛くない。でもジンジンとする。感覚がない、麻痺しているみたいだ。
トロリ。
温かな液体が垂れ、上唇にしたてっている。
少しずつ理解し始めていた。
誰に何をされ、どうなっているのか。それが、わかり始めていた。
伊藤月子は震える手で、液体に触れる。
ねっとりとした、赤い、それ。
「ぴっ」
血だ。血が出ている。
「ぴ、ぴやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
液体の正体がわかった瞬間、鼻を中心に激痛が広がった。
恋人に、神道陽太に、殴られた。その握り締められた拳で鼻を殴られた! 驚き、悲しみ、どうしてそんなことをするんだろう――という疑問がグルグルぐるぐる渦巻き、ついには処理しきれずパニックに陥ってしまう。
血は止まらない。両手で必死に抑えるも当然止まらない。悲惨なほどに真っ赤で、こぼれたそれが白いワンピースを汚していく。
「ははは、まるでヒヨコさんみたいな泣き声だね」
バチュッ
「ヒャんっ!」
両手の上から鼻を狙うように振り抜かれた右手は、まるで小さな花火のように血を弾けさせた。