Neetel Inside ニートノベル
表紙

ルナティックス・シンドローム
第三話『元素掌握(オール・イン)』

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 夢から覚め、体を勢いよく起こす。本が山積みになった部室で、瀬玲奈が本の続きを読んでいる。つまりは先程と変わらない光景。
「……見た?」
 前髪で隠れた瞳で計をじっと見つめる彼女に、計は「ばっちりだ」と笑ってみせる。計はケータイを取り出すと、短縮を押して理穂へと電話をかける。二コールで彼女は出て、「もしもし?」と明るい声を出す。
「お前さ、俺の偽物が居たって知ってるよな?」
 朝の事を思い出しながら、計は理穂を追い詰める。理穂の症状で知らないということなどありえないからだ。
「うん。まあ、知ってたけど……」
「なんで言わねーんだよ。そんな面白そうなこと」
「計くんの名前を語るってことは、計くんよりも弱いってことだと思って。計くんは自分より強そうな人がいいんだよね?」
「まあな。けどこういうのは違うだろ。いま瀬玲奈の能力で見せてもらったんだけどさ、結構強そうだったし。情報あるんだろ? 教えてくれよ」
「私以外から情報貰うのって、個人的にすっごく嫌なんだけど、まあいいや。報酬と、精神的苦痛の慰謝料もらうからね」
「あいよ」
 普段の計であれば、「ぼったくりだろ」などと文句を投げるところだったが、しかしこの要求はいろいろと逆らえない物があった。情報源を失うのも勘弁だし、彼女の狂気な部分に触れているからだ。
 普通月光症候群患者は、自分の異能を周囲に言いふらすことはするが、しかしもう一つの狂気と化した心まで言いふらすことはしない。理由は二つ。シンプルに恥ずかしいということと、弱みになるから。なぜなら狂気と化す心はランダムではなく過去に直結しており、小説文庫一冊分くらいの重たい理由を持つ者も居れば、ペラ一も余る程度のシンプルな理由を持つ者もいる。そしてもう一つの理由である弱みは、言うなればそれはトラウマに他ならないということ。自らが生きていく故での障害に対抗する為の力だからだというのが、現在主流の説である。
 そして、黒江理穂の狂気は『依存心』過去可愛がっていたぬいぐるみを両親により取り上げられ、それがトラウマになり月光症候群を発症。情報収集に長けた能力であった為、両親の離婚を誘発。家庭を崩壊させ、医療都市へと送られてきた。
 そこで計と出会い、依存の対象を計へと切り替えることで、彼女は表面上まともになることができたのである。
「ん。情報は偽の緋色ね。ちょっと待ってて」
 す、っと。電話の向こうから理穂の気配が消える。情報の収集に専念しているのだろう。
 少しだけ時間を持て余したので、計は近くにあった適当な本を取り、片手で適当なページを開いた。小さな文字の羅列。読むのがめんどくさいと思ったので、すぐに元の位置へと戻す。すぐ戻したことが不満だったのか、瀬玲奈が垂らした前髪の奥で計を睨んでいたが、気にしない。
「ん。手に入れたよ。今は福富町に居るみたい」
「福富町……ねえ」
 そこは過去、歓楽街として有名だった場所。しかし、そういう場所は、過去に大人が好んだような場所は、横浜が医療都市になった時からスラムと化した。月光症候群持ちのほとんどが、幼い時に無理矢理親元から引き剥がされている。その八つ当たりなのだろう。
「一緒に行ったほうがいい? 場所わかる?」
「ああ、顔は見たし、まあ適当にそこらのヤツから聞くさ」
「拳で?」
「そういうことになるかもな」
 クスクスと笑う理穂が電話を切る。
「大変だね。人と生きるのは……」
 他人事の様な瀬玲奈。彼女は人と合わせる事を極端に拒む。それを治そうと試みた事もあったらしい。彼女の狂気は何なのか気になるが、しかし計は気にはなるが興味はない。計は立ち上がると「邪魔して悪かったな」なんて、心にもない事を言う。それは瀬玲奈にもお見通しらしく。
「また邪魔しに来るんでしょ……」
 と、冗談めかせて言った。
 冗談が通じ合う程度には、仲がいいのだ。特に、マイペースすぎる所が。だからこそ、互いが互いに過度な干渉はしない。
 計はさっさと部室から出て、少しだけ足取りも軽やかに偽物が居るという福富町へと向かった。


  ■


 計が理穂に回される相手は、基本的にスラムに居る。森を隠すなら森の中という様に、悪い人間は悪い人間の周囲に居るのが当たり前なのだ。
 しかし、福富町の人間は山手のヤンキーよりも品がいいらしい。計の質問にわりかし素直に答えてくれた。計としては、ぶん殴って聞き出す方が好みなので、それはそれで残念だった。
 話によれば女――偽緋色の炎は、バー『ラッテッラ』という、何処の言葉でどんな意味なのかわからない名前のバーで、ガラが悪い割に親切な中年男性が連れてきてくれた。
 目立つ大通りにあり、隠れようとかそういう気はさらさら無いようで、計は重たく分厚いドアを開け、中にいる人間を探そうとした。
 けれど、それは必要もない。中には一人しかいなかった。
 夢で見たあの女。偽物の緋色の炎。
「――誰? あんた」
 女は、ラッパ飲みしていた酒瓶をカウンターに置く。割れたガラス片が飛び散り、埃だらけのその場所で、一人酒盛りに興じていたらしい。
「榊原計」自身の名を名乗ったが、それに続くようにエレジーが体を乗っ取り、「緋色の炎だ」と自らの紅い瞳を見せつける。
「……やっと引っかかってくれたんだ? ようこそ本物!」
 体の操縦権を奪い返し、計は「んで、お前の名前は?」と喋る。
「あたしは門真ルカ。人類史上一番強くなるのが目標!」
「俺も似たようなもんだ。――じゃ、さっそくやろうぜ。どこでやる」
「ここで――」その瞬間、ルカは膝を曲げて真っ直ぐ正面から突っ込んできた。常にバンテージを巻いているのらしく、その拳は準備万端。
「うっしゃ!」
 計に取ってはそれが一番だった。真正面から、単純に殴りあう。人間らしくて、月光症候群持ちらしくない。だが、好きでもそれは計の望む所ではない。
 だから、指を弾いて炎で拳を燃やす。その二つの拳がぶつかり合うと、ルカはニヤリと笑う。「なるほど……。さすが緋色。拳が痛い……!」
 それがどうにも楽しいらしい。拳を引くと、ボクシングスタイルでジャブを繰り出す。
「能力使え! 門真ぁ!」
「あたしのはまだ使えないのよ!」
 どういう意味だ、と質問をする間もない。彼女の拳はさすが早い。拳のみを特化して鍛えてきたのだろう。計はガードして避けてと忙しい。会話を挟む余裕すらない。確かに、大口を叩くだけのことはあるらしく、それなりに人を殴ってきたようだ。だがそれは計も同じ。
 早さはほぼ互角。あとは何か一ヶ所、どこかで相手に勝てばいい。それなら計にとっては十八番。彼にはエレジーがいる。
『計! 右脇だ!』
 相手の拳のみに集中しなければらない局面。計にはエレジーがいることで、単純に言えば人の二倍視野が広い。後は視線も動かさず、ただエレジーが言う様に脇へ拳を走らせる。そうすれば、当たり前の様に突き刺さる。
「……い、痛い!」
 彼女は一々痛いと言うわりに、全く痛そうではない。何故なのか考えるが、すぐにそれを放棄する。考えるなんてめんどくさい。気になるなら聞けばいい。
『……様子がおかしい。計! 一撃で仕留めるぞ!』
「――あいよ」
 基本的に、計は戦闘中エレジーの言うことを必ず聞く。彼は考えなしで、物事を考えるということが嫌いだが、しかしだからこそ、考えているということの凄さを自覚している。
 自らの右足を燃やす計。そして、心の中でエレジーが叫ぶ。
『刈り取る炎(ステップヒート)!』
 そのタイミングで、計が渾身のローリング・ソバットを繰り出した。それはほとんど首を刈り取るような軌道を描く。だが、それを受けるのはさすがに嫌だったようで、ルカは両腕でガードして、カウンターに向かってふっとんだ。
「……どうだ、やったか?」
『さあ、知らんが……。何せよ、様子がおかしい。あの女、月光の匂いがしない』
「なんだよそれ」
『月光症候群持ちから感じる、オーラみたいな物だ。貴様にはわからんようだが……ん? 匂いがする。気をつけろ! まだ沈んでない!』
 ルカの方を見ると、ルカはゆっくりと立ち上がる。
「ああ、いい……。これだよ、この痛みがいい……。強い壁にぶち当たってる……。私はいま生きてる……!」
 月光の匂いがわからない計にもわかる。手に取れるほど濃密な狂気の香り。
「あたしの症状は、別に攻略法とかあるわけじゃないから、明かしてあげる。病名『仏の顔も三度まで(サンドバック・リベンジ)』三度打撃を受けると、身体能力が大幅強化されるシンプルな物」
「……なるほど。ほんと、いい能力だ。羨ましい」
 計は心底羨ましそうに、喉の奥から声を絞り出す。ピンチになればなるほど力が強くなるというのは、計好みだった。
「さあ、行くわよ!」
 先ほどと同じ様に、真っ直ぐ突っ込んでくる。違うのは、その圧倒的なスピードだ。距離を詰め、顔面に拳を叩きこみ、計をふっ飛ばしてドアごと店の外へと叩き出す。それらがすべて、一瞬で完了したのだ。
「……い、っつ」
 周囲の視線が突き刺さる中、計は起き上がり、鼻を触る。やはりというか当然というか、鼻骨が折れている。鼻血も止まらない。鼻の中に指を突っ込んで、無理矢理まっすぐにする。激痛だが、それを言っている場合ではない。
『来るぞ! 備えろ』
 エレジーの声に、計は腕をクロスさせガードを作ろうとするが、あの威力はおそらく両腕を折られるだろうと今度はしっかりと目の前に注視して、拳を握る。
 しかしそれでも、一瞬しか姿を捉えられない。だが一瞬だけでも見えればそれでいい。計は目の前に拳を突き出すが、彼女は首を傾げるだけでそれを躱し、計へのボディブロウが突き刺さる。
 けれど、計の体にダメージはない。
「……痛い?」
 ルカは、ゆっくりと拳を引きぬく。それをまじまじと見つめれば、拳骨から滲む骨でバンテージが赤くなっていた。
『世話を焼かすな、計』
 頭の中で響く声に、計は思わず舌打ちした。
 また無理矢理操縦権が変わりにエレジーが表に出る。
「貴様、我の能力が『火和見主義』だけだと思っていたのか? ――これは、我の自称の病名だ」
「じ、自称って……」急に変わった口調に驚いているのだろうルカ。
 しかしそんな事はエレジーに関係ない。エレジーは徹底した自分第一主義なのだ。
「医療都市に名付けられた本来の病名は『元素掌握(オール・イン)』緋色の炎などと呼ばれているが、扱えるのは炎だけではない」
 そういうと、エレジーはワイシャツを捲り、腹を見せる。そこにあったのは、腹を膜の様にして覆う氷。
「『水見の明(フェイク・アイス)』水を操る。私にはそれができる。他の元素が見れるかは……」
 エレジーの足元から、氷のバットがあらわれる。
「さて、すまんが我は計とは違う。素手の殴り合いなどまったくもって下品で嫌いだ。人間なら凶器を持たねばなるまい」
「――それなら、大丈夫。月光持ちは、みんな狂気を持ってるし。大体、あたしの拳は、既に凶器。氷くらい砕いてみせる!」
 両拳をぶつけると、鈍い音が周囲に響く。確かに彼女の拳は、すでに練磨されているらしかった。

     

 エレジーが氷のバットをフルスイングする。当然ルカはそれを躱すなりガードするなり叩き落すなりするはずだった。しかし彼女は、それを腹に受けて、血を吐き出す。
「なに……?」
 エレジーが呟く。ルカはニヤリと笑って、腹にバットを押し付けられたまま、エレジーの顔面に右フック。左に頭を弾かれ、足が浮いて体勢が崩れると、そのままサイドステップでルカから距離を取った。
「貴様……。肋骨の一本くらいは折ったと思ったが?」
「よくわかんないけど、痛いから、多分折れてるかもね」
「それでも突っ込んでくるか」
「当然。痛いのはあたしにとってはプレゼントみたいな物だから。そら、拳敵必中!」
 ルカはそう言うと、思い切り踏み込んで、最短距離を走る右ストレートをエレジーの胸に叩き込んだ。ほとんど鉄塊をぶつけられたような衝撃が胸を襲い、一瞬心臓の鼓動が不規則に変わった。
 一瞬ふらついた隙に、更なる連打を叩きこまれ、エレジーから舌打ちが漏れる。ルカと違って、痛いのも苦しいのも嫌いなのだ。
 ルカの拳のリズムを文字通り体に刻み、どこへ繰り出されるかを読みきってから、その拳を掴んで抱き寄せる。
「計、頼んだ!」
 身体の操縦権がエレジーから計へと変わる。そしてルカをホールドしたまま、思い切り後方へと投げ捨てた。そんな風にして投げられた経験がないからなのか、ルカは受け身を取れず、思い切り背中を打ち付け、呼吸が困難になったらしい。「あ、あ……こ……っ」と、口の開閉を繰り返す。
「トドメだ」
 身体の操縦権がエレジーへと移り、エレジーは握られたままの氷のバットを振るい、ルカの腹に叩き落とした。
「げう……ッ!」
 ルカの口から大量の血液が漏れる。内蔵でも痛めたか。エレジーは勝ちを確信し、ニヤリと笑う。その瞬間、なぜかエレジーの腹に、『バットで思い切り殴られたような』痛みを感じた。
「ん……ッ!?」
 口から漏れる大量の血液。エレジーと計は同じ目からそれを見て、混乱する頭を抑えるのに必死だった。なぜ自分たちが血を吐き出しているのか、その原因に見当がつかない。二人共が混乱することなど、そうはない。珍しくできた隙。ルカはぐるりと、襟足辺りを軸に回転し、足払い。すばやく倒れたエレジーのマウントを取った。
「あたしの症状は、中期まで進行している。これが第二の能力。『罰当たりの代償(ビックスモール・カウンター)』私が与えた痛みよりも大きい痛みか小さい痛みをランダムに返す、カウンター特化型能力。もらったものは、返さないとね」
 皮肉にも聞こえる言葉だったが、しかしルカは、悪意も何もなく、ただただ善意に似たような物が詰められていた。
「月光症候群が『初期段階』『中期段階』『末期段階』と進行していくのは知ってる?」
 余裕の現れか、バンテージを巻き直しているルカ。その隙に仕掛けてもよかったのだが、カウンター能力がある以上、そのダメージは大きくなるか小さくなるかわからないが、必ず返ってくる。つまり不意をついてもそのアドバンテージはまったくない。
 だから、エレジーは話に乗ることにした。
「ああ。知っている」
「アンタは、氷の能力も使ってたから、少なくとも中期には進行してるんでしょ?」
 段階が一つ進行するごとに、能力も一つ増える。だからルカは、『仏の顔も三度まで(ダンドバック・リベンジ)』と『罰当たりの代償(ビックスモール・カウンター)』を持っている。だが
「我はまだ初期段階だ」
 エレジーはつまらなさそうに、ルカではなく、その真上にある月を見ている。
「へ? ――んじゃ、もしかして、さっき言ってた、えっと『元素掌握(オール・イン)』? あれって、『五つでワンセット』なの?」
「そういうことになるな。しかし、なぜ五つと?」
「あんた、私がバカだと思ってない? 『火、水、土、金、木』で五つの元素でしょ」
「ああ、そうらしいが。しかし、我のは『火、水、土、金、風』だ」
「ここから私に勝つ算段、ある?」
「ある」
「オッケー」ルカは立ち上がり、後ろ歩きでエレジーから距離を取る。「私の能力を知ったり、体験した相手は、私と戦う気力を無くす。だから私はいつも、使った後、一度続けるかどうか訊く。大体やめるけどね」
 嬉しそうな笑顔を見せているのは、それが理由か。エレジーは納得して、氷で日本刀を作る。
「……なんか、命に関わりそうだから、一応聞くけど、どういう算段をしたの?」
 エレジーはにやりと笑い、今度は氷の鞘も作り出し、刀を鞘に収めた。
「痛みが返ってくるのなら話は簡単。痛みも感じない内に殺す」
 腰を落とし、ベルトを緩め、腰に鞘を差した。手を柄に添え、取った構えは居合。
「心得、あるの?」
「ない。計はあるか?」エレジーの目が紅からブラウンに変わる。「いーや、全然。プロレスなら」と、再び紅に。
「痛み、感じちゃうんじゃないの……。私が痛みを感じたら、返ってくるんだけど……。そしたら、さすがにショック死しちゃうんじゃない?」
「我慢する。まあ、痛いのは嫌いだが、仕方あるまい」
「ん、まあ、あたしは死ぬくらいの痛みなんて初めてだから、それはそれでいいんだけど」
 と、結び直したバンテージの出来に満足したのか、パーからグーへと何回も握り直す。
 そして、ボクシングのファイティングポーズ。コーナーからコーナーへ、ゴングが鳴り出した瞬間に飛び出すみたいに走り出した。
 エレジーと計は、ギリギリまでタイミングを測る。役割分担をして、ルカが間合いに入ると、エレジーは刀を抜いた。透明な刃がルカへと向かうが、しかし痛みをプレゼントと言い切る彼女は避けない。
『今だエレジー!』
 心の中で、計が叫んだ瞬間、日本刀の刃が水へと戻った。途中まで氷だったそれは、刀が向かうはずだった軌道を描き、ルカの首に当たる。そしてすかさず氷へと戻し、まるで鎖のような状態にした。さすがのルカもその状態には驚いて、立ち止まった。
「な、なにこれ……」
「これぞ、飼い殺しってやつだ」
「何を上手いことを……。って、そんなの関係なく、あたし殴っちゃうよ!」
 と、ルカは拳を上げようとするが、しかし腕が上がらない。ルカの視線が下に下がると、首から下が凍っていた。
「なにこれ!」
「痛みが返ってくるのなら、単純に動きを封じればいいだけだろう? 負けを認めれば氷を溶かしてやるが?」
「これくらい、私の『仏の顔も三度まで(サンドバック・リベンジ)』で強化された身体能力なら……!!」
 顔を真っ赤にして力むルカ。氷にヒビが入り、後少しで割れそうになるというところで、エレジーが氷を補強し始める。
「イタチごっこになるぞ。っていうか、めんどくさいから、そのまま頭凍らせて眠らせてやってもいいのだが」
 ルカは溜息を吐いて、「うん、わかった。負け負け」と頷いた。その降参を信じたのか、エレジーから計へと戻り、氷を割ろうとする。そんな時、背後から「あー、その氷はそのままにしておいてくれると、嬉しいんだけどな」と、ヘラヘラ笑い声が聞こえた。
 振り向くと、そこに居たのは、そこだけ人の形にシルエットが切り取られたと思う様な黒尽くめの男。忘れられないその胡散臭さ。
「あれえ。どっかで見たなーと思ったら、キミ、榊原くん?」
「久しぶりじゃねえか……。夢月睦希……!!」
 計は苛立ちを表に出すみたいに、ルカの氷を裏拳で割ってみせた。
「相変わらず血の気が多いねー。まあでも、いきなり飛びかかってこない辺り、昔より成長したのかな?」
 一歩を踏み出す彼に気圧されているのか、計の額に一滴の汗が溢れる。長年リベンジをしたかった相手が目の前に現れているというのも、彼の混乱を招いていた。
『落ち着け、計』
「……ああ、大丈夫。大丈夫だ」
 自分に、そしてエレジーに言い聞かせる様に何度も呟いて、計は頬を叩いた。
「まあ、今日は榊原くんには用ないんだよねえ。あるのは、門真ルカちゃんの方」
 まるで教育番組の司会みたいに笑ってみせる夢月に、ルカは呆気に取られていた。計が彼に憎しみめいた感情を抱いているのはこのやりとりだけでもわかるが、それを夢月は一切気にしていない。
「あたしに、なに?」
「実はさー。僕、今医療都市を潰す為にいろいろ暗躍してるんだけど。ルカちゃん、その仲間になる気ない?」
「は?」
「まあ、言うならテログループってやつなのかな? 名称は『選ばれし子供たち(モンデンキント)』いい名前でしょ。僕が選んで、作った、最強の月光症候群持ち集団。キミもそこに入れてあげるよ。あ、榊原くんも歓迎するよ」
「ふざけんなこの野郎!」
 そのリアクションは予想通りだったのか、夢月はわざとらしく肩を竦めて見せる。
「で、どうする? ルカちゃん?」
「……その『選ばれし子供たち(モンデンキント)』って、強い?」
「もちろん」
「じゃあやめとく。敵に回ったほうが、面白そうだし、痛そう」
 歯を見せて笑うルカに、夢月も笑い返した。
「じゃあ仕方ないね。んー、まあ予想通りな答えだったなー」
「睦希様。力でねじ伏せて、従わせればいいだけですよ」
 いつの間にか、夢付きの隣に一人の少女が立っていた。銀髪に蒼い瞳。おそらくは人間として最高峰のスタイルを持っているようで、突き出て存在感をアピールするバストは計の目を引いた。白いブラウスに黒いネクタイ。赤いチェックのミニスカートと、黒いニーソックス。凛と伸びる背筋から、彼女の生真面目さ具合が窺えた。
「僕の好みじゃないんだよねえ、そういうの。ま、そこまで言うなら、アルに任せるよ」
「かしこまりました」
 恭しく頭を下げると、彼女は一歩踏み出し、ルカに向かって歩く。だが、その前に計が立った。
「……なんだ、榊原。貴様に用はない。それとも、睦希様に従う気になったか」
「それはさっき断った」
「ならばどけ」
「それも断る。俺は夢月に用があるんだよ」
「知っている。貴様は睦希様の邪魔をする人間だ。無駄なく、殺す」
「やれるもんならやってみろ!」
 計は氷のバットを取り出し、それを彼女の頭に思い切り振り下ろす。だが、バットは何か、見えない壁の様な物に阻まれ、銀髪女まで届かない。
「私の名前はアルテミス・メルクーリ。『選ばれし子供たち(モンデンキント)』所属の月光症候群患者。症状『絶対領域(アブソリュート・テリトリー)』」
「この、バリアみてえなやつか……!」
「そうだ。貴様の攻撃は、我に届かない」
 バリアが少し後ろに引き、そして計のバットを押し返した。
 力負けし、後方へと飛んで、計は舌打ちして氷のバットを投げ捨てる。
「だったらこいつで!!」
 計の両腕が炎に包まれる。その拳を連打して、バリアを砕こうとするが、しかし全く腕が通らない。
「だああ! くっそ!」
「私としたことが、少し無駄を食ったか……そろそろ、殺します」
 アルテミスの腕に、何かが握られる。おそらくはバリアを棒状にした物なのだろう。
 腕を引いて、それをフェンシングみたいに計の胸に向かって突こうとする。計はすぐに胸へと氷を纏わせ、ガードをする。だがおそらくは無駄だろう。
『計くん。隙を作るからすぐ逃げて』
 と、耳元に聞き覚えのある声。
 それの後に、アルテミスが急に苦しみ出した。
「う、うるさい……ッ! なんだこれは!?」
 周囲を見回す彼女。そして、遠くにいる夢月も鬱陶しそうに耳を抑えていた。
 計はすぐにルカを人さらいの盗賊みたいにその場から逃げ出す。
「あ――っく! 逃げられた……」
 アルテミスはバリアを解き、怒られるのがイヤな子供みたいにとぼとぼと夢月の元へと戻る。
「申し訳ありません……。あのような大口を叩いておきながら、逃げられてしまうとは……」
「いやあ、どこかに彼らの知り合いでもいたかな? 結構遠い距離から攻撃を仕掛けられたみたいだ。鼓膜は破れてないみたいだし、まあいいさ。あまり破られた事無いから、治るのも遅いだろうしね――」


  ■


 計とルカは、そのまま夢月とアルテミスの姿が見えなくなるまで走った。
 どこかの路地裏に入り、計は口の中に溜まった血を吐き出した。痛めた内蔵で無理に走ったからか、いろいろとガタが来ているようだ。
「……あんま言いたくねえんだけど、助かったわ。理穂」
 路地の奥から、ニッコリと微笑む理穂が現れた。
「一応、様子を見に来てよかった。どう? 計くんは『戦闘の役に立たないだろうなあ』なんて言ってたけど、こういう事には役立つんだ」
「情報収集だけじゃないみたいだな」
 理穂の症状。先ほど使ったのは『近寄らずに口寄せ(スロウ・キス)』相手の鼓膜に直接自らの声を届ける物で、どうやら夢月とアルテミスの耳に大声で何かしらを叫んだのだろう。
 そして、普段使うのは『触れられない距離(ノット・タップ)』自らの血を垂らした周辺の音を拾う症状。彼女は医療都市中に自分の血をバラ撒き、それを使って情報を収集している。黒江理穂は中期まで進んだ月光症候群患者だ。
「くっそ! ――あいつら、ここ潰すとか言ってやがったな……。ナメやがって……」
 計は地面に座ると、腹を抑えて目を閉じる。
 内蔵を痛めただけが原因ではない。目の前に敵が居たのに、逃げてきたのが問題だ。それは榊原計という男にとって、腹と頭に来る激痛の原因となっていた。

       

表紙

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Neetsha