Neetel Inside 文芸新都
表紙

ニッポニア
天邪鬼

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 雨は峠をすぎ小降りとなり、商家と川原の間に挟まれた小さなたんぼのうねには白鷺が戻ってきている。下之介がわけを話すと誤解は解け、不法投棄の疑いは晴れた。
 伸びきったぼさぼさの髪の少年と、ほっかむりをしたエセ侍が川原に腰掛けて話している。
わっぱ、名はなんという」
「知らねえよ」
 この子供も当然河童ではなく孤児で自分の名前も知らないのだという。幕府は迷子や人攫いの問題に無関心であり、そのしわ寄せはいつも弱者である庶民に降りかかった。孤児は近所に住んでいるものが交代で面倒を見ることが一般的だった。江戸時代には栄養状態の悪さから子供の死亡率が高く、子供は町ぐるみで育てるという意識が高かったのである。シジミが取れる小川は大人は手をつけず、孤児が優先的に取れるようにした。それを売って歩いて生活費を稼ぐのだ。この子供が新堀川を自分の川と主張し、不法投棄に怒るのはそういう理由だった。
 生きていればちょうどこのくらいの歳ではなかろうか、下之介はこの子が大家の奥さんの息子に思えて歳を聞かずにはいられなかった。
「歳なんて知らねえ」
 まだ自分の歳も知らぬほど幼かったときに、親とはなればなれになったのかも知れない。下之介は聞き方を変えた。
「お前が親と生き別れになってから神田祭りは何回あった」
「そういや、祭りの夜にはなればなれになってからそれをあわせても二回しか見てねぇ」
 確か福郎の話では祭りの夜に生き別れたといっていた。さらに神田祭りは山王祭りと一年毎に交互に行われるから、歳もぴたりと一致する。
「お前、おっかあに会いたくねえか。拙僧が連れて行ってやろう」
「いきたくねぇ。おっかあはおいらを捨てたんだ。顔も見たくねえ」
 どういうことだろう。福郎の話と食い違う。向こうは祭の夜に迷子になったといい、こっちは捨てられたという。大家の奥さんの息子ではない可能性も出てきた。しかし、どちらにしろ奥さんに会わせてみれば分かることだ。
 この時代、保護された孤児を迷子なのか捨て子なのか見分けることは困難であった。幕府はおおざっぱに3歳以上を迷子、3歳未満を捨て子としていた。町奉行は迷子の捜索をしてくれなかったが、最低限のセーフティーネットとして奇縁氷人石というものがあった。湯島天神(湯島天満宮)の敷地内にたてられた石柱で、石柱の右側には迷子を捜す人が子供の特徴を書いた紙を貼り、左側には預かっている人が孤児の特徴を書いた紙を貼って情報を交換した。
「親に会いたくない子はおらぬ。子にあいたくない親もおらぬ。会えばきっとわだかまりも解けよう。さあいくぞ」
 下之介は強引に孤児の手を引っ張っていこうとする。
「嫌だ。おっかあなんて大っ嫌いだ。離せ、河童。この人攫い」
 孤児が大声で騒いだので、普段面倒を見ている商家のご隠居や暇をもてあました旗本の若衆が何事かと集まってきた。無理やりショタの手をひいて連れ去ろうとするほっかむりの男は、傍目からみれば変質者以外の何者でもない。下之介はさんざん追い掛け回され、石を投げられて、両国橋まで戻ってきたところでなんとか逃げおおせた。
 欄干に寄りかかって一息つくと、どんどん横道にそれていることに気付く。ほとぼりがさめるまで本来の目的の刀を捨てに行くことにした。
 しかし、どうすればあの子を連れて帰ることができるだろう。あれだけ大勢の大人があの子を守ろうとした。この町でよほど大切にされているのだろう。今のままでも十分幸せなのかも知れない。自分よりもよっぽど。
 考えても答えがでぬままに永代島に到着した。今のように分別されているはずもなく、無秩序に散乱したごみの山からは鼻を突く腐臭が発生し、砂ぼこりとまじりあって鼻の奥にこびりついた。下之介は口元を着物の袖で覆って、少しでも吸い込まないように注意しながら、刀を帯から鞘ぐるみ引き抜く。
「そこで何をしておる」
 突然話しかけられた下之介は色を失ったが、今度は妖怪の類ではなく見回り中の岡っ引きだった。
「拙僧はけして妖しいものでは。ただ刀を捨てに来ただけで」
「妖しいな。ならば顔を隠している手ぬぐいを取れ」
「いや、これは取れませぬ」
「ならば奉行所までご同行願おう」
「取りますから、それだけはご勘弁を」
 恥ずかしがっている場合ではない。このままでは伝馬町(罪人を収容する獄舎の所在地)送りになってしまう。下之介は手ぬぐいの顎の結びを解いて、落ち武者のような頭をさらした。
「ますます妖しい。どうしたらそのような頭になる」
 下之介は四半刻(約30分)もくどくどと説教され、灸を据えられた。永代島には個人でごみを持ち込むのは禁止されていて、普通はごみを運搬するごみ船を雇って運び込むのだそうだ。 福郎の適当な話をうっかり信じて酷い目にあった。結局のところまげも結えず、刀も捨てられず、今日収穫といえるものは何もない。せめてあの孤児だけは大家の奥さんのところへ連れて帰ろうと、再び新堀川へ向かう。
 下之介はどうにもあの孤児をほっておくことができない。五つで寺に預けられた自分の境遇と重ね合わせてしまう。口減らしのために寺に捨てられたようなものだと親をひどく恨んだこともあったから、孤児が親に会いたくないという気持ちは痛いほど分かる。しかし、どんな親であれ父を、母を、子が忘れることができようか。
 孤児は天邪鬼なことを言っているだけで、本当は親に一目なりとも会いたいはずだ。未だに望郷の念を抱き続けながら故郷に一歩も踏み込めない下之介は、すぐにでも会えるのに会おうとしない孤児を見て歯がゆく思うのだ。
 新堀川はすっかり静けさを取り戻し、水面に夕焼けを映している。川原のごみの山ではカラスがやかましく喧嘩をしているばかりで、あの孤児の姿はない。夕日が半分ほど沈みかけ、川に架かる橋の輪郭を切り絵のようにくっきり浮かび上がらせる。
 長さ4メートル、幅11メートルのこの橋が合羽橋で、後年新堀川も橋も無くなってしまい道具街のかっぱ橋商店街にその名を残すのみである。
 ふいに橋の下から長く影が伸びているのでたどっていくと、影の形は鮮明になってそれがうずくまった孤児であることに気付き駆け寄る。しっかりしろと肩を揺すると、こちらの心配もよそに寝息をたてていた。下之介は目を覚まさぬようにそっと負ぶって橋を離れた。
 八丁堀の大通りまで来て胸をなでおろすが、ほっかむりをして子供をおんぶしている下之介はあいかわらず好奇の目にさらされている。突き刺さる行き交う人々の視線に耐えかねて自然早足になる。
「おっかさん……」
 寝ぼけていたのか、寝言なのか、消え入りそうなか細い声だったが確かに下之介は聞いた。あんな悪辣な態度のわっぱもかわいいところがあるじゃないかと思ったが、目を覚ました孤児に負ぶっている間ずっと頭を叩かれ続け、すぐに前言を撤回した。
「降ろせ。降ろせ。河童じじい。文無し。馬鹿。人攫い。盗人。鬼。毛唐。あと馬鹿」
「ふっふっふっ。どんなに喚いてもここは拙僧の町だから、助けは来ぬぞ」
 ホームのはずの八丁堀で、すれ違っていく町人たちは冷ややかな視線を浴びせ、ひそひそ話をしている。
「バーカ。バーカ。バーカ。バーカ」
 悪口のレパートリーを言い尽くした孤児はひたすら同じ単語を繰り返す。
「腹くくれよ。嫌いでもいいから会うだけ会っておっかさんにいいたいこと言ってやれ」
「わかった。観念するから降ろしてくれよ」
 下之介はしゃがんで孤児を降ろすと、手をつなごうと右手を差し出した。孤児は無視してどんどんと先に進んでしまう。その真剣な眼差しには、子供ながらに心に秘めた決意を読み取ることができた。逃げる心配はしなくてすみそうだ。
 大家夫婦が暮らす大通りに面した屋敷に着いても、孤児は怖気づくことなく四年ぶりの我が家を睨みつけている。南面の白壁には蔦がはって地の色が見えないほどで、家屋は古い割りによく手入れされているところを見るとあえて伸びるにまかせているようだった。
 下女に用向きを話して中にいれてもらおうとしたが、大家も奥さんも不在とのことで外で待たされた。小雨とはいえ雨はまだ降っているし、辺りも暗くなり始めている。屋敷に入れてくれない下女の融通の利かなさに腹が立つ。下之介の信用のなさが問題なのかも知れないが。
 街灯がまったくない昔の夜道は想像以上に暗い。日没をすぎると人が近付いてきても顔が見えないから、防犯のために互いに呼び合い自分の名を名乗っていた。ぼんやりとした明かりが寄ってきたので、下之介も誰何すいかする。
「もうし」
 明かりはさらに近付き、それがちょうちんを持つ手だと分かる。ちょうちんの中にはろうそくが一本入っているきりなので、豆電球よりも暗い。顔はまだ見えないが、相手がちょうちんを落としたのは音で分かった。
「川太郎」
 聞き覚えのある声だが聞き覚えのない名だった。
「おっかあ」
 相手が駆け寄ってきて孤児を抱きしめたところで、下之介もそれが大家の奥さんであることと川太郎が孤児の名前であることを知る。川太郎の顔からは決意なんて吹き飛んで、どこにでもいる普通の子供の顔になっていた。
 いつもは憎まれ口をたたきあっている大家の奥さんから、何度も感謝の言葉を言われてこそばゆい。下之介は照れ隠しに口の端を吊り上げて笑顔を作って言った。
「大家は親、店子は子。だったら川太郎は拙僧と兄弟も同然、兄が弟を助けるのは当然のことじゃ」
 雨はいつのまにか上がっていた。

       

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