ヤキトリ屋でうとうとしていたところを黒猫に揺すり起こされた時点で、その男は少しくらい辺りを不審がる必要があったわけなのだが、普段が夢と現の境に自意識を漂わせているような輩であるから、その猫が迫り来る危機を耳元に囁いたのだとしても、すっかり冷えたお湯割りにしがみついて、てきとうな相槌を打ち続けるばかりであった。
生きたけものが店内に入り込む緊急事態に、天地動乱の騒々しさで板前が怒り狂ったから、男はようやく鼻提灯を弾かせて、白熱球の薄暗い店内を見回してみようという気になったのである。
がちゃがちゃと物音を立てて、暖簾の奥からアルバイトが飛び出してきて、その足音を聞きながら男は黒猫と目線を合わせた。みどり色の透き通った眼の、魔女の相棒というにもぴったりの黒猫だった。ひげが白い。
慌てすぎたアルバイトが無様にすっ転ぶのを尻目に、腰掛けから音もなく地に降りた黒猫は、したしたと歩いて、せいぜい夜風が通るくらいの戸口の隙間から、男の方を振り向きざまに「もう知らんからな」と言い捨てて去った。
板前がアルバイトを怒鳴りつけるが、男には何と言っているか良く聞き取れない。そんなことよりも人語を発する猫の方が気になって、間口の狭い引き戸をぼんやり眺めながら、憤然たる板前が治まるのを待って、「猫。ねこ喋るんですねえ」等と、間抜けなことを誰にともなく呟いた。起き上がったアルバイトがすきま風を導く戸口を閉めに行く。やに汚れた換気扇が低く唸り続けている。
――換気扇?
はて、そんな音が聞こえてくるほど、この店は静かだったろうか。
○
背筋に嫌な寒気が走り、それが店内に吹き込むすきま風のせいだけではないのだとは、未だ酔いに眩む男の意識にもはっきり感じ取れることである。さっきまで騒いでいたはずの酔っ払いたちは残らず引いてしまったんだろうか。自分はそれほどの時間、眠り込んでいたのか。まさか。
そうっと背後の座敷を顧みてみようと首に力を入れたその時に、嵌めガラスを震わせ、戸口はピシャリと閉ざされた。その後にはやはり換気扇の不吉な振動が響くばかりである。
男の目はアルバイトに釘付けになっている。後ろ手に戸を閉ざしたアルバイトの頭部には顔がなかった。金属質ののっぺらぼうである。表面処理のろくになされていない、削り跡の荒々しい仮面を頭部にビス留めしてあるだけの、内蔵されたセンサーと電子回路を保護するためだけの武骨な金属板が顔代わりの、またTシャツから伸びる腕は対候性を毛ほども考えない金属繊維丸出しの、時代遅れの人型機械である。
――のだが、それは言うまでもなく男の常識の遥かに埒外の存在であり、それに男は今の今まで仕事上がりの路地裏で、一杯引っかけて帰ろうとヤキトリを頬張っていただけのつもりだったから、唐突すぎる自殺機械の登場に、ただ驚くばかり自分が恐怖心を抱いていることにさえ鈍感なままであった。
とはいえ、そのアルバイト(だと思っていた人型機械)が金属筋繊維を軋ませて腕を差し伸ばしてきたならば、板前も客たちもいつの間にやら人型機械にすり替わっていたと知るならば。生身の人間は自分独りで、その他の金属生命は一斉に電子の目をこちらに向けていると知ったならば、そのおぞましさにいくら鈍感であろうと酔いは吹き飛び血液は逆流し、けものとしての生存本能が意識に第一種警報を下達、「危険地域を離脱せよ」と肉体に命じようものである。
未知の驚異を前に、男はすっかり面食らっていたから、目の前の鈍重そうな図体を蹴飛ばして、そのすぐ背後の戸口から往来に飛び出そう、などという真似は思いもよらなかった(実際に人型を蹴飛ばしたとしても、高度な平衡維持回路が瞬時に最適な重心位置を計算し直すのだが)。
後ずさりした先のどん詰まりに背中をくっつけ、諦めてしまおうとする自暴自棄をなだめすかして理性を立ち直らせて、男はヤキトリ屋の二階宴会場に駆け上がる。短い廊下を右に折れて、微かな予感に怯えつつも勢い良く襖を滑らせると、お見事。苦々しくも想像通りであった。
長机の両脇にお行儀良く正座して開宴を待つ人型機械たちは、奇妙な秩序を忠実に辿る騙し絵のように見えて、男は軽い目眩にたじろいだ。ムカデの足並みのようにうごめいて、人型たちがメインセンサーの集合部である頭を男に向ける。背後から階段が軋む音が聞こえる。
耳の奥で蚊が飛んでいるような感覚に男の背筋が粟立ったとき、自殺機械は彼ら独自の無線ネットワークで男の情報を一瞬のうちに共有する。彼らの無線ネットワークは天網恢恢粗にして漏らさぬ綿密な情報共有網である。周辺の同型機械はアラートに応答して続々と集結する手筈だ。
後門の(元)ヤキトリ屋アルバイト店員が宴会場にたどり着いたとき、前門の百足の脚らは動作を完璧に同調しつつ立ち上がった。筐体型式と運動制御回路が近似ロットであるから自然とそうなる。向こうの方でよろめいた一体はおおかた、粗悪な潤滑皮膜が荷重に耐えきれなかったのだろう。
金属繊維の人工筋肉と油圧式のプロポーションダンパーが絡み合ってガチャガチャ迫り来る様は、餌場に群がる働き蟻のようにも見え、ややもすれば吐き気を催しかねない代物であったが、男のそれは酔いからくるものと比して境界がそれほど明確であるかと問われるとあやしい。
男は階段を駆け上がる最中に、逃げ道の見当をつけていた。夜風にはためくカーテンの向こうに希望を見いだした男は、そこが二階であることをふっと思い出してにわかに尻込んだが、背後の無声式阿鼻叫喚を省みるまでもなく、唯一の光として間違いないとはらを決め、カーテンレールを走らせ、窓枠に手を掛け足を掛けていざ飛び降りんと階下を見下ろした。
小学生の頃、よくこんな度胸試しをやったなあ、などと、呑気なことが頭をよぎる。
「南無三!」
薄暗い路地裏に男はひょいと飛び立った。夜の町の電光が万華鏡のようにめくるめく。一幕の影絵のごとく、しかし不格好に落下した男は両脚でアスファルトを踏みつけ、勢い余って前に一回転したのち、なおも余っていた勢いに乗じてスックと立ち上がった。
グリコの商標もかくやとばかりにポーズを決める男の背後で、ヤキトリ屋の戸口がガラリと開き、サシミ包丁を頭上に構えた板前が頭部外板の結合部から青白い電子をバチバチこぼしながら駆け出してくる。
地に足を付け、重苦しく覆い被さる屋根から解き放たれた男は、今や自分がすべきことに迷いなどない。逃走! 狂った機械の群れから逃げ延びることが最優先である。
○
路地裏を抜けるのが一秒遅れていたら先回りした追手に襟首を掴まれていただろう。電光と排気煙の街を駆ける。しばらく後ろは振り返らないことにした。いつのまにやら町はすっかり様変わりしており、男の記憶と照らし合わせてみてもどこもかしこも見覚えがない。ちょっと油断するといつもこうだ、と男は己の怠慢を悔やんだ。
男の知っている町は車道の半分を鉄屑に占領されていたりしない。街灯もちゃんと点いている。ビルのガラスが割れるなんてまずありえない。火の手が上がれば消防隊がすぐに駆けつける。電信柱は折れないし高圧線から電気を盗み、挙げ句に密売しようなんて考えるやつもいない。スピード狂は路面電車の運転手になれない。なにより自殺機械なんて頓狂なものは街を歩かない。
男は背後を顧みて、とりあえずの脅威は去ったと認め、走るのを止めた。目の前にそびえる廃ビルをふと見上げて、吸い込まれるようにしてエントランスに足を踏み入れる。撤去しきれていないバリケードの残骸がうっとうしく、そこは入る瞬間から見事な廃墟であった。
立派だったであろう柱の表面が剥げ落ちている。がれきと砂埃がそこらじゅうに散乱している。左翼結社の張り紙、ビラ、壁面に殴り書きの声明文。残飯だったものとおぼしき塊。紙袋、缶詰、オイル缶。歯ブラシと枯れた石鹸。抜け落ちた天井、えぐれた外壁、弾痕、洗面器、煤けた柱と火災跡。隅のほうには死体らしきものが転がっている。砲弾でも喰らったような大穴の開いた一角から明るい月が見える。拾い上げたカルト雑誌の見出しは幽霊飛行物体撃墜捕獲全記録(ただし機内はもぬけの殻であった)。
低い唸りが上の階から響いてくる。纏わりつくような振動が建物全体を支配している。階を数える度に音は大きくなる。月が近く見えるくらいまで階段をかけ上がって、その先のロビーで騒音は一際大きくなった。破壊されたエレヴェイターホールが奈落に向かって口を開けていて、音はその闇の底からこの世に甦って来るらしかった。振動が空気を直接伝わるのがはっきり分かる。上昇する熱とむせるようなガス。
「動力室は地下にある。興味があるなら連れていってやるぞ」
○
エレヴェイター直通の狭い部屋には六面の壁があり、一つの壁に一基、全部で三基の原動機が等間隔に設置されてある。六角形の部屋に馬鹿でかい航空機用往復発動機は狭苦しく押し込められ、全稼働していて、出力軸は部屋の壁を貫いて隣室へと導かれていた。有ったはずのプロペラは取り去られている。複列式シリンダ一つ一つに冷却フィンが切られており、すなわちそれは空冷エンジンであることを意味する。冷却機能を地下に埋めたこの状況では廃熱の逃げ場がない。動力室は陽炎揺らめく灼熱地獄の様相を呈し、生身の人間が長時間留まることができる環境とはとてもいえない。頭上は吹き抜けになっていて、上昇気流が男の体を打ち抜けては行くけれど、とてもじゃない。
「栄12型発動機、星型複列14気筒940馬力。ゼロファイター・オリジナルだよ。どうだい珍しいだろう。修理には俺も苦労したね」
廃墟を走り回って汗と埃と油にまみれた男の額に大粒の汗がまた浮いている。動力室には有線ラジオが引かれていて陰気な女キャスターがニュース原稿を念仏のように唱え続けている。
『――山村に現れた奇怪な二足歩行物体は口から火を吹き腕の一振りで家屋を粉々に吹き飛ばしたといいます。推定される腕の力はインド象の五千倍とされ、国際宇宙開発会議の開催される同市は政府に事態の収拾を求め、これを受けた政府は警備の強化を講じるとし、この件について専門家は制御不能に陥った警備オートマトンの暴走ではないかとして、いくつかの近似性能をもった製品の脆弱性の例を挙げ、現代の物質的な豊かさを批判しています――』
「なんの為にって訊くなよ。俺も良くは知らないんだ。故障したこいつを動くようになるまで整備するのが俺の仕事だ。そこの出力軸がどこと繋がっているかも知らない。必要がない」
「あんたはだれ。人間?」
染みだらけの白衣を纏った、蓬髪の細長い男。顔は油で薄汚れ、煤にまみれている。全体的にあぶらくさいのは、痩せ男のものか部屋の淀みか。
「お前、追われているんだろう。自殺機械たちを見て俺のことを疑っているんだな」
「いや、あんた、誰だよ」
「安心しろ俺は人間だ。まだ脳には血が通ってる」
「まだ? それ以外はどうだってんだ」
「構えるなよ。ほれ」
白衣の袖を肘まで捲り上げると、痩せ男の腕は金属繊維と油圧シリンダと、絶縁皮膜の導線と小型のアクチュエータで構成されているのが一目に瞭然であった。
「部分的な機械換装だよ。驚くこたあない。みんなやってるだろう」
「みんな?」
「今どき生身でこの街を生きて行こうなんて奴は珍しいぜ。お前を追いかけてた自殺機械たちのことさ。あいつらは手足を機械化し、ついでに頭脳までも電子換装しちまったやつらで、ああまで行くと決まった考え以外発想できない。その代わり情報の共有は、共有って言葉が霞んじまうほどに一瞬だ。そして時計が意味をなくす。――いや、本質を取り戻すと言っていいかな。ちょっと前に流行った都市化構想に乗っかって合理主義に盲従した奴らのなれの果てだよ。あそこまで行くとお金儲け主義のドレイだな。――まあ俺も、偉そうな口は利けないんだが」
動力室を出る。痩せ男はエレヴェイターを促して、屋上に連れていってやると言った。
「眺めはいいぜ」
エレヴェイター内も蒸し暑い。廃墟を貫く煙突の内部を鉄の箱が引っ張り上げられて行く。編み込みの金属ワイヤーを通じて遥か頭上の巨大電動機の唸り音が響いてくる。死者がきっと、呻き声を漏らしながら扉の向こうに待ち構えている。今聞こえているのはそれだろう。
「生身の気分はどうだい。俺はもう忘れてしまったからなあ」
「頭は生きてるんだろ」
「息をしてるだけさ。俺さあ、顔色悪いだろ? ほんとはこんな重たいもの、引っ付けたくなかったんだ。右手だけだとバランス悪いからって、左も。嫌になるよな。――今、すげぇ『知らねえよボケ』って顔したな、お前」
「顔にすぐ出るらしいです。おれ」
ごうんごうん。エレヴェイターに照明は機能していない。
「まあそれも諦めてしまえばいいさ」
「諦めるってなにを」
「大人になれよってことだ」
「そんなのはあんたの知ったことじゃない」
「そうだとしてもガキは周りに求められて大人になっていくものだろう。その構造は自発ではなく強要だ。わかるか強要だ。諦めろ」
男は小さくため息をついて、言った。
「おれを捕まえてどうするつもりだよ」
「二度も言わん。諦めろ。どうにかできると思ってるのか」
○
今宵、月齢は十五を数える。月は一日毎に歳を取る。折り返して沈み何度も何度もよみがえる。月面の卯たちが餅をつく油煙の夜。午前零時の途中経過は佳境を報ずる。
「ときめき」という単語に七色の願いを託す。偶然と詩と感性を、その他様々を頼み、暮らしている。毎日が退屈ならば、ときめかずしていかにしようか。日常にときめきは欠かせず、しかしそれは自ら生み出しうるものではない。天来のものであるから、晴雨のように唐突で、虹のように気まぐれである。片想いの野良猫を探し回るような生活に疲れたとき、ひとは大抵、夕焼け空を見上げて鼻をすする。大きなクシャミをして月を懐かしむ。
快速電車に置き忘れた名前入りの傘が青空で煙になる前に。
風呂場で抜け落ちる髪の毛が塵芥処理機に流れ込む前に。
野放図の好奇心が記憶の中で錆びついてしまう前に。
その前にやらなければいけないことはたくさんある。
「死ぬわけにはいかないんだよなあ」
「そうか」
「世の中にはまだ食ったことのないウマイものがごろごろしてるだろうしね」
「すまんがその夢は俺が奪ってしまうよ」
エレヴェイターは電波塔に直通であり、屋上に設置されたそれはもとの建物と不釣り合いに大きかった。男は高層の鉄網の上に突き放された。強風が体を打つ。足元は屋上のコンクリートだとしても、空中の檻にぶちこまれたような心地である。
やはり人型が整然と並んで男を待ち構えていた。
「おれはこれからどうなるわけ?」
「俺も慈悲深いから、手足以外はあいつらにくれてやる。お前の脳はそっくり電子化されて都市化構想の末端となる。マルチタスクとひきかえに肉体は失うが永遠の発動機が搭載されるから安心して大人になれよ」
「ごめんだ」
痩せ男は金属の腕を振り回して男の横っ面を殴り飛ばした。
「ああ腹立つ!」
男は歯を食い縛り、腹の底からの声でさけぶ。
「うるせぇ。いつもいつも、偉そうに説教ばかり垂れやがってくそったれ。型に嵌まってなんかやるもんか。バーカ!」
「いいぞ青年!」
黒猫がどこからともなく現れる。透き通った緑色の眼をした、魔女の相棒と言うにもぴったりの風貌の四つ足が、男の肩に飛び乗って猫背になる。
「揺らすな、揺らすな」
「重いって」
「ようやくツキが回ってきたらしい。お前さんの勝ちだ。見てろ」
スター・ウォーズのバトル・ドロイドも真っ青の隊列を組み、かきんこきんと鉄網を踏み鳴らす人型ども。男はじきに捕えられてしまうだろう。痩せ男は高見の見物を決め込んでいる。
「いや、絶望的だよ」
「どこを見てる。満月が眩しいか」
黒猫が鼻で指し示す先、墓標のような廃ビル群が月明かりに照らされて辛気くさい夜の底。そのうちの一つの墓石がうごめいている。
「なにあれ。歩いてくる?」
「そうだ。てっぺんが平べったいからってあれはビルじゃないぞ。口から百万度の火を吐き、インド象の五千倍の腕力を振るう。彼こそはその昔、渇ききった未開惑星に見捨てられた宇宙飛行士。怒りに満ち満ちた棲星怪獣その名も、――ジャミラさ」
ジャミラは周囲のビルをなぎ倒しながら男のいるビルに駆け寄り、飛び上がってしがみついた。近寄られると案外背は低かったようだがインド象の五千倍ある腕力(両腕合わせると一万倍ではないか!)でもって壁面をよじ登り、男が人型に取り囲まれ進退窮まった様子の屋上電波塔にヌゥ、と光る眼を覗かせたのである。満月の金色がジャミラの地肌をざらつかせる。咳をするように口元から時折炎が零れだす。インド象の五千倍が電波塔の骨をくしゃくしゃに握りつぶす。洗濯機の脱水槽がめくれ返ったような悲痛さでジャミラは絶叫した。
しかし人型たちは意にも介さなかった。
「火を吐くぞ。今逃げないとお前さんも巻き添えを喰う」
「んなこと言っても、――」
「飛べば良いだろ」
「跳ぶ! 地上何メーターだと思ってんだ」
「つべこべ言うな! 今飛ばなきゃあお前さん、向こうでもくたばっちまうぞ」
ええいままよと自棄になって、男は痩せ男の方向に突進する。
「逃がすか俺の腕!」
痩せ男の白衣の袖がびりびりに破れ、機械の両腕が完全展開する。十五夜の影絵に蜘蛛男として変貌した怪人が、男に狙いを定めて各アクチュエータに過負荷をかけようとした、その時。
ジャミラが咆哮し、カンシャクを起こしたついでに振り回した片腕で、痩せ男をぺしゃんこにのしてしまう。男の眼前の出来事であった。
「立ち止まるなっ」
「わかってるよォ」
男は駆けた。前方に彼を阻むものはもう存在しなかった。駆けて、駆けて、電波塔と夜の縁が切り立っていて、そこを、――
「なァむさーーーーん!!!」
利き足で力の限り踏み切った。その直後、背後がにわかに真昼めく。熱波が男の背を焦がす。ジャミラの火炎でぐにゃぐにゃになった鉄骨が叫び声をあげる。ばらばらと人型の残骸が降ってくる。
八つ当たりを済ませた怪獣が、切りの良いところで景気の良い声を響かせる。同じく男も叫んでいた。黒猫はその肩に爪を立てて、歯を見せて笑っている。
「ヒヒヒ、上出来だよ。上出来」
男は息の続く限り、息が途切れたらば深く息を吸い直し、落ちていく間じゅう、ずっと叫び続けていた。
○
男は黒猫と夕暮れを歩いていた。そこには鉄屑も盗電団も人型も見えない。怪獣もいない。あぶらくさくもない。アスファルトの切れ目に草が生えているような路地裏である。踏み切りのサイレンが夕食の支度と一緒に遠くから漂ってくるような、ひと気の感じられる町である。
黒猫がごみ箱を踏み台にして塀の上に飛び上がった。野良猫は町に住み、町を正常に機能させるべく、塀を伝い歩くのだそうだ。
「歩くべき猫が町の猫道を歩けば、人々はしっかりしてるよ。正常な町では、彼らもちゃんと猫を見ている。だから野良猫は、塀の上を歩くのが仕事のようなものなんだ」
その点お前さんは問題ないだろうけど、と黒猫は告げるも、
「まあ未来のことまではわからんなあ」
と付け加えた。
「町の人がしっかりしてなかったら?」
尻尾をくゆらせながら黒猫は答える。
「さんざん見てきただろう」
「ふうん」
塀の向こうには鉄道架線が走っていて、見渡せる限り延々と続いていた。道も、ガードレールも。柔らかい夕焼け空が男と黒猫に優しく、とてもきれいだった。
「もう来るなよ、夢だから。ここ」
猫が振り返って、緑色の眼を男に差し向けたとき、男は低く唸る換気扇の音が気になって、仕事上がりの路地裏の、ヤキトリ屋のカウンター席で目を覚ますのであるが、その後は帰路に迷うことなく、彼の部屋へと辿り着くことができて、この話は終幕。
〈オワリ〉