「あっ」
『LittleBAR』を出て数分歩いたところで、キョウコさんは思い出しました。
(しまったー……渡すの忘れてたー……)
バッグの中に入っていた茶色い包みを取り出し、がっくりと肩を落としました。
『LittleBAR』の扉を開き、バーテンダーと出会っておよそ一年。その間にバーテンダーの誕生日もあれば、『LittleBAR』のオープン記念日もあっただろう、ということでプレゼントを用意していたのだ。
ちなみにプレゼントの中身は、ライトグリーンのブックカバー。店内には多くの本があったので使うだろう、たぶん。バーテンダーさんはライトグリーンって感じだなー、という考えのようです。
(どうしよう、また今度渡そうかな。でもそのときは持ってくるのを忘れてる気がする。あいつには悪いけど、今日のうちに渡しちゃおう)
キョウコさんは待ち合わせ時間に遅れることを恋人にメールで伝え、引き返しました。
(一度お勘定したところも戻るってかっこ悪いなー……)
お酒の酔い以外に、恥ずかしさで顔を熱くしながら歩いて、歩いて――
「あれ?」
周囲の風景を見て、気づきました。
行き過ぎている。
いつの間にか、いつも使っている道を通り過ぎていました。
慌てて引き返しました。
「……え?」
キョウコさんは、全身の体温が下がっていくような感覚を味わいました。
あの日、偶然見つけた脇道。街灯がポツポツと灯っていて、なんだかとっても怪しい雰囲気があった、あの脇道。
それが、見つかりません。
もう一度周囲を確認しますが、間違いありません。ここに、いつも使っていた脇道があったはずです。ついさっき『LittleBAR』に行ったときには間違いなくありました、それなのに。
「嘘だ……!」
スマートフォンを取り出し、初めて『LittleBAR』を検索しました。同名のお店はヒットしましたが、キョウコさんが探している『LittleBAR』は見つかりません。
マップを表示して、今までの脇道以外のルートを調べます。そして最短ルートを見つけ出して、無我夢中で走り出しました。
「……そんな」
着いた場所は空き地でした。岩や砂利、人の手がまったく入っていない、土地。
しかも、その場所は正確には『LittleBAR』があったところではありません。どれだけ探してもあの場所に行くことができなかったのです。
「うそ、うそ、ウソだ……」
『私は、遊園地を作りたかったのです』
いつか聞いた、バーテンダーの言葉を思い出しました。
『私は、そんな空間を作りたかった』
『来られたお客様が皆に楽しんでもらえたり、嬉しく思ってもらったり……そう思っていただきたいのです』
『ですがこの店から出られたら余韻はさっと引いて、それぞれの日常に戻ってほしい』
「……時間。今日が、私の閉園時間、なんですね……」
キョウコさんは、不思議と涙は出ませんでした。もちろん、悲しいし、寂しい。ですがこの感情は引っ張ってはいけない、そう思ったからです。
バーテンダーが理想とするのは、このまま日常へ戻ること。キョウコさんはそれをわかっていたからです。
手に持っていた茶色の包み、バーテンダーへのプレゼントを、そこに置きました。
これで、キョウコさんが手にしているものは『LittleBAR』の記憶と思い出、だけ。
キョウコさんは来た道を戻ります。
「……もしもし、ごめんね。もうちょっとだけ、遅れそう」
「……ちょっとだけ……ううん、ずっと、道に迷ってたの、私」
「でも、もう平気だよ」
「もう、大丈夫だよ」