Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集・弐
Not Forget me not/硬質アルマイト

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   一


 カーテンを左右に開いて窓の外を見る。ほとんど見飽きた霧まみれの風景に憂鬱さを覚え、僕はベッドに腰かけた。
 向かいのプリペイド式のテレビに黒電話、それから電動式のポッドを順番に眺め、それから窓際に置かれたラジオに目を向ける。ベッドの傍に置かれた机の上には文庫本が数冊置かれていて、その一番上のものに栞が挟まっていた。ついさっきまで僕が読んでいたものだ。
 今の僕には本かラジオくらいしか暇を潰せる娯楽はない。こんなことなら仕事道具でも持ってくるべきだったと溜息を吐き出し、ベッドから身を乗り出すようにしてラジオの電源をつける。ノイズと共にスピーカから吐き出される予報士の声に耳を傾けると、この街は今日も濃霧に包まれたまま晴れる兆しはないと女性の声は告げた。
 この街に迷い込んでからずっとこの調子だ。酷い時には四、五歩先すら霧に包まれて何も見えない時すらある。今日歩き回っているうちに人とぶつかった回数は二桁は超えていたのではないだろうか。石で舗装された路上も水を含んでかやけに滑りやすく、結果今日はズボンを一つ駄目にしてしまった。
 今日は部屋でゆっくりと本でも読みながら過ごすのもいいかもしれない。なんにせよこの霧が晴れるまでの間はこの街を出ることができないのだから。
 胸ポケットからケースを取り出すと煙草を一本取り出して口に含む。含んでから、これが最後の一本であることに気づき、つくづく今日はついていないと悪態をつきながら火をつけ、肺一杯に煙を吸い込み息の続く限り吐き出した。
 元々こんな街に立ち寄るつもりは全く無かった。ここをまっすぐに突っ切ることさえできていれば目的地に容易に辿りつけていた筈で、それも予約済みの旅館で温泉に酒に料理にと数少ない休日を満喫していた筈なのだ。だが、この先の見えないくらい濃い霧がそんな僕の一年に一度あるかないかの贅沢を妨げ、ここに縛り付けた。
 テーブル上に置かれた鈍色の灰皿に煙草の灰を落として、それから窓越しに路上を覗く。フロントのひしゃげた車が歩道に乗り上げるようにして停められており、すっかり砕けたヘッドライトが悲哀の色を込めてこちらを見つめている。気のせいであることは確かなのだが、僕にはそう見えて仕方がなかった。
 この濃霧の中で車を運転するものじゃない。ライトを付けても何も見えない中を走ったのだから当たり前だ。判断を間違えたのは僕だ。しかし、そんな濃霧で車道に飛び出す奴も奴だと思いたい。
 不意に呼び鈴が鳴った。金属を乱暴に打ち鳴らすような、耳に残る不快な音を立てるそれに目を細め、ベッドから重い腰を上げてから、テレビの横に備え付けられた黒電話の前で一度煙草を吹かし、それからやっと受話器を手に取り耳に当てた。
「――もしもし」
 怯えているような震えた声が受話器から聞こえてくる。そろそろ来る頃だと思っていた。僕はわざと聞こえるように溜息を吐き出す。
「また君か」
「え、あ、あの……はい」
 あの時、路上に飛び出してきた女性は相変わらず申し訳なさそうにそう返事を僕に返す。彼女は随分と僕の態度に戸惑っているようだが、あれだけスクラップのような状態にされてしまうと怒りよりも虚脱感の方が強くなるらしい。もう相手を怒鳴る気にすらなれない。
「そう毎日のように電話をかけてこなくてもいいのに」
 スピーカーから相手の声が聞こえない。多分返答の言葉が見つからないのだろう。そう解釈し僕は言葉を続ける。
「まあなんだ、君の方に怪我がなければ良いんだ。長期で休暇を取ってしたことが人殺しになるくらいなら、長い間使っていた車が大破した方が幾分マシだよ」
「本当にすみません……」
 今にも泣きだしそうな声になんだかこちらが申し訳なくなってきて、この会話にどう決着をつければいいだろうかと悩むのだが、一向にその答えが出てくる気配はなかった。最後の一本は放置しすぎたせいか灰がフィルター近くまで迫っていて、つくづく運に見放されていると顔をしかめ灰皿に投げ入れた。
「だって――」
 ああ、またその言葉か。あと何度その謎めいた言葉に悩まされなくてはならなくないのだろうか。全く、そんな冗談が言い訳として通用するわけないのに。

「この街にまた”人”が来るなんて、私以外に人がいるなんて思ってもなかったことだから……」

 受話器をそっと置いて、僕はベッドに再び寝転がる。サスペンションの具合がどうにも良くないようで、僕の体が乗った途端にうめき声にも似た軋む音が響いた。この部屋の問題点は他にはなく、シーツや枕も手入れが行き届いているし、ルームサービスに関しては、宿主から滞在中は自由に利用してくれと伝えられている。滅多に飲むことのできない酒やつまみを堪能させてもらえるのはとても嬉しいのだが、何かあるのではという疑心によって未だに内線で注文はできていない。
「この街はなんで僕を優遇するんだ……?」
 天井をぼんやりと見つめながらそう呟いてみる。音となった言葉は静寂に飲みこまれてすぐに消え、やがて何もなくなった。
 いくつか、この待遇以外にも気になっている点があった。
 濃霧の中で電話の彼女を轢きかけ事故を起こした時、寄ってきた街人の手際が恐ろしく良かったこと、そしてこの単なる事故にわざわざ町長が直々にやってきたことだ。「幸い怪我も何もなかったが、濃霧の中運転をしていたのだから責任は僕にある」と言ったのだが、どう僕が言ってもひたすらに同じ言葉を繰り返しているだけだった。
「こんな濃霧ですから、事故はしょうがないことです」
 はじめは彼と街の懐の広さに感動したのだが、そこに一つだけ含まれていないものがあることに後で気づいた。
 飛び出した彼女に関して、彼らは一切触れないのだ。まるでその場から彼女だけすっぽりと抜け落ちているように。
 体を起こすとまた金属の軋む音が響いた。僕は腕時計の時刻を確かめると、玄関の方に視線を動かす。
「……いらっしゃいます?」
 もう何度も繰り返していることだからか、僕は立ち上がるといつものようにドアを鍵を回し扉を開けた。
「あの、電話切られてそれで……」
 目の前の女性は俯く。この街に人がいないと告げたおかしな女性ではあるが、それ以外に特異な点は見当たらない。
 水色のワンピースがふわりと彼女の動きに会わせて揺れる。後で一つにまとめられた黒髪は丁寧に扱われているようで、照明の光を孕み艶やかだ。廃墟に暮らしているにしては全てが行き届き過ぎている気がした。
「機械に詳しいわけでも、代わりになるものも何もありませんが、なんとかして償いたいんです。貴方をこんなところに居座らせてしまったから……」
 さて、どうしたものかと頭を掻き彼女を眺める。もう追い返すのもそれはそれで悪い気がしてきた。
「そうだな、なんでもしてくれるっていうのなら、君についてを色々話してはもらえないだろうか」
 その言葉に彼女は少しだけ震え、それから戸惑いを浮かべた目でこちらを見る。水っぽい澄んだ瞳は、彼女の外見の中で最も魅力的な部分なのかもしれない。こうして見つめているだけで、まるでそこに映る自分が捉われてしまったような感覚を覚えたのだ。

   二

 ポッドから二つのティーカップへお湯を注ぎ入れ、それぞれにティーパックをそっと下ろす。乳白色の陶器の底を映したままのお湯に紛れ込むようにして、飴色がパックから外へもがくようにして出ていく。僕はその二つを手にし、ベッドの縁に腰かける彼女にうち一つを手渡す。初めて入室を許されたからなのか、彼女は天井からベッドのシーツからテレビへと、次々と視線を移動させ、最後に手渡されたカップに目を落とす。
 すっかり底の見えなくなったカップに顔を近づけ香りを吸い込んだ後、口をつける。苦味と渋味、そして芳醇な香りが口内に広がっていく。この街を訪れる前に立ち寄った場所で買ったものだが、なかなか旨い。
 二、三口飲んで机に置き、隣の彼女に視線を移した。緊張からかあまり紅茶は進んでいないようで、手にしたカップをじっと見つめながら彼女は硬直していた。
「車を理由に君を抱こうと思っているわけではないんだ。そんなに緊張しないでほしいな」
 毎日電話をしてきたり、直接部屋に来たり、あれだけ積極的であった筈なのに、ただ一つ僕が引いただけで彼女は更に緊張に凍りついてしまった。
 いまいち彼女の感情を読み取れない。そんな彼女に振り回され若干の苛立ちすら覚えている自分を抑え込むように、カップを再び手にするとそれを飲み下した。
「それで、君の素性をそろそろ教えてほしいんだが……」
「ずっと考えてるんです。でも、何もお伝えできるようなことがなくて……」
 やっと口を開いた彼女から出た言葉はまだ震えている。
「名前は?」
「分かりません」
「誕生日は?」
「ごめんなさい……」
「……年齢は?」
 彼女はとうとう首を振った。こちらもすっかり困ってしまって頭を掻くと溜息を一つ吐き出す。
「それじゃあ君は、何一つ記憶もないまま、この”誰もいなくなった街”で一人暮らしているっているのかい?」
「多分……」
「多分?」
 彼女の言葉を繰り返す。その言葉は多分苛立ちから語気が強まっていたのだろう。僕の言葉を聞いて彼女は慌てたように首を振った後俯き、嗚咽にも似た声を洩らした。シーツを握り締める両手にも随分と力が込もっている。
「貴方に轢かれそうになるまで、何をしていたのかすら覚えていないんです。たった一人で何をしていたのか。いつもどこで何をして何を食べて、何を聴いて何を読んでいたのか」
「僕が来るまで?」
 一呼吸おいてそう問いかけた。ぐるりぐるりと巻きついていく戸惑いを解こうとしてみるのだが、彼女の言葉を聞けば聞くほど結び目は固くなっていく。
「そう、貴方が来るまで」
 上げられた顔は涙で溢れていて、顎のところまで道を作ると雫が幾つか落ちていく。シーツを点々と濡らし、鼻の頭と頬はすっかり真っ赤に染まっていてまるでリンゴのようになってしまっている。
「貴方が出てきた瞬間、引き戻される感覚があったんです。宙に浮いていた意識が引力みたいに戻ってきて、それでハッとして周囲を見たら、事故に遭っている車と驚いた顔をした貴方がいて、何がなんだか分らなくなって……」
 でも、と彼女は嗚咽混じりの声で言葉を続ける。
「人がいるって思った瞬間、安心もしたんです。一人じゃなくなったって感じたら、とても嬉しくなって……。誰もいない街にやっとお客さんが来てくれたって、そう思って」
 彼女が嘘を吐いていないことはよく分かった。こんな演技をして得をする人なんているわけがない。だが疑問点は幾つもあって、それをクリアしないと彼女はきっとこのまま一人なのだろう。街の人たちは彼女が見えているのだろうか。それとも僕の方が幻を見ているのだろうか。この水も、ポッドを温める為に使った電気も、よく手入れの行き届いたシーツも、予報を流すラジオも。全て幻想であったとしたなら、僕はこの数日間一体どうやって生きていたのだろうか。
「ちなみに、君にはこのラジオの放送が聞こえているかい?」
 身近なもので確認をしようと、僕は窓際のラジオを付け、この街で唯一入るチャンネルに合わせた。
 彼女は暫く興味深そうにそのラジオをじいっと見つめる。
「ノイズしか聴こえない。貴方には何か聴こえてるんですか?」
「今日の天気が流れているよ」
 そう言って窓の外を見る。霧は相変わらずそこにどっかりと座り込み、外に出ることを願う僕を見つけると悪戯に笑った。
「ああ、一つだけありました。私が必ずしていたこと」
 そう言って彼女は思い出せたことが嬉しかったのか、水っぽい瞳を輝かせて僕を見た。

   三

 それは、とてつもない年月を過ごしてきたのだろう。しゃがみ込み愛おしそうにその墓を撫でる彼女を横目に、僕は唇を噛みしめる。
「これだけは毎日見に来ているって記憶があるんです。きっと私にとってとても大事な人がここに眠っているんだと思います」
 数歩近づいて僕は石墓をそっと撫でてみる。手入れが行き届いていないことは触れてすぐに分かった。ざらりとした感触と、雨風によってついた土の塊がほろりと崩れると、右手にべったりとくっついた。よく見るとこの墓の周囲は雑草に塗れ、そして飾られた花はぐったりと頭を垂れて死んでいた。
――冷たくて感情のない塊。
 墓を見てこうして触れていると、ここに人が眠っているなんてとてもじゃないが思う事ができない。その人の存在も、温もりも、音も何もなくて、ただその人がいたということを示す為だけに用意されたそれに想いを寄せることができない。
「ここに眠る人の名前は?」
 そう聞くと彼女は何も言わずに首を振る。本来名前の掘られている筈の部分は削られていて、読みとることもできない。雨風に晒されて削られたとはとても思えない程深く抉られている。
 僕はごくりと喉を鳴らした。
「明日も、ここに来るかな?」
「ええ、これが私にとって唯一の当たり前みたいですから」
 そう言って自らを自嘲するように笑うと、彼女は一礼し、背を向けて行ってしまった。
 後ろ姿が消えるまでの間ずっとその背を見続けた。孤独に戻っていく彼女を思うと心がずきりと悲鳴を上げた。

「これは客人、こんな霧の中で何をしていらっしゃるのかな」
 その声に振り返る。町長は穏やかな笑みを浮かべながら僕へ軽い礼をすると、隣までやってきた。黄色いレインコートを羽織っているが、霧がそれほど嫌なのだろうか。確かにじっとりと水分を吸ってしまうが、動きにくくなるほどではない。
 暫く彼を見つめていると、その視線に気づいたらしく、自らのコートを見てああ、と漏らした。
「レインコート、おかしいと思いますか?」
「ええ、確かに濃い霧ですが、それほど霧がいやなのですか?」
 彼は一度だけ頷く。
「この霧が出る時は決まって何かが起こるんです。良いようにもとれるような、悪いことにもとれるような、そんな出来事がね。この街が大人しいのもそのせいです。みんな知っている。この霧が出る時には敏感にならなければいけないと」
「そんな時期に僕は偶然居合わせてしまったのですね」
「偶然、ですか」
 彼はそう言うと目の前の名前の削られた墓に指一本で触れ、横につうっと動かした。墓の表面の土がほろりと彼の指に合わせて拭われていく。
「いつも霧を見てきた私にとって、貴方が来たことは必然であるように感じられるのですよ。事象というものは全て重なるようになっている。貴方は選んだつもりでも、もしかしたら選ばされたのかもしれない」
「どういうことです?」
「貴方が舞台に立っているかもしれないということです」
 首を傾げる僕に向けて微笑むと彼は空を仰いだ。僕も続けて空を見上げたが、くすんだ白と灰色が横たわっているだけで他には何もない。あの分厚い雲の先には心も透くような青い空があるのだろう。そう考えると、晴天が恋しくてたまらなくなった。
「この墓にはどなたが入っているんですか? 名前も削られてしまっていて」
 墓に触れていた指が止まる。
「誰も覚えていないんです。どんな人物で、どんな名前で、性別はどちらだったかすら。けれどその人と一緒にいた景色や光景は誰もが覚えている」
「何故、そんな思い出深い人物のことを……」
「わかりません。この人との記憶は確かにあるのに、そこだけ白く抜き取られてしまっていて、何度その白抜きを埋めようとしてもできない」
 彼の言葉を聞きながら、僕は一人の人物を頭に浮かべていた。街の人々とは逆に自分を覚えていない人物のことを。
 僕はしゃがみ込んでもう一度その墓を覗き込み、削られた部分に触れた。
「この人は本当に死んでしまったのかもしれませんね」
「それは、どういうことです?」
 そう問いかけると町長の顔の皺は歪み、目が細くなる。深く刻まれたその皺が動くたび、僕は彼がここで過ごしてきた時間がどれだけ長いのかを感じさせられた。霧が起こるたびにきっと彼は顔を渋め、必ずやってくる事象に苦悩していたのだろう。
「肉体が朽ちても、記憶の中にさえ残っていればその人は生き続ける。その先はなくても永遠に人々の中で立ち止まり続けることができるのですよ」
「命の終わりは死ではないと?」
 彼は頷く。
「もう進めなくなってもその場で足踏みはできる。私達の中に残っていること、忘れずにいられるのはきっと命が終わった人が足音を立て続けているからなのでしょう」
「じゃあ、この墓の人物は……」
「だからこそ思うのです。誰も覚えていない。肉体も朽ちて先へも行けない。だから死んでしまったのだと……」
 随分と話し込んでしまったと町長は呟くと、僕に丁寧にお辞儀をし、それから霧の中へと消えてしまった。二人目の背中を見届けると踵を返し、僕も宿泊している建物へと向かうことにした。
 曖昧さの中を?き分けながら僕は、彼の言っていた必然の意味を考え続けていた。灰色は明快さを嫌うようで、歩けば歩くほど霧は濃くなっていく。足を滑らせないよう、誰かと衝突しないように僕は細心の注意を払って足を動かす。
 この霧を晴らせるのは僕だけなのかもしれない。これまでの会話でぼんやりと浮かんできたものだったが、多分その通りなのだろう。これまでの話を総括して導き出される答えはわりと単純なものだった。
 全く、随分と面倒な役目を押し付けられたものだと思う。

   四

 墓に到着すると、昨日言っていたとおり彼女はそこに立っていた。僕が来ることを期待していたのか、嬉しそうに目を細めると小さくお辞儀をした。
「来てもらえると期待してました」
「霧が晴れるまでは暇なんだ。話し相手がいた方が時間も潰れるからね」
 そう答えると彼女は笑みを浮かべる。その表情を見ているとこちらもなんだか嬉しくなった。多分容姿が整っている相手と一緒にいることができる、という下心からもきているのだろう。そう思うと少し複雑だ。
「それで、折角だから君に付き合ってみようと思ったんだ」
「私、ですか?」
「自分を思い出してみないか。何故この街にいて、何が起きたのかを」
 僕の提案を聞いた彼女は、しかし曖昧な反応をする。後ろ手に組み、俯きながらでも、と小さく呟く。
「思いだすことができたなら、きっと君の世界は変わるよ。何も知らず独りであることに怯え続けるのは良くないと思うんだ」
 彼女が思い出すことができたなら、街も、あの墓も全てが変わるように思えた。彼女にとっての大事の意味も、なんとなく予測していたし、それがはっきりしたならばきっと彼女はもう孤独ではなくなるだろう。
「だから、今日は一日色んなところを回ってみよう。僕もこの街を知らないし、この街を知りたいんだ。そうしたら君も何かを思い出すんじゃないかな」
「……いいんですか?」
 戸惑う彼女に向って頷いた。これが町長の言っていた「必然」であるのならば、僕は彼女をどうにかしなければならない。僕にしかそれができないのなら、舞台に立つしか進む道はないのだろう。
 孤独を怖がる彼女の姿が頭から離れないことも理由としてあった。彼女は一体どれだけの間忘れ去られ「死んで」いたのだろうか。その間一人で彷徨い続けていたのだとしたら。そう思うと酷く哀れに思えてしまい、いくら事故を作った張本人だとしても見過ごすのは人ではないように思ったのだ。
「いろんなところを歩こう」
 暫く顔を歪ませてた彼女が、そこでやっと微笑んだのだ。

   五

 果たしてどれだけのことを思い出すことができたのだろうか。ただの思いつきで始めた街の散歩だが、濃霧の中で人はとても少なくて、通りがかった店はどこもシャッターで閉ざされており、何か買い物でもと思ってもかろうじてコンビニが開いているくらいだ。そのコンビニも店員は頑なに店を出ようとはせず外を歩く僕を物珍しそうに見ているだけだった。
 多分誰もが何度も経験をし、その結果辿り着いたのだ。この濃霧が街に充満する時は外出すべきではない。今後起こり得る出来事にできる限り関わらないようにと。
 ただ、どういった理由で、どういった作用が働いているかは分らないが、彼女もこの街の住人はおろか生活感を感知できなくなっている。今ここで僕から見るとコンビニが営業していたとしても、彼女に問いかけると「閉店している」と答える。つまり食事や娯楽に目を向けることは不可能であることを知った。何より恐怖を感じたのは「彼女が閉店と認識している箇所」に「僕が入った」場合だ。
 つい先ほどコンビニに入ってみた時、彼女にも入れることを呼びかけようと振り返って僕は愕然とした。

――感情のない目が、僕の姿を映している。
 力なく両手を下ろし、乱れた髪から覗く目がガラス越しにじっとこちらを見ていた。いつもの水っぽい瞳はそこになく、すっかり乾ききった、まるで死人のような眼だけがそこにあった。
 使い古されひび割れた人形のようなその姿に僕は息を飲んだ。先ほどまでの彼女はこんな姿ではなかった筈だ。
 レジの店員がすっかり警戒の目でこちらを見てきていることに気づいた僕は一度深呼吸をし、変わり果てた彼女から目を離さずにコンビニの外に出る。

「どうしました?」
 コンビニの自動扉が開いた瞬間、彼女の瞳には水が注がれ、艶のある髪は光を映した。
 それまでの僕の知っている彼女が、そこにはいた。
「どうしたって?」
「この店の前で立ち止まったままぼうっとしていたから……。何か気にかかることでもあったのかなと」

 彼女は”そう見えている”らしい。いや、もしかしたら僕の方が”そうなっていた”のだろうか。なんにせよ、僕と彼女の間にある得体のしれない溝には入るべきではない。とその時思い、以降はなるべく彼女の認識を優先することとした。
 何よりもあの時の瞳が酷く恐ろしくて、もう一度見ようなどという考えが起きなかった。果たしてあの死人の彼女が真実なのか、今こうして鼻歌交じりに隣を歩いている彼女が真実なのか、いずれ分ることではあるが、それでも僕は後者であって欲しいと強く、強く願っていた。
「本当に、御迷惑じゃないですか?」
 気づけば彼女は鼻歌をやめ、僕の前で立ち止まり不安げに顔を覗きこませていた。つい先ほどのコンビニでの出来事で頭がいっぱいになっていたからかよほど険しい表情をしていたらしい。彼女の気分を害してしまっていたら申し訳ないなと、すぐに笑顔を作って首を振った。
「ところで、ここまで随分と歩いてきたけれど、何か見覚えがあったり、自分のことを思い出せそうな事柄はあったかい」
 彼女は暫く視線を周囲に配って、それから大きく首を振った。その答えが予想の範囲内だったからか、僕の方もそれほど動揺はしなかった。少なくとも彼女は長い年月を一人で過ごしてきている筈だ。そんな彼女が僕と散歩をした程度で満足もきっかけも作れる筈がない。
「それはとても残念だ」
「けど、久々に孤独じゃないことを知れましたよ」
 そう言って笑う彼女に僕は少しだけ驚いた。その返答はあまり予想していなかったのだ。
「これまでのことを覚えていないって、当り前の応酬だったからなんだと思うんです。当たり前に生活して、当り前に生きる糧を手にして、そうしてあのお墓を訪ねて……。記憶するに値しないものだったんじゃないかって、そう思うんです」
 霧の中で彼女はそう言うとくるりと回った。舗装された道路の上を水色のワンピースがひらりと舞い、黒髪がふわりと浮いた。それはこのくすんだ色の視界の中で輪郭のはっきりした光景として映り、そうして活き活きとした感情を表現する彼女を見て僕の鬱屈とした気持ちがすとんと落ちて行ったのを感じた。
「私のことを知っている人が増えてくれて、私も貴方という人を知ることができた。小さなことかもしれないけれど、この誰もいなかった街の中で過ごしてきた私にとって、それはとても幸せなことなんです」
 誰かの中にいることで、自分が認識されることで彼女は「生き返った」のだ。
「なら、僕は役に立てたのかな」
 照れくさい気持ちを隠しながらそう言うと、彼女は笑った。赤くなった頬と水っぽい瞳、そして真っ白い奇麗な並びの歯を見せて思い切り笑ったのだ。
「ええ、とても」
 たった数日の付き合いだとしても、彼女にとっては幾つもの時を経て待ち続けた客人なのだろう。初めの怯えた目をした彼女はもうここにはいなかった。
「でも、何もお返しができないの」
「別に良いよ。良い体験ができたし、なにより君が元気になったようで僕も嬉しい」
 この街に立ち寄ることができて良かったと、心の底から思った。けれどそう感じたからこそ、最後まで付き合ってやりたいとも思うのだ。彼女の全てをまだ解明しきれていないし、墓の名前だって直してあげられていない。
「ただ、君が自己紹介くらいはできるようになってくれないと気持ちは晴れないな」
「でも、それは……いつになるか分かりませんよ」
 僕は首を振る。
 ぼんやりとだが、彼女との接し方が分かった気がしたのだ。だから名前を知ることができるのもそう遠くはないと、どこか確信めいた気持ちがあった。
「慌てることでもないさ」
 少しだけ顔を伏せたまま、彼女は静かに頷いた。今、あの瞳はどんな風になっているのだろうかとふと気になった。本当に水になって零れてしまっていたらどうしようかと、ありもしない事をぼんやりと想像し、下を向いたままの頭に手を乗せた。

   五

 ドアを叩く音で眠りから引き戻された。まだ意識がはっきりとしていないからかノック音の輪郭がぼやけて聞こえる。全身が溶けて泥にでもなったかのように重くて、ベッドから上体を起こすだけでもひどく苦労した。
「今、開けますから……」
 こんな声ではドアまで届くことはないだろう。夢と現実の挟間に浸ったままの意識を無理やり引っ張りだして起き上がると、重たい足取りで玄関へと向かう。
 この疲労感は一体なんだろう。昨日はあの後すぐに別れて、それから突然やってきた睡魔に耐えきれずに倒れ込むようにしてベッドで寝た。あの立っていられないほどの睡魔は確かに異常であったが、特にこれといった肉体労働はしていない。体調でも崩したのだろうか。
 未だしっくりとこない自分の体を動かし、感覚のぼやけたままの手で鍵を開けた。
 ドアが開くと、目の前にあの町長がいた。あの時羽織っていた黄色のレインコートはなくて、紺色のシャツと黒いズボン、よく磨かれた皮靴と落ち着いた姿だ。表情もどこか余裕のない堅いもので、先日の彼と別人のように見えた。
「君に一つ、伝えなくてはならないことがある」
 そう言うと彼は僕の手を掴み強引に部屋から連れ出す。肉体と断線しかけているような感覚によって抵抗できないまま、ずるずると引きずられるかたちで宿の外まで連れられていく。
 宿の玄関を出た時、まず思ったのが視界がはっきりとしていることだった。あれだけ充満していた濃霧がどこにもない。見上げるとそこには澄んだ青色が広がっていて、直接目にするには辛い光源が一つ浮かんでいた。
「霧は、どうしたんですか……」
「晴れたよ」
 彼は決して僕のほうを見ないで言った。
「だって霧が晴れるのは――」
 そう、「彼は僕のほうを見ない」のだ。
 気づいた時には町長の手を振り払って駈け出していた。石畳の上をぺたりぺたりと間抜けな音と立ててそれでも構わずに僕は走った。痺れたままの感覚も、ぼやける視界も、水の中にいるような耳も、自分のことを全て遠くに投げ捨て、ただ走ることにのみ自分の意識を注いだ。


 足は、自然に止まった。
 こんな時になって視界ははっきりとし始め、手足の感触も戻ってくる。まるで「全てここで返してやる」と言わんばかりに、断線しかけていたものが繋がっていくのが分かった。

 これは、夢ではないのだろうか。

 後者であってほしいと確かに僕は願った。

 でも、こんな姿を見たいなんて一度も願ってはいない。

「なんで、吊ったんだよ」







   五

 あれだけ濃かった霧も、晴れる時は本当に後腐れもなくさっさと消えるものなんだなと街の入口を見つめながら思う。掌に握らされた鍵でエンジンがかかる車は、以前よりも立派で、知人に会ったら羨ましがられるだろう代物となっていた。
 あの墓の人物だと思っていた女性が生きていたことには驚いた。だがそれよりも、先日まであれだけ動いて、飛んで、笑っていた筈のものが死を選んだということが僕には衝撃的で、心に爪痕を残すには十分なものだった。
「……」
 左手の封筒を暫く見つめ、それからポケットからライターを取り出すと火を点ける。赤く燃える火に翳してやると封筒の端は黒く焦げていき、周囲を飲み込みながらその中身ごと炎に包んでいく。半分くらいまで火に侵食された封筒をもう一度じっと睨みつけ、それから手を離した。
 ひらりひらりと地面へ落ちていく封筒を突然吹いた強風が攫い、街の方へと飛ばしていく。黒く染まり、散り散りになって青に飲み込まれていくそれを眺めながら、僕は口を開いた。
「はじめまして、『    』さん」
 その名前を呼んだ途端風がぴたりと止む。そのあまりにも絶妙過ぎるタイミングに僕は思わず笑ってしまった。大丈夫だ、これは風に飛ばされはしないだろう。そう思うと、飛んで行った燃えカスを見る目も穏やかにすることができた。
 さて、ここで僕が巻き込まれた全ては終わった。あとは帰る以外何もすることはないだろう。『    』の記憶も、この街の霧も、霧と共にやってくる事象も全てが終わったのだから。

   五

「最後に君に伝えるべきことが幾つかあるのでここに記させてもらう。
『    』に関しての記憶、そしてその夫に関する記憶はすべての人間の中から名前、性格、言葉、肉体から全てすっぽりと抜け落ちていた。この事象は私が物心ついた頃からあり、街の人間全てが理解している。さて、この事象に関してであるが、これは一種のこの街での「罰」と理解していただきたい。彼女らは罪人であり、人一人の命を奪い去ろうとした、この街では特に許されない行為に手を染めてしまった者たちだ。
 私がいつか君に言ったように、君は必然的にここへ来るようになっていた。この街を霧が包むとき、この街には「断罪者」がやってくる。罪を裁くための人間が必ずやってくるのだ。君を含めた彼らに力は必要ない、ただ今自分が置かれている「状況」を理解、つまりは孤独を思い知らせてもらえればいいのだ。そうして全てを思い出した罪人は初めてそこで許されるようになっている。それだけの長い孤独に身を置いたからこそ、我々は彼らを許し、そして受け入れている。この街で霧や事象に対して問題を抱くものはいない。
 だが、今回君にはとても申し訳ないことをした。いや、相手が悪かったと言うべきだろうか……。
 彼と彼女の犯した罪は――      」

   五

 一つだけ気になっていたことがある。
 僕の行為は果たして、『    』にとって「救い」となったのか、それとも「苦痛」となってしまったのかという点だ。
 町長の言葉を信じるのなら、全ての記憶が戻った『    』は「生き続ける」ことができたととれる。
 だが、本当にそれは正しいことなのだろうか。
 命を失ってまで残り続けることよりも、忘れられたまま「死に続ける」ことも一つの選択ではないのだろうか。
 車にキーを差し込んでふと思いついたことがあった。『     』が言っていたことが本当なら、と僕は振り返り、街の方に視線を動かした。



 街は――


 カツカツと、足音が二回、響いた気がした。




  ―完―

     

この作品ができるまで―2012春―


――あらすじやネタ決めは今回は二転三転し過ぎてどうにもまとめきれないので割愛します。


執筆記録
3/15:プロットを書かなくちゃと、半分にちぎったA4に二行だけ書く
足音のある「僕」と足音のない「君」との話
「彼女には僕にあるものがいくつかない~」←冒頭

3/17:バイト中に浮かんだイメージを帰り際に紙に書きなぐる。このへんで大体テーマはどうするか、とかいろいろと考えた。けれどもこのテーマを春にやるべきだとうかと疑問を覚える。

3/19:プロットを更に練り込み、とりあえずの骨組は完成。ただ暗い。暗すぎる気がして春にふさわしいもっと、君に届くような爽やかな話にすべきなのかなと思い始める。ああ、そういえば文化祭の辺りから続き読めてないよなー。今度読もうと思いながら、買ってきたビールを飲み下す。

――この間、忙し過ぎて何も覚えてないです。面接に落ちたことだけが鮮明に頭に残ってますけどね、ハハハ……。

4/10
バイト先の飲み会。調子に乗り過ぎた。

4/11
執筆完了。よし安心して眠れると床についたら次の日見事に遅刻。

4/12
印刷を書けて学校に持っていく。講義の際に必死に推敲を行うも、つっこみどころが多くて結局家までかかる。

4/13 3:32
修正作業完了。タイトルを考えようとふと浮かんだワードを検索してぴったりとハマったので決定。五分弱で決めたにしてはわりと良いんじゃないだろうか。


短編のタイトル「Not Forget me not」

由来
「私を忘れないでください」や「真実の愛」といった花言葉の勿忘草より。季語が春であったことも大きい。
文法的に多分間違いであるが、文頭にnotを付けることで「忘れないでほしい」と否定し「忘れてほしい」といった意味を込めてみた。あとは文頭にノットをつけても語感としては悪くないなとか……。
執筆後にタイトルを探していた時に「フォーゲットミーノットってなんだっけ?」と検索したところからこれでいいじゃん!!となって決まった。

       

表紙

遅筆友の会 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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