Neetel Inside ニートノベル
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あぁ自分疲れてると思った瞬間アンソロジー
カフカは変身したい/ムラサ

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「おかえりなさいませ、孝一さま」
 玄関へでると、ストライプスーツ姿の孝一さまがつかれた顔で立っていました。どこかうつろなふうでもあります。
「なにかめしあがられますか?」
 アタッシェケースを受け取りながら、わたしはたずねます。銀色のケースはとても重く、両手でさげるほかありません。
「いや、いい。シャワーだけあびて寝るよ」
 あすもはやいんだ、と靴をぬぎながら孝一さまはひとつ息をつきます。
「食事はしっかりとりませんと、お身体がもちませんよ?」
「きょうはつかれた。はやく寝たい」
 孝一さまはいつもつかれていらっしゃいます。この家でつかれていない孝一さまの顔をみたことなど一度もありません。
「いいや、シャワーも朝にしよう。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
 孝一さまが寝室のある二階へあがっていくのを見届けると、わたしはひとつため息をつき、手にしたアタッシェケースを見やります。このなかにはさまざまな書類がはいっていて、さまざまな人々の運命を左右します。そして孝一さま自身にも重くのしかかっているのです。
「ほんとうに、お身体がもちませんよ」



 わたしは去年、前橋市にある「使用人養成学校」の女性科――メイドスクールを卒業した、ごくふつうのメイドです。雇い主は二ノ宮孝一という青年で、東京で渉外弁護士として働いています。海外や国内の名門ロースクールをトップクラスの成績で卒業したエリート中のエリートが集う渉外弁護士事務所はとてもいそがしく、たおれてしまう人もいるようですが、見返りとして多額の報酬を得ることができるそうです。わたしの通っていた学校にもやはり優秀な人間がいて、名家貴族コースというエリート街道を優雅に確実につきすすんでいました。どこにでもエリートというものは存在するようです。
 とにもかく、せっかく購入した都内の家にもロクに帰れない孝一さまの代わり(ハウスキーパー)としてわたしが雇われているわけですが、独身の彼が買ったのはなぜか一戸建ての注文住宅です。使われていない部屋も多く、わたしひとりだと管理もけっこう大変です。掃除とかとちゅうでいやになることもしばしば……
「どうしてマンションでなく、この家を?」
「マンションだとひとりでも不自由しないから、メイドをなんて雇う必要がなくなるだろう?」
「どういう意味ですか」
「ひとりはいやだったんだ」
 孝一さまはすなおにおっしゃいました。
「つねに競争のなかにあって、ぼくは孤独だった。人とつきあう暇も惜しんで勉強に時間を浪費してきたからね」
 そして彼はいまも孤独な時のなかにいます。



 わたしはその日、書斎の整理をしていました。ここは数少ない使用されている部屋のひとつです。書斎とはいっても、本があちこちに置かれているだけの書庫のような状態です。夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、サリンジャー、ドストエフスキー、プルースト……本などめったに読まないわたしでも聞いたことのある作家の名も目につきます。英語はもちろんドイツ語やフランス語などの洋書もあり、わたしが学生時代に友達とくだらない話をしてすごしている一方で、彼がこれらに没頭していたことを考えると、いまの主人と従者という絶対的な距離も理解できます。彼はずっと知識のなかに生きてきたのです。
 そのほとんどは長いあいだ読まれた様子はなく、ほこりをかぶりながら静かにまた主の役に立てることを待ち望んでいるようです。わたしはハタキをわきにかかえ、トルストイの「戦争と平和」という本を手にとります。その冒頭を数行読んでから、元あったところへもどします。つぎにディケンズの「二都物語」を手にとり、同じように冒頭を読んでみます。ミセス・サウスコートが二十五歳の誕生日をむかえたところで本を閉じ、整理にもどります。
 学生時代にだれもがそうするように、わたしも文学というものに興味がわき――かしこい人間に一目置かれたいだけだったのかもしれません――有名な作品をいくつか買って読もうとしたことがありました。けっきょく、それらは最初の数ページないし数行しか読まれることなく、いまも学生寮の一○七号室の化粧台のわきに積まれています。もう処分されたかもしれません。わたしはあるとき、エリートコースに所属する先輩(彼女はオーストリアの由緒ある名家へメイドとして雇われていきました)のひとりにトルストイやトーマス・マンを読むのかとたずねたことがあります。
「読むわけないでしょ。そんな時間があるんなら、とつぜんの雨にあわてて洗濯物をとりこむことのないよう気象でも勉強しておきなさい」
 それ以来、わたしはメイドとして必要な知識を得る以外に本を手にすることはありませんでした。
 本棚のハタキがけが終わると、本たちはその価値――わたしにはわかりませんが――をとりもどすように、失われた時間をとりかえすように、かがやきはじめます。これなら孝一さまがなにげなく本を読もうと手にとり、ふーっと息をふきかけてせきこむということはないでしょう。
 ふと、書斎机の上にぽつんと放り出された一冊のうすい本に気づきました。みるとずいぶんと読みこまれているようでボロボロです。ページはとれかかれ、日焼けしてしまっています。
 それはカフカの「変身」という小説でした。
 わたしはなにげなく腰をおろしてそれを読み始めました。ページ数が少ないということもあって、最後まで読める気がした読書きらいのわたしは真剣に文章を目で追っていきます。グレーゴルはある日とつぜん虫になってしまい、それでも日常生活を続けようと努力します。最後に彼は虫のまま死んでしまい、物語は幕をおろします。
「……いけない!」
 気がつくと日はもう暮れていて、わたしは時計をみるとあわてて残った仕事をかたづけていきます。ひととおり終わると、夕食のしたくにとりかかります。たいてい孝一さまは深夜おそくまで帰っていらっしゃいませんが、わたしはいつも十九時に夕食の準備をします。きょうはたらのムニエルのトリュフソースがけにスープスパゲッティとオニオンサラダです。コーヒーとワインも用意し、木いちごのシャーベットが冷凍庫にひかえます。だてにメイドスクールにかよっていたわけではありません。あとはダイニングテーブルにつき、主の帰りを待ちます。
 朝起きるとわたしは変な虫になっていて、いすから転げ落ちるとそのまま逆さになってしまい、いつまでもひとりぼっちでダイニングに転がったままでした。
 そんな夢から覚めると、そこは夜のとばりが下りきった静かな世界でした。いつしかうとうとと寝てしまったようです。料理はとっくにさめてしまっています。
 その日、孝一さまはお帰りになりませんでした。
 後日、孝一さまとゆっくり食事をする機会があり――なんでも優秀な新人がはいってきて、仕事の効率がよくなったそうです――わたしはこのあいだ読んだ本のことを話しました。勝手に読んだことをあやまると、彼は笑って首をふりました。
「それで、きみはなにか感じたかい?」
「さっぱりわかりませんでした。わたしが得たのは読んだという事実だけです」
「それでいいんだよ。なにかを得られるときもあれば、なんにも得られないこともある。読書に明確な答えなんてないのさ」
「孝一さまは?」
「そうだね……主人公が虫に変身した理由はだれにもわかりえないし、作者がなにを伝えたかったのかはぼくにはまだわからない。このさきもずっとわからないかもしれない」
 ただ、と彼はカップを置き、続けます。
「さびしかったんじゃないかな」
「グレーゴルが?」
「そう。そしてカフカもね」

       

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